-“史跡”放っつ記歩き-
石鳥居 山岳信仰の神秘にふれて
2018.09.14(金) 晴
 「奈良時代」に建立された「石鳥居」、代表的な「三百坊の石鳥居」「元木の石鳥居」「成沢の石鳥居」は「瀧山(りゅうざん)信仰」の象徴、これに「清池の石鳥居」を加え「最上の三鳥居」(山寺)という。これらは、「天台密教」として栄えたところである。調べが進むと「高畠町」から「尾花沢市」の間に11の石鳥居がある。これらは、そろって「奈良時代」に建立された古いものである。
 先月の「旅の未知草」は「成沢の石鳥居」(山形市)で終えた・・・・縁あって今月の「旅の未知草」へと続くことになった。それだけではない・・・・「俳句」「川柳」から「和歌」への・・・・キッカケ?
あしひきの山尊びて石鳥居ひふみ潜れり秋も深け行く
枕詞;あしひきの(足引きの) かかる語;山
 意味は;足を引きずり(7月の旅の未知草遺構左足が傷み引きずる)尊い山岳信仰の石鳥居をひとつふたつとくぐる度に深け行く秋を感じることであろう。
 【置賜の夜明け】 山形県小国町
 目まぐるしく変わる天気予報、日付が変わる少し前に家を出た。信濃路(国道18号を北上)、越後路(国道8号・116号・8号・7号を北上)は共に「秋雨の夜道」、村上に入り右折し小国街道・七ヶ宿街道(国道118号)と列島横断・・・・幾度となく走る夜道だ。小国町の道の駅「白い森おぐに」(5:24)を通過する。
しなざかる越国より置賜へ彼方見遣りて山河越え行く
枕詞;しなざかる かかる語;越   彼方見遣りて(みやり);奈良時代? 山河;人生?
 飯豊町との境にある「峠の茶屋」(5:36)で停車。今日の「置賜」(おきたま)の日出時刻は「5:12」・・・・。
 【高房神社の石鳥居】 山形県高畠町
 
 平安後期から室町時代に建てられたものらしい。福島県の山奥に鎮座(高畠町の東側は福島市飯坂町との境界)、その後この地の「窪」という地籍に移ってから、現在の地に落ち着いた「さまよえる石鳥居」という。(一ノ宮→二ノ宮→三の宮)
 
 村山地方における古式石鳥居群と類似の特徴(鳥居上部の笠木および島木が一つの石からなり節目なく、島木の両端がゆるやかな曲線をおびている)で、柱の上段部の台輪は室町以降に見られる。総高3.23m、柱径0.72m、柱間2.27m、横長の古い様式。
 「高房神社」は藤原高家・房家を祀る(高家・房家の名をとったのか)。「もと山の神の鳥居」(神社北側に優美な曲線をした堂山と呼ぶ聖なる山がある)と言われている。
 【愛宕山の石鳥居】 山形県高畠町
 
 「愛宕信仰」とは、京都市の愛宕山山頂に鎮座する愛宕神社から発祥した、火防の神に対する神道の信仰。愛宕山の愛宕神社は、古くから修験道の道場となり、愛宕山に集まった修験者によって江戸時代中頃から愛宕信仰が日本全国に広められた。中世後期以降、愛宕の神は火伏せに霊験のある神として広く信仰されるようになった。日本全国で「愛宕」を社名につける神社は43都道府県に約1,000社ある。特に東北地方に多く分布する。
 「愛宕山の石鳥居」は、総高2.78m、柱径は右0.69m0.59m、柱間1.45m、管理者は東光山青竜寺は羽黒修験の流れをもつ天台宗系の寺院で、愛宕地蔵菩薩、薬師如来、秋葉権現をまつる。創建は平安中期とされる。
 高さ約3mにも満たない小規模の鳥居だが、柱は両足を広げるかのように柱一本分の転びをもち、堂々と立ち尽くすその姿はみる人に豪傑感さえ与える。もはや細かい様式云々の世界をはるかに超えている。
 【安久津八幡神社】 山形県高畠町
 宮城に居た頃に、三重塔に魅かれて何度も立ち寄ったことがある。鳥居の足元に太い二本の石柱が置かれているとは全く気付かなかった。
 
