-“史跡”放っつ記歩き-
戊辰戦争 白虎隊ゆかりの地
2018.10.19(金) 晴
 今回の「旅の未知草」は、「日光」迄は通常ルートで「矢板」へは向かわず「会津西街道」を北上し「会津若松」へと向かう。その後は国道115号で土湯トンネルを抜け福島市に入り国道4号に出る。
 【会津西街道の夜明け】 鬼怒楯岩大吊橋(縁結び橋) 栃木県日光市鬼怒川温泉
 撮影環境が整うまで妻が用意してくれた朝食を食べながら試し撮りをする。高所恐怖症でも足元が暗くよく見えないので揺れ動く吊橋を中央部まで行き鬼怒川を見下ろし撮影して見た。「楯岩」らしきものが確認出来た。今日の日出時刻は5:48、龍王峡着6:00の予定だ。鬼怒楯岩大吊橋着は5:126:00迄滞在する。
 
 
 「鬼怒楯岩大吊橋」のすぐ上流に「立岩橋」(R121;会津西街道)がある。鬼怒川温泉駅近く鬼怒川に架かる橋で、早朝ゆえ通行車両もなく橋上から上下流を撮る。左上画像に「楯岩」がクッキリと写っている。
 この先の「龍王峡」では、未だ観てない最上流の「紫龍峡」を探索する予定であったが、小雨と「熊出没」(早朝と夕暮れ時が最も危険)との看板を目にしたので取止めた。従って、少なくとも1時間の短縮になる。
 「会津西街道」(R121)、「五十里湖」(いかり湖)に架かる「赤夕大橋」、橋の先に見えるのは「会津鬼怒川線湯西川温泉駅」と併設されている「道の駅湯西川」である。
 
 「赤夕大橋」(五十里バイパス)の先「湯の里トンネル」(五十里湖に突き出た尾根)を抜け、振り返ると「五十里トンネル」と名前が(?)変っていた。その出口は「五十里湖」に架かる無名橋、そこに猿一家が居た。橋の中央部で車を止め猿を撮ろうと思ったが移動し小さくてピンボケ、「五十里湖」を眺めると小さな島が点在(?)・・・・ダム湖に沈んだ、あるいは崩れ落ちた立木(?)・・・・不思議なことが二つ(猿一家が教えてくれた珍百景)
 【旧南会津郡役所】 福島県南会津町
 明治18年に創建された洋風木造建築。ギリシャ建築を思わせる円柱や、扇形のステンドグラスなど建築された明治時代の当時としては県内最大規模の郡役所であった。南会津郡は、「郡区町村編制法」の施行により、明治121月会津郡より分割設置された。明治17年会津三方道路が開削され、会津若松に向かって車道が開かれ、交通産業経済に大きな発展が期待された。大正15年をもって郡制が廃止されたので、郡役所が一斉に廃止された。これは明治12年から47年間続いたもので、町村財政の弱体だった時代に公共事業に足跡を残している。→「旅の未知草」で「明治維新」(続編)として「旧郡役所」めぐりも良いかも・・・・
 【塔のへつり】 福島県下郷町
 「塔のへつり」は、23回来ている。サスペンスドラマを見て、行ってみようと思い立ったのが最初だと思う。大川(阿賀川)の浸食によって出来た景勝地である。
 パノラマ撮影が上手くゆかなかったので、画像合成の原画3枚を併記掲載した。
 
 到着が740分と早かったため駐車場は営業前、人も疎らで撮影には適していた。展望台があるお店のみが開店しており土産(スプーン)を購入、きのこ汁をサービスで頂き暖まった。
 【会津武家屋敷】 福島県会津若松市
 
 会津若松に着いたのは858分(予定;10:30)、「龍王峡」をパスさせた1時間を引くと30分早いペースになる。毎度のことだが、最初でこのくらいのペースだと心理的余裕もうまれ安全運転が出来る。→説明板
 
