-“史跡”放っつ記歩き- |
蘇民将来 ; 八日堂信濃国分寺 |
2019.09.05(木) 晴 |
某自動車販売店からリコールの連絡を受けた。点検・交換は30分程度というので、出迎えた方に車を渡し近くの「信濃国分寺八日堂」へ・・・・以前から行ってみたいと思っていたのでよい機会だ。 |
【信濃国分寺・尼寺跡 】長野県上田市 | ||
「信濃国分寺跡」は、金堂・講堂・中門・塔・回廊・僧房の跡が確認され、南大門の位置も推定されている。伽藍配置は中門・金堂・講堂を南北一直線に配置し、中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。塔は回廊外の南東にあった。→説明板①、説明板②、説明板③。 | ||
「信濃国分尼寺跡」は、金堂・講堂・中門・回廊・経蔵・鐘楼・尼房などの跡が確認されている。伽藍は、中門・金堂・講堂・尼坊・北門を南北一直線に配置され、中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く。講堂の東西の回廊外に位置する建物跡は東が鐘楼、西が経蔵とみられる。 |
【瓦窯跡】長野県上田市 | ||
国分寺跡から出土した瓦窯跡の観察施設も全国的に珍しいとされている。→説明板 |
【八日堂・信濃国分寺】(山号・院号なし、江戸時代には浄瑠璃山真言院国分寺)長野県上田市 | ||
信濃国分寺は、薬師如来を安置する本堂・堂塔伽藍がそろい、1月8日の縁日に因んだ「八日堂のお薬師さん」の名で近在の信仰を集め、授与している蘇民将来のお守りは、家門の息災安穏と繁栄を願う護符として有名である。 |
「徳川真田会見之地」、第二次上田合戦の時、上田城に籠る真田昌幸、幸村親子と東軍の使者として真田信幸と本多忠政が・・・・城を明け渡す準備をするので少し待ってほしいと申し出る昌幸、幸村。しかし数日後、再び国分寺を訪れた昌幸は、戦の支度ができたので一戦交えるべしと東軍を挑発。そのまま第二次上田合戦につき進む事になった、そのキッカケの場所がこの信濃国分寺。(国分寺の会見) |
真田昌幸、徳川勢をやぶる。国分寺では、この頃、三重塔を除いた他の堂宇が兵火にかかったと伝える。→説明板 |
芭蕉の句碑があることは知っていた。「春もやゝけしきとゝのふ月と梅」(真蹟自画賛/続猿蓑)、元禄6年春。自画讃を含む画讃の句。「続猿蓑」下巻春之部の「梅」に再掲。 |
大輪の紅白蓮華、種を譲って頂けないものかと検索。アマゾンで販売しているものを、早速手配した。 |
神道では明治維新後の神仏分離で祭神はスサノオとされ、仏教では薬師如来が本地仏と成っています。 |
こちらの「和尚」(天台宗=かしょう)さまは、そうとうな「蓮華好き」、「ハス田」は、地域の農家の好意により、平成16年に本堂裏(北側)の約200坪の水田を借り受けて、住職が鉢で育てていたハスの苗(レンコン)を植えたことが始まりです。その後17年には約300坪、27年には約200坪を借り、また28年には約100坪の池を作るに至っているとか・・・・現在ハスが咲いている所は、約700坪(2,310㎡)・・・・その手入れは50名を越えるボランティア集団で栽培しているので心配に及ばず。 |
もう一つの芭蕉句碑「はるの夜はさくらにあけてしまひけり」(俳諧翁艸)、貞亨元年(41歳頃)頃から死の元禄7年(51歳)までの間。先の「春もやゝけしきとゝのふ月と梅」の句碑は何ヵ所かで撮影しているが、この句は初めての撮影になる。 |
八日堂縁日で頒布される「蘇民将来」の護符は2種類あり、お寺で用意するものと蘇民講と呼ばれる人達が作るもの(絵蘇民)があります。絵蘇民は七福神の絵入りの蘇民将来で1月8日午前8時より頒布されます。 朝早くから絵蘇民や蘇民将来符、福だるまを求める人で境内が賑わいます。 | ||