上毛野国 東国文化ゆかりの地
2018.12.14(金) 晴
 冬場ゆえ「通い道」周辺をグーグル航空写真で探した「東国文化ゆかりの地巡り」へと家を4:45に出た。
 【上毛野国の夜明け】(かみつけのくに→こうずけのくに) 群馬県高崎市
 【蓑輪城跡】(日本百名城の一つ、国指定の史跡) 高崎市箕郷町
瞳閉じ古城で探る冬至梅 (三茶庵)
 
 箕輪城は約500年前に長野業尚(なりひさ)によって築かれた名城。現在の城跡は、井伊直政在城当時のもので、昭和62年に国指定史跡に指定され、日本百名城にも選出された。1541年には、武田信玄に海野平の戦い(上田市)で敗れ羽根尾城に逃れていた海野棟綱・真田幸隆(幸村の祖父)らを一時、箕輪城内にて保護した。→蓑輪城跡
 御前曲輪にある古井戸の右奥に芭蕉句碑がある。「夏草や兵ともか夢の跡」、元禄2513日、「奥の細道」旅中「平泉」での作。この地で「奥の細道」の句碑に出遭い・・・・戦国の武将が築いた山城、建立の選句に納得。
 【石上寺】 高崎市箕郷町
 
 石上寺は布留山潜龍院と号し、箕輪城の鬼門に位置する真言宗の寺院。寺伝では、貞観4年(862)、長野氏の祖先といわれる在原業平が創建したと伝えられ、代々城の祈願所とされてきた。
 弘治3年(1557)、武田信玄の攻撃を受け炎上、天正19年(1591)、時の城主、井伊直政により再建と伝承。慶長3年(1598)、直政が城を高崎の鞘町(さやちょう)に移す。現在、箕郷町東明屋にある石上寺は、移転後も地域の信徒によって護られ、輪廻の塔や六地蔵石幢(せきどう)などの古い石造物が残っている。
 
 その「高崎城」は群馬県高崎市にある平城であり、平安末期から和田氏の居館の「和田城」であった。1590年小田原征伐にて当時北条氏の傘下であった和田城は豊臣秀吉軍の上杉景勝・前田利家に包囲され落城。
 その後、徳川家康が関東へ移封、徳川氏配下の井伊直政が箕輪城に入り、後に高崎に新たに城を築き「高崎城」に居城を移した。関ヶ原の戦いの後、直政が近江佐和山城に移封となった後は、目まぐるしく城主が入れ替わり幕末を迎える。
 
 話しは逸れるが、「東御市本海野」は、真田幸村、昌幸、幸隆で有名な真田一族の本家筋とされる名家海野一族ゆかりの地である。真田昌幸が上田城築城の際に海野の庄から寺社や町を上田市に移しましたが、その後北国街道の宿駅となり、「海野宿」として栄えた。海野宿の開設は寛永二年(1625)で、享和年間には旅籠が23軒、伝馬屋敷が59軒、宿場町の建物は重要伝統建造物群保存地区に指定。ここ「蓑輪城」は非常に関係深く研究の余地あり。
 【保渡田八幡塚古墳】(土屋文明記念文学館・井出二子山古墳) 高崎市保渡田町
 グーグルの航空写真で探した「旅の未知草」、その八幡塚古墳上で朝日を受けての記念撮影。
 車を停めたのは「土屋文明記念文学館」の駐車場。隣りに歌碑が、「青き上に榛名を永久の幻に出でて帰らぬ我のみにあらじ」。明治23年、此処保渡田の農家に生まれる。幼少期に伯父に俳句を教わり、旧制高崎中学在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を「ホトトギス」に投稿。卒業後に恩師村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け「アララギ」に参加。長野県諏訪市・松本市の高等女学校で教頭・校長を務める傍ら作歌活動を続け、法政大学予科教授の1925年に第一歌集「ふゆくさ」を出版。1930年には斎藤茂吉から「アララギ」の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在となる。歌人・国文学者。
 八幡塚古墳、二子山古墳、薬師塚古墳の3つの前方後円墳が集積する古墳群。三つの古墳は、約1500年前の豪族が葬られた墓で、いずれも墳丘長約100mの前方後円墳。広大な二重の堀を巡らし、多量の埴輪を立て並べていた。
 保渡田古墳群のうち、「八幡塚古墳」(平成8年~11年に保存復元整備)、「二子山古墳」(発掘前の形状を変えないように整備)を中心とする地域は「上毛野はにわの里公園」として整備されている。→航空写真
 古墳時代から平安時代にかけて、現在の関東地方で栄えた文化を「東国文化」という。群馬県は古墳時代には「上毛野国」(かみつけぬのくに)と呼ばれ、豊富な資源や、朝鮮半島から伝わった最先端の文化・技術を持ち、東国文化の中心地として繁栄していた。当時の日本は、奈良・大阪などの畿内地域が政治・経済・文化の中心であった。この地域を治めるヤマト王権は、東国と良好な関係を維持したいと考えていたため、経済・文化的に東国をリードする「上毛野国」を重視していた。群馬県内には、ヤマト王権とのつながりを示す大型の前方後円墳や豪華な副葬品など、歴史的な遺産が数多く残っている。
 【三ツ寺公園】(石上寺) 高崎市三ツ寺町
 
