-細道を訪ね描くや古希の旅/細道や一碑一会の旅日記-
福島落穂拾い 奥の細道“早過ぎた衣替”
2018.03.016(金) 曇
 3.11「東日本大震災」発生から満7年が経った。思い起せば、仙台出張の一週間前の金曜日の事であった。「マーケティング論」の講師をさせて頂いた「長野美術専門学校」の卒業・進級制作展に招かれ、ホクト文化ホールから戻り遅い昼食を頂いている最中、突き上げるような未経験の“ドォーン・グラッ”であった。
 そんな事を思い出し「仙台未知草紀行」へと、未明(2:50)に家を出た。いつもの「足尾-日光」経由「矢板」へ、その後は国道461号から県道72号(旧陸羽街道)、右に折れ黒羽刑務所脇を通過し国道294号へ。「伊王野」で右に折れ県道76号(東山道)で「白河の関」に向かった。
 【追分の明神 】 栃木県那須町
 延暦10791)年、坂上田村麻呂が征夷の途上で勧請したと伝えられる。東山道「栃木・福島」県境、下野国と陸奥国の国境を挟んで護る「峠の神様」が祀られている。
 「東山道」と聞けば「古道ロマン」、「東山道」とは古代律令による官道のひとつで、近江(滋賀県)を起点に、美濃(岐阜県)を経て陸奥・出羽国(東北地方)に通じていたとされています。長野県は中山道が発達したことにより、古代東山道は埋もれた存在になっていましたが、そのことがかえって、1300年前の昔と変わらぬたたずまいを存続させる要因となりました。長野も宮城も「東山道」とは無関係でないことを知り「碑撮り旅」の次のテーマとして「追分の明神」がルーツに・・・・今回は、そんな発見の旅、まさしく「旅の未知草」だ。
 
 芭蕉・曾良の足取りは「高久」→「芦野」、直行ルートから「伊王野」はかなり南にずれている。従って、「東山道」の「追分の明神」は通るはずがない。従って「追分の明神」、事前調査の対象外(見落としではない)なので横眼に通過。1時間遅らせての出発、それでも大分余裕があるし・・・・折角なので数m通過したがバックで戻る。
 「境の明神」(旧陸羽街道)と同じように「追分の明神」にも二社が並立していたという。現存は「住吉玉津島神社」(境の明神は、住吉明神/下野と玉津島明神/陸奥・・・・二社合体?)→説明板(追分の明神義経伝説
 
 その日は、何も考えず、ただ後ろ髪を引かれる思いで「追分の明神」を後にした。夏草が生い茂る頃、再び訪れようと・・・・「空」の思いで合掌し立去った。
 【白河関の森公園】 福島県白河市
 「東山道」で陸奥入すると「白河の関」は右手にある。手前に「白河関の森公園」があり、芭蕉・曾良像があり、台座が句碑になっている。句碑01「風流の初やおくの田植うた」、句碑02「卯の花をかざしに関の晴着かな」曾良の句が併刻されている。
 
 「白河神社社務所」前に芭蕉句碑がある。句碑03「関守の宿を水鶏に問はふもの」、「碑撮り旅」初期(2013.9 )以降に建立された真新しい句碑。
 
 
 「追分の明神」も「境の明神」も、立地から言えば「境の明神」(=国境の峠神)になる。古道「東山道」で峠越え(追分の明神)半里余りにある「古關蹟」(白河の関)、「旧陸羽街道」峠越え(境の明神)の向かいにある関所を「白河二所の関」と呼んでいる。
 「白河関の森公園」の遊歩道脇に「奥の細道白川の関」文学碑がある。「おくのほそ道」(白河の関)章段全文に、句碑04「卯の花をかざしに関の晴着かな」曾良が刻まれている。杉の大木は、樹齢800余年「従二位の杉」(藤原宮内卿家隆のお手植え)である。
 
 「白河神社」参道を下る。境内にカタクリがあった。数日以内に開花しそうな莟がついていた。この時期では分らないが、トリカブト(毒草)も自生し除草活動が行われているとのお知らせを頂いた。公園という場所ゆえ、除草に留まらず「外来種駆除」と同様な活動が必要かもしれませんね。
 「古關蹟」の碑。白河藩主松平定信の考証により、江戸時代後期(奥の細道以後)まで位置不明になっていたが、この地が「白河関跡」であると断定され、寛政12年(1800)に建立された。→説明板案内図
 
