月山へ 奥の細道完結編
2019.09.20(金) 曇(濃霧&強風)
 「奥の細道」(羽黒山・月山・湯殿山)「碑撮り旅」のみならず「出羽三山」は、「ゆどの道」「廃仏毀釈」「即身仏」で訪れている。。唯一、「月山」が未踏の地として残ってしまい。気の晴れない日々を送ってきた。先月、ふとしたことで「姥沢口」(登り2時間、下り1時間50分、初心者日帰りコース)の存在を知った。すぐに計画書を作り、824日から散歩を始め95日まで13日休まず続けた。溜まった疲れを取るため912日まで休み、13日に新調したトレッキングシューズの足慣らしをした。西の台地まで足を伸ばしたことで、不安材料をつくってしまった。後は「天気予報」と睨めっこ、前日時点で「午前曇、午後晴」、前後を含め最良の日和、予定より30分早めて830分に家を出た。「越後路」経由で2030分の休憩を取り「姥沢駐車場」(434km)に522分に到着。
 
 ペアリフトの運行開始は8時より、山支度を整え態勢を整え仮眠を、7時雨が・・・・それも本降り、9時まで様子をみようと決めるも、なかなか止みそうにない。8時に「中止」を決断し、芭蕉句碑がある「五色沼」へと移動する。
ひさかたの月の山にも雨雲が晴れてくればや峯に立つらむ
 「五色沼」を後にする際(諦めがつかず)、「月山」の方向に目を・・・・なにやら「雲行き」(霧)の流れに変化が・・・・「行けるかも」と、「姥沢駐車場」へとエンジン音も快適に聞こえる。
 「車中待機」の登山者の動きが慌ただしくなっていた。車のキーを掛けたか不安になり100m程行って引き返した(姥沢駐車場発;9:00)。近くに停めた方と話をしていたので・・・・物忘れかよ~!
 
 「環境整備協力金」(200円)を支払ってペアリフト山麓駅に向かう(9:06)。
 「ペアリフト山麓駅」(標高;1,235m 9:12)で「登山カード」に必要事項を書き込み投函、ペアリフト料金は往復1,030円、カメラは天候ならびに歩き易さを考え「TG-4」オンリー。
 リフトの下には、「ヨツバヒヨドリ」が咲き終えていた。リンドウは最盛期かな・・・・。
 登山スタートは、「ペアリフト上駅」(標高;1,505m 9:31)、天候・視界は・・・少し憂鬱かな?
  標準コースタイム
「リフト上駅」(
200m/0:05)「姥ヶ岳分岐」
「姥ヶ岳分岐」(
800m/0:15)「牛首下分岐」
「牛首下分岐」(
800m/0:30)「牛首」(稜線)
「牛首」(
1,100m/1:00)「月山神社」(山頂)
「リフト上駅」(
2,900m/2:00)「月山神社」
「同下山」は、
1:40
「姥ヶ岳」経由だと
3,200m/1:5010分違い)
※下山コヘスの選択は山頂での様子見とする
 
 「姥ヶ岳分岐」、7-8割の登山者は「姥ヶ岳」に向かう。私は、直接「月山」へと踏み分ける。(9:38
 
 ここは「牛首下分岐」(9:55)標準タイム30分に対し24分とハイピッチ。「姥沢小屋」との表示がある。これは、ペアリフト山麓駅手前で「環境整備協力金」を徴収していた場所を指す。いわゆる「ペアリフト」に乗らない「志津姥沢登山口」である。私が登る「初級コース」と異なる「中級コース」(山頂まで2:50)になる。「月山」は牛が伏せているような形に見えるという。「牛首」とは、その「牛の首」の辺りに当ることからついた地名。
 登山道は「木道」から「敷石」に代った。いずれも濡れているので足元には要注意。
 「リフト上駅1.5km」「月山山頂1.5km」との表示、距離的で「半分」登ったわけだ。ここに、登山道の「分岐」がある。地図から判断する限り「牛首」と思われるが、表示距離からだと「牛首」ではない。ガスが晴れれば分るだろうが・・・・取り敢えず「不詳」としておこう。(10:06
 「露頭」部(10:26)に差し掛かった。火山活動は約70万年前に始まり、最後に噴火した約30万年前には山頂部まで形成された。東側斜面には弥陀ヶ原などの湿原が点在し、比較的なだらかなのに比べ、北西側斜面には長径2.5kmの馬蹄型カルデラが開いて急峻な姿を見せ、北方に山体崩壊時の堆積物が分布する。南西麓では、硬い火山岩の上に、深さ約100mの軟らかい火山噴出物が堆積しており、地表近くを月山の万年雪から出る大量の雪解け水が流れることにより、地滑りを誘発しやすくなっている。 月山山頂一帯のなだらかな地形部には、氷河の拡張した時代に氷帽氷河(アイスキャップ)が存在していた可能性が地形学者により指摘されており、四ツ谷川上流にある牛首カール3か所は、複合涵養域谷氷河のU字谷地形であり、その下部の「解析谷には底堆石層の露頭」が存在する。
 
