-“史跡”放っつ記歩き-
日光東照宮 百物揃千人行列
2018.05.18(金) 曇
 前夜に急遽変更した「湯殿山信仰の極み“即身仏を祀る寺巡り”」の代案は「日光の社寺;世界文化遺産」である。「日光東照宮」に着いたのは9時を回った頃、突然の予定変更・勝手知った場所ゆえ「春季例大祭」が今日であるとは知る由もなし。
 【春季例大祭】栃木県日光市
●例大祭
 09:40 宮司以下神職、徳川御宗家、参列者客殿前より参進
 10:00 御本社にて例大祭斎行
 11:00 徳川御宗家、奥社参拝
●発輿祭
 15:30 御本社にて宮司以下神職により祭典奉仕
●宵成渡御
 15:45 神輿舎前にて遷霊祭執行(御本社より神輿に遷霊)
 16:00 神輿3基、供奉員250名、行列を整え神輿舎進発(陽明門→表門→上新道→二荒山神社拝殿)
    着御後 神輿より二荒山神社御本殿に遷霊
●宵成祭
 16:30 東照宮宮司、二荒山神社宮司以下神職により祭典執行。神輿は翌日まで二荒山神社拝殿に奉安
517日(木)流鏑馬神事
 13:00 弓矢渡し式、みそぎ行事(五重塔前)
 13:15 馬場入り(表参道)
 13:30 やぶさめ神事開始
 14:30 やぶさめ神事終了
518日(金)神輿渡御祭(百物揃千人武者行列)
○朝御饌祭

 07:00 東照宮、二荒山神社神職により斎行(二荒山神社御本社)
○御迎榊
 10:30 御旅所進発(中山通→表参道→上新道→二荒山神社)50
○渡御
 10:35 東照宮神職二荒山神社到着後、二荒山神社御本殿より
○遷霊(神輿3基、馬18頭、1,200名の武者行列)
 10:30 二荒山神社社務所前供奉立て
 11:00 
二荒山神社前進発(上新道→五重塔前→表参道→中山通)
 11:40 御旅所到着
○御旅所祭
 12:00 御旅所祭 宮司以下神職斎行(八乙女舞・東遊)
○還御
 13:00 御旅所にて再び行列を整え進発
○還御祭
 13:30 神輿より御本社に遷霊(神輿舎前)
 13:50 御本社にて宮司以下神職により還御祭斎行
 【百物揃千人行列 】御迎榊
 
 「御迎榊」とは、渡御する参道(中山通り→表参道/大手通り)を「榊」で清める儀式(10:37)。参道両側の観客に小枝に折り分け渡して下さっていた。いよいよ行列が始まる。
 【百物揃千人行列 】渡御
 徳川家康公の神霊を久能山から日光に遷した際の行列を再現する祭典。毎年、518日、1017日に行われる。二荒山神社から御旅所までの約1kmの参道を渡御します。祭典前日には、神輿が二荒山神社に移り一夜を明かします。これは家康公が西方浄土に移ったことを表し、渡御は御旅所を久能山に見立てて行列が進みます。お神輿の後ろには子供が扮した小猿がいて、お神輿に投げられたお賽銭を拾う姿には微笑ましさを感じます。また、鎧武者など53種類1,200余名の方が装束姿で延々と続く行列立てには、当時の様子や迫力が感じられます。
 観客席最上部は「石鳥居」、そこに陣取り撮影、目の前に「百物揃千人行列」の先頭が差し掛かったのは11:12。思わぬ「百物揃千人行列」(渡御)に、今回の「旅の未知草」の全行程を費やそうと決心し漏らさず撮影した。
 
 「兵士鉾持」を先頭に「職士鉾持」「獅子」と続きます。
 
 馬が驚くのでフラッシュを焚かないでくださいと喧しいほどのアナウンス、スマホの使い方が解らない年配者があちこちで光らす。スマホはスタンバイから再起動するとフラッシュ停止が解除される。そこまでアナウンスされても無頓着に撮影する御仁が大勢いる。中には、馬に向けなきゃいいのさとフラッシュを焚いて撮影する。中国人はマナーが悪いと言うが・・・・悲しいことに、日本人観光客に多い。
 
 私が陣取った場所は行列が始まる前に横切る観光客の抜け地のようで「ロープ張り」、それが効して「突起部」になり観客を気にすることなく撮ることが可能でした。
 
 「笛」「田楽法師」「大拍士」「八乙女」「祢宜」「権宮司」「御神馬」「御鉄砲持」「御弓持」と続きます。ある程度グループに分かれ先導者が居て「石鳥居」を通過した所で一時停止するので、そこが切れ目かと思い撮影していました。ところが、その「先導者」も独立しているようです。
 
 隣りには、中国人のご婦人がスマホで静止画・動画と撮りまくっていた。「日光の社寺」が世界遺産に登録されたのは・・・・何番目ですかと尋ねてきた。勿論・・・・答えられるはずがない。折角なので調べてみると・・・・1999年に10番目で登録されていました。では、登録 No.1 は・・・・姫路城です。これも知りませんでした。ところで「順番」は、そんなに重要かつ意味があるものだろうか?
 
