-古希こえて趣まゝに余寒なほ-
鎌倉続編 奥の細道を外れ“鎌倉Ⅱ”へ
2018.02.016(金) 晴/薄曇り
 冬季の「旅の未知草」、1月は「北鎌倉→鎌倉」周辺の「110寺院+1句碑」であった。事前60kmの足腰の鍛え直しに当日の15km。若干疲れが残る中での「鎌倉続編」、「鎌倉」→「長谷」→「極楽寺」周辺の「7寺院他」で、約8kmの徒歩歴史探訪だ。この冬は大雪寒波(我が家がある台地は-18.5℃と氷点下へ更新)。しかし関東では1月下旬にモンキチョウの初見とか・・・・ならば鎌倉でモンキチョウと寺のコラボと気持ちが高ぶる。
 【鎌倉駅 】
 
 
1月同様、家を5:00、佐久平5:40→8:27バスタ新宿、やはり1時間の遅延、2回目となれば野暮用をしても1本早い電車に乗れて鎌倉駅着は10:47
 先ず「妙本寺」に行き、次の「光明寺」は、その後「鎌倉駅」まで戻り「京急バス小坪経由新逗子行」(
20分毎)を利用するためバス停の確認をしておいた。
探せども花の鎌倉余寒なほ 12.2018 余寒;初春
 寒が明けてからもなお残る寒さ。春の兆しはそれとなくあるものの、まだまだ寒さは続く・・・・余寒。天気予報では「晴」、「薄曇り」で薄手のコートはザックに結び付け、襟巻で首元からの冷えを防ぐ、そう寒くはなかったが夕方が迫る頃には「寒む!」と感じた「鎌倉放っつ記歩」であった。さて、この「季重ね」はどうだろう。「花」は「花」(桜)であるが、「花の鎌倉」は「四季に渡り花が絶えない」との意が強く、一般的な「花」(桜)と断定はされ難いと思う。
 【本覚寺】 予定外(妙本寺に向かう途中にあったので立ち寄った)
 「本覚寺」は、永享八年(1436)足利持氏(室町時代の武将)が鎌倉の「源頼朝ゆかりの夷堂」があった場所に寺を立て日出上人に寄進した日蓮宗の寺院。身延山久遠寺(日蓮宗総本山;山梨県身延町)にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれる。
 主な伽藍は近代創建、現存で最も古いのが右画像の「山門」(仁王門)で江戸時代の創建、明治初期に三浦半島の寺院より移設。平成25年に保存修理。左画像の「夷堂」(えびすどう)は、源頼朝が御所の鬼門にあたる方向の鎮守として夷神を祀ったのが始まり、夷三郎社と呼ばれ仁王門の前辺りにあったといわれている。
 
 「仁王門」を入ると正面に「本堂」(左画像)と右手後方に「分骨堂」(日蓮上人)がある。
 仁王門と本堂の間、右手前に「夷堂」、右手奥に「梵鐘」がある。また、右画像に写っている底の浅い鉢は「蓮」が植えられている。受付で確認すると「ご覧になられた通り蓮です。綺麗に咲きますよ」との返答・・・・今年、やってみようと思った。「鎌倉七福神」の一つ、商売繁盛・五穀豊穣の神様「えびす様」が「夷堂に黒夷像」として安置されている。
【東身延・夷堂橋】 予定外(本覚寺前)
 
 「本覚寺」前に滑川という小さな川(地元名は夷堂川)がある。そこに架かる「夷堂橋」は「鎌倉十橋」(歴史・伝説)の一つとされるも・・・・石碑と夷堂川は撮っても橋は撮る気持ちが起きなかった。
【妙本寺】 北条氏に滅ぼされた比企一族の菩提寺
 