 「安久津八幡神社」の「じじばば石」は、おそらく鳥居の石柱材であろう。石鳥居は凝灰岩で造られている。「じじばば石」は、地元の高畠層から産するもので、直径90cm、長さ7mもある。ここに放置された経緯は、時期・目的ともに不詳である。「夫婦岩」として祀られている例は全国に少なくないという。石鳥居でなく「民間信仰で多く見られる陰陽的な考え方」もあり、一概に「石鳥居石材」と決めつけるのは控えた方がよかろう。
 此処までの予定は7:30、今は7:16・・・・余裕があれば「大聖寺文殊堂」(日本三文殊の一つ)に立ち寄るもよしと思っていたが、高畠町を後に山形市へと向かうことにした。
 【蔵王ライン鳥居】 山形県山形市(蔵王上野)
 「安養寺」(掲載省略)に立ち寄り、信仰の山「瀧山」へ・・・・蔵王ラインで蔵王温泉へと向かう途中、大きな「蔵王ライン鳥居」があった。

 千年の昔、瀧山の中腹に大伽蘭と数百の宿坊を従えた「滝山信仰の拠点」があった。当時の瀧山には三つの参道が開かれていた。
 ①「元木の鳥居」(御立の鳥居)-岩波-土坂の参道
 ②中桜田-上桜田-峠越えの参道(瀧山寺・瀧山神社)
 ③「成沢の鳥居」-沢内-三本木の参道
それぞれに大きな石の華表(=鳥居)があり、「元木の石鳥居」は我が国最古のもの、「成沢の石鳥居」は向きを変え残っている。②には鳥居は無いが「鳥居座」という地名が残る。
 
 時の権力(北条氏)に破れ徹底的に破壊・・・・入道最明寺(北条)時頼は、どの参道を何時通ったかは不明。旅のやつれた僧が一夜の宿を頼んだという。その時、瀧山の僧たちは「汚い乞食坊主、帰れ、帰れ」と追い払ったという。此の事が元で、後日、多くの軍兵によって破壊・閉山(1258)されたと伝えられている。
 【酢川温泉神社】 山形県山形市(蔵王温泉)
 古来「酢川温泉神社」(すかわおんせんじんじゃ)は、龍山上(熊野岳と表記する場合もある;蔵王山信仰=熊野岳、蔵王修験の中心になったのが瀧山かつ三百坊)に本宮、蔵王山熊野岳に離宮(昭和27年、蔵王山神社と改称)、本殿は口の宮にして三宮一社なり、社殿をこの地に置く」と言われている。「薬師神社」は、古来社殿をこの地に置く酢川温泉神社本殿であり薬師如来を祀っていた。
 
 「酢川温泉神社」は昭和34年に社殿を改築している。詳しくは、後述の「三百坊の石鳥居」「瀧山神社」「滝山寺」等で「瀧山信仰」について補足をする。
 【瀧山】 山形県山形市
 「蔵王連峰」の主峰は、宮城・山形の県境にある「熊野岳」(1,841m)である。その「蔵王連峰」の山形よりに「瀧山」(りゅうざん;1,362m)がある。「瀧山」には、「蔵王温泉」と「三百坊」に登山口があり、宮城に居た頃、蔵王連峰屏風岳(1,825m)登山中(2000.9.30)右足首骨折の事故(全治6ヶ月)を起こし宮城山岳救助ヘリにお世話になり白石川河川敷で待機する救急車に引き継がれ白石病院へと運ばれた。その一年後(2001.9.23)に「瀧山」登山。その後、妻を誘い「骨折事故現場」の説明登山(2001.06.18)もした。
 【三百坊の石鳥居】 山形県山形市(土坂)
 
