ゆどのみち 古道“六十里越街道”を行く
2019.05.17(金) 晴
 「令和元年」年初めの「旅の未知草」は、鶴岡松根地籍から日月寺(岩根沢三山神社)までの「ゆどのみち」探索がメイン、サブは「笹川流れ」だが、久し振りに「奥の細道」(村上)も添えてみよう。
 【越後最北の暁】 新潟県村上市藤沢地籍
 家を出たのは昨夜の23時、日の出は「村上市」、右前方の山並み(朝日山塊南端)の空色を見ながら国道7号を北上する。民家が途切れ水田地帯、良さそうな所(イオンの看板が見える)で右に折れる。
 
 
 妻が持たせてくれた朝食を摂りながら待機、日の出時刻は4:29、結局4:135:05まで、小一時間も費やした
 【村上城追手門跡】(大手門) 村上市三之町
 「追手門跡」は村上市役所の隣り、市役所地籍に家老「榊原帯刀」の屋敷があった。芭蕉・曾良が訪れている。
 
 六月廿八日 朝晴。中村ヲ立、到葡萄。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着。宿借テ城中ヘ案内。喜平・友兵来テ逢。彦左衛門ヲ同道ス。
 廿九日 昼時、喜平・友兵来テ、
光栄寺(浄念寺隣り)ヘ同道。一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治右衛門ニ逢。帰、冷麦持賞。末ノ下剋、宿久左衛門(井筒屋)同道ニテ瀬波(三面川左岸河口)ヘ行。帰、喜兵御隠居ゟ被下物、山野等ゟ之奇物持参。又御隠居ゟ重之内被下。友右より瓜、喜平内ゟ干菓子等贈。
 七月朔日 折々小雨降ル。喜平・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。喜平・太左衛門ハ被見立。朝之内、
泰曳院(泰曳寺の誤り、浄念寺)ヘ参詣。巳ノ剋、村上ヲ立。・・・・(曾良随行日記)
 【井筒屋】 村上市小町
 「奥の細道」(村上)では、芭蕉・曾良は、宿「久左衛門」(跡地;井筒屋)で二泊している。→説明板
 【黒塀通り】(安善小路) 村上市小町
 
 「井筒屋」から「光栄寺」(浄念寺隣り、転居して現在はない)へは、「安善寺」の通りを抜けて行ける。この通りは、今は「黒塀通り」(かつては、安善寺通りと言っていた)と呼ばれ、城下町の雰囲気が残っている。「安善寺」の山門は下層に屋根がない二階造りの鐘楼門になっている。→説明板
 安善小路とその周辺には、城下町の歴史的建造物が多く集まっている。この小路を市民の手で城下町らしい昔ながらの黒板塀の景観に戻そうと、市民の手で平成14年早春「黒塀プロジェクト」を立ち上げ、既存のブロック塀を壊さず、その上に木の板を打ちつけ黒く塗ることで、表向き黒塀に変えたもの。(デコパネ)
 
 【浄念寺】(泰叟寺) 村上市寺町
 芭蕉と曾良は到着直後に、村上城に登城している。これは、村上藩の筆頭家老である榊原帯刀直栄の父親榊原良兼が長嶋藩(三重県桑名市長島町)の藩主松平良尚(康尚)の三男で、当時、曽良が長嶋藩に仕官していた関係から面識があったと推定される。また、翌日の廿九日には帯刀直栄から百疋の金が支給され、光栄寺(榊原帯刀家の菩提寺、現在は上越市に移転)と泰叟院(現在の浄念寺)を参拝し瀬波まで足を延ばしている。→説明板
 【寺町通り】 村上市寺町
 左画像は「塩引き鮭」で、民家の軒刺に吊り下げられていた。塩引き鮭とは雄の秋鮭と塩だけを原材料として作る村上市の伝統品。暑さが落ち着く秋の彼岸頃から産卵のために川をのぼる鮭の姿が見え始め、その頃から11月にかけて水揚げされる鮭を使って作られる。村上の鮭は三面川の居繰網漁が有名で、塩引き鮭は川の鮭で作っているというイメージが強いが、実際に商品として販売されている塩引き鮭の多くは海で獲れた鮭か使われる。鮭は川を上る過程で魚体はブナ色に染まっていき、身の脂が抜けていくので、そうなる前の海で水揚げされた銀色の魚体の鮭で作る塩引き鮭が最も美味しく商品価値も高い。
 右画像は「割烹吉源」で、江戸時代後期から
180年の歴史を持つ料亭です。建物は重厚な和風建築で、国の登録有形文化財に指定されています。
 「寺町通り」の寺は、「浄念寺」「経王寺」「長法寺」「西真寺」「妙法寺」と並びで続いている。
 【手仕事街】 村上市;県道530号村上停車場線村上市街地
 村上茶・村上木彫椎朱・染物・味噌・醤油・塩引き鮭等々、手仕事を生業とするお店が並ぶ通りを抜け瀬場に向かう。
 【観音寺】 村上市肴町
 通りに面し「観音寺」がある。平成306月の「即身仏;湯殿山信仰の極み」(旅の未知草)で立ち寄っている。今回の「ゆどのみち」は、「即身仏」を祀るお寺さんを参詣せずには始まらない。
 「観音寺」には、我が国最後の即身仏「佛海上人」が安置されている。佛海上人は、湯殿山注連寺などの住職を務められた後、明治
7年に郷里村上に戻られ、当山住職に就かれた。
 【瀬波海岸】(村上マリーナ) 村上市瀬波新田町
 芭蕉が見物した「瀬波」は、「瀬波街道松原八丁」であろう。その昔、肴町から瀬波町までの道の両側には松並木が続き松原八丁と呼ばれていた。瀬波には「瀬波温泉」(砂浜の先)があり、芭蕉は温泉に入ったと記されている。
 
