奥の細道 庄内・最上・村山の旅
2019.06.14(金) 晴
 今回の「旅の未知草」は、R18号で直江津、R8・R116で新潟からR7、日本海沿いを北上し「酒田」、その後は「最上川」沿いのR47で「庄内・戸沢」、「新庄」からR13を南下「舟形・大石田」で旅を終え東根よりR48で仙台入りというコースである。旅の4日後の6/18、村上・鶴岡両市を襲った震度6強の沖合地震、さほど時間差がない、幸運にも被災を免れた。とは言え、通過地域の皆様、お見舞い申し上げます。
 【日本海の暁】(道の駅あつみ) 山形県鶴岡市
 酒田の日出時刻は4:14、大凡の検討では「道の駅あつみ」辺りで夜が明けるであろう。
 途中の休憩は「道の駅豊栄」(2:08/2:19)、「道の駅あつみ」に着いたのは3:42、撮影には少し早い、妻が用意してくれた朝食を摂り時間調整、4:00を回った頃、日本海に沈む夕日が絶景(夕日のまち温海として知られている)という「磯部の散策路」へ。上画像の左外れの方角に夕日が沈む。その反対方角が日出位置となる。その両者の中央方向が朝焼け・・・・
 
 
 上画像は3:50頃にコンデジで撮影したもの、実際の色合いに近い。小画像上は「鼠ヶ関漁港」付近であろう。また、小画像下は「粟島」(笹川流れ)になる。「磯部の散策路」に立ち沖合を見て右手30°の方向に夕日が沈む。
 【鳥海山】(庄内冨士) 鶴岡市
 5時少し前、酒田市街地に入る直前、日出後の逆光(画像右端外に太陽)で鳥海山もシルエットとしてしか見えなかった。
 【本間家旧本邸】 酒田市二番町
 
 本間家旧本邸は、本間家三代光丘が幕府の巡見使一行を迎えるための宿舎として明和5年(1768)に新築し、庄内藩主酒井家に献上した、二千石格式の長屋門構えの武家屋敷(桟瓦葺平屋書院造り)です。芭蕉直筆の懐紙が本間美術館に残されているなど時代を超えてのつながり。上画像は、「本間家旧本邸の別館」。
 【玉志近江屋三郎兵衛宅跡】 酒田市中町
 