 慈覚大師が仁寿元年317851)瀧山を開山し、頂上に薬師如来を祀り瀧山大権現と崇めた。頂上は生活に不便ゆえ一段下の風静かなる所を選び霊山寺(堂庭=護摩堂趾)と名付け護摩修業の道場にしたという。→地図
 三百坊の鳥居や、鳥居から堂庭までの杉並木は往時の信仰をあらわし「瀧山塔」には杉並木の奉納のことが記されている。山腹の大滝には不動尊が祀られており、山麓には水月庵(八森)、山境坊(岩波)、三蔵院趾(現地蔵堂、神尾)などの寺跡を残している。記述するまもなく「三百坊の石鳥居」は、「瀧山信仰」の御本家である。
 「三百坊の石鳥居」は、総高4m、柱径は0.6m、柱間3m、笠木の長さ5m、全体を赤く塗っていたらしく円柱に朱色が残っている。
 芭蕉は、「奥の細道」大石田への途次、西行ゆかりの「たきの山と申す山寺」(山家集)の地を訪ねようとしたのか、曽良随行日記の527日の条に「山形ヘ趣カン(ト)シテ止ム」と記してある。「たきの山」については論争が繰り返されたが、ここ「三百坊」と結論付けられた。西行歌碑「たぐひなき思ひいではの櫻かなうすくれなゐの花のにほひは」(右画像)は、瀧山登山口駐車場脇にあった。
 【八幡神社(成沢)の石鳥居】 山形県山形市(蔵王成沢)
 
 「八幡神社の石鳥居」(成沢の石鳥居)は、日本最古の石鳥居として国指定重要文化財に指定されている。「成沢の鳥居」-沢内-三本木を通る「瀧山」(瀧山信仰/蔵王信仰)への参道である。
 「八幡神社の石鳥居」は、総高4.63m、柱径0.99m、柱間2.45m、「最上三鳥居」(他の二つは、元木の石鳥居、清池の石鳥居)の一つ。瀧山に登る参道がこの石鳥居の前を通っている。
 【常善寺】 山形県山形市(蔵王成沢)
 
 「瀧山三百坊」時代、三百坊の中で主要な寺院であった[天台宗隆勝寺」が「常善寺」の前身、三百坊が封鎖された後、成沢の沢内に降りた「第二の瀧山仏教」の中心となって「隆勝寺」が百数十年にわたり興隆したと伝えられる。宝徳3年(1451)加賀国大椙谷より来た諸国行脚の僧無量坊により宗門を改め「浄土真宗常善寺」となる。
あまざかる鄙の山辺に石鳥居旅のつかれもしばし休らふ
枕詞;あまざかる(天離る) かかる語;鄙(ひな=田舎)
 当時の山伏が、このような風流さを持ち備えていたならば、お取壊しはなかったろうに・・・・
 【元木(御立)の石鳥居】 山形県山形市(鳥居ヶ丘)
 「瀧山」に祀られた「瀧山大権現」への奉納のため天延年間(973-976)に建立された石鳥居。「瀧山信仰」によるもので、西面する「元木の鳥居」の背後(小画像鳥居の柱間)に西蔵王(瀧山)が眺められる。
 
 「元木の石鳥居」は、「最上三鳥居」の一つ。総高3.51m、柱径0.94m、笠長5.66m。「瀧山信仰」の表参道(元木-小立-岩波-八森-土坂)に立つ「御立の鳥居」とも呼ばれている。
 【瀧山神社・瀧山寺】 山形県山形市(上桜田)
 