 芭蕉と曾良が出向いた「瀬波」は、どんな所か知りたく三面川左岸河口部に行って見た。三面川は、「塩引き鮭」が遡上する川である。朝日連峰に源を発する二級河川、古くは瀬波川と言い、鮭の遡上で知られ古くからの独自の鮭文化は有名である。また、1878年に世界で最初の鮭の人工孵化場を設置してる。
 「瀬波海岸」の遠景を三面川右岸河口(村上市岩ヶ崎)より眺める。
 【笹川流れ】 村上市桑川
 
 葡萄山塊が日本海まで迫り、日本海の荒波がつくりあげた造形美「笹川流れ」は何時観ても爽快だ。内陸側の国道7号と比べ通行車両も少ないし、通過時間に大きな差もないので明るい時間帯はお勧めだ。この辺りの路傍に薄赤紫色の花が咲く植物は何というのだろう。(アサツキの仲間だという)
 「奥の細道」芭蕉・曾良は「葡萄峠」(ぶどう簡易郵便局の下方が葡萄トンネル)越えをしている。(再記載;六月廿八日 朝晴。中村ヲ立、到葡萄。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着。)→二つの地図による鳥瞰図;「葡萄山」(1段階拡大)&(Google Map)比較してご覧ください。
 
 沖合に「粟島」(粟島浦村)を眺める。面積9.78㎡、東西6.1km・南北4.4km・海岸線長23.0km(ハーフマラソンより1割程長い)、人工364人という小さいながらも独立自治体である。
 
 この景色は、旅の疲れを癒してくれます。脇見運転をせず・・・・車外に出て思い切り背伸びをする。
 
 引き潮で海藻が浮き出て、乾き塩吹き海藻になっていた。一皮剥いで持ち帰りたいほど美味しそうに見えた。
 
 澄み切った碧い海と白浜のコントラストが美しい。そこに、日本海の荒波の浸食により出来た奇岩怪石の岩礁と洞窟・・・・迷わず砂浜に下りた。松島での芭蕉翁になったつもりで、海水を両手で掬くいあげた。
 「古今和歌集」(第七巻、賀歌344、詠み人知らず)に、「わたつみの浜の真砂をかぞへつつ君が千歳のあり数にせむ」というのがある。「海の浜辺の砂を数えながらあなたの千にもおよぶ長寿の数にしましょう」という意味になります。(海に掛かる枕詞「わたつみの」、「浜の真砂」は数の極めて多いことのたとえに使う)
 本歌取り(一句と二句)で作歌したものの・・・・
わたつみの浜の真砂を手に取りて妹への思ひ今なほつきぬ
 
 透き通った海底、鏡のような海面、何も考えず「ただ」海に向かって大声で叫びたくなる。そんな気持ちを詠んでみた。「笹川流れ」の透明度はバツグン!
しなざかる越の果てなる奇観の地礁をも浮かす笹川流れ
 
 笹川流れは新潟県村上市にある海岸。国の名勝および天然記念物に指定されている地域で、日本百景にも選定された県下有数の海岸景勝地である。笹川流れの笹川とは集落名で、この笹川より沖合いの岩場まで潮流が見られたことが名の由来とされる。
 
