-“史跡”放っつ記歩き-
廃仏毀釈 出羽三山の神仏分離(補遺)
2018.08.17(金) 雨後晴
 「7月の旅の未知草」(神仏習合;神仏分離前の出羽三山)、漏れを補う「補遺」の旅。・・・・「補遺補遺とゆどのみち行く処暑の旅」
 【期待と不安な夜明け】 新潟県新潟市と村上市
 家を0:50に出発、天気予報は午前は曇・午後は晴、雨と覚悟し予定を1時間繰り上げてのこと。出発時は星空、上田から上越まで小雨、新潟市に入る頃、東の空が明るくなり「これは行ける」かもと・・・・、新潟市を抜ける頃から行く手の空が怪しく朝日連峰北部は雨降り模様・・・・。
R116R8 合流地点(北陸自動車道新潟西IC)手前3Km地点/新潟市西区(4:32
R7 新潟県村上市 朝日連峰北部山塊に架かる「天使の梯子」(6:09) 日出時刻;5:02
 雲の流れが速く数10秒間の天体ショーであった。この後、しばらく雲の切れ目は無さそうなので先を急ぐ、「ぶどう峠」に着かないうちにスコールのような雨で最速ワイパーでも視界が閉ざされた。
 【荒れ狂う日本海】 新潟県村上市
碁石海岸の鉾立岩と羽越本線(碁石海岸)を眺める(R7 新潟県村上市)
 絵になる最良ポイントに光が当り撮影チャンス、そこに羽越本線の下り列車が来ると更に絵になる。その到来を暫く待つも気配がないので後にした。
 【鶴岡史跡】 山形県鶴岡市
 
旧鶴岡警察署   旧西田川郡役所
 「鶴岡公園」を抜ける道路左手に「旧鶴岡警察署」「旧西田川郡役所」がある。いずれも移設されたもので、ともに高橋兼吉設計の新洋風工法に在来工法を取り入れた明治17年(1884)建造、昭和32年(1957)移設。
 【赤坂薬師神社】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 「薬師堂」は、薬師如来を本尊とする仏堂の呼称、「薬師寺」「薬王寺」「医王寺」等ならびに「東○寺」のように「東」が付いたり、「薬師如来の詳名;薬師瑠璃光如来」にちなんで「瑠璃」と付くことが多い。→扁額
 元は薬師如来を祀っていたお堂で、神仏分離令により神社となった→「明治9年(1877)手向地区の村社となる。説明板
 【自坊小路】 「宿坊檀所院」の横路(鶴岡市羽黒町手向)
 2008年篠原哲雄監督、映画「山桜」のヒロイン野江(田中麗奈)と母(冨司純子)が叔母の墓参りの帰り道のロケ地。海坂藩を舞台にした物語で主演は、田中麗奈と東山紀之。江戸時代後期の小藩を舞台に、不幸な結婚生活を送る女性がある運命的な出会いをへて、絶望的だった人生に光明を見いだしていく姿を描いた藤沢周平の短編小説。
 
 手向の宿坊街、往時の門前集落風情が残る池ノ仲部落の一角。長い黒塀や土蔵を備えた旧家が見られる。雨降りでカメラも濡れ、露出不足からピンボケも多かったが、しっとりとした風情は表現出来たと思う。
 檀所院付近からご婦人が後を歩いて来られた。追いつかれた所で失礼のないよう改めてシャッターを切った。
 【峰薬師神社】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 
 当初は峯の薬師と称し「羽黒山・月山・湯殿山の峰中の拝所」として信仰され、出羽三山の入峰修行の際には修験者の経読堂(峰薬師堂)だったとされ修験行法の上でも重要視されていた。神仏分離令・廃仏毀釈運動により多くの堂塔、寺院が廃される中、当社も仏式を廃し少彦名神の分霊が勧請され神社となった。ただし、現在でも羽黒派古修験道を伝える「秋の峰入り」が続けられ神仏混合の名残りが見られる。説明板
 【福王寺稲荷神社】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 元は福王寺(神仏混合、福王寺薬師社)、神仏分離後、廃寺となりこの地区の鎮守の神として稲荷神を祀る。
 