 「瀧山神社鎮座地の地名変更」碑(右上画像)、村社「瀧山神社」は仁寿元年(851)慈覚大師の開祖にして、正嘉二年(1258)瀧山より当地、大字中桜田字桜神前1101番地に威霊を移し尊称して来ました。平成10年(1998年)土地区画整理事業が施行され、当地は山形市上桜田五丁目十番二十号と決まる。
 醫王瀧山寺と称し、仁寿元年(851)慈覚大師によって開創されたとされる天台宗の古刹である。瀧山頂上に薬師如来を祀り、多くの信仰をあつめたと伝えられ、平安時代から鎌倉時代初期まで西蔵王一帯に堂塔伽藍が立ち並び、繁栄を極めたと伝えられる。
 醫王瀧山寺と称し、仁寿元年(851)慈覚大師によって開創されたとされる天台宗の古刹である。瀧山頂上に薬師如来を祀り、多くの信仰をあつめたと伝えられ、平安時代から鎌倉時代初期まで西蔵王一帯に堂塔伽藍が立ち並び、繁栄を極めたと伝えられる。西行もこの寺に滞在し、その時のうた「山家集」に載っている。「都路を思ひ出羽の瀧の山こきくれないの花の匂ぞ」(三百坊の西行歌碑の歌と異なっている)
 「瀧山神社・瀧山寺」付近からの「瀧山」(雲がかかっている山;1,362m)の山容。
 【清池の石鳥居】 山形県天童市(石鳥居)
 「清池(しょうげ)の石鳥居」は「最上三鳥居」の一つ。地元郷土史に「此鳥居は山寺山王社の鳥居であろう」また「延喜式驛傳馬の頃に、最上、村山の驛次が載って居る」とし、この両駅を結んだ街道から分かれて山寺へ向う道沿いに石鳥居が立っていると記されている。山寺(立石寺)は慈覚大師円仁ゆかりの寺、東北でも最も古い寺院の一つ。清池の石鳥居はこの山寺の山門として立ち、風雪に耐えながら古い歴史を刻んでいたであろう。
 
 総高3.87m、柱径0.94m、柱間3.03m、村山盆地は南北に長い。最上と村山驛を結ぶ古街道も南北を直線上に走り、ちょうど中間地点となるのが清池である。ここから東の山寺へ枝分かれる入口に清池の石鳥居が立つ。
 【石倉の石鳥居】 山形県天童市(下萩野戸)
 
 今回の石鳥居の中で、最も人家から離れた山裾、道を尋ねるにも策がない。出発前にネット再検索、何と「数日前に石鳥居付近で熊出没」・・・・知らないより知って行った方が安全と、妻の反対を断っての決行とあいなった。
 総高3.9m、柱径0.7m、柱間3.0m、額束を二つもつこの石鳥居は、天童市の東に位置する雨呼山の麓に立っている。鳥居の帰属は、天童市の舞鶴山方面の佛向寺と関係深い雨呼山とされる。鳥居の位置する辺りは傾斜のある登山路と川が隣接しており、豪雨の影響を受けると道は渓流となる地形を示し、半壊の記録も残っている。
 【谷地中の石鳥居】 山形県天童市(川原子)
 「谷地中の石鳥居」(やちなか)は「水晶山信仰」(水晶山の頂上には盤座の前に大和神社が鎮座する)、両柱の間から水晶山がくっきりと観望される。
 上部の笠木や島木は欠損しているが、形状は、笠木を上から落とした柄穴だけで貫穴がなく、他に見られない全く異形の鳥居である(鎌倉時代)。柱高2.1m、柱径0.76m、柱間1.6m
 
しらつゆの知らず知らずに石鳥居つるはぎ濡らす旅の秋雨
枕詞;しらつゆの(白露の) かかる語;知らず
 生い茂る草の中に建つ二本の石柱、どの方向から撮影しようかとグルグル歩き回る。気が付けば膝下が濡れている。昨夜の雨をすっかり忘れさす秋空が広がっている。
 【六田の石鳥居】 山形県東根市(四ツ家)
 「出羽三鳥居」の一つと数える。移転を繰り返している鳥居で、本来的な位置が不明ゆえ信仰の的が掴めない。
 
 「六田の石鳥居」は、総高2.39m、柱径0.6m、柱間1.03mと小振りで大きなケヤキに隠れてしまうほどだ。
 【楯岡の石鳥居】 山形県村山市(楯岡笛田)
 今迄の「碑撮り」旅の多くは、句碑を撮影対象にしてきた。今回の「石鳥居」は、鎮座している風景も積極的に撮影したので、これぞと絵になるものは積極的に掲載してきた。
 