 「夷堂橋」を渡り道なりは右へ、一段狭い直進が「妙本寺」参道になる。その入口左手に石柱がある。正面に見えてくるのが「総門」(大正12年/1923の関東大震災で倒壊したものを2年後に再興したもの)である。
 「総門」右手にある八角形の夢殿を模した「比企谷幼稚園」(ひきがやつ)は、昭和12年3月に完成した比企谷妙本寺貫首島田勝存上人の発願なる宗教的情操を基盤とする幼児教育の殿堂。
 右画像は「蛇苦止堂」(じゃくしどう)で、比企谷妙本寺の守り神(鎮守)蛇苦止明神を祀るお堂。比企能員の娘、讃岐局が2代将軍 頼家公の側室となり、一幡之君を授かり、将軍家の外戚関係になった時から北条一族は比企一族を最大のライバルとして敵視し、ついに建仁392日、党首能員をはじめ、一族郎党は北条家の手にかかって討ち滅ぼされた。この乱より50年ほど後、北条政村の娘が何かに取憑かれて座敷をのたうち回り苦しみ、「北条家に恨みがある。わらわは讃岐局。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。讃岐局の弟にあたる比企能本は日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀られた。
 
 「総門」の先、「方丈門」をくぐり石段を上ると「本堂」がある。石段の両脇は紫陽花の枯木が、季節には60段ほどの花の石段、途中で立ち止まり呼吸を整え更に石段を上る・・・・「比企一族の菩提寺」、その悲しき末路を想い一段一段と踏み締め上る「花の参道」であろうと想像(風流)しながら上った。
梅の香や鎌府に息吹く比企の寺 13.2018 梅の香;初春
 「本堂」の先、妙本寺歴代住職の「歴代廟」(御開山日蓮聖人以来、住職は池上本門寺と兼務、徳川家康が常駐住職を命じるまで続いた)があり、それを回り込む石段の上に「鐘楼堂」がある。
 
 弁柄塗りの「二天門」、門には様々な彫刻が施されているが、中央の「龍の彫刻」は見事で、平成の大改修で極彩色の色を取り戻し息を吹き返した。
 「二天門」の奥に「祖師堂」がある。ちなみに、この祖師堂のあたりが、比企谷(ひきがやつ)の地名の由来、比企の尼が住まわれたところであり、「比企の尼」という女人は鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の乳母であり、頼朝による開府後、頼朝公は武蔵(現在の埼玉県)の比企郡から尼をここへ招き住まわせました。また、頼朝公の正室北条政子夫人が懐妊すると、尼の許に送り、ここで2代将軍頼家公が生まれたと伝えられています。
 小画像は、日蓮聖人立教開宗750年ならびに鎌倉布教750年を記念して建造された「日蓮聖人銅像」。
 
 梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。「花の兄」「春告草」とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。
梅の香や下絵に見ゆる妙本寺 14.2018 梅の香;初春「梅」の子季語
 境内に咲く梅の花をスケッチしているかと思えば、そこに描かれているのは妙本寺の伽藍ばかり。変に納得し、見て見ぬ振りする自分に苦笑いしてしまった。
 【九品寺】 予定外
 1333年(元弘3)新田義貞が鎌倉攻めをしたときの本陣をかまえた場所で、義貞が北条方の戦死者の霊を慰めるため1337年(延元2)に建立したといわれる。山門と本堂に掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、義貞の筆の写しと伝えられ、直筆と伝えられる額は本堂に保存されている。→説明板
 【光明寺】 鎌倉四大寺の一つ
 
 臨済宗建長寺派大本山の建長寺、臨済宗円覚寺派大本山の円覚寺、浄土宗関東総本山の光明寺、時宗総本山の遊行寺(清浄光寺)の4つの「鎌倉新仏教の本山として栄えた寺」を(湘南)鎌倉四大寺と呼んでいる。
 桃山時代の様式を受け継ぐ「総門」をくぐると、巨大な二重門である「山門」が覆い被さる迫力で迫ってくる。一階が和洋、二階が唐様という造りである。→境内案内図
 
 正面に「本殿/本堂」(左画像)、右手に「開山堂」、境内に並ぶ桜の古木が咲く頃は綺麗であろう。天照山蓮華院光明寺は浄土宗の大本山、創立は鎌倉時代の寛元元年(1243)、鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受け浄土宗三祖然阿良忠上人によって開かれた。
 良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開山した。江戸時代になると、徳川家康公は当山を関東十八檀林(学問所)の筆頭におき、念仏信仰と仏教研鑽の根本道場に、また浄土宗の「お十夜」発祥の寺でもある。
 
