喜多方 蔵の町歴史散歩
2019.07.19(金) 曇/一時晴
 今回の「旅の未知草」は、「喜多方」(福島)と「米沢」(山形)を計画していた。梅雨時に加え長雨で、計画時点から憂鬱であった。最終判断は前日にと決め、天気予報の確認に明け暮れた。そして前日、県内では大雨警報(レベル4)も発令、日付が変わり2時出発も絶望的、それでも仮眠だけはシッカリ取っておかねば車移動にも差し障る。凄い雨音で目が覚める。そした、6時出発で足尾・日光経由で国道4号を道草せず仙台まで北上と決断した。
 朝食を済ませ、予定通り6時に家をでる。安中より前橋へのショートカット、県道10号を通過中、空模様で占う。試しにナビ最初の地点(新熊野神社長床)に行先変更してみる。空模様を受けナビは「13:45到着、行きましょう」と勧めるも、通勤ラッシュで夜間走行とは大きく異なる。前橋さえ抜ければ14時迄には着けるであろう。「米沢」を取り止めれば21時迄には仙台着は可能と、折角の「提案」なので快諾し新たな気持ちでハンドルを握る。
 【新熊野神社長床】 福島県喜多方市慶徳町
 タイムスケジュールは、「8:0012:00」(喜多方ラーメンでの昼食を含め正味4時間)、鬼怒川のコンビニでおにぎりを買い込む。会津若松手前ですごい雨に遭う。ややフテ気味で食す。市内の左方を回り喜多方に向かう。前方の山並みの上空が明るくなり、まもなく青空が広がる。「新熊野神社長床」到着は・・・・13:05。ヨッシャー
 「神仏習合」で、所権現というように三ヶ所に祀られる必要があった。奥羽においても寛治3年(1089)、後三年の役の時に源頼義の子・源義家が現在の新宮熊野神社の地に新宮(薬師如来)、岩沢村(喜多方市上三宮町)に本宮(阿弥陀如来)、那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に勧請し三所権現とした。後に、本宮、那智社を配して新宮に合祀し、今では新宮熊野神社が熊野信仰を伝えるだけとなる。「長床」の脇に「鐘楼」(福島県最古、1349)がひっそりと神仏習合時代の名残りを伝えている。→説明板
 国指定重要文化財の「長床」は、熊野神社の拝殿として平安末期に建立された。44本の太い柱に芧葺寄棟造り、周りには壁も扉もない吹き抜けの壮大な神殿造で。熊野系の神社に多くみられ、単なる拝殿ではなく、修験者・行人ら長床衆に一時の宿泊・参籠の場を提供してきた。  説明板
 少し高い所から撮ろうと、ちょっとした土手に上がる。斜面の途中の平坦部に足を伸ばし、蹴上がろうとしたら体がついてこなく側面方向に倒れかかる。ヤバイと意識行動にと脳が働くも体がついてこない。大事に至らなかったから良かったものの筋力の衰えを感じる。長雨で、散歩もしなくなったからな・・・・
 
 スリッパに履き替え「長床」に上がらせて頂いた。
 
 秋になると「大イチョウ」の落葉で、「長床」の前は黄金の絨毯が敷かれたようになる。ライトアップもされるようだ。
 「新宮熊野神社」の「本殿」、中央が新宮殿(新宮証誠殿)、左が那智殿(那智山飛瀧権現)、右が本宮殿(本宮十二社権現)で、熊野三山を祀っている。文化財は「宝物殿」に保管されている。
 【喜多方蔵の里】 喜多方市押切

 「喜多方蔵の里」は、蔵づくりの文化を後世に伝える事を目的として市内の名家から移築した蔵を集め、約
4,500平方メートルの敷地内に、中庭を中心として店蔵、味噌蔵、穀物蔵、蔵座敷、郷頭曲り家等を配置し昔の喜多方市の街並みを再現したものである。→配置図

