八重撫子 (栃木県大田原市) 奥の細道“黒羽の地”
 2013.06.14 (金) 晴
 仙台出張、今回の「道草」は出発2日前に思い立ちネット検索で計画を立てた「奥の細道;黒羽(くろばね)編」だ。にわか仕立ての浪漫紀行なので漏れもあると思うが・・・・再訪のキッカケになれば、それも良かろう。
  【与一の里:大田原】
 文治元年(西暦1185年)那須与一が屋島での戦功により那須の総領になるや、同3年(西暦1187年)土佐杉をもって社殿を再建し社領を寄進した。
 わけても陰暦8月15日の例大祭は壮厳で、京都から神職や伶人を呼び、舞楽の奉納や、流鏑馬の騎式などを行い終日神意をなぐさめたと伝えられる。
道の駅にある「那須与一像」・・・・屋島の合戦で那須与一が扇の的を射抜いた(平家物語)

 仁徳天皇(313~399年)時代の創立で、さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って(金丸)八幡宮にしたと伝えられる。
 
那須神社「楼門」 那須神社の「鳥居」

 その後、那須氏の崇敬篤く、那須氏没落の後は黒羽(くろばね)城主大関氏の氏神としてあがめられ、天正5年(1577年)には大関氏によって本殿・拝殿・楼門(写真)が再興されたと社記に記される。
 
那須神社「本殿」
 【芭蕉の里:黒羽】
 これより、奥の細道「黒羽」探訪といきましょう。今回の句碑探訪は「常念寺」→「大雄寺」→「芭蕉の館/黒羽城址公園」→「雲巌寺」を3時間(12:30~15:20)という限られたなかで見て回った。
 最初に訪れたのは常念寺。「野を横に馬牽きむけよほととぎす」という芭蕉の句碑がある。
 この句は芭蕉が黒羽から殺生石に向かうとき、馬子から「短冊得させよ」と乞われて作った句という。
 
常念寺 芭蕉の句碑/常念寺(画像Clickで拡大
 「大雄寺/だいおうじ」は600年以上の歴史を持つ曹洞宗の禅寺。
 室町期の様式を今に伝える総萱葺き屋根の禅寺。そして回廊で囲まれた庭は立派だ。
 
大雄寺の参道(石段)と「三門」 大雄寺の「参道(石段)」
 大雄寺には芭蕉の句碑はない。立派な禅寺なので見る価値は大きい。
 また、黒羽城主の累代墓地の菩提寺であり、並びに「芭蕉の舘」「黒羽城址」がある。
 
大雄寺(画像Clickで拡大 大雄寺の「総門」
 応永11年(1404年)、余瀬村(現大田原市余瀬)に創建された。後に戦乱で焼失するが、文安5年(1448年)に大関忠増により再建され、天正4年(1576年)に大関高増の居城が余瀬白旗城から黒羽城に移った際に大雄寺も現在地に移築された。大関氏の菩提寺であり、山中には大関氏累代の墓がある。
 寺院は神社とは変わった風情を感じる。しばらくは仙台出張の「道草」として取り上げられるだろう。
 奥の細道「日光」から「松島」辺りだけでも年内はかかりそうだ。
 
大雄寺の「総門」と「座禅堂」 大雄寺の「座禅堂の回廊」
 鐘楼堂脇の樹木にテルテル坊主が釣り下がっていたる
 2012年6月下旬に放送されたフジテレビ系列のスペシャルドラマ「一休さん」のロケ地のようだ。
 
大雄寺の「鐘楼堂」 大雄寺の「本堂」
 黒羽城は、天正4年(1576)戦国武将大関高増が新たに築いて白旗城(黒羽町余瀬) より移った。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際し、大関資増(高増子息)は他の那須衆と同様に徳川氏に味方して 黒羽城において上杉景勝の動きに備えていた。
 その際、徳川方から軍事援助(加勢の入城と武器供与)があり、また黒門・中門・ 北坂門などが新たに設けられ、塀・築地が構えられるなど修築が加えられた。
黒羽藩主大関家累代墓所(大雄寺は菩提寺)
  その後大関氏は一度の改易・転封もなく明治4年(1871)の廃藩置県までの295年間黒羽城を本拠とし続けた。江戸幕府265年に勝る長期政権であった。
 南北に流れる那珂川の左岸、「大雄寺」の北側に「黒羽城跡」がある。その間に「芭蕉公園」があり、その間が「芭蕉の道」として句碑がある。
 黒羽城の黒門跡から芭蕉句碑が点在していく。
 黒門跡にあるのが「田や麦や中にも夏のほととぎす」だが、この句は奥の細道にはない。
 
黒羽城跡の「黒門跡」 芭蕉の句碑/旧桃雪亭跡(画像Clickで拡大
 「黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る、思いがけぬあるじの悦び、日夜語つづけて云々」とある。
 芭蕉が逗留した建物ではないが、武家屋敷の趣を多分に残し、当時の雰囲気を味わうことができる。
 
