-細道を訪ね描くや古希の旅/細道や一碑一会の旅日記-
落穂拾い 「奥の細道」周辺紀行
2018.04.020(金) 晴
 早々に桜も散り「落穂拾い」も拾い残しが見当たらなく、「我が子」たちの墓参りがメインになった「旅の未知草」、それでも時間一杯使っての「出張旅」を計画した。出発は3時、スタート地点は「八坂神社」(8:00)→最終地点は「亘理神社」(17:20)。今回の「旅の未知草」、往路518km+復路420km938kmだった。
 【日光の夜明け】5:50) 栃木県日光市
 最初に撮った「日光の夜明け」は、“2017.6.16 6:00”であった。市街地を避け、「大谷川」左岸通りをメインルートにとって一年余り
 芭蕉・曾良の足取りは「高久」→「芦野」、直行ルートから「伊王野」はかなり南にずれている。従って、「東山道」の「追分の明神」は通るはずがない。従って「追分の明神」、事前調査の対象外(見落としではない)なので横眼に通過。1時間遅らせての出発、それでも大分余裕があるし・・・・折角なので数m通過したがバックで戻る。
 【鍋掛の一里塚・鍋掛神社】 栃木県那須塩原市
 「曾良随行日記」
 (四月)十六日 天気能。翁、舘ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬を立。及昼、図書・弾蔵ゟ馬人ニ而被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ゟ状被添。
 十七日 角左衛門方ニ猶宿。雨降。野間ハ大田原ゟ三里之内、鍋かけゟ五六丁西。
 「鍋掛の一里塚」(奥州街道四十一番目、鍋掛愛宕峠の塚)は、「野間」まで1.6kmの「鍋掛」にある。勿論、芭蕉・曾良は此処を通っている。江戸より四十一里(約161km)→説明板
 その「鍋掛の一里塚」は、今日「愛宕神社」(鍋掛神社)鳥居の左手に移されている。→説明板
 【樋沢神社・葛籠石】 栃木県那須塩原市
 「葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡」(伝説)。「後三年の役」で陸奥平定に向かう八幡太郎義家(源義家)が樋沢村にさしかかったとき、ふと小高い丘にお宮(源氏の氏神である八幡神社)があるのを見て軍勢を止めた。義家は戦勝祈願にと、馬で一気に丘を駆け上った。あまりの勢いに、境内にあった巨石の上に馬の前脚が乗ってしまい、蹄の跡がくっきりと刻みつけられたという。→説明板、大画像にマウスポインターを乗せると背面からの撮影画像がご覧いただけます。
 「後三年の役」は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。
 
 左画像の巨石が「八幡太郎義家愛馬蹄跡」、右画像の小振りの巨石が「葛籠石」で、伝説の内容の巨石には名前が無いという不思議な話、いかにも伝説らしい。芭蕉の好みそうな話であるが、「曾良随行日記」には記載なく「金売吉次」のように東国まで知られるものではなかったようだ。
 
 「追分の明神」も「境の明神」も、立地から言えば「境の明神」(=国境の峠神)になる。古道「東山道」で峠越え(追分の明神)半里余りにある「古關蹟」(白河の関)、「旧陸羽街道」峠越え(境の明神)の向かいにある関所を「白河二所の関」と呼んでいる。
 【樋沢の不動明王像】 栃木県那須塩原市
 「不動明王像」(製作;明歴2年/1656)は、寄木造り。徳川四代将軍家綱の5年目。松尾芭蕉13歳、父与左衛門死去。→説明板
 【八坂神社】 栃木県那須塩原市
 
 芭蕉句碑 01、「野を横に馬牽きむけよほとゝぎす」(建立;1808.10、鍋掛神社より 1993.3.3 移設)、元禄2416日、黒羽-高久の間で詠まれた句。→説明板
 【滝八幡三十三観音磨崖仏群】 福島県矢吹町
 「滝八幡三十三観音磨崖仏群」隈戸川岸の 10m 余の断崖、岸壁に37体の磨崖仏が彫られている。作風等から18世紀後半の造立とみられる。→説明板、この場所の画像はクリックで拡大画像が見れます。
 
 「滝八幡三十三観音磨崖仏群」全画像(33画像)、各画像クリックで拡大画像をご覧いただけます。
 【踏瀬旧国道松並木/五本松の松並木】 福島県泉崎村・矢吹町
 「踏瀬旧国道松並木」(五本松の松並木)は、白河藩主松平定信(江戸時代中期の大名)が領内街道(奥州道中)に2300本の松を植えさせたのが始まりと言われている。白河より北上する場合(泉崎村側)は「踏瀬旧国道松並木」と呼び、北側の矢吹町から南下する場合は「五本松の松並木」と呼ばれている。
 
 「観音山磨崖供養塔婆群」に立ち寄る予定だった。2台のナビ設定で、異地点設定だったようだ。設定地点まで案内するナビを優先させたので、矢吹町まで約6Kmも通過してしまった。ひょんなことで道路脇に表示されていた「滝八幡三十三観音磨崖仏群」へと方針転換。従って、「本命」へと国道4号バイパスをかなり戻ることになった。
 