 村上の特産品「塩引き鮭」の鮭は、ここ「寝屋漁港」から「定置網」で網上げされたものが使われている。
 「笹川流れ」を堪能できる浜街道(国道345号)と、葡萄トンネルを抜ける国道7号が合流する「勝木」、高台から眺める「寝屋漁港」、昼間の通過時には必ずカメラに収める風景である。
 【ゆどのみち】
 本題の「ゆどのみち」(弘法の渡し-八幡神社-本明寺-十王峠-注連寺-大日坊-庚申塚-多層民家-湯殿山神社)+(口之宮湯殿山神社-八聖山金山神社大瀧祈祷所-日月寺)+(古道沿いの∴印等)を辿ります。
ゆどのみち三猿に卯月曇かな
 生涯教育講座「いろはからの俳句」に投稿、「三猿」は日光であれば分るが無理があるね・・・・との添削。そこで「三猿」を「行手は」に改め「ゆどのみち行手は卯月曇かな」と「初案」に戻そうかと思うも、「十王峠」で猿が行く手を横切ったことを詠みたく・・・・「ゆどのみち行手さえぎる猿麻桛(さるおがせ)」・・・・苦しい?
 【春日神社】(春日神社・法光院、王祇会館) 山形県鶴岡市黒川
 
 黒川能は世阿弥が大成した猿楽の流れを汲むが、いずれの能楽の流派にも属さずに独自の伝承を続け、500年ものあいだ受け継がれて来た庄内地方固有の郷土芸能である。農村定住促進対策事業の補助を受けて設置された。
 
 法光院の創建は文徳天皇の御代である仁寿3年(853)、当時の領主藤原常嗣によって開かれたのが始まり。当初は源心山宝光院と称し六所神社(黒川字仲村)の別当寺院として現在の黒川椿出付近に境内を構えていた。その後、春日神社の別当になると現在地に移り、当地は寺尾山だった事から山号を寺尾山に改め、その後、寺号を法光院に改める。春日神社は当地域の産土神として歴代領主から崇敬庇護され、武藤家からは社領93石、山形城の城主最上家からは慶長17年(1612)に社領56石、最上家が改易後に庄内藩・鶴ヶ岡城の藩主となった酒井家も社領56石を引き続き安堵し、法光院も一山を率いる立場として寺運も隆盛し、酒井家に謁見出来る御目見格を与えられた。
 
 正徳年間(1711-1715)に大恵和尚(羽黒山荒沢寺)により庄内三十三観音霊場第31番札所に選定されるも、その後理由不詳により解除になっている(酒井家の祈願所だった事が理由の一つと考えられる)。
 
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により明治8年(1875)に春日神社から分離し、昭和に入って再び庄内三十三観音霊場の札所に選定された。
 【弘法の渡し】(松根の渡し) 鶴岡市黒川 Google map
 松根は庄内から湯殿山への玄関口で、行者の中には舟で最上川より庄内平野を流れる赤川(朝日山系東岳を源流とする大鳥川が、月山を水源とする梵字川と合流し赤川と名を変える)を上って松根の渡し、別名弘法渡しで降り、そこから険しい十王峠へと向かった。庄内と村山を結ぶ六十里越え街道跡で、ここには樹齢400年超と推定されている赤松とその根元に追分石が残っている。平成元年327日、鶴岡市(旧櫛引町)の史跡文化財に指定。しかし、行って見ると無残にも「赤松」の姿はなく、切株のみが草むらに残っていた。
 
 「弘法の渡し」は、赤川の右岸にあり、赤川で最後まで残った渡し舟であった。
 
武隈の松みならへと跡継ぎに心無くして育つはずなし
 「歌枕の地」(松)を幾つか回っている。何時の写真を載せているか分からないが、事前調査では堂々とした松が・・・・。ところが、行って見ると「枯れた小木」「老木の切株」等が多く考え込んでしまう。「生みの親・育ての親」、子はどちらに懐くか・・・・。
 【松根庵】 鶴岡市松根
 松根庵(しょうこうあん)は松根城主松根氏の菩提寺といわれ、慶安4年(1651)に開基されたという。本尊は延命地蔵尊とされ、最上院と共に松根氏の関係寺院といわれる。庵の西方500mほどには松根城跡がある。赤川を利用した自然の堀跡が残っている。(Google map
 【最上院】 鶴岡市松根
 
 「最上院」は松根城跡に建つ、松根庵と共に松根氏の関係寺院。「松根城」は、元和元年(1615)松根(白岩)備前守光広によって、村山と庄内を結ぶ六十里越街道を抑える要地に築城、元和8年(1622)最上家が最上騒動により改易になると光広は柳川立花藩にお預けの身となり廃城となる。山門は、石仏らしきものが祀られている。詳しくは調べても分からなかった。要は、この前の道路が「六十里越街道」であることは定かのようだ。
 【八幡神社】 鶴岡市松根
 
 八幡神社は旧櫛引町役場の南南東方、松根にある。創建された年代は元和2年(1616)といわれ、松根城主の入部の際に守護神として祀られたものという。元は諏訪明神社と呼ばれていたといい、神社の前の道は昔の六十里越街道という。
 
