-“史跡”放っつ記歩き-
神仏習合 神仏分離前の出羽三山
2018.07.20(金) 晴
 羽黒山、月山、湯殿山の三山は真言宗の山、江戸の初期、羽黒中興の祖といわれる別当天宥が徳川将軍家の庇護をうけるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山、月山は天台宗に改宗。これに湯殿山は反発し改宗せず。羽黒山と湯殿山別当四ケ寺「注連寺・大日坊・本道寺・大日寺(大井沢)」との対立が深刻化、1665年、再度湯殿山を天台宗に改宗し統合すべく羽黒側の天宥が幕府に提訴。しかし、湯殿山を天台宗とすべき証拠の提出を幕府から求められた羽黒側の根拠は明瞭でなく、翌年の幕府の裁断によって湯殿山は真言宗であると言い渡され、羽黒山と湯殿山とは明確に分離された。従って、1869年の酒田民政局からの神仏分離の諭達の際も、真言四ケ寺では、「湯殿山の開基は弘法大師で、四ケ寺で別当を勤めてきたものであり、よって神仏を混淆していないので、御布令には抵触しない」と主張し、1870年には、注連寺、大日坊名代大泉寺から1869年に鶴岡藩を改名した大泉藩に願書を出して政府にその旨申達して欲しいと願い出たため、大泉藩は神祗官に願書を申達。一方、本道寺、大日寺も同様の主旨の書面をもって代表が神祗官に出向くも、神祗官は「湯殿山はもともと神の山である」との指令を発して伺いを却下。(神仏集合から神仏分離までの経緯)
 【厳かな夜明け】
 家を0:10R18を北上、直江津でR8、柏崎でR116、そして「新潟西IC」付近で「新潟バイパス」に乗り・・・・、先月と全く同じ時間帯に同じルートで山形へ。今日の日出時刻は、先月より20分遅い4:40、「湯殿山信仰の極み」完結編に相応しく「朝日連峰」からの厳かな夜明け・・・・合掌。
R7 新潟県村上市朝日村 朝日連峰北部山塊からの日出(6:59
 【鶴ヶ岡城址/大宝寺城又は大梵寺城跡】 山形県鶴岡市
 鶴岡市街地を抜け羽黒町に行く県道47号、この先からは何度も通っているが、酒田や象潟からの周回コースあるいは市内での撮影があったりで初めてのような気がする。折角なので路肩に車を止め撮影してみた。
鶴岡護国神社   大寶館
 庄内藩酒井家が居城とした「鶴ヶ岡城」、編集時点で“信濃国松代城より譜代大名の酒井忠勝(三代)が入った”と知る歴史音痴。「奥の細道」で、芭蕉・曾良は「羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行(酒井家代四代の家臣)と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。・・・・」とある。
 【手向の宿坊街】 歴史的風致維持向上計画充填区域
 手向地区(とうげちく)は羽黒山の門前町として宿坊が軒を連ねる宿坊街である。江戸時代には300を越す宿坊があったが、現在は30軒ほどになっている。宿坊には仏教系・神道系があり、当地は神道系(鳥居前町)である。
 
 28軒の内、宿妨街の通りに面した「大田坊・宮田坊・宮下坊・奥井坊・春照坊・檀所院大塚坊・田村坊・大聖坊・長円坊三山大愛教会・大進坊・延命院・生田坊・大江坊・神林坊・神林勝金」の15宿坊を撮影した。
 【芭蕉句碑がある宿坊】 「大進坊」と「三山大愛教会」
 
 宿坊「大進坊」にある句碑は、01「凉しさやほの三日月の羽黒山」(すずしさや ほのみかづきの はぐろやま)、句02「加多羅禮努湯登廼仁奴良當毛東迦那」(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)、句03「雲の峯いくつくつれて月の山」(くものみね いくつくずれて つきのやま)。「奥の細道」旅中、出羽三山詣での作。
 
