米沢 上杉ゆかりの地歴史考
2019.08.16(金) 雨
 7月の計画であった「喜多方と米沢」(旅の未知草)は、梅雨の長雨と台風10号の影響を受け、7月と8月に分けての旅行きになった。今回は、超大型の台風10号が「豊後水道」から列島を横断(15日正午頃)し日本海を北上。かなり離れた日本海上ではあるが旅の行き連れになった。最も雨が強くなった「上杉家廟所」(10:18-10:39)参詣時であり、ここで追いこされたと推察する。
 家を出たのは1:40、星が見える。碓氷峠は濃い霧で視界が極度に狭い、足尾・日光経由で矢板から福島まで国道4号を北上、福島から国道13号に折れ山形へ。国境の長いトンネル(西栗子トンネル)を抜けるといよいよ米沢だ。
国境の栗子トンネル越え懐ふ入るも出も妹買ふ車
 「西栗子トンネル」の通過は45年を経て二度目、最初は新婚当初に妻に買ってもらったセリカ、任意保険を掛け熊谷から三陸北山崎、遠野、盛岡、角館と回り酒田から新庄・米沢、福島から往路を引き返すドライブをした記憶が蘇る。そして、我が愛車歴の最後を飾るであろうインプレッサ、これも妻が買ってくれた(自分でも買っていますよ)。人生を想い返すには、十分過ぎる長い国境のトンネル。
 【直江堤公園】(直江石堤;谷地河原堤防) 山形県米沢市赤崩地籍
 直江兼続の指揮で松川(最上川上流域)の左岸に築かれた石積みの堤防で、米沢城下を洪水から守るために築かれた。説明板Google Map
 
 現存している「直江石堤」は約1.2km、その主なものは県道151号「海老ヶ沢大橋」上流部と下流の「海老ヶ沢橋」迄、目と鼻の距離だが次の目的地に向かおうと駐車場から県道に出ると案内表示があったので「直江石堤展望台」へと向かった。
 「海老ヶ沢橋」右岸上流に「蓮池」があつたのでカメラに収めた。
 
 兼続は米沢のまちづくりとともに、暴れ川だった松川(最上川)の水害を防止するため、総延長10kmにおよぶ谷地河原堤防(直江石堤)と蛇堤を築いた。蛇堤とは地元の通称で、大小の河原石を横にならべて積み上げる「野面積」と呼ばれる戦国時代の石垣造りの工法で、工事は下級武士を従え兼続自ら指揮をとったといわれている。
 【旧米沢高等工業学校本館】 山形県米沢市城南
 
 明治433月、東京・大阪・京都・名古屋・熊本・仙台に続いて、全国7番目の高等工業学校として開設。本館の建設は、明治41年7月に文部省建築課米沢出張所が設けられ、同421月起工、翌年7月に竣工。以来、同校は昭和194月米沢工業専門学校と改称、更に同245月の学制改革によって、山形大学工学部に改組され現在に至る。
 米沢高等工業学校本館は、開学当初の面影を構内に残す唯一の建物で、昭和48年(1973)国の重要文化財に指定。文部省建築課の中島泉次郎設計による、ルネサンス様式を基調とした木造2階建、中央屋から左右に伸びた胴屋の両端に翼屋が連なる構造。全長94m、屋根は中央屋がスレート葺き、胴屋と翼屋は桟瓦葺き。中央屋の1階には事務室、応接室、2階は校長室、会議室などがあり、胴屋と翼屋は12階とも主に教室で、1階西端は理化教室 。
 【林泉寺】(上杉家・直江兼続の菩提寺) 山形県米沢市林泉寺
 林泉寺は、今から約500年前の明応5年、越後国高田(上越市)に建立された曹洞宗の寺。長尾景虎(上杉謙信)の祖父長尾能景が、亡父重景の菩提を弔うため建立。景虎7歳、当寺に預けられ天室光育(七世)の指導を受け仏道に励む。景虎は長じて八世益翁宗謙の下に参禅し、禅の「達磨不識」の境地を悟り、不識庵謙信を号する。
 景虎は永禄4年(1561、川中島合戦)に関東管領上杉家を相続、林泉寺は上杉家の菩提寺になる。謙信を継いだ上杉景勝は、慶長3年(1598)に越後から会津120万石に移封、同6年に米沢30万石に削封、菩提寺の林泉寺もこれに伴い米沢に移る。米沢藩時代の林泉寺は、藩主菩提寺として厚く信仰され領内の曹洞宗寺院を統括する触頭に命じられ、元和5年(1619)に現在地に壮大な伽藍が建立。伽藍は享保17の火災で焼失、再建されたのが本堂。
 