 松根八幡神社から十王峠への登り道になる。天和二年(1682)、国目附保科主税が庄内に巡見に来た際に、家臣の南部郷右工門が記録した「大泉庄内御巡行紀行」のうちの「湯殿山之記」に・・・・、
 
 (前略)山みな赤土にして、すべる事ハうなぎのせを渡るより猶なめらかなり、坂きうにしてひたいにあたるがごとし、両手を提てほうて登らんとするに壱尺登りては弐尺もすべりおちる、ここに至り躊躇して去る事あたわず、汗泪をながし居るに案内者杖をト指出ス、是に労を扶けられ漸打登り十四五丁行に、右の方ハ高山かさなり谷に二河やうやうと流るるあり、櫛引川・八苦和川見ゆる此所別ながめと云、是より峠をのぽるに猶道なめらかにしてかき田のごとし、漸登て十王堂あり(後略)とあることから、かなり苦労して登っていたようだ。
 【本明寺】 鶴岡市東岩本
 
 「本明寺」を参詣するのは2度目で、第878話(2018.6.15)「即身仏;湯殿山信仰の極み」に次ぐ。当寺には、庄内最古の即身仏「本明海上人」が安置されている。
 
 
 「本明寺」さんの山門前の道が「六十里越街道」である。駐車場付近に居られた方に、車で「十王峠」越えが可能かお聞きした。「大丈夫、狭いのでお気をつけて」と丁寧に教えて頂いた。
 【十王峠】(六十里越街道十王峠展望地) 鶴岡市大網
 
 鶴岡市を出た白衣の行人たちは、この道によってまず十王峠を越える。越えれば眼下に七五三掛の村があり、注連寺があります。十王とはあの世に逝くもの達を裁く王達のことであり、七五三掛のシメも注連寺も、共にシメ縄のシメです。すなわち、そこからはタブー、湯殿山の神域であることを示すのです。(「月山抄」森敦より)
 
 山を越え雲間を横切り沢を渡り、時には森の小径と合流して彼方へと果てし無く続く。草むす沿道は冬には雪に埋もれるが、その長い歴史を物語る数多くの史跡がひっそりと眠っている。六十里越街道は西の紀州熊野、東の修験道のメッカ出羽三山と共に古代から行者の信仰が厚く、江戸時代に入って全盛を極めた宗教道路として栄えた。
 
 松根八幡神社から十王峠への登り道になる。天和2年(1682)、国目附保科主税が庄内に巡見に来た際に、家臣の南部郷右工門が記録した「大泉庄内御巡行紀行」のうちの「湯殿山之記」に、(前略)山みな赤土にして、すべる事ハうなぎのせを渡るより猶なめらかなり、坂きうにしてひたいにあたるがごとし、両手を提てほうて登らんとするに壱尺登りては弐尺もすべりおちる、ここにいたりちうちょして去る事あたわず、汗泪をながし居るに案内者杖をト指出ス、是に労を扶けられ漸打登り十四五丁行に、右の方ハ高山かさなり谷に二河やうやうと流るるあり、櫛引川・八苦和川見ゆる此所別ながめと云、是より峠をのぽるに猶道なめらかにしてかき田のごとし、漸登て十王堂あり(後略)とあることから、かなり苦労して登っていたようだ。→説明板
 【注連寺】 鶴岡市大網
 
 第878話(2018.6.15)「即身仏;湯殿山信仰の極み」に次ぐ2度目の参詣。山形県庄内地方を中心に全国に十六体の即身仏が現存しその多くの即身仏は注連寺に入門して湯殿行者になられた注連寺系即身仏。湯殿信仰の布教と衆生救済の聖者として、篤い信仰を集めた鉄門海上人の即身仏が安置され、注連寺は即身仏の聖地とされている。
 