 宿坊「三山大愛教会」にある句碑は、04「無玉や羽黒にかへす法の月」(そのたまや はぐろにかえす のりのつき)、句05「涼風やほのミか月の羽黒山」(すずしさや ほのみかづきの はぐろやま)、句06「雲の峯いくつ崩れて月の山」(くものみね いくつくずれて つきのやま)。曾良句07「かたられぬゆどのにぬらす袂かな」(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)。いずれも「奥の細道」旅中、出羽三山詣での作。
 【出羽三山】 「神仏分離」の経緯(研究資料)
 「神仏分離令」が発せられた山形県地域において最も注目すべきは出羽三山の場合といわれる。「神仏分離令」が発せられた当時の庄内は、まさに戊辰戦争に突入せんとしていた時期であり、このことは直ちに当地には布達されませんでしたが、1868923日、庄内藩と松山藩は政府軍に降伏、26日夜半、13代藩主・酒井忠篤が藩校致道館において、黒田清隆参謀の前に謝罪し、翌927日には鶴岡ケ城が明治新政府に明け渡され、庄内地方における戊辰戦争は終焉を告げた。酒田に民政局と軍政局が置かれて18691月、西岡周碩が民政局長官となり、220日、東京から着任してから追々明治維新政府の布告が諭達された。そして、初めて「神仏分離令」が当地に伝達されたのは、54日になってからのこと・・・・。
 「出羽三山の神仏分離」には、羽黒権現最後の別当官田が一山会議を開いた結果、山上の能林院、積善院、荒沢の荒沢寺、手向の金剛樹院の四坊を除き寺院は全て廃寺と決めたものの、①開山堂、鐘楼、五重塔は仏堂として残し、その境内は仏地として残すこと、②南谷、吹越も仏地とすること、③本社の本尊その他の仏像・仏具は前述の各院に移転すること、④復飾神勤する者の住坊等はその者の所有とすること、⑤檀那場等は従来通りの所有者のものとすること、⑥本坊(宝前院)を神務所(社務所)に改名し従来通り山務を取り扱うこと、⑦月山の御峰に小さい祠を設け本尊を安置し、仏地とすること等を議決した。さらに、初代の西川須賀雄宮司の時代の1874年に、西川宮司着任以前に天台宗に帰入していた手向修験の代表から①手向の「正善院黄金堂」、②祓川の「五重塔」、③南谷の「玄陽院」(本坊の別院)④吹越の「開山堂」をそれぞれ仏地として残してほしい等の嘆願書が酒田県に出されており、これを受けた県からこれに対する回答を出頭のうえ求められた西川宮司は、1874812日付で代理を使わし黄金堂と荒沢は仏地としても異存ない。吹越は元照見大菩薩を神号に改正しているので当然神地である。五重塔は参道の傍にある建物であり、南谷は社務所と本社の中間にあるので、神仏分離の趣旨に反するから、羽黒山山内は全て神地でなければならないと回答した。なお、「神仏分離と三山神社」は、五重塔は寺院として他に移転することになっていたものの経費、移転場所のことなどで逡巡しているうちに神地となったと述べている。
 出羽三山登山口「八方七口」に発達した修験者を中心とする集落は各々別当寺の管理下にあり、神仏分離令に対する反応は、各口各様であった。手向の修験300坊は未だ真に複飾せず、名より実をとり、複飾、改名したものも手向修験者達は神社勤務から自宅に戻れば僧形に戻り読経をしていたといわれる。湯殿山に関わる本道寺、大日寺、注連寺、大日坊の真言四ケ寺(総本山は高野山金剛峯寺、開祖は空海)ではあくまでも復飾することを拒み、大泉藩を経て湯殿山仏道奉仕を願い出ましたが、18716月、神祇官より湯殿山は神山であるからと仏道奉仕を禁止され、教部省から石丸八郎が出張し、七口の先達等を集めて神職になるよう説諭したところ、本道寺、大井沢、岩根沢、肘折は復飾しましたが、注連寺、大日坊はそれでも復飾しなかった。
◎羽黒山;「寂光寺」は廃寺となり、山内の18坊中15坊が廃棄・取り壊し、残った「正善院」・「荒沢寺」・「金剛樹院」が寺院として羽黒山から独立し現存、「出羽神社」へと神道化。また、「斎館」(旧花蔵院)・「開山堂」(吹越神社)・「鐘楼」・「五重塔」は神地として現存。
◎月山;「日月寺」は廃寺となり、現在の「岩根沢三山神社」へと神道化。比較的早く廃寺となったことで、「廃仏毀釈」(仏教を排斥し寺などを壊す;仏教破壊運動)を免れ、神社であるが庫裏の構造がそのまま残され貴重な史跡になっている。神社前には宿坊もある。
◎湯殿山;「本道寺」「大日坊」「注連寺」「大日寺」のうち、「大日坊」「注連寺」は真言宗寺院として湯殿山から独立し現存する。残る
2寺は廃寺となり、「本道寺」は「口之宮湯殿山神社」・「大日寺」は「大日寺跡湯殿山神社」として神道化。「大日寺」は明治期に火災で伽蘭は焼失し「山門」のみが現存。
 【金剛樹院】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 「出羽三山の神仏分離」、「羽黒山」で神道化しなかった「金剛樹院」、今回の旅の目的地の一つである。その「金剛樹院」は、「庄内唯一の天台宗寺院で、羽黒山内八大寺院の一つとして、能除太子が開祖したといわれる。
 