 「御槍持」「鎧武者」「稚児」と続きます。地元のTVカメラマンかな・・・・仕切内に入っての撮影、どうかと思うが、工夫すれば済むんじゃない!
 
 ところで「二荒山」(ふたらさん)と読めていたが、かつては「二荒山」(にっこうさん)と読み「日光山」となったとは知りませんでした。それは奈良時代まで遡り、「男体山」を「二荒山」と呼び、「音読」で「にっこうさん」→「日光山」と代わってきたようだ。曾良が詠んだ「衣替」も・・・・。
 「赤色」が目立つ、そして「白色」も・・・・何か意味があるのかな。沖縄では、神様の色を「赤」で示すことが多いようです。そして「白色」は、神様を守る司だけが着れる。また「紅白」の意味との関係もあるのだろうか・・・・ふと脳裏を横切ったので。
 
 「東照宮神輿・百物揃千人武者行列」は、東照宮神職を筆頭に、市内各自治会に割り当てられた日光市民のご奉仕で構成されている。ご奉仕は江戸時代より引き継がれているもので、もちろん装束も当時からのものを修繕しつつ使われている年代物である。「掛面」「御翳」「御太刀禰宜」「御旗禰宜」「斎鉾」「祭旗」と次から次へと切れ目なく続きます。
 
 「千人武者行列」は、元和3年(1617417日、徳川家康の没後1年目の命日に、その霊を駿河の国(静岡県)の久能山から日光東照宮に移した時、2代将軍徳川秀忠も参列して行われた最大の行列がこの祭りの起源です。
 
 「掛面」「御翳」「御太刀禰宜」「御旗禰宜」「斎鉾」「祭旗」と次から次へと続きます。鼓」「鉦鼓」「猿牽」「宮仕」「神人」「伶人」「荷太鼓・荷鉦鼓」「鷹匠」「御枕木・御枕木」「御幣」「禰宜/騎馬」「素袍着」と切れ目なく続きます。
 「神輿」が三基ある理由はは、「家康公」(虎)、「秀吉公」(猿)。そして「頼朝卿」(鳥居)と続く・・・・日光山は鎌倉幕府の全面庇護を受け安土桃山時代まで繁栄を極めることになった。
 最初の「神輿」は、正面の胴部に「虎」らしいものが・・・・「家康公」
 
 「御本社神輿」を頭に、「巴太鼓」「鉦鼓」「御枕木・御枕木」「御幣」「素袍着」「御左神輿」「茗荷太鼓」「鉦鼓」「御枕木・御枕木」「御幣」「御右神輿」「子供猿」・・・・。
 2番目の「神輿」は、立っている「猿」と、腰を下ろしている「猿」が向かい合っているように・・・・
 お神輿(御右神輿)の後ろには子供が扮した小猿(子供猿)がいて、お神輿に投げられたお賽銭(御捻り)を拾う姿(右画像)に微笑ましさを感じた。「子供猿」(猿の面を背負っている)の目に止まらなかったのか拾い残しが・・・・どうしたものかと見ていると、頭の禿げた「爺猿」がちゃんと拾っていった。
 3番目の「神楽」は、・・・・なるほど「鳥居」があります。3基の「神楽」が目の前を通過すれば「百物揃千人行列」も終りになる。
 
 「宮司」「禰宜」「里山伏」・・・・。いよいよ「百物揃千人行列」も最後尾。
 「騎馬」に乗った副会長・産子総代・後衛副会長さんをお見送り・・・・11:40。最後尾に付くように表参道を下る。参道の大半が行列の通り道、両側の通路は狭く大混雑、多くの観光客は行列に付いて下る。
 多少の画像と行列名の違いはご容赦を願います。
 伊達の大木戸を越える頃に雨雲が山肌を下り里に近づきつつある。そして、福島・宮城の県境を越える頃には霧雨、岩沼・名取で本降りになった。山形紀行から変更して良かったのかどうか・・・・後のTVニュースで山形・秋田の大雨を知る。天気的にも正解、日光で予定外の「百物揃千人行列」、判断にミスはなく「旅の未知草」を終えた。来週の火曜日は白内障の手術だ・・・・心配はないが。