 「薬師」(薬師如来)と「稲荷」(稲荷大明神)、神仏習合から神仏分離へ、この変遷過程において「薬師と稲荷の関連性」を調べても今一つ解らない。建物後方の出っ張りが無ければお堂と見えるのだが・・・・。→扁額
 【出羽三山神社社務所】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 「出羽三山神社社務所」は、古くは鎌倉時代の長吏と呼ばれた司法権と警察権を持つ役人の屋敷であった。天宥別当以降は年貢を収納する蔵屋敷として使われた。明治以降は、出羽三山神社の社務所になった。現在の庭園は造園技術にも優れたという江戸初期の別当天宥の作と伝えられる。
 社務所から山伏姿(白装束)の人が宿坊でないのに大勢出てきた。何だろうとネットで調べたら、どうやら「錬成修行道場」(神山を駈ける/神秘な霊場、鎮魂の修行)の後期日程(平成
30817-19日)と重なる。
 出羽三山地域の日本遺産認定などを背景に、門前町のにぎわいを創出しようと同神社が随神門周辺の整備に着手。「出羽の里門前之宮庭園」と名付けて平成29年春より一般公開が始まった出羽三山神社社務所の庭園。砂利の遊歩道が敷かれ、周辺を散策できる。マウスを画像に乗せると、ロールオーバー効果(接合部が見苦しく常時掲載にはそぐわない)で池の反対側からの画像に入れ替わります。
 【出羽三山神社(羽黒山)】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 「随神門」より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え湯殿山まで広がる。「随神門」はこの広い神域の表玄関である。
 
 随神門の右手前にある朱塗りの末社羽黒山「天地金神社」は、応永4年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と称していたが、昭和39年、須佐之男命をお祀りし、「天地金神社」となり現在に至っている。
 「天地金神社」の左手前に、対照的な御堂がある。「豆腐地蔵尊」という地蔵菩薩を祀る小さな御堂であった。神仏習合時代には、二の坂にあった「宝前院」(この別院である玄陽院に芭蕉と曾良は泊っている)に安置され、御山の繁盛と道中安全の守護仏として祀られていた。神仏分離で宝前院が取り壊された際に藪の中に投棄された。
 
 
 この門は初め「仁王門」として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されたが、明治の神仏分離の折り随身像を祀り「随神門」と名称変更。右手前の柵の中に「天拝石」が見える。
 「随身門」を潜ると急な石段がある。山頂までの石段2,446段(第50代別当天宥が13年かけ敷設)には入っていない急な下りの石段である。
 
 「継子坂」を下り切ると「境内社」(磐裂神社、根裂神社、五十猛神社、大年神社、天神社、豊玉姫神社)がある。ここ一帯は祓川といい、神仏習合時代には「羽黒山・十大迦蘭の一つ「堂塔山滝水寺」(五重塔周辺)があった場所である。神仏分離で「五重塔」を残し廃寺・取り壊された。
 「境内社」を抜けると「祓川」、朱塗りの橋は「祓川神橋」という。ここまで来た時、小雨が豪雨に変り視界が悪くなるほどだ。参拝者は我先に雨宿りの場所を確保する。
 随神門より継子坂を下りると祓川に掛かる神橋に出る。昔三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとり三山への登拝の途についた。朱塗りの美しい神橋は見事な浸蝕谷にかかり、向かいの懸崖から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しい。
 
 承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。一般的には神域は随神門と伝えられているが、ここより山上と山麓を呼び分け、山上には維新まで本坊を始め30余院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいた。
 「羽黒山杉並木」、樹齢350500年の500本以上の杉が石段参道の両側に山頂まで続く、その中でのご神木的存在の「爺杉」は特別天然記念物で羽黒山最大最高齢の樹齢一千年と言われる。天宥法印は寛永7年(1630)、25歳で第50代羽黒山別当に就任、それから390年・・・・もっと古くから羽黒山の歴史を見てきたことになる。
 
 「五重塔」が特別拝観(4/2811/4)されていた。明治の神仏分離以降初めての公開(天皇陛下御在位30年、三神合祭殿再建200年の奉祝)である。雨もひどくなり、羽黒山参道「一ノ坂」上り口で引き返す。
 【玉川寺】 山形県鶴岡市(羽黒町)
 