 この難儀な道の途中には、延享5年(1748)建立の庚申塔や直径1m位の赤松の下に山神碑そこから200mほど進むと元治元年(1864)建立の湯殿山碑があり、北に庄内平野、南には遠く月山・湯殿山、麗の七五三掛、大網の村々が一望に見渡せる。ここはかつて地蔵や十王堂、茶屋があり、注連寺・大日坊の出迎所になっていたという。道は下りになり、六地蔵とイタヤ清水へと通じる。イタヤ清水とは、近くにイタヤの木があるからか、あるいはすくって飲むとあまりにも冷たくて歯が痛むからという説が今に伝えられる。(六十里越街道の歴史「歴史街道見聞録」より)
小説「月山」のあらすじ;森敦文庫
 鶴岡の住職に紹介状を書いてもらった明は、月山に向かった。その寺は月山の山麓に抱かれた渓谷にあり、その周囲には合掌造りの家が点在し、他所者を寄せつけない寡黙な村人たちが住んでいる。その中で、独人住いの寺番太助は温く明を迎えてくれた。明は、菜を背負い、もう遠い庄内の風物詩になっているハンコタンナの覆面をした若い娘、文子に出会う。明は、この閉じこめられた渓谷の中で、なおも溌刺とした若い生の息吹きに一瞬とまどった。雪は村全体をすっぽりと包み、隣り村まできていたバスも遮断され、村は長い冬篭りに入った。庫裡の二階に泊る明は、古い和紙の祈祷簿を貰い、それを貼り合せて和紙の蚊帳を作りあげ、吹き荒れる風の音を聞きながらその中に寝た。蚊帳の中に、電灯の光がほのかにこもり、それは、乳白色の繭の中に横たわっているようだ。
 そんな冬の中、村人たちは密造酒を造り、闇の酒買が村を訪れる。数日後、村人たちは寺に集まり、念仏を唱え、やがて酒宴を開いた。明は皆が酔ってくる頃、自分の部屋に戻ったが、蚊帳の中には文子が寝ており、驚いた明は、ソッとその場を離れた。村人たちが帰ると、酒宴に顔を出さなかった太助が、文子の生立ちを語った。文子の母は他所者の後を追って村を出、数年後、村に戻ると彼女を産んで死んだと言う。」「他所者と一緒になって幸せになったものが居るだがや」と太肋は話す。元旦の朝、明と出会った文子は「お前様と一緒にここを出て行ければ幸せだの…」と言う。数日後、村はずれで男女の死体が発見された。他所者の酒買と駆け落ちした加代の二人だ。村はずれに薪を積み上げ、加代の屍を焼く村入たち。その中で、合掌する文子は明に「どうしようもないさけ……」とつぶやく。その日から文子は二度と明の前に姿を現わさなかった。ある日、明は雪の中に燕の屍を見つけた。「おらほうは冬の頂だけど、平野部はもう春だろの……」太助は、強い燕ほど早く奥へと渓谷を上って来るのだと言う。明は僅かにふくらみを見せ始めた木の芽を見つめた。明は月山を下りる決意を固めた。
 
 「本明寺」「十王峠」「注連寺」と、ここまでの山道が「六十里越街道」、随所に幟旗が波打っていた。
 【七五三掛地区】 鶴岡市大網
 
 
 六十里越街道にある月山・湯殿山参詣の登山口で、八方七口のひとつ注連寺の七五三掛(しめかけ)口 、出羽三山参詣口の一つとして広く知られるていた 。しかし、明治の神仏分離に伴い湯殿山を含む出羽三山がすべて神社となると、ここ注蓮寺と大日坊は神社への改宗を拒否して真言寺の威信を保った。そのため、湯殿山参詣所としての役割は無くなってしまい、寺や周辺の宿坊も次第に廃れ、寺は住職もいなくなり「破れ寺」へと落ちぶれる。だが、地元の方々の厚い信仰心と共同体の意識に支えられて寺は廃寺になることなく維持されてきた。
 
 山形県鶴岡市大網七五三掛地区地すべり山形県のほぼ中央に位置し日本百名山のひとつに数えられる月山(標高1984m)の麓。映画「おくりびと」のロケ地、鶴岡市大網七五三掛地区(しめかけちく・旧朝日村)で20092月ごろから家の構造に歪み、みしみしと音が聞こえ、ふすまやドアが開かなくなるなど地すべり兆候が見られた。雪解け後4月ごろから地割れ段差などが生じ現在まで大規模な地すべりが続いている。一時は110cmほど地面がずれ動き、62日でも1日約3cm~6cmの地すべりが観測されていた。地すべり範囲は長さ約700m、幅約400mでところによっては2~2.5m近く沈下。住民626人は全員自主避難しているが、今後同地域での生活や農業継続は困難とみられ集団移転せざるを得ない状況にある。県では地すべりの原因を地下約25mにある地層の境目に地下水が流れ、それにより地すべりが起こっているとして現在、地質調査及び水抜き作業を行っている。
 【瀧水寺大日坊】 鶴岡市大網
 
 878話(2018.6.15)「即身仏;湯殿山信仰の極み」に次ぐ2度目の参詣。湯殿山総本寺瀧水寺大日坊、即身仏「真如海上人」が安置されている。
 
 「六十里越街道」の「大網」には、注連寺と並び女人の三山遙拝所として栄えた大日坊がある。庄内側から来た行者は、注連寺かこの大日坊で入山許可証を受け田麦俣に宿泊した。
 