 近江屋は酒田三十六人衆(徳尼公に従った36騎の後裔、この36家が酒田を開発した為、大きな権力と富を掌握した)の1人で、三郎兵衛(嘉右衛門)は襲名前の名前、豪商(鐙屋)である。俳人としても知られ俳名は玉志、芭蕉一行が明日酒田を出立する話を聞いて招き即興発句会を開く。
 「初真桑四にや断ン輪に切ン」(芭蕉)
 「初瓜やかふり廻しをおもい出つ」(曾良)
 「三人の中に翁や初真桑」(不玉)
 「興にめてゝこゝろもとなし瓜の味」(玉志)
 「徳尼公」は「徳の前」あるいは「和泉の方」ということもある。奥州藤原初代清衡の養女か三代藤原秀衡の娘か妹、はたまた側室説もある。徳尼公は、藤原氏三代目秀衡の遺臣三十六騎を従えて、逃避行ののち、出羽国坂田に落ち着いた。遺臣三十六人は酒田の地侍として住み着いて、三十六人衆を組織し、回船問屋などを営み、酒田の発展に尽くした。
 【旧鐙屋】 酒田市中町
 鐙屋は酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たした姿を今に伝えている。当時の鐙屋の繁栄ぶりは、井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されたほど、屋敷は石置杉皮葺屋根の典型的な町家造り、内部は通り庭(土間)に面し、十間余りの座敷、板の間が並んでいる。酒田三十六人衆の筆頭格として町年寄役を勤め町政に重要な役割を果たした。一説には、玉志近江屋(鐙屋)三郎兵衛邸跡(近江屋=鐙屋)。
 【不玉邸跡】 酒田市中町
 元禄2年(1689613日、「奥の細道」の途次、酒田に着いた松尾芭蕉は15日象潟に向かって出発。再び酒田に戻り、俳人不玉の家に一週間余り滞在した。不玉は、庄内藩お抱え医師、伊東玄順の俳号。曾良随行日記には、「アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着」と記されている。アイの風というのは、当時の北前船にとって順風だった。おそらくこの船に乗って酒田に戻ったのだろうと考えられている。
 【安種亭令道宅跡】(寺島彦助宅跡) 酒田市本町
 芭蕉が酒田に入った翌日614日、安種亭で句会が開かれ、「涼しさや海に入りたる最上川」詠んでいる。「おくのほそ道」では、「暑き日を海に入れたり最上川」と推敲。寺島彦助は名、安種亭令道は俳号、 酒田湊の浦役人で幕府米置場の管理にあたる。
 【山王くらぶ】(宇八楼) 酒田市日吉町
 「旧山王くらぶ」は明治28年(1895)に建てられた料亭(宇八楼)である。当時の料亭建築を知る上でも貴重な料亭建築であり、平成15年(2003)に国登録有形文化財に登録。平成20年(2008)以降は観光施設「山王くらぶ」として一般公開され様々な資料が展示されている。
 【舞妓坂】 酒田市日吉町
 「北前船」で栄えた「酒田の街」、寺町通り「相馬樓」「香梅咲」前の石畳の通りを「舞妓坂」というようだ。
 【相馬樓】 酒田市日吉町
 「相馬樓」は、江戸時代より料亭「相馬屋」として繁栄、明治27年の庄内大震災の大火で焼失。現在は、1階が「茶房くつろぎ処」、2階の大広間は舞娘さんの踊りと食事を楽しむ演舞場、厨房は舞娘のけいこ場になっている。
 【香梅咲】 酒田市日吉町
 「相馬樓」と小路をはさんだ隣りに「香梅咲」(料亭)がある。江戸末期1854年創業、北前船の交流と文化を色濃く残す由緒高き老舗料亭。
 【姿見小路】 酒田市日吉町
 
 「相馬樓」と「香梅咲」の間に一間足らずの狭い通りがある。芸者と馴染客が、別れを惜しんだとか言われている「姿見小路」、芸者さんがお座敷に上がる前に身なりを整えるために鏡を見た・・・・酒田の花街の象徴のようだ。
 【下小路坂】 酒田市日吉町
 「下小路坂」に向かう途中で「キャバレー・ロンドン」の看板を見かけた。高度成長で絶好調の1960-1970年頃に最盛期だった。上京し画学生気取りをしていた頃を思い出す。酒田の街には、昭和の全盛期の情景が残っている。
 【旧割烹小幡】(NKエージェント事務所;おくりびとロケ地) 酒田市日吉町
 
 「下小路坂」を登り切るところに「旧割烹小幡」がある。松竹映画「おくりびと」のロケ地になった建物である。職探しをする主人公が面接に行った「NKエージェント事務所」だ。
 【海向寺】 酒田市日吉町
 
 二体の即身仏「忠海上人」「円明海上人」が安置されているお寺さんだ。「旅の未知草」(2018.6.15)、丁度一年前に「即身仏;湯殿山信仰の極み」で訪れている。
 【旧光丘文庫】 酒田市日吉町
 
 大正14年(1925)本間家の蔵書を中心に有志家による数万点の貴重な蔵書を集めて建設された「光丘文庫」(こうきゅうぶんこ)。
 【旧白崎医院】 酒田市南新町
 
 大正8年(1919)に建てられた酒田唯一の木造洋風建築。酒田大火後、市に寄贈され現在地に移転。
 【日和山神社】 酒田市日吉町
 
 神社前の坂を「芭蕉坂」と呼ばれている。→「旧出町標柱
 【日和山公園】(文学の散歩道案内図) 酒田市南新町
 
 かつては、「文学の散歩道」(酒田ゆかりの文人墨客の短歌、俳句等の文学碑)という個人のホームページがあった。芭蕉句碑の撮影に役立たせて頂いた。サーバーの関係で今は閲覧が出来ない。普通より大きな画像にしたので画像クリッリで参考にされたい。
 この
29碑より、「奥の細道」関連の「芭蕉句碑・文学碑」(日和山公園内)と「伊東不玉句碑」(下日枝神社)を撮影した。
 