 「白河関」の北、「東山道」脇に芭蕉句碑がある。句碑05「西か東か先早苗にも風の音」。句説→生まれて初めての奥羽に足を踏み入れたのだから、土地感がなく西も東も分からない。しかし、昔、能因法師が詠んだ歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」であってみれば、いま季節は初夏とはいえ早苗の上を通りすぎる風はあの風だ。「奥の細道」で、芭蕉は「風」「香」をいくつも詠んでいる。
 句碑05の前から「旗宿」の家並みを撮る。彼方に見えるのは「関山/619m」(芭蕉・曾良が参詣した関山満願寺が山頂にある→2016.8.19 紀行文808話 参照)である。告知板「公園利用者のみなさまへ」を見て違和感を感じた。ならば、この地で生活する皆様は、どうすれば良いのだろうか・・・・。
 
 句碑05の向かいに駐車、路肩に幾つもの石碑が並べられていた。古代からの「石碑文化」が研究対象として脚光を浴びてきたのか・・・・点在していたものが、消滅されないよう集中管理されてきたように思う。
 【庄司戻しの桜】 福島県白河市
 
 治承4年(1180)に、源義経が兄頼朝の平家追討の挙兵を伝え聞き平泉から鎌倉へと向かった。信夫庄司の佐藤元治が、子の継信・忠信を義経に従わせ当地まで見送り、引き返したことで「庄司戻し」と伝承。→説明板
 【須賀川市立博物館】 福島県須賀川市
 
 「乙字ヶ滝」に建立、大雨で流失後に発見され寄贈された句碑。句碑06「五月雨耳飛泉婦梨う川む水可佐哉」。建立は文化二年(1805)と古い。
 【十念寺】 福島県須賀川市
 「十念寺」に立ち寄るのは三度目、今回は「市原多代女」(江戸時代の女流俳人、芭蕉句碑建立)の菩提寺でもあり辞世の句碑を撮影するためだった。
 
 四月廿八日、発足ノ筈定ル。矢内彦三良来而延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行而及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。(曾良随行日記)。芭蕉の句碑(最大級)がある。句碑07「風流の者しめや奥乃田う遍唄 者世越」(建立;1855.3)→説明板
 山門を入り右手に芭蕉の句碑、左手に山代成田山不動堂が祀られ、その前に市原多代女の辞世の句「終尓行く道盤いづく曾花の雲」がある。
 「本堂」左手から裏手の墓地、一部は東日本大震災で倒壊した墓石が満7年を経てもこの状況だ。現実として無縁仏になった墓だろうか・・・・墓石ゆえ罰当たりなことは出来ないし、お寺さんにとっても大きな出費を負わなければならない。ボランティアの手を借り、注意深く積み上げ無縁塚として供養する方向で進めたらどうだろうか?
 【須賀川城址/二階堂神社】 福島県須賀川市
 「須賀川城」は、1627年に廃城になっている。釈迦堂川の氾濫原を見下ろす段差約20mの台地上にある。現在は本丸跡に二階堂神社が残る。遺構としては、長松院の北側と神炊館神社周辺に土塁と空堀が残る。説明板
 
 「長松院」の後方に残る「須賀川城」の土塁と空堀。グーグル・マップの航空写真で確認すると、「長松院」と「神炊館神社」の間が途切れるも「土塁・空堀」らしき遺構が線でつながっている。→説明板
 【長松院】 福島県須賀川市
 須賀川に立ち寄る目的は、芭蕉・曾良を歓待した歌人「相楽等窮」を知るため、その菩提寺「長松院」に参詣することであった。等躬は、須賀川宿で問屋を営む傍ら須賀川の駅長の要職を務めた。問屋の仕事で江戸に上がった等窮は芭蕉とも交流があった旧知の友であった。
 
 「神炊館神社」の近く、知らない訳でなかったが芭蕉・曾良の句碑あるいは文学碑もないことから寄りそびれていた。鎌倉探索で「蓮鉢」を見てから注意するようになったのか、五右衛門風呂のような大きな蓮鉢があった。
 「本堂」左手の松にならんで「等窮」の句碑がある。「あの辺はつく羽山哉炭けふり」、交流があった岩城平城主内藤露沾を訪ねた時の句。
 