 案内板(踏瀬旧国道松並木&五本松の松並木)の前でUターンをした。前2枚の松並木は「道中下り」、後4枚は「道中上り」ということになる。
 
 「松尾芭蕉・おくのほそ道文学館」のホームページでは「矢吹町の五本松の松並木」を、「おくのほそ道」の旅から60余年後の日本橋から盛岡までの「街道界隈の風景画」として紹介されている。・・・・どうりで「曾良随行日記」にも全く触れられていない。
 【文知摺観音/普門院】 福島県福島市
 幾度となく訪れている「文知摺観音」、通り道ゆえ通過するには忍びない。福島から相馬に行く国道115号(中村街道)は、かつて車で出張(50年も前)の折り何度も通ったことがある。記憶とは恐ろしいもので、どこでどう誤ったのか分からないが「文知摺観音=安寿と厨子王(山椒大夫)」であった時代が長い。
 「奥の細道300年記念事業」で建立された「芭蕉像」、その台座は文学碑になっている。句碑02「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」、元禄252日、「福島」での「陸奥の田植風景」を詠んだ句。→台座の「文学碑」。
 句碑03「早苗とる手もとや昔しのふ摺」、(建立;1794.5
 
 右画像は「文知摺石」(鏡石)、左画像は「安洞院多宝塔」。前回は「紅葉」、今回は「若葉」・・・・通り道ゆえ季節の顔が撮れ「旅の未知草」の醍醐味が味わえた。安洞院が別当をつとめてまいりました文知摺観音は、平成2810月に曹洞宗の新寺「普門院」として生まれ変わりました。(安洞院ホームページより)
 【長谷院】 福島県伊達市
 新義真言宗豊山派に属し中本寺常法談林所として周辺87郷の惣本寺として寺運が隆盛しました。山門は旧保原陣屋の正門を移築したものを昭和61年(1986)に改築したもの。→説明板、画像にマウスポインタを乗せると境内側の画像に替ります。
 
 境内に芭蕉句碑がある。句碑04、「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」、元禄7年(1694108日、大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で詠んだ「生前最後の句」。この句碑を撮りたく以前にも参詣している。
 境内には「熊坂適山・蘭斎」合作の画碑がある。
 
 山門脇にある高台は観音塚古墳、別名前山古墳で、頂上には信達三十三観音霊場第二十四番札所、「卯花広智寺観音」がある。御詠歌(巡礼歌)は「広智寺の鐘のひびきをしるべにてまことの道にいるぞうれしき」。
 【長泉寺】 宮城県丸森町
 梁川町から丸森町へ、阿武隈川沿いの国道349号でなくナビは道幅の狭い県道101号を案内したようだ。「長泉寺」にある芭蕉句碑は、句碑05「田一枚植て立去類柳可那」、元禄2420日、「芦野遊行柳」で詠んだ句。小画像の彼方に見える「鹿狼山」は数多く登ったお気に入りの「宮城の里山」の一つである。
 【大日堂】 宮城県丸森町
 
 「金山城跡の裏手」を頼りに探し回る。ここの句碑は併刻、句碑06「語ら連ぬ湯殿にぬらす袂かな」、句碑07「雲の峯幾崩て月山」、いずれも元禄263-10日、「湯殿山・月山」を詠んだ句。→拡大句碑(もう一枚
 【丸森の武家屋敷】 宮城県丸森町
 【旗巻古戦場跡/旗巻峠】 宮城県丸森町
 「旗巻峠・旗巻古戦場跡」は、「我が心の故郷」(第二の故郷)の証の地である。宮城を去るにあたり、宮城に住んだ証をと、丸森町役場様にご相談したところ「旗巻古戦場保勝会」様をご紹介頂き、会長様からのご提案もあり「記念植樹」(結婚記念樹のミモザ・アカシア)を行った。食樹木は根付かず会長様が「再移植」をして下さった。
 
 「記念植樹」より満14年が経た。記念樹は大きくなり、記念標柱は根本が朽ち倒れていた。それでも「誰か」が立て掛けてくださったようだ。私たちに愛をくれた犬のミミちゃん、猫のシロちゃんクロちゃんの姉妹、パンダちゃんの兄であるトラちゃん、転居直前に交通事故死したトラ男くん達の「思出墓」(非埋葬地)である・・・・合掌
 
 「旗巻峠」、小画像は旧道の峠道(右側に記念樹)、大画像は現在の車道である。引換し角田経由で亘理に行く予定だったが、峠を下り国道6号で新地・山元経由で亘理に行くことにした。
 【常磐線】 宮城県山元町
 国道6号を北上中に、常磐線「山下駅」の案内表示があり行って見た。以前より陸側に寄り高架橋になっていた。ちょうど「山下駅」より上り列車の来るのが見えた。「浜吉田⇔相馬」間は平成281210日に開通している。
 【亘理神社(臥牛城跡)】 宮城県亘理町
 
 「亘理神社」に芭蕉句碑がある。句碑08「梅か香にのっと日の出る山路かな」、元禄7年(1694)の芭蕉最後の春、51歳、野坡との両吟歌仙の句。
 【岩沼駅の芭蕉像】 宮城県岩沼市
 「岩沼駅」に「芭蕉像」がある(建立;2013.1.25)。句碑09、「桜より松は二木を三月越シ」、元禄254日、「武隈の松」を見ての作。        - 合 掌 -