 「日和山公園」のシンボル的存在の「往時活躍した千石船」(1/2)と「日本最古級の木造六角灯台」である。酒田灯台の初代として明治28年(1895)最上川河口の宮野浦に建てられ、当時は「宮野浦灯台」とか「六角灯台」と呼ばれていた。2代目へ建て替える際、取り壊さずにこの公園に移築された。現在の酒田灯台は3代目で、酒田北港緑地展望台として活躍している。
 
 「おくのほそ道」(酒田)元禄2623日、象潟から再度酒田に戻り、「酒田」の「あふみや玉志亭」(玉志近江屋三郎兵衛宅跡にて記載済み)での即興発句会で詠んだ句。→碑面拡大
 
 「奥の細道」旅中、酒田「不玉邸」滞留中での芭蕉の作。「温海山や吹浦かけてゆふ涼」
 
 「奥の細道」旅中、酒田「不玉邸」滞留中での芭蕉の作。「暑き日を海に入れたり最上川」。→碑面拡大
 【下日枝神社】 酒田市日吉町
 
 「下日枝神社」(日枝神社)の「随身門」(鳴き天井、参道の曲折は俗界と聖域を区分し参拝者の精神統一を計らせるもの)と「山王鳥居」(明神鳥居の上部に三角形の合掌、或は破風の如きものが加わった当社独特の鳥居、画像は日和口、表は舞妓坂上り詰め)。
 
 「下・上日枝神社」は、神仏習合時は「山王宮」として「下日枝神社」にあった。神仏分離令により神社のみとなったが「山王さん」と呼ばれ今日に残る。
 
 
 「下日枝神社」の右奥に「光丘神社」(酒田の基礎を築いた本間家三代光丘を祀った神社、功績を讃え文化13年/1816に建てられた)がある。そこに通じる参道に「伊東不玉」の句碑「博労の泊り定めぬ秋の風」がある。「不玉」は、「奥の細道」旅中の酒田で芭蕉を迎えた折りに蕉門に入る。各務支考らとまじわり酒田俳壇の基礎を築いた。→句碑拡大
 【山居倉庫】 酒田市山居町
 
 山居倉庫は、明治26年(1893)に酒田米穀取引所の付属倉庫として、旧庄内藩酒井家により最上川と新井田川に挟まれた通称「山居島」に建てられた。舟による米の積み下ろしに便利な立地で、12棟の巨大な木造の倉庫を連ねた美しい建物と、最上川側のケヤキ並木が独特の風情を伝えている。
 
 今回の「旅の未知草」での記念撮影は「山居倉庫」の樹齢150年の「ケヤキ並木」でと決めていた。営業時間前なので、観光客も居なく静かなケヤキ並木、三脚は車の中とカメラバックの中、倒れた石柱の上に置きセルフタイマーで撮る。
 
 新井田川の対岸より山居倉庫を撮る。絡まった蔦が絵になる。
 
 「山居倉庫」は、当初の計画では酒田最初の地であったが、懐かしい「余目の亀の尾」(夏子の酒、鮎川酒造)を買いたく、観光物産館(酒佃夢の倶楽)内の地酒専門店木川屋が開くのは午前 9:00 とのことで酒田最後の地に入れ替えていた。ところが、全体的に早まり、時間調整(45分の滞在)したにも関わらず1時間以上の待ち時間になった。・・・・と言うことで購入を断念し、予定より1時間30分早く酒田を後にした。
 
 【余目へ】 庄内町
 
 諦めがつかず「庄内町内」という道路標示に引かれ国道47号から外れる。余目駅広場を一周し直ぐに酒店を見付けた。「鮎川酒造の亀の尾」(余目の酒)でなく「東北銘醸の初孫」(酒田の酒)を購入した。
 【芭蕉上陸の地】 庄内町
 