 庄内藩主の参勤交代通路は、通常清川から船で最上川を上り、舟形から羽州街道、奥羽街道を通り江戸へ行く。しかし一度だけ六十里越街道を通ったことがある。天保6年(1835)、昨年からの多雪のため、311日の朝、鶴城を出発しその日大日坊本陣に泊まることになり、大網中の老若男女から子供までが総出で雪道づくり。里方からも400人ほどに上ってもらい、雪踏みをしてもらった。行列は家来数百人、荷物は全部そりで運搬、殿様と高級役人は籠、それに女20人と医師も籠、その他槍持、長刀持、鉄砲持、高提灯持等というものものしいものだった。翌12日の明ヶ七ツ(午前4時)、500本の松明を用意して出発している。このことは大網村の百姓関谷五郎右ェ門の「稲帳」や大日坊旧記の一部「天保六年末三月十一日六十里殿様御通行ニ付大日坊御本陣ニ付諸扣」に残っている。
 
 庄内地方と内陸を結ぶ「六十里越街道」は、1200年前の昔から開かれたと言われている。鶴岡から松根、十王峠、大網、塞ノ神峠、田麦俣を経て大岫峠を越え、志津、本道寺、寒河江を通り山形に至る険しい山岳道であった。
 
 大日坊の開基は大同2年(807)、弘法大師によるもので、正しい寺名は湯殿山瀧水寺金剛院という。徳川家三代将軍の座をめぐり、竹千代君(のちの家光)の乳母お福(春日局)が祈願をかけ、寛永17年(1640)、春日局により再建されたということも記録として残っている。山門→説明板
 六十里街道も十王峠を避けて梵字川ぞいに新道がつくられてからは、十王峠から注連寺、大日坊、湯殿山へと行くべきものを、まず大日坊を尋ね十王峠へと引き返して注連寺へと行かねばならなくなった。湯殿山表口別当寺として大日坊に優るとも劣らぬ繁栄をみせていた注連寺が急速に衰えて行ったのもこのためだとも言われている。
 【多層民家】 鶴岡市田麦股
 江戸時代には、田麦俣集落の家数はおよそ三十軒あり、その中に永楽屋を始め、七、八軒の旅籠屋があった。元来庄内藩の山守の定住地として発生した集落として伝えられる。今回六十里越街道の道案内をして下さった渋谷渉氏はその子孫であるという。また、明治時代まで田麦俣から蟻越坂を登る白い行列が絶えず見え、夜になると松明の灯がゆらゆらと続いていたという。この田麦俣は大日坊の出張所で、本道寺に対する志津のような集落。明治八年神道となり一時は三山社務所の出張所ができて入山許可証を発行したときもあったが、行者が減ってからはもっぱら養蚕に励んだ。→説明板
 
 日本海に面した庄内地方と内陸部の村山地方を結ぶ六十里越街道の中間点にある田麦俣は湯殿山神社への参拝客が立ち寄る宿場町としての性格を有していた。また、豪雪時の出入りを容易にするためと、山間地であるため広い敷地の確保が困難なことから、三層構造で居住空間と客人を泊める空間を立体的に確保した茅葺きの建築形式が発展した。これらの民家は明治に入り養蚕業が盛んになると、2階・3階部分の採光と通風を確保するため、寄棟屋根の平部分には屋根窓が設けられ、妻面側は屋根を垂直に切り上げた兜造りへ改造されるようになった。
 「曾良随行日記」に寄れば、「六月六日 天気吉。登山。(略、月山)七日 湯殿ヘ趣。・・・・月山ニ変ル・・・・南谷ニ帰。甚労ル。」とあり、月山・湯殿山は2日間で詣でたことになる。未踏の「月山」、最短日帰りコースは、[月山姥沢〜山頂(月山神社)片道約 2時間(3.3km)※リフト使用]とある。いずれ機会があれば参詣してみたい。
 
 2005年に124年の歴史を終え閉校となった「旧大綱小学校田麦俣分校」をリニューアルし、「たにしの楽校」が2010年にオープンされた。写真、絵画を展示するギャラリー、詩や俳句の朗読会、映画の上映会など、地域の方はもちろん、遠くからも多くの方が訪れ、美しい風景や懐かしい校舎とともにひとときを過ごされているという。
 広場(駐車場)を挟んだ小高い杜に「田麦神社」があり芭蕉句碑がある。幾度も立ち寄っているが、「たにしの楽校」は覗いてもいない。一度、機会があれば内部の見学もしてみたいものだが・・・・開校は第
1・第2・第4日曜の11:00-15:00(これ以外のご来校については事前問合せをとあり)、私が立ち寄るのは金曜、閉館のはず。
 