 玉川寺は、凡そ七百有余年前の鎌倉時代(1251年)に曹洞宗の開祖道元禅師の高弟だった了然法明禅師によって開山されたと伝承。その庭園は、1450年代に作庭され1650年代の改修を経て今日に至る。自然の山から流れ落ちる滝を配し、大きな池を中心とした池泉廻遊式蓬莱庭園は石組も鋭く、地方稀に見る名園であり、1987年に国の文化財名勝に指定。今回のテーマ「出羽三山」と無関係なお寺さんですが、その庭園を一目拝観すべく立ち寄った。
 【口之宮湯殿山神社(旧宗教集落)】 山形県西川町
 
 本道寺沢を越えたあたりから本道寺の集落にかけて、街道は湯殿山神社近くの上道と、宿坊が並ぶ下道に分かれ、湯殿山神社参道と聖坂でまた一つに結ばれていた・・・・という。それらしき道を下る。落石等あり心細くなる。
 
 その「下道」は一度立ち寄るも、肝心な「旧本道寺遺構」(鳥居・山門・湯殿山の扁額)を撮影していなかった。扁額の説明板
 
 本道寺の下道、鳥居・山門前に「宗教集落本道寺」という説明板があった。最盛期の本道寺集落(白岩本道寺村)の説明があるも、その名残は感じ得ないものだった。現在の「本道寺」地区は21世帯37人である。
 【口之宮湯殿山神社(旧本道寺)】 山形県西川町
 「旅の未知草」計画時点では、下道の鳥居・山門から上道の鳥居まで歩き、国道112号沿い(上道)にある「口之宮湯殿山神社」(旧本道寺)を参拝し下道に駐車した車に戻る予定であった。雨が降っているので車で国道112郷に出て「口之宮湯殿山神社」へと戻った。
旧本道寺代参塔群   整備された石仏
 かつて参拝が困難であった人々が多額の寄進を行って住職に代参(本人にわって神仏に拝する)を依頼する信仰形態があったことを伝えるもので、その際に寄進額の一部を使って建立されたものが「代参塔」です。出羽三山に限るものではないが、出羽三山の八方七口(羽黒山荒沢口・日月寺の岩根沢口・注連寺の七五三掛口・大日坊の大網口・大日寺の大井沢口・本道寺の本道口、阿吽院の肘折口(肘折温泉より4km不詳)、照光寺の川代口は寛永年間に閉鎖)には幾つもの代参塔が建っていた。
 
 移設された芭蕉句碑は、正面参道の石段下右手にあった。01「語られぬ湯殿にぬらす袂哉」(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)、元禄263~10日、「奥の細道」旅中「出羽三山」にて詠まれた句。
 
 明治初頭までは、神仏習合の修験道(羽黒派修験)の山、出羽三山湯殿山派の別当寺4ヶ寺の1寺である月光山本道寺であった。本道寺は歴代の領主に崇敬を受け、江戸時代には、梁間18間、桁68間という東北一の大伽藍を誇り、湯殿山として徳川氏の七祈願所の一つ、勅許による勅願寺、「出羽三山参拝の本道」とされ、本道寺を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は「夏の稼ぎだけで遊んで暮らせた」ほどの繁栄を誇った。明治元年(1868年)、本道寺の周辺は、戊辰戦争の戦場となった。旧幕府軍の敗走後、本道寺は、将軍家の祈願所であったために新政府軍の攻撃を受け、大伽藍を焼き払われてしまう。(入間森畑の戦い)。明治7年(1874年)の神仏分離令で、本道寺は口ノ宮湯殿山神社となった。戊辰戦争の際に焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890年)に拝殿や本殿として再建されたが、その規模は往時に比べて大きく縮小された。
 国道112号沿いにある「口之宮湯殿山神社」、その神社前に残る旧道・駐車場は「上道」の名残りであろうか、それとも「旧本道寺代参塔群」の後ろ手から境内、境内から国道112号に降りる車道が「上道」であろうか、何らかの表示をしておいて欲しい。
 【本山慈恩寺最上院】 山形県寒河江市
 
 別当坊最上院は江戸幕府の陰の実力者天海僧正に取り入って天台宗に改宗しようとした。これに対して真言方学頭宝蔵院、同華蔵院が反対し、長年に亘って抗争を続けた。そんな経緯がある最上院だが先月は見落としていた。そこで、改めての再訪というわけだ。
 
