即身仏 湯殿山信仰の極み
2018.06.15(金) 晴
 4月から計画していた「旅の未知草」(即身仏;湯殿山信仰の極み)、雨天順延で梅雨入りしてしまった。関東の天気は雨、鶴岡の午前中は晴、寒河江は午後が晴、移動に合せ何とか行けそう。今回は、今迄と異なり、当日の変更がありそうな気がする。TVドラマを見終えてから仮眠、日付が変わる 6.15 0:00 発、目の術後まもない旅(澄んだ右目と濁った左眼)とのことで「ほどほど」にしておきましょう。
現存する17体の即身仏 即身仏名・(入定年/享年)・寺院名・所在地  既参詣;青 今回参詣;赤
弘智上人(1363/66)西生寺;新潟県寺泊町
②弾誓上人(1613/63)阿弥陀寺;京都府京都市
本明海上人(1683/61)本明寺;山形県鶴岡市・朝日村
④宥貞上人(1683/92)貫秀寺;福島県浅川町
⑤舜義上人(1686/78)妙法寺;茨城県岩瀬町
⑥全海上人(1687/85)観音寺;新潟県阿賀町
⑦心宗行順上人
(1687/50)瑞光院;長野県阿南町
忠海上人(1755/58)海向寺;山形県酒田市
⑨秀快上人(1780/62)真珠院;新潟県柏崎市
真如海上人(1783/96)大日坊;山形県鶴岡市・朝日村
⑪妙心上人(1817/36)横蔵寺;岐阜県谷汲村
円明海上人(1822/55)海向寺;山形県酒田市
鉄門海上人(1829/62)注連寺;山形県鶴岡市・朝日村
光明海上人(1854/-)蔵高院;山形県白鷹町
⑮明海上人(1863/44)個人蔵;山形県米沢市
鉄竜海上人(1881/62)南岳寺;山形県鶴岡市
仏海上人(1903/76)観音寺;新潟県村上市
 弘法大師空海の「即身成仏」、湯殿山系の即身仏は「空海」の「海」が付いている。
 【厳かな夜明け】
 家を0:00R18を北上、直江津でR8、柏崎でR116、そして「新潟西IC」付近で「新潟バイパス」に乗り、夜明けの幕が切って落とされる。今日の日出時刻は4:20、「即身仏」を巡る旅に相応しい厳かな夜明け・・・・合掌。
 
R116 路肩に止めて撮影(3:53   R8 運転しながら適当にシャッターを切る(4:05
 【観音寺】 新潟県村上市 最後の即身仏「佛海上人」が安置
 出発の2日前に、「観音寺」(村上市)に即身仏があることを出発前の確認ネット検索で知る。6時少し前に通過する。撮影には“No problem”、早朝ゆえ失礼のないよう(失礼です!)住職様にお電話で事前了解を頂いた。
 いつものことだが、事前調査をし見逃さぬようポイントになる画像を指し込んだ「旅の未知草」パンフレットを作っている。そのため、「観音寺」の素朴な「仁王門」を目にすると、初めてなのにほっとする。説明板
 
 「仁王門」を入ると左手に「佛海上人記念碑」があり、正面のお堂が「本堂」である。
 「観音寺」には、我が国最後の即身仏「佛海上人」が安置されている。佛海上人は、湯殿山注連寺などの住職を務められた後、明治7年に郷里村上に戻られ、当山住職に着かれた。
 「観音寺」は檀家を持たない「祈祷寺」であり、「昔栄え今衰退」という「名家」の風情を感じた。ところで「寺院」には、檀家を持つ「回向寺」と「祈祷寺」とがある。一言でその違いを述べると、死者を供養する「回向寺」、現世利益を願う「祈祷寺」(国家平安を祈る現世に目を向けている故、檀家も墓地も持たない)
 
 「本堂」右奥に、「佛海上人墓所」と「入定跡」がある。「入定」「掘出」は、法律の定めにより、お亡くなりになられてからの「入定」、1961年に発掘調査ということでの「掘出」であったことで、殆どが崩れ落ち修復された後で安置された。早朝ゆえ、即身仏も復元されたものにて拝観せずに失礼させて頂いた。