 
 芭蕉の句碑は、語られぬ湯殿にぬらす袂かな、元禄263-10日、「奥の細道」旅中「出羽三山」にて詠まれた句。
 
 【湯殿山神社】 鶴岡市田麦股
 「湯殿山神社」にある芭蕉と曾良の句碑撮影に、最初に来たのは2016.5.20、同じ時期だが残雪量が大分異なる。その際は、残雪もなく花が咲いていた。ただし、芭蕉句碑の頭部分がわずかに残雪より見える程度だった。やむなく、再び(2016..6.17)訪れることになった。
 
 
 残雪量で芭蕉・曾良の句碑までは行くことは全く考えなかった。駐車場付近で「一世行人即身佛修行の地」(行人塚)なる碑が偶然目に止った。一世行人または一世別行人、修行専門の行者。湯殿山宝前で誓いをたて、別当四カ寺のいずれかに入門し、得度したのち海号の免許を受けて一世行人を名乗るのである。一世行人は、一生の間肉食妻帯をたって苦行を続けなければならない。表口は仙人沢、裏口は玄海にある行屋に篭り、千日あるいは三千日、五千日もの長いあいだ、木食しながら毎日垢離をとり、一日三度の宝前参拝の苦修練行を続ける。
 行人塚の行人とは修行者の意で、一世行人は一生涯修行に打ち込む人の意。即ち、特定の即身仏を指すものではない。庄内地方及び新潟県北部地域にわたる
10数体である。いずれも表口別当注連寺と大日坊、その末寺の行人寺に奉安されるもので、今のところ裏口別当寺関係の即身仏は発見されていない。注連寺系は、本明海上人(本明寺)・忠海上人(海向寺)・円明海上人(海向寺)・鉄門海上人(注連寺)・鉄龍海上人(南岳寺)・仏海上人(観音寺)。大日坊系は、全海上人(観音寺)・真如海上人(大日坊)・観海上人(大円寺)。青字は既参詣(寺)。
 
 
 
 【口之宮湯殿山神社】(本道寺湯殿山神社) 西川町本道寺
 
 国道112号線、「風吹峠」から右に折れ本道寺集落にある「本道寺山門」へ。→説明板
 
 旧幕府軍の敗走後、本道寺は将軍家の祈願所であったため、新政府軍の攻撃を受け大伽藍を焼き払われる(入間森畑の戦い) 。さらに、明治7年(1874)に神仏分離令が発せされると、本道寺は寺号を廃して口ノ宮湯殿山神社となった。戊辰戦争の際に焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890)に拝殿や本殿として再建されたが、その規模は往時に比べて大きく縮小された。「本道寺山門」は「月光山本道寺」の唯一の名残りだろう。
 (一部重複記述)明治初頭までは、神仏習合の修験道(羽黒派修験)の山、出羽三山湯殿山派の別当寺
4か寺の1寺である月光山本道寺であった。明治元年(1868)、本道寺の周辺は、戊辰戦争の戦場となった。そして「廃仏毀釈」で神道へ・・・・不思議なことに、「鳥居」を潜り「山門」を潜り、参道を上り再び「鳥居」、そして「神社」へと参詣する。「湯殿山」の山門の「仁王像」は・・・・「口之宮湯殿山神社」にかつて祀られていた「仁王像」は、「神仏分離令」(1868)で神社となり仏像は放棄され「仁王像」は「弥勒院」(西村山郡河北町)に移り1905年に「仙台ホテル」(仙台市)に売却されロビーに飾られる。そして、「仙台ホテル」(嘉永三年/1850創業)は、譲り受けて100年目、リニューアルに伴い「元の場所に戻そう」ということになり、ここ「口之宮湯殿山神社」に130年ぶりの里帰り(2005)を果たし、「拝殿」に安置されることになった。ところで、その「仙台ホテル」は平成21年(2009)に閉館され、現在跡地は場行施設「EDEN」(2011)になっている。多分、かつて本社勤務時宮城県の工場に上野仙台間の夜行列車「新星」で出張した際に早朝サウナを毎回利用した・・・・それが仙台ホテルだったかもしれない。また、平成元年(1989) には「空海座像」を栃木県内の古美術商より買い戻している。→説明板
 
   
 本道寺地区(西川町)は、殆どが山林地帯で集落は「画像に写っている」狭い範囲、世帯数は15戸で人口は27人・・・・往時は、出羽三山参拝の「八方七口;本道寺口」、本道寺を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は、(参拝のピークである)夏の稼ぎだけで遊んで暮らせたほどの繁栄を誇っていたという。
 
 
 