直江兼続夫妻の墓(左が兼続、右がお船の方) 甘糟備後守景継の墓
 
鷹山側室お豊の方の墓 甲州夫人(景勝の正室)菊姫の墓
 墓は「万年堂」と呼ばれる「家型塔婆」(塔婆)で、中には「五輪塔」が納められている。正面の3つの穴は、直江家の家紋「三盛亀甲花菱紋」を象ったと、住職様からご説明戴いた。→説明板
 【極楽寺】(上杉家側室の菩提寺) 山形県米沢市相生町
 「極楽寺」は米沢城の東側に造られた「東寺町」の一角にあります。敷地面積は1,000坪にも及び寺町の中核をなす大きなお寺です。境内には第二代上杉景勝公側室の桂岩院様(第三代上杉定勝公生母)をはじめ、第五代綱憲公、第九代重定公の側室様が眠っておられます。
 
 桂岩院様が第三代上杉定勝公を出産されたのは慶長95月のことでした。その僅か3ヶ月後、桂岩院様は米沢城内で急死されます。家臣達の間ではこの年の2月に亡くなられた正室菊姫様(大儀院)の祟りだとの噂が飛び交ったと伝えられています。桂岩院様のご遺骸は正室菊姫様(大儀院)の墓碑が建つ林泉寺の上杉家墓所に埋葬されましたが、噂が影響したのでしょうか、お墓はその後極楽寺へと改葬されました。以後これが慣例となり極楽寺は上杉家側室の菩提寺となりました。
 
 ここ「極楽寺」の本堂裏手、上杉家廟所の隣りに芭蕉句碑がある。「名月や池をめくりて夜もすがら」貞亨38月十五夜の作。芭蕉43歳の最も心身充実の時期。この夜、芭蕉庵にて月見の会を催す。集まったのは其角・仙化・吼雲ら、隅田川に舟を浮かべて名月を十分に楽しんだ。「奥の細道」への旅立ちは、この3年後。
 【上杉家廟所】 山形県米沢市御廟
 「上杉家廟所」の駐車場に着く(10:20)、車から降りることに躊躇するほどの雨になった。20分ほどの滞在であったが、傘の効果もなく全身びしょ濡れ状態になる。この地点を持って「一眼レフカメラ」の出番を終える。
 
 二代景勝公が逝去された約390年前に歴代藩主の墓所と定まり、景勝公を中心に左右交互に廟が建てられるようになった。廟の前方には拝殿が造営され、各廟の参道も今より前方に延び、その周囲には千基を超える石灯篭が寄進されて並んでいた。謙信公の御遺骸は越後春日山から会津を経て米沢へ遷され、米沢城本丸に祀られていた。
 
 明治9年(1876)謙信公の御遺骸は当地に遷座され、これに伴い拝殿や石灯篭は撤去され、参道も新たに作り替えられるなど現在の景観になった。杉木立の中に整然と立ち並ぶ歴代藩主の廟屋は、上杉家と米沢の歴史を物語り、昭和59年(1984)全国の大名家墓所としては5番目に、国指定史跡として登録された。
 
 上杉家墓所は、米沢市では御廟、廟所、御廟所、御霊屋と呼ばれ敬い親しまれている。杉木立の中に謙信公から十二代藩主までの廟屋が整然と立ち並んでいた。
「戦国武将の兜」(折り紙)お一人様2個までご自由にお持ち帰りください。
「毘」(謙信公の兜)・「義」(景勝公の兜)、気が付いたら
2個とも「毘」であった。道行の「交通安全」にと、メーターパネル前に置く。
 【法泉寺】 山形県米沢市城西
 
 元和4年(1618)直江兼続によって創設された臨済宗の寺院(禅林寺)。兼続は足利学校で修業させた九山和尚を呼び寄せ、兼続や九山が集めた図書を備え、米沢藩士の子弟を教育する学問所(禅林文庫)にした。→説明板 
 
法泉寺庭園 開祖久山禪師詩碑 洗心詩偈
 
直江兼続詩碑 禪林偶成 上杉敏子夫人歌碑
 
上杉鷹山公御筆詩碑 雲井龍雄詩碑
 
 文殊堂(左上)は、二代目の絶山和尚が慶安元年(1648)に切戸の文殊(京都府宮津市)を勧請したと伝承。元禄2年に立派なお堂が建てられましが、寛政元年、大正6年と二度の火災にあい、現在のお堂は昭和5年に再建。
 