 標識がなく確定的ではないが、「稜線」へと到達点らしいので、この辺りであろうと思う。(10:30
 「濃霧」で全く分からないが、いよいよ「山頂」を思わす「ガレ場」。登山道の石は不安定で「落石」を誘発しそうな要注意箇所だ。(10:40
 
 岩の上にカメラを固定しての記念撮影、仰角設定が上手く決まらず「頭切れ」が続出。(10:50
 
 「ガレ場」を休み休み登り切ると、登山道はT字路、「鍛冶小屋跡」(延命地蔵尊)に着いた。(11:20
 八日、月山に登る。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲関に入るかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月顕る。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。
 谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を撰びて、ここに潔斎して剣を打ち、つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの龍泉に剣を淬ぐとかや、干将・莫耶の昔を慕ふ。道に堪能の執浅からぬこと知られたり。岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばに開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の心わりなし。炎天の梅花ここにかわるがごとし。行尊僧正の歌ここに思ひ出でて、なほあはれもまさりておぼゆ。総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとどめてしるさず。
 坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。
  涼しさやほの三日月の羽黒山
  雲の峰いくつ崩れて月の山
  語られぬ湯殿にぬらす袂かな
  湯殿山銭踏む道の涙かな   曾良  松尾芭蕉「おくのほそ道」(出羽三山)より抜粋。(元禄二年六月;1689.7.24
 
 
 芭蕉も記述した「鍛冶小屋跡」、月山は日本刀の刀工の一派。鎌倉期から室町にかけて活躍した刀工とその一派。出羽国月山を拠点とした。その中で幕末に大坂に移住した系統が、現代まで残っており奈良県を拠点として活動している。伝承によれば、出羽国月山の霊場に住んだ鬼王丸を元祖とする。以来月山のふもとでは刀鍛冶が栄え、軍勝、寛安、近則、久利などの名人を輩出した。鎌倉期から室町期にかけて、月山の銘を刻んだ刀剣は実用性の高さと綾杉肌の美しさの両面から全国に広まり、この刀工集団を「月山鍛冶」、その作品を「月山物」と呼んだ。室町期には相州伝との技術的な交流があり、双方合作の太刀が伝わる。しかし戦国時代が終わり、江戸期に入るとそれはいったん途絶えた。そのため江戸初期以前の作品を便宜上「古月山」と呼ぶことがある。幕末、一門の弥八郎貞吉は大坂に移住。以来、月山家は、関西を拠点として作刀活動を行う。
  
 
 「鍛冶小屋跡」を後に、急峻なガレ場を登ること7分、濃霧と強風の空間に陰影なる「芭蕉句碑」が表れてきた。
 芭蕉句碑、「雲の峯いくつ崩れて月の山」、「奥の細道」」(出羽三山)元禄263-10日、「月山」を詠む。句碑裏面には建立経緯が記されていた。→縁起
 月山登山の目的は・・・・ここにあり。濃霧・強風が絶えない山頂近く、少しでも濃霧が薄らぐのを祈って待つも自然とは連れないものよ。方向を変え、腰を屈めて撮ろうと、容赦なく吹付ける突風で尻餅をつく、何とか撮ろうとするもこれが限界。(11:30-11:35
月の山芭蕉の句碑に膝折りて奥の細道を思ほゆるかも
 
 月山の山頂平坦部と思われるが、視界が効かなくはっきりしたことは掴めない。そこで、「出羽三山神社」様のホームページで掲載されている「月山神社」のトップ画像を拝借し右側に参考掲載した。
 