旧浄法寺(高勝)浄法寺邸(黒羽藩の城代家老) 説明書き(画像Clickで拡大
 芭蕉の句「山も庭も動き入るるや夏座敷」・・・・芭蕉と曾良が浄法寺邸に招かれた際に詠んだ。
 下の連句碑は、芭蕉「夕食くう 賤が外図に 月出て」・曾良「秋来にけりと 布たぐる也」・桃雪・等躬が詠んだ4句である。
 
句碑(画像Clickで拡大 芭蕉の句碑(画像Clickで拡大
 黒羽藩の城代家老の「浄法寺高勝」は、俳号を「桃雪」あるいは「秋鴉」と称した芭蕉の弟子でもあったので、芭蕉と曾良は気を許して長居したのであろう。また、弟の翠桃は俳号に「桃青」として芭蕉の弟子であった。
 「旧浄法寺邸」を後に「芭蕉の道」を「黒羽城跡」に向かって登って行くと芭蕉の句碑がある。
 「鶴鳴くやその声に芭蕉やれぬべし」・・・・この句も「奥の細道」には出てこない。
 
芭蕉の句碑(画像Clickで拡大 芭蕉の広場
 “曾良”は、奥の細道「奥州・北陸の旅」に同行した芭蕉の弟子。
 奥の細道文学碑と曾良句碑「かさねとは八重撫子の名成べし」・・・・曾良は信州人でした。
 
芭蕉と同行の弟子“曾良”の像 芭蕉の弟子“曾良”の句碑/奥の細道文学碑(画像Clickで拡大
 黒羽城跡の本丸跡は土塁で囲まれていた。その上は通路になっていて街並みが見渡せる。
 紫陽花の名所、丁度咲き始めたところだった。
 
黒羽城の本丸跡 咲き始めた紫陽花
 松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。 蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。
 
 八溝山地のふところ深く、清らかな渓流に沿う境地に臨済宗妙心寺派の名刹「雲巌寺」がある。筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで、禅宗の日本四大道場と呼ばれている。
 山門の正面にある朱塗りの反り橋を渡って石段を登ると、正面に釈迦堂、獅子王殿が一直線に並ぶ代表的な伽藍配置となっている。
 
雲巌寺の「朱塗りの瓜瓞橋と山門」
 芭蕉の句碑「木つゝきも 庵はやぶらず 夏こだち」
 芭蕉の禅の師であり、畏友佛頂和尚山居跡を訪ね詠んだ句である。
(解釈は下段参照)

 
芭蕉の句碑(画像Clickで拡大 雲巌寺の「山門」
 さすがに尊い和尚の修業跡なればよろず突っついて木に穴を開けてしまう啄木鳥も和尚の庵には乱暴を働かないようだ。キツツキは、別名寺ツツキとも云うほど木造の文化財を破壊する「困り者」なのである。
雲巌寺の「禅堂」 境内から見た「山門」
 禅宗の日本四大道場と呼ばれるだけあって素晴らしく立派なお寺だ。境内の草取りをしていたお坊さんに声をかけたら「何処から何の目的で来たの」と訊ねられた。長野から・・・・奥の細道の句碑を・・・・と答えると「著名な善光寺があるじゃない」と・・・・こんな問答をしばらく続けた。
 黒羽の街から三里ほど山間に入った「雲巌寺」は秘境と言ってもおかしくない。奥の細道、山形の「山寺立石寺」を思い浮かべる。「山寺や閑さや岩にしみ入る蝉の声」・・・・宮城在住時に訪れた。再訪したくなった。
雲巌寺の「仏殿」 雲巌寺の「鐘楼」
 今回はドタバタ紀行だが、そのなかでも落ち着きを取り戻せた。今度は時間にゆとりを持ち「雲巌寺」だけに絞って再訪してみたくなった。西那須野には友人がいるので声を掛けてみよう。
雲巌寺の「東司」 雲巌寺の「庫裡」
 境内の庭に秋桜が芽生えていた。草取りをしていたお坊さんの話だと種を播いたのだという。
 天正18年(1590)烏山城主那須資晴は小田原参陣を果たさなかった為、豊臣秀吉による奥州仕置きの対象となり兵を向けられた。
 
雲巌寺の「方丈」
 その際、那須資晴が雲巌寺に逃げ込んだとの噂が流れ、秀吉軍は雲巌寺を焼き討ちにした。堂宇、記録、寺宝のほとんどが焼失したとされ絹本着色仏国国師像や絹本着色仏応禅師像、山門などが奇跡的に焼失を免れた。
 「かさねとは八重撫子の名成べし」(曾良句集);このような片田舎で思いもよらずなかなか上品で美しい響きの「かさね」という名の小さい娘に出会った。花ならさしずめ花びらが重なって美しい八重撫子といったところ。
 黒羽には芭蕉の句碑は10碑ある。芭蕉の道入口の句碑を見落としたものの予定した5碑は撮影出来た。