 「芭蕉上陸の地」は、初めてでないが、二度目という認識もない。あまりにも変っていて驚くばかり、では「何時行った」のかと記録を辿る。平成26919日(2014)・・・・「えっ、5年前」そのことに驚くばかり。「象潟」は別として、「酒田」「鶴岡」には数多く行っている。その際、国道48号で仙台に・・・・全てが「出羽三山」の南側、即ち国道112号月山湖経由であり、国道47号「酒田-新庄」を通っていない。
 
 芭蕉一行は、新庄の本合海から舟で最上川を下り、現在の庄内町の清川に上陸し狩川を経由して羽黒山に向かった。句碑は「五月雨を集めて早し最上川」は、清川までの道中で詠んだ句。船で川を下る前には「五月雨を集めて涼し」でしたが、川下りの経験から「涼し」を「早し」と改めて、日本三大急流とされる最上川が当時から流れが速かったことを感じさせる。→碑面拡大
 
 「清川歴史公園整備基本計画」(第Ⅰ期)、「清川関所(川口番所等)復元整備・・・・」(平成287月庄内町)なるものをネットで検索した。これは平成28年度から平成30年度の短期施設整備スケジュールで総工費77百万円、第Ⅱ期が中期、第Ⅲ期が長期というものらしい。
 
 芭蕉・曾良は、「清川関所」(船見番所)から少し最上川下流の「狩川地籍」経由で「鶴岡城下」に(国道345号沿い)向かっている。
 
 地図を調べて初めて気づいたが、「出羽三山神社」に向かうには、最上川の少し上流に月山に源流をもつ「立谷沢川」があり、この川に沿って県道45号(羽黒古道;月の沢龍神街道)があり「荒沢寺」に通じる参道がある。「西の伊勢参り、東の奥参り」と呼ばれるほど信仰のある出羽三山詣での登拝口として「清川」は大いに賑わったと言われている。今後「羽黒山」へ行くことがあったら「羽黒古道」を余所目に見てみよう。
 【最上川舟番所】 戸沢村
 
 戸沢村古口には戸沢藩船番所跡がある。戸沢藩では領内を十二郷に分け、代官を置いた。そのうち古口郷では代官所に船番所を設けた。古口は最上川に面し、戸沢藩の西の入口であるため、ここで船を改め、夜は通行を止めたのである。松尾芭蕉もこの地で船を乗り換えたという。
 山形県角川村(戸沢村)は、当時無医村だった村に村営診療所を設立するため、昭和
11年(1936)に「角川村健康保険組合」を発足させ、その2年後の昭和13年(1938)の国民健康保険法の下で認可された国民健康保険組合第1号となったことにより、「国民健康保険の発祥の地」と称している。
 
 売店シャッターに、芭蕉の「五月雨をあつめてはやし最上川」「暑き日を海に入れたり最上川」と当地で宿した正岡子規の「朝霧や船頭うたふ最上川」が書かれていた。子規は「初秋に大事がらるる宿り哉」も詠んでいる。
 
 【芭蕉乗船の地】 新庄市本合海
 
 
 句碑は「五月雨を集めて早し最上川」で「おくのほそ道」(最上川)元禄2528-29日、「大石田」での作。句碑は新庄市の「芭蕉乗船の地」と、庄内町の「芭蕉上陸の地」にある。→句碑(縦)
 
 
 最上川の本合海蛇行部、本合海大橋の下流で八向山に直角にぶつかり渦を巻きながら大きく左に迂回する。この地は江戸時代から「本合海の渡し」といわれ、人々が舟で川を渡った場所として栄えた。→「本合海の渡し」碑
 【市民プラザ】 新庄市大手町
 
 句碑は「風の香も南に近し最上川」、「おくのほそ道」(最上川)元禄261日、「大石田から羽黒山」道中(新庄)の「盛信亭」で盛信へ「薫風は南より至る」(白楽天の詩)を引用した挨拶吟。
 【渋谷風流亭跡】 新庄市本町
 
 元禄2年(168961日、大石田の高野一栄亭を後にした芭蕉と曾良は、猿羽根峠を越え鳥越の柳の清水を経て新庄一の富豪、渋谷甚兵衛(風流)宅に着いたという。風流宅では、二泊したといわれている。
 【柳の清水跡】 新庄市金沢
 