 「最上院」の庭園は室町様式で珍しいという。慈恩寺参道に面した門は裏門(左上が山門)だが風格がある。
 【本山慈恩寺】 山形県寒河江市
 
 先月に続く再訪、今回は参道から徒歩で正面からの参詣となる。右の木一本、どう見ても邪魔である。日本文化遺産、何処を見ても今一つ工夫が足りない。下の写真を見てもしかり、電力会社の頭の高さがよくわかる。その気になればどうにでもなる。観光立国を貫こうと思うなら、適度な景観条例を自治体も考えるべきであろう。
 
 江戸時代以前は、鳥海山や月山の東方にある葉山(白磐神社)が三山の一つに数えられていた。湯殿山は、「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかった。天正年間、葉山が別当寺であった慈恩寺との関係を絶ったことで葉山信仰が衰退し、これ以降湯殿山が出羽三山の一つとして数えられるようになったとされる。なお、慈恩寺は東北地方における天台・真言両宗の中心となった寺院であり、湯殿山4ヶ寺のうち、本道寺(口ノ宮湯殿山神社)と大日寺(大日寺跡湯殿山神社)は慈恩寺宝蔵院の末寺であった。
 「奥山」(月山)と両脇の「里山」(羽黒山と葉山)、後に葉山修験の山伏のグループが慈恩寺から出てしまうという形になり、江戸時代に入ると葉山が出羽三山から抜け(理由は不詳)、代わりに湯殿山が中世の終わりぐらいから江戸時代にかけ三山の一つになった。
 
 湯殿山をめぐる天台宗と真言宗の対立(寛永寛文の両造法論)。江戸時代初めの頃、八方七口が両造法論という湯殿山の祀りごとの権利を巡るような争いが繰り広げられ、最終的には幕府の寺社奉行まで動き、月山と湯殿山の間に境界線が引かれ、湯殿山は真言宗の山、月山と羽黒山は天台宗の山という裁定が下った。
 【八幡神社鳥居】 山形県山形市
 八幡神社境内にある石鳥居は平安時代後期の天仁2年(1109)に造立されたもので凝灰岩製、総高436cm、柱径95.5cm、日本最古級の石鳥居とされ大変貴重な事から昭和27年(1952)に国重要文化財に指定されている。
 最上三鳥居の一つに数えられている。まずは、ここ「成沢の石鳥居」(天仁2年、国指定重要文化財に指定)。残り二つは何処かと気になるもの・・・・、「元木の石鳥居」(山形市鳥居ヶ岡:天延年間、国指定重要文化財)と「清池の石鳥居」(天童市荒谷:平安時代後期、山形県指定文化財)。「成沢の石鳥居」と「元木の石鳥居」はとても似ている。「清池の石鳥居」は、残念なことに「貫と束」が残っていません。
 鳥居の最上部の横石が二重になっている上部を「笠木」、下部を「島木」、その下一重の横石を「貫」、横二本の中央の短い縦石を「束」、太い二本の縦石を「柱」という。
 笠木と島木は一石で彫成し、笠木は薄く直線をなし、島木は厚く下面の両端は舟肘木状に上に反っている。笠木の長さは約5m、貫は円柱を貫き直線的に両端が外に出ていて、後補のものと思われる。島木と貫との間隔は狭く、撥状の束が入っている。
 山形市から南の上山市へ下る境界の近くに蔵王成沢地区がある。この地区の舘山の南斜面に八幡神社が鎮座し、その門として立つのが成沢八幡神社の石鳥居である。しかし、現在の地に八幡神社が鎮座するようになったのは14世紀頃とされる。それ以前は瀧山信仰における裏参道の山門として立ち、表参道の元木の石鳥居とともに現存する日本最古の石鳥居の代表格を担っている。
 9月の「旅の未知草」は、「山形の石鳥居めぐり」にしようと決めた。興味は次々、いつの間にか芭蕉の碑撮りから随分と外れてしまいました。ちなみに、①高房神社の石鳥居(高畠町)、②愛宕山の石鳥居(高畠町)、③成沢の石鳥居(山形市/今回のもので省略)、④三百坊の石鳥居(山形市/瀧山信仰の本元)、⑤元木の石鳥居(山形市)、⑥清池の石鳥居(天童市)、⑦石倉の石鳥居(天童市)、⑧谷地中の石鳥居(天童市)、⑨六田の石鳥居(東根市)、⑩楯岡の石鳥居(村山市)、⑪野黒沢の石鳥居(尾花沢市)、全行程604kmと長距離走になります。
   Midi 北方遺跡