 到着が 6:30 と早く、境内におられた住職様にご挨拶し拝観、裏山(局山)の「観音堂」を観て行くよう勧められた。「観音堂」に続く境内参道を若い方が朝の掃き掃除をしておられた。
 「最上義光」(出羽山形藩初代藩主;1546-1614、伊達正宗の叔父)のお局であった「妙円禅尼」が住んでいたという局山には、妙円禅尼の御神仏「聖観世音菩薩」を安置した観音堂がある。なお、大昔の居住跡と思われる「羽黒山百穴」があるようだ。
 
 「庄内礼所三十三観音霊場」、首番は「羽黒山広澤寺」、二番「羽黒山正善院」、三番「羽黒山金剛樹院」・・・・山岳信仰の聖地。掃き掃除をしていた若い方が「御朱印がご希望なら・・・・」とおっしゃって下さったが、今迄に一ヶ所も戴いていなかったので丁重に辞退した。
 【正善院】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 今から1400年前、出羽三山の開祖・能除大師(蜂子天皇)は月山、湯殿山へ赴く際に荒沢で別火修行し、湯殿山御宝前鎮火大権現と呼ばれた。荒沢は、神仏分離以前、羽黒山の奥の院にあたり、女人禁制の聖域で羽黒山十大伽藍随一であった。その「荒沢寺」は「羽黒山修験本宗の本山」として独立、今は「正善院」が本坊になっている。
 
 拝観は9時から、住職様にご挨拶し拝観の了解を得て向かいの「黄金堂」へ、拝観料は「お賽銭」として納めさせて頂いた。
 「出羽三山神社」は、神仏分離までは「羽黒山寂光寺」といわれ、現在の山頂「三神合祭殿」が大金堂、「正善院・黄金堂」が小金堂。三十三体の聖観世音菩薩像が黄金色に輝くことから「黄金堂」と呼ばれるようになった。正式には長寿寺の本堂。長寿寺は羽黒山を形成していた十大寺の一つで、その塔頭首院が正善院であった。
 
 「黄金堂」は、源頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり勝利祈願のため寄進したとある。庄内三十三観音霊場第一番札所で旧国宝。ご本尊である三十三体の聖観世音菩薩をはじめ、かつて羽黒山五重塔に安置されていた御本尊前仏の他、平安時代から江戸時代までの貴重な仏像が約70体安置されてい.るという。遥か遠くに霊峰「月山」を眺めることが出来る。その昔、女人禁制だった月山、女性や老人たちは「黄金堂」から月山を眺め祈りを捧げていた。
 「黄金堂」の右前に「於竹大日堂」(説明板)がある。庶民の中から生まれた「ほとけ」(お竹大日如来)とのこと、「お竹」は実在した人物で羽黒町出身者。
 
 【いでは文化記念館】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 順不同で編集してきたが、ここまでの最終は随身門隣りの「宿坊神林勝金」、何度も撮影しているが向かい側の「いでは文化記念館」(7:57)の駐車場に車を乗り入れ朝食を摂り「思案」(予定より1:30早い)。
 羽黒山碑の杜、芭蕉三山句碑がある。08「凉風やほの三か月の羽黒山」(すずかぜや ほのみかづきの はぐろやま)、句09「雲の峯いくつくつれて月の山」(くものみね いくつくずれて つきのやま)、句10「かたられぬゆどのにぬらす袂かな」(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)、元禄263-10日、「奥の細道」旅中「出羽三山順礼」で詠まれた句。ここで羽黒町を後にする予定であったが、羽黒山頂の「出羽三山神社」に名残りの「斎館」(旧花蔵院)があり未だ拝観していなかった。ならば、この機会に・・・・ということで思案の決断!
 【出羽神社・三神合祭殿】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 「天宥社」横に芭蕉像と三山句碑がある。句11「凉しさやほの三日月の羽黒山」(すずしさや ほのみかづきの はぐろやま)、句12「加多羅禮努湯登廼仁奴良當毛東迦那」(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)、句13「雲の峯いくつくつれて月の山」(くものみね いくつくずれて つきのやま)。「奥の細道」旅中での、三山句碑。
 