 境内にあるお地蔵様は「振袖地蔵」と呼ばれ、地域から親しまれています。その由来は・・・・
 その昔、一人の僧侶が青森の恐山を訪れ、夢うつつの中で、年若い娘が地獄の火車に乗せられている姿を見ました。僧侶が「その姿はどうしたのか?」と尋ねると、娘は「私は病死し冥土に参りました。私に非はありませんが、両親の非道な振る舞いが原因で地獄の苦しみを受けているのです」と答え、両親の改心と自分の供養を懇願します。
 
 【笹川流れ】 新潟県村上市 全画像クリックで拡大
 国道7号でなく国道345号(坂町鼠ヶ関道)を選び、「笹川流れ」(日本海海岸景勝)を再訪した。最初の画像から最後の画像まで約11km13分)の路程を1時間強かけ通過した。スタートから予定外(遅延)の行動である。
 【湯野浜海岸景観】 山形県鶴岡市 海に浮く鳥海山
 「旅の未知草」が「笹川流れ」で「行程表」より流れ出してしまった。「流失のプラン」・・・・「なるようになれ」とばかりにR7を左に外れ日本海の海岸線で酒田まで行こうと決めた。横浜から宮城に転居したばかりの頃、妻のプランで湯の浜近くに一泊二日のドライブに行ったことを思い出す。ちょうど今頃の時期だと記憶している。
35mm 64mm 42mm 
海に浮く鳥海山や夏の波
 前方に「鳥海山」が浜の上に浮いて見える。途中、何度も路肩に止め撮影、折角なので画像をクリックし拡大してご覧いただきたい。
 【海向寺】 山形県酒田市 二体の即身仏「忠海上人」「円明海上人」が安置
 「日和山」山頂の森にある「下日枝神社」の参道と肩を並べ「海向寺」参道(左上画像)がある。道路に面した駐車場に車を止め、参道とは異なる車道で境内に向かう。
 
 石段最上部の「山門」を入る「本堂」(右画像左側)と「粟嶋水月観音堂」(右画像右側・小画像)がある。「山門」右手に「鐘撞堂」があり、その並びに「入定跡」がある。即身仏が安置されている「即身佛堂」は「本堂」の先にある。「粟嶋水月観音堂」は、女性一代の守り観音様、この観音堂が建てられた頃の住職「鉄門上人」は「注連寺」に即身仏として安置されている。
 二体の即身仏「忠海上人」「円明海上人」が祀られている当寺のみ、しかし拝観時刻(9:00~)には少し早く、かつ予定時刻(7:30)より大幅に遅れて8:38)いるので境内撮影のみで失礼させて頂いた。説明板
 【下日枝神社】 山形県酒田市
 「海向寺」を後に駐車中の車に戻る。道路を横切れば「日和山公園」、芭蕉3句碑・曾良1句がある。既に撮影済みではあるが・・・・どうしようと迷う。「えぇーい、パスじゃ」と背を向け「随身門」へと足を向ける。
 
 お隣り「日枝神社」の「随身門」は何度でも見る価値あり、それに「日枝神社」の駐車場に車を止めてもいるし寄らずに立去ることは・・・・と小走りで向う。説明板
 境内「随身門」の奥、小高い場所にある「浅間神社」に立ち寄り駐車場へと先を急ぐ。
 【相馬楼】 山形県酒田市
 
 多くの文芸人に愛された舞妓茶屋・雛蔵畫楼「相馬楼」(江戸時代より料亭“相馬屋”として賑わっていた)、1階の一角が「竹久夢二美術館」になっている。興味はあるが、酒田滞在予定(7:30-7:40)、30分は「日和山公園」(文学の散歩道;芭蕉句碑)延長可としていた。しかし現時刻は9:50・・・・1時間半以上の遅れ、こりゃ急がなきゃ。
 【南岳寺】 山形県鶴岡市 即身仏「鉄竜海上人」が安置
 「南岳寺」には、出羽三山の厳しい修行で精進潔斎し五穀十穀を断ち最後に断食して即身仏となった「鉄竜海上人」が安置されている。また、最高裁判所で超能力を認められた「長南年恵」の霊堂(右上画像)もある。
 
 「鉄竜海上人」は、当寺の住職で山形にある六体の即身仏の中で一番時代が新しい。即身仏は未拝観で失礼させて頂いた。
 【羽黒町へ】 山形県鶴岡市
 出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山の総称で、明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。明治以降神山となり、羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山祇命、大国主命、少彦名命の三神を祀るが、開山以来、羽黒派古修験道は継承され、出羽三山に寄せる信仰は今も変わらない。(出羽三山神社Hpより)
 【図司呂丸屋敷跡】 山形県鶴岡市