 「本堂」と「開山堂」は、渡り廊下でつながり、その前には「善導大師像」(右画像)があり、廊下の向側は「三尊五祖の石庭」「記主庭園」で「大聖閣」(左画像)が建っている。本堂から開山堂への渡り廊下から庭園を眺めることも可能であったと思うが、裏山の展望台へと気持ちが先走ったので大分端折ってしまった。
 
 「本堂」右並びに「鎌倉二十四地蔵尊・第二十二番・延命地蔵尊」(左画像)、右手に「鐘楼」がある。鐘楼の先に反射物があり撮影位置に苦慮、逆光になってしまった。
 「光明寺」背後の山並みを「天照山」と呼ぶ。「光明寺裏山の展望」(かながわの景勝50選)は、参詣の目的の一つでもあった。右手岬(稲村ヶ崎)の彼方に富士山が見えるはず・・・・あいにくの天気、その雄姿は見えなかった。
鎌府富士霞の衣まとふ哉 15.2018 霞の衣;「霞」の子季語 初春
 「光明寺裏山の展望」は「かながわ景勝50選」、そこから眺める「稲村ヶ崎」越えの「富士山」、1-2月の鎌倉紀行で是非撮影したいと願っていた。残念ながら、富士の頂きを眺めることは叶わなかった。
 
 「良忠上人御廟参道」の標柱に従い山側へと進む。「開山良忠上人御廟」(左画像中央)と「北條経時公墓」(右画像中央)がある。宗祖法然上人の800年遠忌(2011)に「大聖閣」が建造された。そこにあった「北條経時公墓」は現在の場所に移転、「開山良忠上人御廟」と共に整備されたようだ。
 
 「光明寺」に戻らず鎌倉市立第一中学校沿いに一般道を下る。何か異様な墓地があるので撮影、表示板を見て「内藤家墓地」(日向延岡の城主内藤家の江戸時代初期以来の歴代墓地;光明寺が菩提寺)と知る。「日向延岡城主の墓」が、何故「鎌倉」にあるのか・・・・短文で説明出来なく、知りたい方はネットでお調べください。
春浅し寺訪ね行く鎌府かな 16.2018 春浅し;初春
 立春を過ぎたのに、まだ春めいていない感じ、「早春」よりも主観の入った季語といえる。埼玉辺りでは1月下旬にモンキチョウが初見されたという。ここ鎌倉は「湘南」ゆえ、苦なくしてモンキチョウの初見が出来ると楽しみにしていた。この後、そう待たずに鎌倉駅行のバスが来たのでロスタイムなし。鎌倉駅12:47着(予定13:30
 【高徳院・鎌倉大仏】 大異山高徳院清浄泉寺
 「鎌倉大仏殿・高徳院」の「仁王門」をくぐると正面に大仏像が見える。高徳院(詳名: 大異山高徳院清浄泉寺)は、法然上人(11331212 年)を開祖とする浄土宗の仏教寺院。
 
 大仏殿は建武二年(1335)と志安二年(1369)の台風で倒壊。更に明応四年(1495)の大津波で押し流され、以来、現在の様な「露座の大仏」となってしまった。
「観月堂」    与謝野晶子歌碑 
 「かまくらや御ほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」→夏の木立の熱気の中で(黙して瞑想する)釈迦牟尼の姿は、聖なる御仏であるにもかかわらず、まことに美男であることよ。
 
 「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t
春まけて露坐の大仏寝覚なほ 17.2018 春まけて;初春
 「春まけて」とは、春になってということ。または、春が近づくとか春を待ち受けるという意がある。
 肩身が狭くなるほど日本人が少ない・・・・ここは何処の国? 自撮り棒振り回すシニア(日本人)が浮いていた。
 【長谷寺】 「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情ある寺
 「長谷寺」の「山門」が、段々と大きく見えてくる。参道のような小路を進むと、左手に古い造りの建物が見えてきた。「對僊閣」(旅館)というらしい。高欄や欄間窓など、社寺建築で見られる意匠が多用され、その独特の外観に魅せられ思わずシャッターを切った。
 観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれ、下境内は妙智池と放生池の二つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっている。境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相は「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情を呈している。 →境内図
 