 「天宥社」は、羽黒山五十世執行別当天宥法印を祀る。「天宥」は、戦国時代の動乱の影響で哀微していた羽黒山の立て直しに尽力、修験の山・羽黒山として熊野・大峰と並ぶ修験本山としての地位を確立させた“羽黒山中興の祖”。しかし、お山のしきたりを破っての「改革」断行に不満を持つ地元山伏に訴えられ伊豆の新島に流罪となり晩年を同島で過ごした。天海僧正に弟子入りし、天海の「天」の字を賜り宥誉から「天宥」(てんゆう)に改称。
 羽黒山に残る「五重塔」や「鐘楼」は、文化財保存の意味合いから破壊を免れた神仏混淆期の遺構である。
 「出羽神社・三神合祭殿」は「寂光寺」の名残り、「表参道石段」の終点鳥居と本殿の間に「厳島神社」と「蜂子神社」(出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀る)がある。父「崇峻天皇」が蘇我馬子に暗殺、蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて近くの海岸に上陸。この後、海岸から三本足の烏に導かれて羽黒山に登り、羽黒権現を感得し出羽三山を開いたと言われている。羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙や能除大師、能除太子などと呼ばれる。
表参道三の坂 「羽黒山参籠所・斎館」(旧華蔵院) 表参道終点鳥居方向
 「斎館」は、「旧華蔵院」といい「正穏院」「智憲院」と共に「三先達寺院」のひとつ、羽黒山執行別当に次ぐ宿老の住した寺であった。神仏分離の際に、神社の「斎館」として残った。当時の山内30余坊が全て取り壊されるなか、往時の山伏達の住した遺構として残る唯一の建物である。芭蕉・曾良も、ここで持て成しを受けたようだ。
 
 「先達」(せんだつ)とは、修験道で登山する際に行者の先頭に立って道案内をしたり、修行作法を指導したりする長老格の山伏をいう。
 神仏分離前の「羽黒山・十大伽蘭」とは、「羽黒山寂光寺」(出羽神社)・「広沢山荒澤寺」(荒沢寺)・「堂塔山滝水寺」(五重塔周辺;廃寺)・「南流山禅定寺」・「金色山福王寺」(福王寺稲荷神社)・「手向山中禅寺」(正善院が本坊)・「来迎山千勝寺」(首坊が金剛樹院)・「医王山機乗寺」・「不動山嘉祥寺」・「添川山賀我寺」。
 
 「本堂」から続く長い廊下・・・・使われているのかいないのか?。「正穏院」「智憲院」は三兆駐車場付近のようだ。「随身門」はかつての「仁王門」、その隣にある「末社羽黒山天地金神社」等々、かつて見てはいるものの「神仏分離」という遺構の視点から再度見てみたい。紅葉の季節に湯殿山神社等を含め再訪してみましょう。
 【大井沢湯殿山神社(大日寺跡)】 山形県西川町(大井沢)
 大井沢中村地区にある「大日寺」は、「大祖弘法大師天長年中(824-833)湯殿山を開かれ、また、大日寺も創建したまう」とあり、本道寺、大日坊、注連寺と同じ時期の開基と考えられる。
 
 大日寺は湯殿山別当四ヶ寺の一つとして江戸時代中期以降に最も繁栄し、貞享年中(1684)勅命により国家鎮護玉体安穏の祈願寺として免許される。日本七大霊場の一つに数えられるまでに至り、大井沢の里は、白衣の行者によって埋め尽くされ「湯殿まで笠の波打つ大井沢」と歌にまで詠まれた。
 
 境内三丁四方(327m四方)に、本堂・山門・惣天門・金蔵院・妙智院・蓮華院・福蔵・地蔵堂・山王堂・五智堂・大師堂・鐘楼・庫裏・台所・門前家来六軒七坊があり、外に宿坊は二十六坊、明治初期までの繁栄が推察される。
 神仏分離令の公布に伴い明治7年(1875)に寺号を返上、翌年「摂社湯殿山神社」に改称、仏式が一掃された際、甲子大黒天など仏教色が強いものは宝珠寺(米沢市)に(住職が大日寺で修行を行った縁)移された。 また、道智道(白鷹町黒鴨 - 茎の峯峠 - 朝日町ぶな峠 - 大江町古寺・千眼寺南光院 - 地蔵峠 - 西川町大井沢・大日寺 )の起点に当たる黒鴨の曹洞宗巌龍山蔵髙院には、湯殿山派の僧であった光明海上人の即身仏が安置されているのも何かの縁であろう。
 明治36年(190412月、火災により山門(仁王門)・湯殿山神社(山王堂)・鐘楼(稲荷神社)を残し一切を焼失し現在に至る。説明板 (大日寺のあらまし)。左画像は「社殿」、右画像は「山門」。
 