 「図司呂丸」(近藤佐吉)は、芭蕉・曾良の出羽三山参詣の道案内をした「佐吉」で、芭蕉は彼を高く評価し江戸に誘っている。説明板

 羽黒町手向の島崎稲荷神社に、芭蕉・呂丸の親交の深さを感じさせる句碑がある。(既訪、今回はパス)
 呂丸辞世の句
 「消安し都の土に春の雪」
 芭蕉の追悼句
 「当帰より哀は塚のすみれ草」
→第
33回(平成28617日)
 
 【羽黒山荒澤寺】 羽黒山修験根本道場
 車道から眺める「羽黒山荒澤寺は、振向けば「羽黒山神社」から下ってくる「旧参道」(小画像)が見える。
 
 今回の「旅の未知草」は、「羽黒山と湯殿山信仰の極み“即身仏”」である。「羽黒山」で見てないものが三つある。「荒澤寺」「吹越神社」と「旧参道」であり、今回は「旧参道」を撮りたかった。説明板
 「羽黒山荒澤寺」(本坊は正善院で羽黒山修験本宗、本山)は、羽黒修験の「奥の院」、つまり最も重要な場所が「荒澤寺」である。明治初期の「神仏分離政策」および「修験道禁止令」によって、「羽黒山十大寺」は「荒澤寺」および本坊の「正善寺」、羽黒山修験本宗羽黒山八大伽藍の一つ来迎山千勝寺の首坊「金剛樹院」、神社に転身した「出羽三山」、中世以来の伝統は、ほとんどの地域で消滅してしまった。
 
 出羽三山の開祖・能除大師(蜂子天皇)は、月山・湯殿山へ赴く際に荒沢で別火修行し、湯殿山御宝前鎮火大権現と呼ばれた。荒沢は神仏分離以前、羽黒山の奥の院にあたり、女人禁制の聖域で羽黒山十大伽藍随一であった。「是より女人きんせい」の碑が建つ寺で、片付・掃除を行っている方は全員女性・・・・?
 「羽黒山奥之院」(羽黒山で重要な寺)と呼ばれ、山伏が修行する道場であり、唯一無二(首番=最上の番)といわれる札所(庄内三十三観音霊場を定めた大恵東水和尚が住した寺)。ここ「羽黒山荒澤寺」では「羽黒山秋峰」が行われている。説明板
 
 「羽黒山の終着寺」と「月山への出発寺」を兼ね備える信仰上重要な寺、旧参道もそれ故に見応えあり。
 【吹越神社吹越籠堂】 羽黒山旧参道
 「神仏分離」で、出羽三山は寺院から神社になった。ここ「吹越神社」は、それまでは「開山堂」(蜂子皇子)であった。「出羽三山」の歴史・・・・「神仏分離」は廃寺化を目的にするものではないというが、寺院から神社への転身・・・・時の政権の暴挙に空しさ・哀しさが残る。
 「峰中堂」(ぶちゅうこもりどう)とは、修験者たちが修行(禊/みそぎ・勤行/ごんぎょう/読経や回向・山駈けと)に励む際の宿泊所(秋峰の二の宿)。「山伏」とは、山に寝起きする。仮設風トイレが並ぶも、かなり朽ちて使いたくないほどだ。毎年行われるというが・・・・。
羽黒山方向への上り参道 境内(峰中堂横) 月山方向への下り参道
 山頂から荒沢までの旧参道を改修し「奥の細道歩道」と名付けられた。紅葉の時期に再訪したく・・・・是非、計画しよう!
 【出羽三山神社】 山形県鶴岡市
 
 羽黒山山頂の駐車場から杉に囲まれた参道を抜けると、最初に「天宥社」(羽黒山五十世執行別当天宥法印を祀る)がある。芭蕉は、天宥法印追悼句「其玉や羽黒にかへす法の月」(伊豆大島に流罪となり果てた羽黒山第50代別当「天宥法院」)を詠んだ。句碑は手向の宿坊「三山大愛教会」にある。
 「天宥社」隣りに、芭蕉の三山句碑(芭蕉野口句碑)がある。「凉しさやほの三日月の羽黒山」「加多羅禮努湯登廼仁奴良當毛東迦那」「雲の峯いくつくつれて月の山」。いずれも「奥の細道」旅中、出羽三山詣での作。月山旧登山道(参道)沿いの「野口」から移転した句碑というが、その「野口」が何処か調べるも不明。
 