右;先聖殿(興譲館聖堂)→説明板

 庭園は、米沢の三名園の一つで、九山和尚の時代に京都天竜寺の名園をまねて造り、享保年中に、画家としても知られる小田切寒松軒が補修したと伝えられている。
 
 
 
 
 元禄3年(1690)に、二代藩主定勝の三女亀姫の法名(法泉院殿)をとり、禅林寺から法泉寺と寺名が変わる。法泉寺にはこの亀姫の墓と共に、定勝の四女で、吉良上野介義央の奥方となった三姫(富子)の墓もある。三姫の墓から白髪の髻が入った壺が見つかり、三姫が持っていた上野介の遺髪ともいわれ、「忠臣蔵」の隠れた史跡として最近注目されている。
 庭園内の枯池に模擬橋が・・・・これに倣って西の畑に増設するバタフライガーデンに、蓮池(大型水槽)と模擬橋を造ろう。好奇心が高まり、降りしきる雨の中にも関わらず念入りにチェックし記憶に焼き付ける。
 【桃源院】(川井観音) 山形県米沢市川井
 
 「芭蕉句碑の撮影」を目的にした立寄先は、先の「極楽寺」さんと、この「桃源院」さんである。芭蕉句碑のみならず「上杉家との関わり」や「縁起」等、興味深いものがあった。
 
米沢城下から北西方向に進むと旧川井村があり、南北に流れる最上川・天王川のほぼ中央にある小山(川井館跡)の麓に桃源院があります。天文十三年(1544)、伊達晴宗・輝宗・政宗の三代に仕えた鬼庭左月斎良直公により創建され、開山は梓山松林寺三世・一華宗甫和尚と伝わります。→説明板
 
 桃源院境内の芭蕉句碑は安政6年(1859)に建立されたもので、松尾芭蕉が貞享5年(1688)「笈の小文」で詠んだ「しばらくは花の上なる月夜かな」の句が刻まれている。
 【松が岬公園】(米沢城跡) 山形県米沢市丸の内
 
 「松岬神社」は、松が岬公園(米沢城址)にある内堀の外側にあり、二の丸世子御殿跡になる。上杉鷹山・上杉景勝・直江兼続・細井平洲・竹俣当綱・莅戸善政が祀られている。
 
 
 米沢城は伊達政宗が生まれた城、豊臣秀吉により召し上げられるまでの約200年は伊達氏の居城であった。慶長3年(1598)に五大老・上杉景勝が120万石で入封した際は直江兼続が城主を務めたこともある。その後は「関ケ原の戦い」後に石高を減じられながらも江戸時代を通じて上杉氏の居城として利用され、江戸時代屈指の名君として知られる上杉鷹山などが藩主となっている。現在、本丸跡は上杉神社の境内になっている。
 「上杉神社」は、祭神は戦国時代の名将で米沢藩の藩祖ととして崇敬されている上杉謙信。江戸時代、謙信の遺骸は米沢城本丸の南東隅にあった御堂に安置、歴代藩主の位牌と共に真言宗寺院により手厚く祀られていた。
 
 明治になって、仏式から神式に改められ、明治5年に謙信・鷹山を祭神とする上杉神社の神号が許され、同9年に米沢城本丸跡(現在地)に社殿が建てられ、同35年には別格官幣社に昇格、この時に祭神は謙信一柱となり、鷹山は摂社に祀られ松岬神社となった。
 米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。
 
招魂碑 上杉謙信祠堂跡
 
上杉謙信公之像 上杉曦山公之碑
 
上杉鷹山公(出羽国米沢藩9代藩主;1751-1822
 
 
 「上杉神社」左手の南参道、「春日神社」の前を抜け、米沢城水堀に架かる「菱門橋」を渡り城外に出る。
 「上杉伯爵邸」(上杉記念館)は、明治29年、元米沢城二の丸跡に上杉家14代(最後)上杉茂憲(1844-1919)伯爵邸として建てられた。当時は敷地約5,000坪、建坪530坪という壮大な大邸宅。しかし、大正8年米沢大火で類焼し焼失。大正14年に、銅板葦き、総ヒノキの入母屋づくりの建物と、東京浜離宮に依って造園された庭園が完成。設計者は中條精一郎、施工は名棟梁江部栄蔵。かつて、鶴鳴館と称され、皇族の御宿所ともなった、文化財的価値のある邸です。今は上杉記念館として開放され米沢牛を中心とした郷土料理レストランも営業している。
 墓所は東京都港区白金の興禅寺。歴代の米沢藩主は米沢市の上杉家廟所に祀られていたが、明治以降に死去した
13代斉憲からは前記の東京に墓所がある。しかし14代茂憲のみは沖縄県民有志により、歴代藩主廟に並んで記念碑が建立されている。
 