 「道智上人之塚」、ネットで調べたら「道智上人屋敷跡」は大江町役場の西南西、堂屋敷の南方の寺山にあるとのこと。そして、道智上人は大井沢大日寺の中興の祖とされ、応永年間(1394-1428)に白鷹の黒鴨から大井沢の大日寺までの参詣道と大日寺から大網の大日坊までの参詣道を自力で改修したという。現在は果樹畑となっているが、ここにかつては道智上人の屋敷があり、ここの地名はそれに由来するものといわれている。
 右画像が「稲荷神社」(旧鐘楼)、左画像は「歴代方丈墓」。そして次の画像は「清浄池跡」。
 
 明治元年「神仏分離令」により解体。かつては出羽三山湯殿山派別当4ヶ寺の一つで「金色山大日堂」として羽黒修験道の拠点として江戸時代に栄えた。今は下草が生い茂るも発掘記録なのか随所に立板表示が残るのみ・・・・芭蕉が平泉で「杜甫の春望の詩」を引用しての「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」との文言が脳裏をよぎり、哀しさ(寺破れて山河あり、社夏にして草青みたり)が込み上げてきた。
 芭蕉句碑がある。句14「語られぬ湯殿にぬらす袂哉」(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)、元禄263-10日、「奥の細道」旅中「出羽三山」にて詠まれた句。(句面拡大
 
 神仏分離令で廃仏毀釈が行われ、出羽三山は神道化された。今、神道化されるも朽ち果てた大井沢湯殿山神社(大日寺跡)に立ち、夏は終えても修験道は終わらぬと・・・・芭蕉句碑を前に詠む。
出羽の山修験や毀釈夏逝きぬ 2018.720 夏逝きぬ(夏の果て);晩夏
 【口之宮湯殿山神社(旧本道寺)】 山形県西川町(本道寺)
 「本道寺」は、湯殿山別当四ヶ寺の正別当として湯殿山の中心的な別当寺となり、歴代の領主にも崇敬された。古くは大江氏の流れを汲む寒河江氏、ついで最上氏の崇敬を受けた。江戸時代には、梁間18間、桁68間という東北一の大伽藍を誇り、湯殿山として徳川氏の七祈願所の一つ、勅許による勅願寺にもなっていた。出羽三山参拝の本道とされたため、本道寺を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は夏の稼ぎだけで遊んで暮らせたほどの繁栄を誇った。
 鶴岡から松根、十王峠、大網、田麦俣、湯殿山、大岫峠を越え、志津、本道寺、寒河江を通り山形に至る険しい山道で、山岳信仰が盛んだった室町・江戸時代には、湯殿山を目指し、東北・関東の各地から訪れる「道者」(参詣者)たちで賑わった「ゆどのみち」。
 
 その「ゆどのみち」、志津、本道寺、岩根沢周辺地図。本道寺沢を越えたあたりから本道寺の集落にかけて、街道は湯殿山神社近くの上道と、宿坊が並ぶ下道に分かれ、湯殿山神社参道と聖坂でまた一つに結ばれていた。
本道寺地区   月岡地区
 本道寺地区の右奥に「月山湖」を堰き止める寒河江ダムがある。この前に立ち寄った大井沢集落を始めに月山沢・四ツ谷・砂子関・二ツ掛の93戸がダム湖に沈んだ。
 「神仏分離令」の果ては寺社ともに朽ちへと導き往時の繁栄は哀しみへとかわっている。照りつける太陽に「六十里越街道」(ゆどのみち)は、ゆらめき、あたかも炎を上げているようにも思える。
寺社朽ちて今なほ炎ゆゝゆどのみち 2018.720 炎ゆ;晩夏
 
 右から2番目に芭蕉句碑があったはずだが見当たらない。左画像は今回と昨年(2017.10.20)、右画像が一昨年(2016.5.20)。昨年も気付かずに思い込みのみで撮影していた・・・・何度も訪れると雑になるのかな?
 正面石段上り口の右手に「芭蕉翁」が見える。→消えた芭蕉句碑。句15「語られぬ湯殿にぬらす袂哉」(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)、元禄263-10日、「奥の細道」旅中「出羽三山」にて詠まれた句。
 
 
 