 三ツ寺堤は灌漑用に造られた溜池。現在は、新幹線のトンネルの綺麗な湧き水が毎日約5000トン流れ込み、池の水質がかなりいいことでも知られています。そのため、冬場になると渡り鳥も多くやってきます。
 
 石上寺の歴史は古く千百年を越える。その間、歴史の推移の中で幾度もの大きな変転があった。それは箕輪城主、長野氏やその後高崎城主、井伊直政氏らの祈願所として、戦国の城郭と栄枯盛衰を共にしてきた。徳川家より寺領三十石の御朱印を賜わり、十六世辨翁の時、清浄光院と改め、院家寺となり門末十五ヶ寺を持つ隆盛であった。
 
 高崎市三ツ寺町にある石上寺、東明屋(蓑郷町)から移されたということです。いずれにしても、箕輪城の鬼門に石上寺があったことは事実です。また長野氏が多胡碑(上野三碑・日本三古碑、高崎市吉井町)にある石上氏との縁があれば、物部氏の支族であったことの可能性も出てきます。
 
 三ツ寺公園の脇にある石上寺、イチョウの紅葉が綺麗で「名残りの紅葉」を楽しみました。
 【上野国分寺跡】 高崎市引間町
 奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇は国ごとに僧寺と尼寺を造ることを命じました。これが国分寺で、後に僧寺が「国分寺」と言われるようになりました。当時の群馬県は上野国と呼ばれており、その国分寺は今の高崎市と前橋市の境近く、750年頃に建てられた。そして、周辺には多くの古墳が点在している。
 
 僧寺は東西約220m、南北約235mの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る「金堂」と高さ60.5mもある「七重塔」が建てられていた。
 「国分寺・国分尼寺・古墳」めぐりも良さそうだ。調べてみたら東海道の「常陸国分寺・国分尼寺・古墳等」(茨城県石岡市)と東山道の「下野国分寺・国分尼寺」(栃木県下野市)・「陸奥国分寺」(宮城県仙台市)がある。
 
 最初の画像は、復元された「築垣」、次の画像は「七重塔の基壇」、最後の上画像は「金堂の基壇」である。ここまで見て、上野の国(群馬県)は古墳時代から平安時代にかけて古代東国文化の中心として栄えた地と知る。
 【総社神社】(上野国総社神社) 前橋市元総社町
 
 崇神天皇皇子の豊城入彦命が軍神として経津主命を祀ったことに始まるという。安閑天皇の時には上毛野小熊が社殿を改築して「蒼海明神」と称し、天平10年(738)には上野国549社を合祀し「総社明神」と称したという。当地に移る以前は、蒼海城内の宮ノ辺(宮鍋)の地(前橋市元総社町の宮鍋神社)にあったという。
 
 総社とは、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った( 合祀)神社のことである。ちなみに、国名別に挙げると「畿内」に3社、「東海道」に18社、「東山道」に8社、「北陸道」に6社、「山陰道」に7社、「山陽道」に10社、「南海道」に7社、「西海道」に7社、全66社が現存する。
 
 「総社神社」で交通安全の御守りを受ける。ちなみに、御守りやお札は「買う」(販売所・払うでなく授与所・納める)とは言わない。神様の力が宿っていたり分身とも言われ、その数え方は「一体」「二体」という。
 【光巌寺】(総社藩主秋元氏の菩提寺) 前橋市総社町
 
 「光巌寺」は予定外の参詣、芭蕉句碑がある「市立図書館総社分館」の向かいで駐車させて頂いたのが「光巌寺」さんの駐車場であった。
 総社藩一万石秋元氏の菩提所。慶長6年(1601)総社藩に封ぜられた秋元長朝が徳蔵寺の亮應を開基として創建したもの、元総社より総社に移し「光巌寺」(長朝氏の母、光巌院より)とした。境内には、山門・長屋門・本堂・秋元家御霊屋・大師堂・庫裏などがある。画像は「楼門」(竜宮門)。
 
 左画像は「庫裏」、右画像は「本堂」、いずれも大きな建物である。秋元長朝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。館林藩秋元家初代。秋元景朝の子。父とともに上杉憲盛(武蔵国深谷城主、深谷上杉家7代当主)、その後に徳川家康につかえる。関ケ原の戦いを経て上野総社藩主秋元家初代となる。利根川に天狗岩堰をもうけて新田をひらくなど、藩政につくした。下画像は、「秋元氏の霊廟」である。
 
 
 左画像は「袴腰鐘楼」、右画像の左側は「元三代師堂」、右側は「薬師堂」である。鐘楼門は、平安時代に隆盛を極めた鐘楼であったが鎌倉時代に入ると袴腰鐘楼や吹放し鐘楼の型式が多くなった。今年1月の旅の未知草で訪れた鎌倉「英勝寺」を思い出した。
 【総社歴史資料館】 前橋市総社町
 