 右画像→
旧井上家穀物蔵;茅葺きを瓦葺きに再生し、片開きの土戸の鍛冶金物は当時のものをそのまま使っている。
旧唐橋家味噌醸造蔵;間口3間半×奥行8間の旧味噌醸造蔵。   座敷蔵:居間と書院座敷・前室があり、店蔵から座敷蔵・勝手蔵と続く配置は当地方の典型的な商家の構成。
勝手蔵;店蔵から座敷蔵・勝手蔵と続く配置(蔵を母屋内に取り込む)は当地方の典型的な商家の構成。   旧猪俣家穀物蔵;熊倉にあった蔵、均整が取れた屋根・窓・観音開きの扉の意匠等、当地方の典型的穀物蔵。
郷頭屋敷 旧外島家住宅(県指定重要文化財);江戸全時代、慶徳町豊岡地区で郷頭を務めた外島家の住宅。   旧冠木家店蔵;明治初期の建築、明治初中期の大規模な呉服店の店蔵を象徴する二重屋根形式構成を持つ。
旧東海林家酒造蔵;大正12年建築、銘酒「白山」の醸造所、昭和7年「夢心酒造」が譲り受け倉庫使用。   旧手代木家住宅(県指定重要文化財);江戸後期から明治初期、下三宮村の肝煎を務めた手代木家の住宅。
 喜多方の生んだ明治の社会慈善家、今日の日本社会福祉の礎を築いた「瓜生岩子刀自」の資料が「旧猪俣家穀物蔵」に展示されていた。他の立ち寄り先で記載する。
 【喜多方市美術館】 喜多方市押切
 「蔵のまち」の施設らしく、煉瓦蔵をイメージして造られている。建物の一部には地元喜多方で焼いた煉瓦を積み、こじんまりとした中にも落ち着きがあり、周りの町並みに調和させている。
 【ふれあい通り】 喜多方市三丁目
 
 「若喜商店」から「喜多方ラーメン神社」方向、「ふれあい通り」(喜多方レトロ横丁)を撮る。昭和50年(1975)に放送されたNHKのテレビ番組「新日本紀行」、「蔵ずまいの町」をタイトルに蔵で生活する人々にスポットが当てられ、地元住民にとって当たり前だった普段の暮らしが視聴者の反響を呼び「蔵のまち」として全国から一躍脚光を浴びるようになった。
 【若喜レンガ蔵】(若喜商店) 喜多方市三丁目
 昭和6年に作られた店舗、土台はイタリアから取り寄せられたという大理石、壁材のタイルは東京の帝国ホテルで採用された「スクラッチス・タイル」を用いたモダンな洋風建築。ここの売店で、若喜天然醸造醤油と喜多方の地酒(ほまれ酒造・吉の川酒造)を買う。
 駄菓子と和雑貨のお店「若喜昭和館」は、天井が高く暖房が出来ないので、冬季間(12-3)は駄菓子屋を閉めて「醤油工場」になる。実はムロとして使われていた建物とのこと。
 
 「レンガ蔵と蔵座敷」は、三階建の建物の道具蔵と二階建の建物の座敷蔵で成り立っている。道具蔵の一階は店舗と直結した展示室で、ガラス越しに座敷蔵を見ることが出来る。座敷蔵の一階は縞柿という大変珍しい材木で造られた座敷になっている。(登録有形文化財)
 
 若喜商店は江戸時代から続く醤油・味噌醸造元。初代、若松屋喜祖衛門が宝暦五年(1755)から商売を始め、代々「喜一郎」を襲名して味噌醤油を製造している。「若喜天然醸造醤油」は、地元産の丸大豆、小麦と赤穂の天塩を土蔵の中、木桶醸造で2年間ゆっくり熟成させた諸味から造る伝統的・自然由来の天然醸造醤油。
 【喜多方ラーメン神社】 喜多方市二丁目
 
 喜多方ラーメンの起源や歴史的背景、麺やスープのおいしさの秘密などを展示、喜多方市内全域のラーメン店をパネル展示で紹介。割り箸をイメージした鳥居型モニュメントが鳥居?
 【瓜生岩子刀自生誕之地】 喜多方市加登
 
 明治初期に活躍した社会慈善家、今日の日本社会福祉の礎を築き、その功績により藍綬褒章を受けている。
 
 【三津谷集落・若菜家】 喜多方市岩月町
 
 三津谷集落は煉瓦蔵が散在する戸数が5戸と小さな集落、その全ての屋敷に煉瓦蔵が建っている。特に若菜家には明治末期から大正時代に建てられた煉瓦蔵が現存する。若菜家は喜多方の煉瓦造に尽力(樋口窯業に出資)した。
 
座敷蔵(大正6年建造) 作業蔵は平成19年(2007)経産省産業遺産に指定
 
農作業蔵(明治43年建造) 味噌蔵(大正10年建造)
 
 三津谷集落内に、喜多方ラーメン店があった。営業時間内だったので入店するも、仕込中で「お待ち頂けますか」と・・・・残念ながら先を急ぐので食べることが出来なかった。
 【喜多方煉瓦會】 喜多方市岩月町
 