 「湯殿山」の左に「開山堂」の額が見える。「開山堂」の前に「佛足石」が置いてある。
 「拝殿」「本殿」。「鳥居」「山門」は下道に、以前に撮影したかと思うが不確か、又の機会に撮影しよう。
 明治元年(1868年)、本道寺の周辺は、戊辰戦争の戦場となった。天童藩を陥落させた後、この地に進出した薩摩藩、尾張藩を中心とし、恭順した東北諸藩を従えた新政府軍と、庄内藩、桑名藩による旧幕府軍との間で戦闘が行われた。旧幕府軍の敗走後、本道寺は、将軍家の祈願所であったために、新政府軍の攻撃を受け、大伽藍を焼き払われてしまう。(入間森畑の戦い)
 さらに、明治
7年(1874年)に神仏分離令が発せされると、本道寺は寺号を廃して口ノ宮湯殿山神社となった。戊辰戦争の際に焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890年)に拝殿や本殿として再建されたが、その規模は、往時に比べて大きく縮小された。
 
 「十二面山神・地蔵尊」(左)は神仏習合の歴史を偲ばせる遺構。
 【岩根沢三神社(旧日月寺)】 山形県西川町(岩根沢)
 月山神社の別当寺「日月寺」は廃寺となり、現在の「岩根沢三山神社」へと神道化。比較的早く廃寺となったことで「廃仏毀釈」を免れ、神社であるが庫裏の構造がそのまま残され貴重な史跡になっている。天宥上人は日月寺の出身であった。神社前には宿坊(左側に右京坊、右側に長甚坊等全5宿坊)がある。
 
 「八方七口」(岩根沢口)、出羽三山周辺には多くの登拝口が点在、岩根沢口は月山の南側(内陸側)の登拝口の一つ、寺や賄い小屋が建ち、宿坊街が形成されていた。表札には「月山神社・出羽神社・湯殿山神社摂社月山出羽湯殿山三神社社殿」(旧日月寺本道)・・・・覚えられないほどの長名だ。
 嘉禄二年(1226年)、大和國から行脚してきた僧が当地に宿泊、発心して一宇を建立し月山への道を開いた。その後、参詣者が増加し嘉慶元年(1387年)には大寺を建立。月山への登拝口として修験道の拠点となり、月山神社の別当寺院として尊崇を集めた。さらに時代が流れて江戸時代には、上野東叡山輪王寺の直轄末寺として寺号を長耀山日月寺と称し、天台宗に属す。日月寺は当初、真言宗の寺院であったが、羽黒山寂光寺が江戸幕府・徳川家に保護されていた天台宗に改宗したのにあわせて、天台宗へと改宗した。修験道の拠点、月山神社の別当寺として尊崇を集めた日月寺だったが、度重なる火災等で経済的には決して豊かではなかった。神社は比較的早いうちに神社への転換を決定したためか、廃仏毀釈の影響が少なく、日月寺の本堂がそのまま拝殿として使われるなど、伽藍など寺院の構造が良好な状態で残る。
 