 
 「口之宮湯殿山神社」(本道寺湯殿山神社)の参道石段右手にある芭蕉句碑は語られぬ湯殿にぬらす袂哉、元禄263-10日、「奥の細道」旅中「出羽三山」にて詠まれた句である。→芭蕉句碑
 
 
 「芭蕉の句碑」を撮り始めたのは、平成25614日(2013)である。数えれば満6年、年月の過ぎるのは早いものだ。「羽黒山」詣では、平成26919日(2014)、「ゆどのみち」は平成28520日(2016)、3年も経ってのこと。その時は、「旧本道寺代参塔群」の右端に芭蕉句碑があった。そして、平成291020日(2017)には句碑が無くなっていた。平成30817日(2018)に移転先(参道石段右側)を確認した。→説明板
 【八聖山金山神社大瀧祈祷所】 西川町水沢
 
 大同4年(809)空海が本道寺とともに開山したと伝承。中世以降は、出羽三山神社の道中祈願所として栄え、湯殿山正別当と称した本道寺に親依してきた修験道の二院を基とすると伝承。江戸時代以降は、鉱山師、鉱山従事者の信仰を集め、全国唯一の鉱山の神として信仰の対象となってきた。西川町の歴史にとって欠かせない出羽三山信仰、とりわけ類例の無い修験道建築や鉱山信仰の栄華を今に伝える数少ない建造物。八聖山金山神社は、ひとつの神社に二つの宮司社家。これは現在も残っている二つの金山神社の別当(宿坊など)がそのまま二つの宮司社家となっている。社殿に近い側が最上別当、その南側に大瀧別当となっている。
 【岩根沢三山神社】(日月寺) 西川町大慈岩根沢
 
 長耀山日月寺の創建は嘉録2年(1226)、大和から巡錫で当地を訪れた僧が一宇を設けたのが始まりとされ嘉慶元年(1387)に出羽三山の修験者の拠点の1つ本格的な根本道場の寺院として清亮により開山しました。境内は月山の登拝口に当たる為、日月寺は月山神社の別当寺院として信仰を集め門前には数多くの宿坊が軒を連ねた。
 
 寛文7年(1667)・延享元年(1744)・天保7年(1836)の3度の火災により堂宇が焼失し再建には多額の費用が捻出され苦しい運営が強いられたそうです。江戸時代に入ると幕府の重鎮である天海大僧正の影響を受け真言宗から天台宗に改宗、上野東叡山輪王寺直轄末寺となり、以降は東叡山から住職が派遣された。→説明板
 
 岩根沢は、西川町中心部の間沢から北へ山間部に進んだ奥にある。ここから月山への登山道があるため、出羽三山への主要な登山口(八方七口;岩根沢口)となっている。
 
 

 大きな「本殿」は、仏堂・客殿・座敷・庫裏等を全て一つの建物内に納めた複合建築とする点に特色がある。「岩根沢三山神社」がある「西川町」は豪雪地帯であることが容易に分かる。最初から「雪囲い」を考えた建築になっている。「雪囲い」は、北海道・東北・北陸の日本海側の豪雪地帯で冬季、家屋などの建物等の囲いである。
 
 
 
 「本殿」裏手の山に「要害神社」(旧日月寺大日堂)と「祖霊社」(旧日月寺地蔵堂)がある。これは見落とすところであった。「要害神社」(稲荷様)は岩松寺門の守護神であったが社殿の復元財源として郷土の守護神として移転、合併により村から町になったことで「村社」の部分が消された。「要害=要塞」という意味らしい。「要害神社」の境内から裏手から農道のような小道が見える。多分、この道が「月山登山口」に向かう林道であろう。
 【仙台の某ホテル】 仙台市若林区
 
 ホテル8階の部屋からの[夜景」(仙台市中心部方向)と「夜明け」、旅の疲れをとろうとマッサージを予約、22時過ぎになるとフロントからの連絡・・・・眠りについているのでとキャンセル。今日のドライブは589km。翌日は早めに会議を終え15時前に帰路につく。仙台東ICから西那須野ICまで高速、日光・足尾経由で22時前に帰宅。
平成の桜散りゆく令和へと何時になったら読み終へる歌碑
 「旅の未知草」は、帰宅し、一週間もあれば書き上げていた。今回は、「令和元年」年初めの「旅の未知草」であるが、書き終えたのは・・・・勿論「令和元年」ではあるが「1012日」、5ヶ月も後のこと・・・・歳なのか、文章が諄くなったのか、この紀行に限らず書き上げるに日数がかかるようになった。実は、「ゆどのみち」の前、平成31419日の「石背国;歌碑に聞く令和の足音」が未完成である。それこそ、「令和元年」のうちに書き上げないと、芭蕉の「おくのほそ道」になってしまう。
 MP3 夢幻の風