 
 鶴ヶ城追手門前にあった会津藩家老西郷頼母邸を復元。戊辰戦争で武具・家財と共に焼失してしまった会津の武家屋敷の様子を、信州高遠に現存する武家屋敷の遺構を勘案しながら再現し、会津天満宮等ゆかりの建物を配して、藩米精米所、旧中畑陣屋、麟閣を再現した茶室、白壁土蔵造りの資料館・くらしの歴史館・西郷一家自刃の場が再現された第二資料館等を備えた歴史散策ゾーンと会津物産ショップと会津郷土料理亭、室井東志生の仏画を展示する美術館・青龍などが併設されているミュージアムパークである。→説明板
 
 
 
 場内には、表門・表玄関・御成りの間・雪隠・茶室・檜の間・客待の間・表居間・次の間・風呂場・台所・女中部屋・裏玄関等を拝見した。最後、右上は旧中畑屋敷で、徳川幕府直参旗本、松平軍治郎の代官所(中は田村等七ヶ村を支配)を矢吹町から移築復元したもの。
 場内の一画で「秋」を感じるところがあった。
 
 場外に隣接する「会津天満宮」である。
 【会津若松城/鶴ヶ城】 福島県会津若松市
 「鶴ヶ城」(若松城)の前に「会津の歴史」をレビュー、会津は戦国時代に「葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平」と数多くの大名が治めてきた。また、幕末の「戊辰戦争」では旧幕府派(東軍)として最後まで抵抗したため、会津が激しい戦場となった。
 
 難攻不落の名城といわれた「鶴ヶ城」は、戊辰の戦役で新政府軍の猛攻に籠城一ヶ月、城は落ちなかった。石垣だけを残して取り壊されたのは明治7年のことであった。そして、「鶴ヶ城」が蘇ったのは昭和40年、幕末時代の「赤瓦」を纏ったのは平成23年になった。
 過去に「鶴ヶ城」(白虎隊ゆかりの地)を一度見ている。正確には忘れてしまったが、35年ほど前のことだろう。どうりで、記憶にない「城姿」である。記憶にある「城姿」をネットで検索してみた。今の瓦より落ち着いていて風格が感じられる。
 
 
 「鶴ヶ城」へは、「西大手門」より入り西出丸駐車場に車を停め「梅坂」より「武者走り」を抜け「裏門」より入る。「鶴ヶ城」(天守閣)には入らず「長局跡」を左眼に見て「大広間跡」(芝生広場)を抜け「横矢掛」に登り「月見櫓」から「茶室鱗閣」前を通過し「長局跡」に戻る。この間に天守閣をいろんな角度から撮る。その後「西中門」に登り桜越えに天守閣を撮り駐車場に戻った。お城に付き物の「桜」、花見客で混雑するであろうが、その季節も良い。(地元の上田城・小諸城で済ませておこう)
 「西大手門」より城外に出る所で振り返る。一枚撮りたくなり信号待ちの間に車外に出て撮影した。
 【御薬園/会津松平氏庭園】 福島県会津若松市
 「御薬園」(会津松平氏庭園)、「冠門」より入ると左手に「重陽閣」があり、その奥が「薬用植物標本園」になっている。薬草の一つ一つには、さほど興味はない。バタフライガーデンの参考になればと全体の様子を眺める。一番奥から「会津松平氏庭園」に向かう。→説明板
 
 庭園北西側には9代藩主松平容保の孫(四男恒雄様の子)にあたる秩父宮妃勢津子ゆかりの建物、重陽閣(秩父宮妃勢津子様は重陽の節句の日/五節句の一つで菊の節句とも呼ばれる日にご誕生;99日)が移築されている。
 室町時代、霊泉が湧き出したこの地に会津領主が別荘を建てたのが始まりと伝えられている。戊辰戦争時に、ここが新政府軍の療養所として使用されたことで、戦火に巻き込まれずに往時の姿をとどめている。歴代藩主がこよなく愛した庭園、何とも複雑な思いになろうというもの、「茶」の渋みもひとしお苦かろう。
 