 大きな「本殿」は、仏堂・客殿・座敷・庫裏等を全て一つの建物内に納めた複合建築とする点に特色がある。寄棟造、一部二階建、桁行67m・梁間23m・軒高26m・件坪数492坪(1,624㎡)という東北智謀最大の大規模建築物。その他昔の面影を偲ぶ建物は、鐘楼(小さなお堂に半鐘?)・山門・大日堂(要害神社)・地蔵堂(祖霊社)がある。この辺りは雪深く、冬期間は雪の為「神社雪囲い」を行うため参拝は出来ない。
 「八方七口」(岩根沢口)は、ここが始点になっているようだ。いくら何でも「八方七口」から月山登山は120%有り得ない。仮想登山なら良かろうと、ネットとグーグルマップで調べてみた。「岩根沢三山神社」前を左折し道なりに登っていくと「岩根沢林道」となる。途中で車道は通行止になるも左側を登り詰めると「月山登山口」となっており山道を登って行くと「把松稲荷」(石柱のみ)があり、ここからが本格的な月山登山道になるらしい。内部は・・・・勿論撮影禁止、それなら拝観は無しで境内探索、・・・・ても話しの種以上の価値があるので・・・・後悔先に発たず。惜しかった・・・・。
地蔵堂(現祖霊社)   大日堂(現要害神社)
 「本殿」裏手の山に「要害神社」(旧日月寺大日堂)と「祖霊社」(旧日月寺地蔵堂)がある。これは見落とすところであった。「要害神社」(稲荷様)は岩松寺門の守護神であったが社殿の復元財源として郷土の守護神として移転、合併により村から町になったことで「村社」の部分が消された。「要害=要塞」という意味らしい。
 「講中」とは、講「同一の親交を持つ人々の集まり」をつくって寺社に詣でたり祭りに参加する新校舎の集まりで、供養の記念として造立した塔、ここまて参詣した寺社には幾つもの「講中碑」があった。
 【本山慈恩寺】 山形県寒河江市
 江戸時代初期までは、葉山(村山葉山;白磐神社)が出羽三山の一つに数えられていた。湯殿山は、「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかった。元亀・天正年間(1570-1592)、葉山が別当寺であった慈恩寺との関係を絶ったことで葉山信仰が衰退し、これ以降湯殿山が出羽三山の1つとして数えられるようになったとされる。なお、慈恩寺は東北地方における天台・真言両宗の中心となった寺院であり、湯殿山4ヶ寺のうち、本道寺(口ノ宮湯殿山神社)と大日寺(大日寺跡湯殿山神社)は慈恩寺宝蔵院の末寺であった。慈恩寺は弥勒胴を中心として最上院・宝蔵院・華蔵院の三ヶ院、それに附属する48坊からなる一山組織の寺院であった。現在は三ヶ院17坊である。
 幕府から庇護を受けて栄えていた本山慈恩寺(2800石余の寺領・勅願寺、東北随一の巨刹)は天台真言両兼学の寺院として天台方と真言方の二つの宗派がありました。神仏分離令は本山慈恩寺の宗派の争いに発展、天台方からは神山であると、真言方は仏教寺院であるとの態度を崩さず神仏相争う事態になり、神職か僧分かで二つの宗派が入り乱れての争乱に発展した。慈恩寺一帯は修験道の道場でもあり、明治5年(1872)に修験宗廃止令によって天台宗か真言宗のいずれかに入るよう命令され、ようやく混乱が収束するに至った。
 「本堂」は江戸時代初期の元和4年に(1618)に山形藩3代藩主最上家第13代当主最上義俊の寄進によるもので、入母屋、茅葺、平入、桁行7間、梁間5間、正面1間向拝付、国指定重要文化財。仁王門は江戸時代中期元文元年(1736)に再建、入母屋、銅板、三間一戸、八脚楼門、桁行3間(10.06m)、梁間2間(5.51m)、内部に仁王像が安置されています。
 「鐘楼」は、江戸時代初期の天和3年(1683)に造営されたもので、切妻、茅葺、桁行9.8尺、梁間9.8尺、外壁と基礎が無く4隅の柱が礎石に直接建てこまれています。
 1段上の画像「本堂」(左)→「鐘楼」(右)→「不動堂」(未掲載)→上の画像「阿弥陀堂」(左)→「薬師堂」(右)を見て回る。
 石段を上り「表門」(室町様式で現存する建造物では最古)をくぐると「宝蔵院」、江戸時代は大きな伽蘭だったが、明治に入り近隣の谷地の宿用院に譲渡したので半分ほどの大きさになった。宝蔵院は慈恩寺で最も古い院で平安時代末期に宝蔵院盛実が高野山中院「真言宗龍光院」から印可状を受け末寺となっていましたが、明治43年(1910)の法改正以後に京都の真言宗智山派「智積院」の末寺になった。江戸時代の宝蔵院は21の末寺を持ち、湯殿山を開いた道智(旧大日寺の道智道を整備した道智上人)や俳諧に精通した宥勝(旧本道寺33世、佛足石)などの高層を輩出している。
 慈恩寺正門を出て右手方向へ進むと「三重塔」がある。慶長13年(1608)山形城主最上義光が建立、文政6年(1823)消失、文政13年(1830)再建、銅板葺高さ26.7m