 芭蕉句碑「けふはかり人もとしよれ初しぐれ」、元禄5103日。赤坂彦根藩邸中屋敷で開かれた五吟歌仙での発句。句碑の後方、道路を挟んで見えるのが「光巌寺」と駐車場。
 左手の築山は「宝塔山古墳」、群馬県は近畿、北九州とならんで古墳の多い地域。光巌寺周辺には「二子山古墳」を始めとし、「愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳」という4つの古墳がある。形式は前方後円墳、円墳、方墳と、バラエティーに富んでいて、石室はすべて開口して自由に内部を見学することが出来る。
 【オランダ型風車】 前橋市滝窪町
 
 東国文化歴史街道(国道353号)にある道の駅「ぐりーんふらわー牧場・大胡」にある「オランダ型風車」、ログハウス販売会社(赤城ロマンド)に何度も行った。懐かしく立ち寄ってみた。
 【赤城神社参道松並木とツツジ群】 前橋市三夜沢町
 
 
 富士見町「小暮」の信号を直進し、「赤城神社参道松並木」沿いに山の手へ、立ち寄りポイントの「三夜沢赤城神社一の鳥居」。
 
 
 その後、間もなく第二ポイントの「赤城神社惣門」。構造形式は「高麗門」、虹梁の袖模様・二重腕木の木鼻等の特徴から18世紀中頃の建立になると推測される。この種の建物は群馬県下にも数少なく、近世中葉の遺構として大変貴重であるらしい。
 
 「赤城神社惣門」、参道を挟んで「下馬碑」がある。「下馬碑」から「三夜沢赤城神社」までは約500mある。この間は馬から降り徒歩になる。
 赤城山麓(前橋市街地)にある「二宮赤城神社」、赤城山腹にある「三夜沢赤城神社」、赤城山頂大沼の畔にある「大洞赤城神社」。「赤城神社」の本宮は三つとなるが、やや不詳の点が残るらしい。
 
参道は一の鳥居で南の大胡方面、東の苗ヶ島方面、西の市ノ関方面の3方向に分かれている。大胡方面に続く道には江戸時代に植えられた松並木が現存する。
 【三夜沢赤城神社】 前橋市三夜沢町
 
 
 「神代文字の碑」があった。神代文字とは、漢字伝来以前に古代日本で使用されたと紹介された多様な文字、文字様のものの総称である。一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあったといわれ、現在はっきりしているものだけでも数種類にもなります。この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神字日文伝」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鐵胤が、上部の神文については、鐵胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治3年3月に建てられました。三夜沢赤城神社にある神代文字の碑の神代文字は「マナヒトコロノナレルユエヨシ」と訳されるようですが、何故、三夜沢赤城神社の境内に建立されたのかは不詳。
 追記、長野県安曇野市豊科1908(道祖神)にも「阿比留文字」碑がある。
 
 「三夜沢赤城神社」で交通安全の御守り、二体目を受ける。式内社論社、上野国二宮論社。旧社格は県社。 正式名称は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「三夜沢赤城神社」とも呼ばれる。関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の、本宮と推測されるうちの一社である。
 
 「三夜沢赤城神社」に行った目的は・・・・「碑撮り」です。「赤城神社」(前橋市富士見町、赤城山頂です)、芭蕉句碑がある場所は「赤城山大鳥居」(大鳥居手前にあり)・・・・何時もは「ストリートビュー」(グーグルマップ)で確認までしているので自信満々でナビ設定した。頭の中では「三夜沢赤城神社」の「鳥居前」とインプット。ところが、左上の鳥居周辺をこまなく探しても見当たらない。社務所で尋ねると「ここには無い」という。宮司さんに聞いてきますとのこと・・・・「××鳥居の前」にあるとご案内。ここで理解したのは「××」とは赤城山頂の赤城神社、時間的に無理との判断で三夜沢神社を後にした。どう考えても腑に落ちなく編集時に再検索、その過程で「赤鳥居」(前橋市富士見町小暮、赤城山にある赤城神社の鳥居)を赤信号(小暮)停車時に撮影した画像を拡大・・・・仰天!右上画像のブジョーの左尾灯後方に何やら石ころが写っている。→芭蕉句碑
 芭蕉句碑、「山路來て何やら床しすみれ草」(野ざらし紀行)、句説は、落ち葉散り敷く山路に一株咲いている紫の可憐な花びらをしげしげと見て、思い出す人に似て「何やらゆかし」となったのであろうか。「東国文化歴史街道」を来て「何やら酸味の強い大チョンボ!」
山路來て何やら愉快(ゆか)し冬至梅 (三茶庵)
 週初めに我が家の一員になった「Impreza G4」との「旅の未知草」、往路436km+復路422km、往復一時小雪が舞う師走路、安全安心の「AWD-EyeSight」が「旅の道連れ」・・・・1月もホテル予約したのでヨロ!
Midi 瞳を閉じて