 その「霊泉」が湧き出したのは、「鶴ヶ清水」という場所らしい。
 「心字の池」を右回りに「女滝」→「鶴ヶ清水」→「亀島」(楽寿亭)→「男滝」→「枯山水」→「御茶屋御殿」へと一周した。日本庭園に「松」は欠かせられない。里山の「松」は、「原風景」として欠くことは出来ない。子供の頃、お宮がある村の山にセミ取りに行った。そこで「松籟」という風切り音を聞いた。幼い頃の想い出の一つであるが、そんな経験があるからこそ「松籟」という言葉が身近なものとして認知できている。今の若者に「しようらい」と尋ねれば「将来」より今が良ければとの返答が・・・・。
 【飯盛山】 福島県会津若松市
 
 最初に「飯盛山案内図」をご覧いただきたい。出店街の奥にある2基のスロープコンベアを乗り継ぐと「白虎隊霊場」に着く、右手に進み墓地の石階段を降りると「白虎隊自刃の地」がある。左手には「白虎隊十九士の墓」がある。かつて訪れた時は出店街もスロープコンベアも、何もかも無く「白虎隊」の幟があっただけと記憶する。
 
 「白虎隊霊場」から「白虎隊自刃の地」を見下ろす。階段途中に「飯沼貞雄翁の墓」(白虎隊十九士で自刃に及ぶも死にきれずに救われた隊士)がある。
 
 圧倒的な勢いで迫る新政府軍に押され、潰走し、白虎隊士らは負傷者を抱えながら、飯盛山に落ち延びる。そして、白虎隊の少年たち十七名が最後に辿り着いたのが、遠く西南に鶴ヶ城が眺められる飯盛山の中腹だった。
 彼らが目にしたのは、天守を覆い隠す激しい炎と濛々たる黒煙、武家屋敷の大火災であった。この若い隊士らは戻って生き恥を晒すよりは潔く死を選び、御城を拝し、誇り高く、自刃して果てた。
 
 正面に飯盛山で自刃した「白虎隊士19名のお墓」(西軍により手をつけることを禁じられ、約三ヶ月後村人により密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され後この自刃地に改葬された)。右側は、会津の各地で戦い戦死した「白虎隊士31名のお墓」。左側の慰霊碑は県内外で戦死した白虎隊の仲間。
 
 「飯盛分店」さんの無料駐車場に車を停めさせていただき飯盛山へ、観光地のお店の一つと思っていました。ところが、飯盛分店は、代々白虎隊の墓守をしていた飯盛家の女性が、墓守をしながら茶屋をしていたことに始まり、創業昭和3年(1928年)から続く、飯盛山では最も古いお店です。「資料館」等もあります。
 【さざえ堂】 福島県会津若松市
 
 会津さざえ堂は寛政8年(1796)飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂(さんそう)」といいます。重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」、当時飯盛山には正宗寺というお寺があり、その住職であった僧郁堂の考案した建物です。かつてはその独特な二重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。
 「さざえ堂」の名前は「サザエ貝」からきているようだ。ちなみに、日本で最初に建てられた「さざえ堂」は、現存はしていないが、享保13年(1728)頃で江戸本所(東京都江東区)の黄檗宗の羅漢寺だという。現存しているものを列挙すると、①「蘭庭院六角堂」(青森県弘前市)・③「長禅寺三世堂」(茨城県取手市)・④「曹源寺さざえ堂」(群馬県太田市)・⑤「成身院百体観音堂」(埼玉県本庄市)・⑥「西新井大師三匝堂」(東京都足立区)・⑦「大龍寺羅漢堂」(名古屋市千種区)とのことらしい。
 
 上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。
 上りと下り、顔を合わすことなく元に(入口と出口は相対する)戻ってくる。その構造は身近な物で納得することが出来る。→「電球型蛍光灯」(スパイラル型)を眺め理解を深めて欲しい。
 