 「柳の清水」は、昭和初期までは湧き出ていた。枯渇し荒廃、芭蕉の旧跡を惜しむ声が大きくなり昭和63年(1988)、当時の清水を彷彿させる池を造成し柳を植樹、金沢八幡神社境内にあった芭蕉の句碑を移し整備した。
 
 新庄の「風流亭」(澁谷甚兵衛宅)での挨拶吟。芭蕉は「水の奥氷室尋る柳哉」(発句)、風流は「ひるがほかゝる橋のふせ芝」(脇)を、曽良は「風渡る的の変矢に鳩鳴て」(第三)を詠む。
 【猿羽根山地蔵尊】 舟形町
 
 ナビ任せの旅に慣れ、設定はしてあるものの記憶に任せての「ファジーナビ」、ここだという細道を入るとすぐに行き止まり。一本違いの下り道に迷い込んでしまった。→史跡「羽州街道猿羽根峠」
 
 
 句碑は「風の香も南に近し最上川」、「市民プラザ」と同じ句である。→「芭蕉句碑」、「おくのほそ道」文学碑、「松尾芭蕉と羽州街道猿羽根峠
 
 「最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。・・・・」(おくのほそ道)、実際は新庄への旅の途中で越えて行ったのが船形町の「猿羽根峠」だった。この猿羽根峠は羽州街道一の難所と称せられていた。→説明板
 【西光寺】 大石田町
 
 
 大石田は、「芭蕉ゆかりの地」の一つとして幾度も訪れている。最上川を少し下ると「ギフチョウとヒメギフチョウの混生地」がある。一度立ち寄ってみたいと思うも、出張とのタイミングが合わなく実現していない。
 
西光寺三碑   高野一栄句碑
 今迄に幾度も大石田(西光寺)を訪ねている。今回、初めて気付いたのが、高野一榮の句碑「岸にほたるを繋ぐ舟杭」。歌仙「さみだれを」の脇句である。
 「大石田の俳諧史を物語る西光寺の3碑」、左から「李兮句碑;吹るゝや骨となっても枯尾華」「芭蕉句碑(新碑)」「暁花園句碑;夜着重し桜や咲ん雨の音」。
 
 境内の芭蕉句碑は明和年間(1764-1772)に大石田出身の俳人土屋只狂によって建立されたもので、「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」(歌仙発句の模刻)が刻まれている。→句碑面拡大
 【高野一栄宅跡】 大石田町
 
 最上川右岸「おおはし」より下流70m程の場所に「高野一栄宅跡」がある。→説明板
 
 
 
初折の表六句     名残りの裏六句    
さみたれをあつめてすゝしもかミ川 芭蕉   雪みそれ師走の市の名残とて 曾良  
岸にほたるを繋ぐ舟杭 一栄   煤掃の日を草庵の客 芭蕉  
瓜はたけいさよふ空に影まちて 曾良   無人を古き懐帋にかそへられ 一栄  
里をむかひに桑のほそミち 川水   やもめからすのまよふ入逢 川水  
うしのこにこゝろなくさむゆふまくれ 一栄   平包あすもこゆへき峯の花 芭蕉  
水雲重しふところの吟 芭蕉   山田の種をいはふむらさめ 曾良 説明板
 【最上川舟役所跡大門】 大石田町
 
 室町時代にはじまり、元禄の頃に最も賑わった「最上川岸辺」、舟運の中枢となり寛政4年に幕府の舟役所が置かれた。近年、大門や塀蔵が再現された。
 
 最上川右岸の「最上川特殊堤防壁画」(大石田特殊堤修景事業)、「大石田塀蔵の実物模型」。洪水対策事業で造った「堤防壁」が、大石田の街並みと最上川との分離観を醸し出したとし、その改良を行った。
 
 仙台のホテル着、走行距離は、588k、今迄で最も早いチェックイン(15:50)になった。翌日は、仙台東ICから西那須野塩原ICまで高速、その後は日光・足尾経由で家まで一般道、421k21:45着。
 MP3 純粋