 「本堂」裏手に「相楽等窮の墓」(相楽家の墓)がありました。広い境内に「ポツン」と「相楽家代々の墓」があり、何か違和感のようなものを感じました。「鐘楼」の脇に「高浜虚子句碑」(三世の佛皆座にあれば寒からず)があった。高浜虚子は小諸に3年ほど疎開していた。
 【軒の栗/可伸庵跡】 福島県須賀川市
 今回は、さほど急ぐ旅でもないので、何度も立ち寄っている「軒の栗/可伸庵跡」に行ってみた。句碑08「世の人の見付ぬ花や軒の栗」。
 
 文学碑にも句が刻まれている。句碑09「世の人の見付ぬ花や軒の栗」。駐車場から「軒の栗」まで歩く、予想以上に寒い。数日前の5月の陽気からの一変、「春着」に衣替えしてので一層寒さを感じる。
 【大鳥城跡/佐藤庄司が旧跡】 福島県福島市
 宮城に住んでいた頃、冬場の里山歩きは雪が少ない阿武隈高地で楽しんだ。展望台から「鹿狼山・霊山・麓山」が指呼できた。右端に「信夫山」その手前に「醫王寺」も指呼できる。→画像にマウスポインタ。説明板歩行コース
 【桑折町文化記念館/旧伊達郡役所】 福島県桑折町
 桑折町、宮城との県境である。いつもの事なら日没が迫る頃、今回は余り立ち寄る所がなかったので、時刻も13時半、「旧伊達郡役所」に再び立ち寄ってみた。芭蕉像は逆光で暗い、台座に句碑が刻まれている。句碑10「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」。句碑→芭蕉像の台座に文学碑
 【旧奥州街道中国見峠長坂跡】 福島県国見町
 
 五月三日 雨降ル。巳ノ上剋止、飯坂ヲ立。桑折ヘ二リ。折々小雨降ル。桑折トかいたの間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有。・・・・(曾良随行日記)。→説明板
 
 「おくのほそ道」(飯坂) 遥なる行末をかゝへて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縱横に踏で、伊達の大木戸をこす。→碑面拡大説明板
 【阿津賀志山防塁】 福島県国見町
 源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つため藤原泰衡の奥州軍が築いた堀と土塁からなる要塞であり、岩盤を削って二重の堀が造られるなど堅固な構造となっている。→説明板
 【義経の腰掛松(三代目)】 福島県国見町
 
 藤原秀衡をたより源義経が金売吉次とともに平泉へ下向する際、松に腰を掛けたとの伝説が由来として伝承。松は、江戸時代の旅人や文人が義経一行に思いをはせる場所となり、「弁慶の硯石」「伊達の大木戸」(阿津賀志山防塁)とともに義経ゆかりの旧跡地として名所になった。右画像にマウスポインタを載せてください。説明板
 【鐙摺坂】 宮城県白石市
 14時、宮城に入る。「鐙摺・白石の城を過ぎ、・・・・」(「おくのほそ道」笠島の段)、「鐙摺坂」は、国道4号を右に折れ「甲冑堂・田村神社」の江戸寄りにある。
 【田村神社】 宮城県白石市
 
 「甲冑堂・田村神社」は既載につき省略。折角なので鳥居前にて一礼を持って失礼させて頂いた。
 【竹駒神社】 宮城県岩沼市
 「第二の故郷」、「宮城県岩沼市」、宮城を去る最後に住んでいた家を左に見て「竹駒神社」へと向かう。
 
 「竹駒神社」の大鳥居をくぐった右手に芭蕉句碑がある。句碑11「佐くらより松盤二木を三月越し」、右側は「朧よ里松は二夜の月丹こ楚」(謙阿/蕉門、句碑建立者)
 【武隈の松(二木の松)】 宮城県岩沼市
 
 「おくのほそ道の風景地」に登録されている「武隈の松」。そこにも芭蕉句碑がある。句碑12「櫻より松は二木を三月越し」、転居ならびに独立開業したのは、この近くであった。
 往路458km+復路422km=総走行距離880km、今回のワインは奮発 1800-1900円台6本、さぞかし美味かろう。