 正面から入ったら左手へと上る。真上から見ると右回転に上る。そして最上階に到達したら、太鼓橋のような床を横切る。そして下の画像、中央と右側は「振り返っての画像」、真上から見ると左回転で降りてくる。
 栄螺堂(さざえどう、さざいどう)は、江戸時代後期の東北~関東地方に見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂」、「サザエ堂」などと呼ばれる。
 
 「さざえ堂」から「厳島神社」を経て「戸ノ口堰洞穴」へ。これは、猪苗代湖の水を会津地方に引くため掘られた洞穴で、猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら二十名は鶴ヶ城を目指して長さ約150mの洞穴を潜り命からがら飯盛山の中腹へと辿り着いた。そして、彼等は「城下の黒煙」を目にすることになる。
 【旧滝沢本陣】 福島県会津若松市
 戊辰戦争時には会津藩の本陣となり、藩主松平容保公が白虎隊士に戸の口原への出陣を命じた「旧滝沢本陣」、2013NHK大河ドラマ八重の桜のオープニングで使われた市天然記念物の「石部桜」がある。
 到着時は訪れる観光客の姿はおろか観覧料の受け付けも不在であった。ならば、今回の旅の記念撮影と決め込んだところに受付に人影が、観覧料を納め館内へ。
 土間から上がった部屋の囲炉裏端で胡坐をかき・・・・幼い頃の実家を思い出して妄想。→「大戸」と呼んだ一間四方以上の木戸と障子戸の二重戸を開けて入ると台所と呼ぶ土間があった。小上りから「茶の間」その奥に「座敷」北側に「北の間」奥に「中の間」「八畳間」(祖母の寝室兼私の勉強部屋)そして「土蔵」、「座敷」の奥に屋根付橋があって離れの[奥座敷」(二間)。土間の奥は「御勝手」、「へっつい」があり、台所の上は二階部屋、「台所」の奥に「味噌部屋」、裏戸から出ると「外土蔵」そして裏庭で古井戸もあった。門があり、隣りは「物置」その下は「馬小屋」、門の反対側は「長ず場」(外便所)、「座敷」と「奥座敷」の間に「上長ず場」、使っていなかったが「奥座敷」の外側にも「長ず場」があった。「茶の間」と「座敷」の外側に「外廊下」、その「茶の間」寄りに「機織り部屋」があった。[奥座敷」には「畳み敷きの内廊下」があった。屋根は高く萱葺きだった。江戸時代に栄えた家だが、祖父が全て飲み尽くし、父の時代にかなり取り戻すも「私が育った頃は貧乏屋敷」。兄の世代で全て造り直し、現在は「土蔵・日本庭園」が残り、道路拡張で「裏庭・外土蔵」は消滅し往時の面影なし。
 【会津藩校日清館】 福島県会津若松市
 
 1798年(寛政10年)、会津藩家老・田中玄宰の進言により計画される。1803年(享和3年)、会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付したため、会津若松城の西隣に日新館の校舎が完成。1868年(慶応4年)、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみ。
 実際の藩校は焼失したものの藩校に関する図面などの資料が残っていたため総工費34億円を費やし、1987年(昭和62年)3月に會津藩校日新館として会津若松市河東町(開館当時は河沼郡河東町)に完全復元、開館した。この施設は、博物館・道場(弓道場・武道場)・研修や宿泊施設・ 映画撮影所などを兼ねており、各種の武道団体も頻繁に練習や合宿に利用している。→案内図
 「⑮天文台」より「日新館」全貌を撮影した。映画のセットのように見える。
  【会津磐梯山】 福島県猪苗代町
 「白虎隊ゆかりの地」を後に、土湯トンネル越えで福島市、そして国道4号を北上し仙台に向かう。猪苗代町から眺める磐梯山、土湯トンネルを抜けると本降りの雨になった。

   Midi 里の小さい秋みつけた