 「三重塔」の先に「熊野神社」(慈恩寺鎮守社)がある。明治初頭の神仏分離で慈恩寺から離れた。
 「熊野神社」と道を隔てた左手に「小板地蔵大菩薩」(西行法師戻し智恵地蔵)がある。由縁(西行戻しのお話)は大変面白い。興味をお持ちの方はネットで検索してください。
 「華蔵院」は天明元年(1781)に焼失した後の江戸時代の建物で、慈恩寺三ヶ院の中で最も大きな伽藍を有している。江戸時代には13ヶ寺と門徒2ヶ寺の15の末寺を持ち、配下の坊は宝蔵院と同じ11でした。現在は坊が5つ、檀家は三ヶ院の中で最も多い。「華蔵院」「宝蔵院」は、妻を持たない清僧であった。
 もう一つの「最上院」は、別当坊として一山の宗務を取り仕切り慈恩寺三ヶ院の中で御朱印高も
687石、配下の坊も22と圧倒的であった。何故か「最上院」の山門前は最初に車で通過したが立ち寄らず、暑さゆえバテ気味であったことは否めない。
 【長念寺】 山形県寒河江市
 「長岡観音」(長念寺)は、当初は総持寺と称し、中世は地頭であった大江氏から祈願所として寺領を73石の寄進や観音堂の造営など庇護され最盛期には末寺40ヶ寺を擁する大寺院として発展し寺運も隆盛していた。明治時代に入ると神仏分離令と廃仏毀釈運動により廃寺となり観音堂と十一面観世音菩薩像、仏具などが長念寺(総持寺の筆頭末寺)に引き継がれ現在に至っている。長念寺境内には大江家歴代の墓碑が建立されている。
 当所の計画では「慈恩寺」を最後に「八幡神社鳥居」(山形市)に立ち寄り仙台に向かう予定であった。大分時間が余りそうなので、折角だから「寒河江の寺社」で他には・・・・、「慈恩寺」のホームページに「寒河江八幡宮」「長岡観音長念寺」がリンクされていた。八幡宮は芭蕉句碑の撮影で二回立ち寄っている。ならば、初めての「長念寺」ということになった。
 国内有数の巡礼地、室町時代開創の「最上三十三観音十六番札所」(出羽百観音のひとつ)霊場で、「寒河江城主祈願所」でもある。「旅のしおり」には、一言「庭園が綺麗」(砂紋作りが体験できる)と書き留めてあったが・・・・右上画像、もっと引いて撮影すると良かったが、たまたま奥様が外出されるようでご挨拶している間に撮り逃してしまった。
 【立石寺】 山形県山形市
 「長念寺」(13:50-14:10の予定に対し13:58-14:07)かなりの精度だ。そして「立石寺」(14:50着で予定は15:50?行程表が1時間違っている)、エアコンを効かせているのに下着がビッショリ、山寺登山口前の立谷川駐車場で着替え、スッキリしたところで石段横の駐車場に移動。
 「根本中堂」(本道)横に芭蕉句碑がある。句16「閑さや巌にしみ入蝉の聲」(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)、元禄2527日、「奥の細道」旅中「立石寺」にて詠まれた句。
 「宝物殿」前には芭蕉・曾良像と句碑がある。17「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)、元禄2527日、「奥の細道」旅中「立石寺」にて詠まれた句。右は芭蕉像。向かい合う形で曾良像がある。
 いずれも山形銘菓の某社父子による寄贈。
 芭蕉句碑を撮影し、「常行念仏堂」「鐘楼」の前を抜けると「山門」がある。昨夜23時半に過眠明け、24時よりずっと走り放し、噂に聞く山形の暑さ、これぞ「油照」・・・・一句詠めんかい・・・・ㇺㇺㇺ
 余りの暑さ・・・・「山門」を前にどうしたものかと・・・・拝観窓口の女性から「暑いのでお飲物持参で・・・・お気をつけていってらっしゃい」と見送られ・・・・(何故か無理して)石段を若々しく登って行く・・・・これが仇となろうとは知る術もない。
歩を曳きて山寺詣ず油照 2018.720 油照;晩夏
 珍しく、旅から戻り二週間経つも「左太腿の付根」が痛く「跛行」(はこう)状態が続く・・・・。
 「せみ塚」がある。句18「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)。芭蕉の句をしたためた短冊を、この地に埋めて石の塚を建てたもので「せみ塚」といわれている。
 「仁王門」に辿り着く・・・・もう一息。
 「開山堂」と「納経堂」(左)・・・・懐かしい景色、宮城に居た頃から何度も訪れた思い出の場所。百丈岩の上に立つ開山堂は立石寺を開かれた慈覚大師の御堂で、この御堂が建つ崖下にある自然窟に大師の御遺骸が金棺に入れられ埋葬されているという。納経堂は山内で最も古い建物という。
 「笹谷トンネル」経由で仙台到着は17:50、走行距離611km、翌日の午前は営業会議・午後は役員会議、15時過ぎに仙台を後に国道4郷を矢板まで南下、「日足トンネル」経由で23:57帰宅、帰路は442km、毎度の事だが疲れるね。
   Midi 北方遺跡