 出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。左より大雷神社・健角身神社・稲荷神社・大山祗神社・白山神社・思兼神社・八坂神社が、一段高い場所に並んでいる。
 「羽黒山神社」の表参道は「随身門」から石段で上る。故にその石段を上り詰めたところにあるのが「山頂鳥居」。こちらの鳥居は有料道路での乗車参拝の「鳥居」、説明書きにはないが手前に「手水舎」があるので現在はこちらが一般参拝口かな・・・・。有料道路が無い頃は月山への参詣登山道、出口であり月山への入口、「手水舎」の位置に疑問が、また羽黒山神社の境内説明では最後になつている。
 
 左画像は、「鐘楼と建治の大鐘」で五重塔に次ぐ古い建物。右画像は「出羽三山神社参集殿」である。
 
 「出羽三山」とは「羽黒山」「月山」「湯殿山」の総称で、明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。明治以降神山となり、羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山祇命・大国主命・少彦名命の三神を祀るが、開山以来の羽黒派古修験道は継承され「出羽三山」に寄せる信仰は今も変わらない。(出羽三山Hpより転載)
出羽神社(≠羽黒山神社) 湯殿山神社 月山神社
 明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例又臨時の祭典は全て羽黒山頂の合祭殿(三神合祭殿)で行われる。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもあった。
蜂子神社(出羽三山神社御開祖・蜂子皇子)   羽黒山・出羽神社 表参道山頂鳥居
 【本明寺】 山形県鶴岡市 庄内最古の即身仏「本明海上人」が安置
 「本明寺」の即身仏(本明海上人)は、庄内地方の即身仏の中で最も古いうえ損傷が少ない(徹底した木食行による証)ことで知られている。ちなみに、「本明海上人」は海向寺(酒田市)の「忠海上人」の叔父にあたる。
 
 奥様がご案内して下さった。「どうぞ」と勧められたが「外からで」と丁重に辞退し失礼させて頂いた。
 日本国内には約十数体の即身仏が現存する。そのうち6体が庄内の5つの寺院に安置されている。江戸時代初期以降、出羽三山奥の院とされた湯殿山の修験者の中には、「即身仏」になる人々が多く現れました。修験者が即身仏になるためには、山に籠り、一千日から五千日に及んで五穀(米・麦・豆・ヒエ・粟)または十穀を断ち、山草や木の実だけの木食行を行い、肉体の脂肪分を落としていきます。死期に近づいたことを悟ると、生きたまま土中の石室または穴に入り、錫を鳴らし仏の名を称えながら息絶えました。そして死後三年三カ月を経て取り出して、若干の手当てを施し、乾燥させて、それを即身仏として崇めます。即身仏になることは、苦行を通して自らの罪や穢れを除くとともに、飢饉や悪病に苦しむ衆生の難儀を代行して救済するために一身を捧げることで、自身の意思によって選んだ道でした。この意味での即身仏が数多く出現した山は、全国でも湯殿山のほかにはないと言われている。
 「即身堂」前の細い道を左に行くと、即身仏になる上で必ず必要になる「入定塚」があり行ってみた。
 【注連寺】 山形県鶴岡市 即身仏「鉄門海上人」が安置
 
 山形県庄内地方を中心に全国には十六体の即身仏が現存しその多くの即身仏は注連寺に入門して湯殿行者になられた注連寺系即身仏です。湯殿信仰の布教と衆生救済の聖者として、篤い信仰を集めた鉄門海上人の即身仏が安置され、注連寺は即身仏の聖地とされている。注連寺系即身仏は六体(ページトップの一覧表③⑧⑫⑬⑯⑰)。
 即身仏「鉄門海上人」は、拝観料を納め、細かなご説明を受けました。勿論、遠目に拝観した「本明海上人」(本明寺)と異なり、ご前で心行くまで直視させて頂きました。「鉄門海上人」は、宝暦9年(1759)鶴岡市旧大宝寺村に生まれ、川人足となった。21歳で注連寺に入門し仙人沢での木食修行を二千日行い、木食行者として各地にて布教し衰退した湯殿山信仰の復興、拡大に生涯をささげ、文政12128日の暁、71歳にて入滅されました。
小説「月山」と森敦  
 