妙放つ池や雨水か長谷の寺 18.2018 雨水;初春
 妙智池と放生池の二つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園に春がやってきた。「妙」;言いようもなく優れている。「放つ」;ある場所から激しく出す。「雨水」;初春の季語、二十四節気のひとつ。立春の後15日、220日頃。氷雪が溶け水となり、雪が雨に変わる。草木の芽生えが始まり農耕の備えを始める目安になる。
 「下境内」から「上境内」に上る途中、二つの池を見下ろすように建てられている「地藏堂」を囲む三面に、所狭しと小さな「水子地蔵」が、これまた整然と並べられている。
 「阿弥陀堂」(阿弥陀如来)は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が自身の42歳の厄除けのために建立したもの。上境内の中央に位置する「観音堂」には日本最大級の木造観音、十一面観世音菩薩が安置されている。
 
 
 
 八臂の弁財天をお祀りする「弁天堂」の奥には、弘法大師参籠の地と伝わる弁天窟があり壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られています
 【極楽寺駅】 「関東の駅百選」
 
 鎌倉では、JR北鎌倉駅鎌倉駅、江ノ電極楽寺駅鎌倉高校前駅が選定されている。
長閑なる鎌府の駅や極楽寺 19.2018 長閑;三春
 のんびりとした「旅の未知草」で、極楽寺駅に降り「碑撮り馳せた忙しい旅」を想い、ゆるやかに過ぎる一時に何故か感謝の合掌を・・・・。
 【極楽寺】 鎌倉唯一の真言律宗の寺
 「山門」前で「境内撮影禁止」の貼紙を見て、柵越しに「ワン・シャッター」を切り「長谷寺」を後にした。
 【極楽洞】 土木学会選奨土木遺産
 
 極楽洞は、江ノ島電鉄極楽寺駅―長谷駅間にあるトンネルの極楽寺駅側にある煉瓦造りの坑門。電気鉄道のトンネルとして、今なお建設当時の原型をとどめているものは全国的に極めて希少。
 【極楽寺切通し】 鎌倉七切通しの一つ
 極楽寺坂の切り通しは鎌倉七切通しの一つで、京を結ぶ街道であった。元弘3年(13335月新田義貞、鎌倉攻めの激戦地の舞台の一つであった。
 【成就院】 108段の石段を上がった山上にある北条泰時建立の寺
 
 「海の見えるアジサイ参道」で知られる「成就院」。鎌倉のアジサイ三大名所は、ここ「成就院」、北鎌倉の「明月院」、長谷の「長谷寺」。
 鎌倉で見る2回目の「蓮鉢」・・・・今年のガーデニングの目玉にしよう。「どんな蝶」が集うの・・・・しいて言えば「蜻蛉」、バタフライガーデンでなくビオトーブですよ。右画像は「本尊不動明王の御分身」です。
 
春の暮煩悩踏むや成就院 20.2018 春の暮;三春
 春の一日の夕暮れどき、成就院の108つの石段を一つ二つと踏み締め、一息ついて合掌、二度に渡る鎌倉紀行を終え古希を越え、なお健康でいられることに感謝の合掌をする。
 【円満院星の井寺】 舟守地蔵と星月井
 「星の井」は鎌倉十井の一つ。昔、この井戸の中に昼間も星の影が見えたことから「星月夜の井」とも「星月の井」とも呼ばれている。→説明板
 【由比ヶ浜】 サーファー
 
春まけてサーファー見ゆる由比ヶ浜 21.2018 春まけて;初春
 春の到来を待ちわび、由比ヶ浜にサーファーがちらほらと・・・・やはり湘南の春の訪れは早いものよ。
 【江ノ電と鎌倉駅】
 1-2月の「鎌倉ほっつ記歩」を終え大満足、夜行バスの時間待ちで汗を流し、日付が変ろうとする頃、仙台に向け東京を後にした。歩き疲れ・風呂でその疲れをほぐし、夜行バスは熟睡で夜明前に仙台に着いた。
 【バスタ新宿】 
 翌日、仙台の顧問先で営業会議・役員会議を終え新幹線で上京、バスタ新宿から佐久平までは高速バスで戻りました。
 
 「佐久IC」で一般道へ、吹雪・・・・雪は舞う程度なので積雪は精々1-2cm、横風で道路の雪が吹き飛ばされ虎模様になっていました。