 総高2.5m、柱径0.5m、柱間2.0m、戦国末期から江戸時代初期に移転、現在は「小松沢観世音堂」への参道上ならびに父母報恩寺の脇に鎮座する。いずれとも無関係。一説には左柱に刻まれた「かつ田大明神」から、本来は蔵王山系の刈田神社入り口に立っていたのが、最上義光の時代(1573-1591)に現在の地に移されたのではとの見方もある。(刈田嶺登山口の南村山中川村の金谷付近/上山市を推定)
 蔵王連峰の刈田岳(1,758m)山頂に「刈田嶺神社(奥宮)」(宮城県七ヶ宿町)があり、遠刈田温泉にも「刈田嶺神社(里宮)」(宮城県蔵王町)がある。前述の上山市金谷「刈田嶺神社」だが、㈱でん六の横に確認出来るも記述についてはネット検索であがってこないほど小さな神社で関連性の確認は取れない。
 父母報恩寺の創建は明治36年(1904)、岩手県盛岡市に境内を構えた菩提院(京都の富豪鉈屋長清が当地に来て釶屋山菩提院という寺を建立。菩提院は後に内加賀野に移され、その後、寺は廃寺になっているが「鉈屋町」と名を残している)が荒廃した為、松岡白雄上人が名跡を引き継ぎ、明治39年(1907)に開山。
 
 境内にある「雪の観音」は昭和10年(1903)に雪害問題の先駆者だった松岡俊三代議士(1880-1955)が建立。松岡俊三は16歳の時、松岡白雄上人の養子となり「薩雄」(法名)を授かる。1920年、栃木4区より立候補し政界入りする。
 【道の駅むらやま】 山形県村山市
 「道の駅むらやま」で、土産を買い昼食を摂る。土産レジで財布の無いのに気づく、何の事ない「晴れて暑くなり脱いだ上着」から抜き出してなかっただけのこと・・・・物は序で、駐車場で気になる山容を撮影、レジで聞いてみたら「葉山」(慈恩寺の御山;初期の出羽三山の一つ)とのことで納得。
 【野黒沢の石鳥居】 山形県尾花沢市(野黒沢)
 奥まった山村に近い状況だが、かつては奈良・平安時代から多賀城と鳥海山麓の遊佐を結ぶ、いわば太平洋と日本海を横断する戦略的に重要な横街道上に位置していた。この地に旧諏訪神社があり、石鳥居はこの杜に帰属する。鳥居の現状は残念なことに、倒壊して部材が散乱したままとなっている。倒壊を受けても村山地域に残る古式石鳥居群の様式的な特徴を有し、その建立年代の推定もなされている点から、貴重な文化遺産の一つとして位置づけられる。推定;総高3m、柱径0.48m、横幅3.63mとのこと。
 【編集後記】 山形の石鳥居を考察する
 山形に伝わる古式石鳥居は東の奥羽山脈の山を信仰対象とし、その麓や羽州街道につながる地点に東西に面して立つ。かつての古街道もこの空間的関係を考慮すると「石鳥居は典型的な立地」を示している。

いそのかみ古き鳥居の石造り崇めるこころ慈むかな
ちはやぶる社象る石鳥居雨風うけて御山守るる
くずのはの恨み真受けし石鳥居こころ塞ぎて何ゆえ開く
 【向川寺】 山形県大石田町(横山)
 「向川寺」は、「奥の細道」の旅中、芭蕉が立ち寄った「ゆかりの地」。曾良随行日記に「廿九日 夜ニ入小雨ス。発・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所労故止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入帰。」と記されている。→現代語「廿九日 夜に入り小雨降る。発句・一巡(各自一句ずつ詠み)終えて、翁(芭蕉)両人を誘い黒瀧(黒滝山向川寺)ヘ参詣。予(曽良)は疲労の為辞退。午後2時頃にご帰宅。道々、俳諧有り。夕飯は川水がもてなす。夜に入り一栄宅に帰る。)→説明板
 「向川寺」を後にしたのは15:24(予定17:40)。国道48号(作並街道)で仙台のホテルにチェックイン、走行距離は638km、ハイオクは燃費も良く伸び無給油、燃料切れ警報もつかず。翌日の会議終了で家路に着いたのは15:30、帰宅は日付を30分ほど回り総走行距離は1,062km。・・・・さて、来月の「旅の未知草」は何処へ?

   Midi 北方遺跡