 
 
 「菱門橋」を渡り米沢城水堀に沿って「冠木門」より「旧上杉伯爵邸」に入り、玄関から出るかたちになった。
 
 「旧上杉伯爵邸」から「松岬神社」経由で駐車場に戻る。1時間の予定であったが所要40分(1:45-12:23)。
 【米沢の地酒】(小島卯之助商店) 山形県米沢市大町
 
 「米沢の地酒」(東光・雅山流)に「酒田の地酒」(楯野川)を「小島卯之助商店」さんで購入。(12:40
 【蔵王スカイライン】 山形県上山市・宮城県蔵王町
 
 米沢→南陽→上山と国道13号を北上、蔵王エコーラインで刈田峠(14:10)越え、目的は①「蔵王刈田峠越え」、②「山岳信仰(瀧山・蔵王)の宮城偏」(第885話、石鳥居の続き)、③「思い出の蔵王のらーめん屋」。
 【大黒天】 宮城県蔵王町
 
 
 左上画像は「雲海の島;雁戸山」、左下画像は「後烏帽子岳と右側に屏風岳」、右画像は「御釜」からの渓谷。
 【蔵王寺】 宮城県蔵王町
 
 
 當山は海抜1,250mに位置し、日本で有数の高地にある山岳寺院。白鳳時代に山岳仏教の開祖、役の小角(エンノオズヌ)「神変大菩薩」の開山で地蔵信仰の中心地をなし、賽の磧供養の歴史は約600年前(室町時代)から始まり、祈願処としては約一千数百年前になる。賽の磧は地蔵和讃の中の世界であり、幼少の子供の死んで行く地獄だといわれている。父母恋しの思いにせめてもの回向のために幼気な手に血を滲ませ石で塔を積むという。地獄の鬼があらわれて、その塔を押しくずし、邪魔をして子供たちを追い回す。そこに冥途の父、母たる賽の磧のお地蔵さんが現れ、子供達を衣のそでにかくまって、助けるという霊域であります。 賽の磧はお地蔵様の世界です お地蔵様は願王尊と申上げ、願いに限りのない唯一の御仏で最も親しまれている仏様です。(霊場 賽の磧 金峰山蔵王寺)
 【蔵王大権現大鳥居】 宮城県蔵王町
 
 かつて蔵王大権現への参詣路にあった「弐の鳥居」があった場所。古来、蔵王連峰中最高峰の熊野岳(1,841m)には、蔵王・白山・熊野の三社が祀られており、その里宮は奥州羽州ともに現存している。参詣路表口(宮城県側)の鳥居は蔵王町円田中大鳥居囲に三の鳥居、疣石(いぼいし)に二の鳥居、不動瀧に一の鳥居が建てられていた。
 【蔵王のらーめん屋】 宮城県蔵王町
 
 「蔵王のらーめん屋」は、蔵王登山の帰りに、必ずといって良いくらい立ち寄り塩分補給をしていたらーめん屋さん。初めて食べた時の衝撃(スープに醤油を流し込み、撹拌は自らやる)は大きく病み付きになった。
 【刈田嶺神社里宮】 宮城県蔵王町
 
 社伝によると、創建年代は不明なものの、第二代・綏靖天皇を祀っていたと言われている。その後、白鳳8年(679)に役小角が大和國吉野山に鎮座する蔵王大権現(天之水分・国之水分)の御神霊を不忘山に奉還し、修験道の一大修行地とし、山名を蔵王山に改めた。この時代には仏教が最も隆盛を極め、神仏習合の中から本地垂迹説が説かれたため、いつしか当社本来の神社名は忘れられ、ただ「 蔵王大権現 」と称されるようになる。平安朝においては、阿部氏が当社を氏神として神殿の改築をおこなった。また、時代が流れて戦国時代においては出羽領に属し、甘糟の守護を受けたのだとか。さらにその後、伊達家が陸奥の覇権を握ると、己が守護神として家臣の片倉小十郎を派遣。金華山 を鬼門除け、当社を病門除けとして青葉城をまもらしめたという。
 明治時代に入ると、神仏分離令により明治
5年には「 水分神社」と改称。その後、明治8年に郷社になると同時に旧来(延喜式神名帳記載)の、「 刈田嶺神社」と改称し、現在に至っている。→説明板
 
 
 
 仙台のチェックイン(19:00予定)は、台風10号に煽られ2時間も早く17時前に到着、往路532k

     MP3 二人の旅人