  森敦(1912-1989)小説家
 鶴岡の住職に紹介状を書いてもらった明は、月山に向かった。その寺は月山の山麓に抱かれた渓谷にあり、その周囲には合掌造りの家が点在し、他所者を寄せつけない寡黙な村人たちが住んでいる。その中で、独人住いの寺番太助は温く明を迎えてくれた。
 
 注連寺の天井絵は、時代物ではなく「現代アート」と珍しい。本堂の天井には、故村井石斎画伯による伝統絵画と、現代作家四人による絵画が展開されている。いずれも天界と俗界の接点を天井に見立てた秀作。木下晋作「天空の扉」、久保俊寛作「聖俗百華面相図」、十時孝好作「白馬交歓の図」、満窪篤敬作「水の精」等々。
 【大日坊】 山形県鶴岡市 湯殿山総本寺瀧水寺大日坊 即身仏「真如海上人」が安置
 かつて、湯殿山は女人禁制であり、それを哀れんだ大師は此の地に湯殿山本地仏大日如来(湯殿山大権現)を勧請し祀られ、 月山の麓の聖地に祀った(月山は阿弥陀如来)ので、大日如来の大と阿弥陀如来の阿弥で大阿弥とも付けられた。説明板
 
 「宝筐印塔」(左上画像)は、寛永年間、真言四ヶ寺((瀧水寺大日坊・注連寺・本道寺・大日寺) が力を合せて本山の大日坊境内地に建立したもの。
 当山には此の外二体の即身仏があったが、明治八年の大火災で本堂とともに焼失。 唯一残った真如海上人だけは遺言によって(別堂にて祀って欲しい)免れた。即身仏はもとより本堂内は撮影禁止、住職様が折角ですからと飛鳥時代の「金銅仏釈迦如来立像」(右上画像)の撮影を許可してくださった。即身仏の拝観を終え、本堂内側の回り廊下に所狭しと並べられている仏像を拝観し寺を後にした。(14:302 時間丁度の遅れ)
 【蔵高院】 山形県白鷹町 即身仏「光明海上人」が安置
 
 存在を含め不詳であった「即身仏」、地元における伝承「百年経ったら掘出してくれとの遺言」もあり「光明海墳墓発掘調査」で明らかになり、永久的に保存安置奉るため化学処理が施されガラスケースに納められているという。「大日坊」より2時間半をかけ訪れたものの留守、外観(遠景)を撮影し失礼させて頂いた。
 予定であった、寒河江市の「本山慈恩寺」「長念寺」、山形市の「八幡神社鳥居」は来月の「旅の未知草」へと楽しみを残し715kmの旅路を終え仙台泊。・・・・合掌
出羽三山の歴史(明治の「神仏分離」以前の姿)
【羽黒山】寂光寺
 「寂光寺」は廃寺、山内の18坊内15坊が廃棄・取り壊される。残った「正善院」「荒沢寺」「金剛樹院」が寺院として羽黒山から独立し現存する。「羽黒山寂光寺」は「羽黒山出羽神社」として「三神合祭殿」を有し現在に至る。「梵鐘」「五重塔」「手向宿坊街」が名残り。「寂光寺」は「日光輪王寺」(天台宗)の末寺であった。
【月山】日月寺
 「日月寺」は廃寺、現在の岩根沢三山神社 となった。岩根沢の出羽三山神社は比較的早く廃寺となったため、廃仏毀釈を免れ、神社ではあるが庫裏の構造がそのまま残されており、修験道を知る貴重な史跡になっている。神社前に宿坊が立ち並んでおり、境内や周辺部には、日月寺に安置していたという地蔵菩薩を祀る地蔵尊や、南無阿弥陀仏石碑等が残されている。また、行者の精進料理である「六浄豆腐」は、岩根沢にしかない秘伝の豆腐である。

【湯殿山】本道寺・大日坊・注連寺・大日寺
 「大日坊」「注連寺」は真言宗寺院として湯殿山から独立し現存する。残る
2寺は廃寺となり神社となった。「本道寺」は「口之宮湯殿山神社」、「大日寺」は「大日寺跡湯殿山神社」として現存する。「湯殿山神社」(大日如来)とし、別当寺として本道寺(口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され「本道寺」が正別当とされた。
   Midi 灰色の瞳