心痛む被災地へ宮城県東松島市奥松島に見る津波の爪痕
− 2011.10.15(土) 雨 −
 昨夜はカラオケを22時半に終えAさんをお宅に送り届け第2の目的地へと移動する。

 仙台から石巻街道(R45)を北上し三陸自動車道の鳴瀬奥松島IC近く吉田川右岸のパーキングに0時に到着した。

 夜明けまで横殴りの冷たい雨が吹き付ける生憎の天気になった。仮眠中、冷え込んできたので時々ヒーターで暖をとった。持参した寝袋・ホカロンは使わず。
矢本海浜緑地東側石巻港までに広がる新興住宅地 手前は北上運河 AM 5:35
 携帯電話の目覚まし(4:45)で浅い眠りから覚めた。辺りは真っ暗、吹き付ける雨は止みそうにない。

 昨夜のうちに仕入れた干瓢巻で朝食を済まし、早まる気持ちを抑え、5時にパーキングを後にした。

 石巻港に流れ込む定川沿いのR45は工事中でデコボコしていた。石巻の市街地手前で明るくなってきたのでUターンする。
家が消滅した空間に湿地が広がり地盤沈下の様子が伺える(矢本海浜緑地周辺
 矢本まで戻り、ブルーインパルスの訓練飛行を行う航空自衛隊松島基地に向け左折する。

 5時半、日の出前なので晴れていても薄暗いはず。小雨が吹き付けるので車外撮影はレンズが濡れるので難しい。

 大口径(28-75mm 1:2.8)レンズに期待し交換する。使い慣れないレンズなので出来上がりが気になる。案の定、露出不足の大量生産になった。
家並みの先に見えるクレーンは石巻港のものである(矢本海浜緑地周辺
 石巻地区の地盤沈下は著しい。最初の写真でも、その様子が感じられる。

 今まで見てきた名取から新地の被災状況は、殆どが土台のみ残っている状態だった。それに比べると破壊力は少し弱かったのかな。

 北上運河の内陸側に広がる水田地帯は(すっかり片付いているものの)逆に甚大度が高いと感じた。やはり、道路の内陸側は深くえぐられていた。
巨大津波に洗われた水田地帯にポツンと残る漁船は痛ましさを今なお伝えている(矢本海浜緑地周辺
 北東側の水田地帯(写真の場所近く)の農道に陣取りブルーインパルスの離発着を撮影した記憶が蘇ってきた。

 石巻では金融機関様での経営セミナーを何度もやらせて頂いたり、ここ矢本には顧問先の飲食店様があった。

 平成大合併で、矢本町と鳴瀬町は東松島市になった。私達が長野に移ってからの出来事なので馴染みがない。
航空自衛隊松島基地を北東側から眺める矢本町 AM 5:50
 仙石線“りくぜんおの”周辺は集落が密集している。海岸側の家並みが防波堤となり小学校から石巻街道まで被災を免れたようだ。

 その集落周辺、石巻側は石巻街道まで津波の爪痕が生々しく残っていた。

 右写真の踏み切り右側には民家があった形跡が残っていた。消滅した線路の先に“りくぜんおの駅”がある。
石巻線と石巻街道が交差する“かづま駅”上り方向100m足らずにある第一下村松踏切(鳴瀬町
 ここから旧鳴瀬町野蒜地区になります。ここは奥松島、宮戸島大高森の“壮観”(松島三景)で知られるところです。

 のびる駅を同時刻に発車した2本の列車(河北新報)。石巻行は運良くやや高台で停車したので津波の被害を免れた。

 仙台行上り普通列車は津波に襲われ脱線くの字に曲がった。乗客は近くの小学校へ避難、同時に津波が襲ったとか。
のびる駅を発車し600m地点で津波を免れた石巻行下り快速列車(鳴瀬町 AM 6:10
 上の写真は走りながら窓外を連写したもの、写真を整理していて初めて映っているのを知った。
 鳴瀬川河口右岸付近は、想像していた通り津波被害の甚大さが容易に想像できた。よって、野蒜地区に足を踏み入れるか躊躇するほどであった。

 名取から新地で見た津波による被災家屋と異なり壁が抜け家の形が残っている。

 想像だが、津波の直波が激しいと一気に壁が抜け、そこを海水が通過するので家の形が残るのだろうか。
奥松島道路 この先に野蒜海岸海水浴場・奥松島公園がある(鳴瀬町
 野蒜町内に通ずる東名運河沿いの道路、最初に目に入ってきた被災家屋、平屋部分が消滅している。

 この裏手の里山は海抜80m以下だが非難場所になるので皆さん逃げ延びることが出来たのだろうか・・・・。

 東松島市でも特に甚大な津波被災地が、ここ野蒜地区。宮戸島も壊滅状態、死者も数百人出たとか・・・・。
これより先に足を踏み入れることに一瞬躊躇した(鳴瀬町
 何を物語るのか・・・・のびる駅前のバス停と、橋を渡った先に椅子が二つ置かれ花が添えられていた。

 この付近には民宿や民家があったと記憶する。施設らしき建物が左右に1軒づつあるのみ。片付けが進み甚大さは薄らいでいた。

 写真撮影した後方に“のびる駅”がある。その隣の商店が顧問先である。多賀城と同様、写真撮影はしたが掲載はしない。
仙石線“のびる駅”から海岸方向を眺める(鳴瀬町
 駅の陸地側には集落があった。こんなに見通せるという記憶はない。みんな津波に流されてしまったのだろう。

 不思議なことにたった50cmほど土盛りした新築家屋が無傷、その近くでは2階まで破壊している。これは何故だろう?

 6時半少し前に野蒜地区を後に、松島の市街地を抜けたが沿岸部でも浸水はあったものの破壊の爪痕は皆無に近かった。
仙石線“のびる駅”構内・・・・これに比べると常磐線“さかもと駅”は・・・・
 野蒜から東名は甚大な津波被災地、片付けが進み痛ましさが緩和されていた。
 松島湾の島々が津波の威力を吸収したことで、松島町と塩釜市の沿岸部は不思議なくらい少ない被災でおさまった。

 津波防波堤の外に人口島を築いたらどうだろうか、高台移転よりパフォーマンスが高いかも。

 仙台の顧問先に 7:15 に着いた。会議を終え 15:30 に仙台を後に往路を引き返し、16日0時を少し回った頃に帰宅。往復の総距離は990km。
仙台側からのびる駅の陸側にある集落を写す(鳴瀬町 AM 6:25
 東名地区・松島町・塩釜市の写真掲載は割愛しました。
− 合掌 −