 
 現存の窯は大正時代に築窯された十連房からなる大型登り窯で、ここで作られた瓦や煉瓦は、独特の色調と風合い(長手方向と短手方向を交互に積むイギリス式、二辺に釉薬を塗り表面を高質化)をもち、数多の喜多方の蔵や建築に使用されていた。「喜多方市煉瓦館」を併設し、登り窯の修復をしながら煉瓦焼成を続ける市民団体が立ち上がり、貴重な煉瓦蔵と喜多方煉瓦の保存活動が行われている。(福島県近代化産業遺産)
 
 近代化産業遺産「三津谷の登り窯」は、明治23年(1890)「瓦と煉瓦」を焼く「樋口窯業」登り窯として創業。現存する窯は大正時代に築窯され、全長18m・全幅5.1m、全10段と大型の登り窯。実際に稼働できる煉瓦を焼く登り窯としては国内で唯一。 時代の流れで昭和中期に廃業したが、平成20年より「活きた産業遺産」として再生事業を開始し、現在では、喜多方の煉瓦文化を保存・伝承するために復活煉瓦の焼成等を行っている。
いにしえの蔵の町へと踏み入りて大正想ふ赤煉瓦蔵
 【願成寺】 喜多方市上三宮町
 
鐘楼堂 山門
 浄土宗多念義派の祖、隆寛の開基と伝えられる古刹。隆寛は嘉禄3年(安貞元年・1227)に陸奥国に流されることとなったが、実際には相模の飯山に留まり、高弟である實成が現在の願成寺の地に派遣された。實成はそこに遺骨を葬る墳墓を築き、隆寛の肖像を祀る堂宇を建てたのが願成寺の前身である。山門と大仏堂は、元禄10年(1697)から延宝年間頃の建築物で、山門は和様と唐様の折衷様式で、十二支などが配され大変珍しい門です。→説明板
 
本堂 千佛堂(旧阿弥陀堂)
 
 通称会津大仏は、阿弥陀三尊像(木造阿弥陀如来及両脇侍坐像)であり、中尊の阿弥陀如来は巫像で、千体仏をつけた舟形光背が金色に輝き、上品下生の来迎相で、二重蓮台の上に結跏趺座の姿。脇侍は向かって右が観音菩薩で、両手に蓮の台を捧げ宝冠に化仏があり、左の勢至菩薩は合掌し、宝冠には宝瓶がついており、両菩薩共に正座の姿。三尊共に寄木造りで鎌倉初期の作。この形式は、京都三千院の来迎三尊像と同じもので、東北地方では珍しいものである。(国指定重要文化財)
 【日中線記念館】 喜多方市熱塩加納町
 
 「日本国有鉄道日中線」(喜多方駅-会津村松駅-上三宮駅-会津加納駅-熱塩駅)は、昭和13年(1984)~昭和59年(1984)運行。昭和62年(1987)日中線記念館開館、平成21年(2009)近代化産業遺産認定。国鉄キ100形ラッセル車「キ287」と国鉄60系客車「オハフ61-2752」が保存展示→説明板
 
 
 
 
 
 【編集後記】
 
喜多方の銘酒 宮城の銘酒(第二の故郷)
 旅の途次(高崎通過)に急遽変更をした「旅の未知草」(喜多方編)、雨上がりの喜多方(13:05-17:00)を満喫した。「若喜レンガ蔵」の売店で「喜多方土産」を購入したので、予定していた「馬車の駅」(地酒蔵)は取り止めた。土産の品揃えは、「若喜天然醸造しょうゆ」(若喜商店)・喜多方銘酒「吉の川純米酒」・「吉の川貯蔵酒生(吉の川酒造)・「会津ほまれ」・「純米大吟醸」(ほまれ酒造)。
 高速道路のような「国道
121号」で米沢市に入り、「東北中央自動車道」(米沢南陽道路)で南陽市まで、その後は「国道113号」で七ヶ宿を抜け白石から「国道4号」を北上、「大河原」のコープで何時もの「宮城の銘酒」(一ノ倉)を仕入仙台へ。ホテル着は20:46と何時もに比べ遅いチェックイン。走行距離は482k60k程の道草。翌日は、仙台東ICから西那須野塩原ICまで高速、その後は日光・足尾経由で家まで一般道、422k21:50
 この後、7/27(土)台風接近と空模様が危惧される中、先月の「初孫」(東北醸造)と今回の「会津ほまれ」に、「キタアカリ・トマト」持参で東京の兄を見舞った。(5:00→8:3514:45→16:30)往復372k

     Midi 雨の慕情