 霧の中から「月山神社本宮」のシルエットが浮かび上がってきた。ペアリフト上駅(1,505m 9:31)→月山山頂(1,984m 11:43)、標高差479m、登山道距離3,000m、所要時間2:12(撮影時間含む)、ほぼ標準タイムである。
 
 
 
 月山は海抜1,984m、世界でも珍しい半円形のアスピーデ型火山で、頂上の「おむろ」(御室)に「月山神社」があり月読命を祀る。月山神社は「延喜式神名帳」において名神大社とされた式内社で、明治の近代社格制度では東北地方唯一の官幣大社であった。古来から修験道を中心とした山岳信仰の場とされ、現在も多くの修験者や参拝者を集めている。
 
 神仏習合により月山神の本地仏は阿弥陀如来であると考えられるようになったが、八幡神の本地仏である阿弥陀如来が、月読命になぞらえられた月山神の本地仏となったのは東北的な特性であると言え、浄土教の浸透が阿弥陀如来信仰を月山に導いたと思われる。室町時代まで月山の神は八幡大菩薩とされていた社伝によれば、崇峻天皇の第3皇子である蜂子皇子が推古天皇元年(593)に羽黒山を開山し、さらに同年、月山を開山して当社を建立したのだと言う。蜂子皇子は土地の人たちの面倒をよく見て、悩みや苦しみに耳をかたむけたことから「能除仙」と呼ばれるようになったとされる。
 
 下山の前に昼食を摂りたく辺りを見回す。数組が「羽黒口」の方へと移動するので後に付いた。霧が晴れれば絶景と思われる展望台、しかし全く霧の中、幻想をおかずに分厚い霧の壁を見つつおにぎりをほおばる。(12:04
 これより下山、ここまでのカメラは「TG-4」、下山は「EOS KissX9」(18-400mm)で撮影。
 
 
 
 
 
 絶景に、あちこちから歓声があがった。さて、身支度を整え下山としよう。(12:00
 カメラを変えての「再碑撮り」、碑面の文字が鮮明に写らない。(12:23-12:29
鍛冶小屋跡」(12:34 鍛冶小屋下ガレ場上部(12:43 ガレ場が続く(12:47
紅葉始まる(12:49 稜線(13:06 牛首?13:07
牛首下露頭部(13:08 四ツ谷川上流(13:12 敷石道上部(13:13
板道(13:35 右手に姥ヶ岳(13:37 渡渉(13:39
登りに転じる(13:42 リフト上駅が見える(13:57 リフト上駅(14:06
 下山開始(12:00)→登山口(14:06)、下山の所要時間2:06、芭蕉句碑辺りで足を痛めペースダウン(16分超過)を余儀なく、でも大事に至らなく何よりだった。
リフト上駅発(14:07 山麓駅下車直後(14:21 姥沢駐車場(15:05
 姥沢駐車場帰着、予定14:00に対し14:38、車中で全て着替え、後にしたのが15:05、この後の予定(湯殿山神社本宮、岩根沢三山神社、長登寺観音堂、慈恩寺)を一応キャンセルし月山を後にした。
 【五色沼】(月山志津温泉) 西川町志津
 
 志津地区は、江戸幕府が番所を置き出羽三山詣でに訪れる行者の宿場町、山形県の村山地方と庄内地方を結ぶ「六十里越街道」の要所として、400年もの間代々宿場の灯りを受け継いでいます。出羽三山詣でが盛んだった昔は、雪が多く、道も整備されていなかったため、山開きの71日までは志津に来る人はいませんでした。シーズンになると、お行様と呼ばれる信仰で訪れる人々が列を作るほど溢れ賑わっていたという。
 
 第908話(2019.5.17)「ゆどのみち;古道“六十里越街道”を行く」の補遺、ここ「志津」は、前述のように「六十里越街道」の要所だったようです。→説明板
 
 「五色沼」湖畔、芭蕉句碑の左隣りに「不動院跡」なるものがある。かつて巨大なブロンズ製の不動明王像と大日如来像が祀られていたという。→説明板
 
 「五色沼」(不動院跡)に建つ芭蕉句碑、今日の登山で「月山山頂」の句碑を撮影したので「句碑ギャラリー」にある本句碑と入替を行う。「雲の峰幾つ崩れて月の山」、元禄263~10日、「奥の細道」旅中「出羽三山」にて詠まれた句。
 【八聖山金山神社大瀧祈祷所】 西川町水沢
 大同4年(809)空海が本道寺とともに開山したと伝承。中世以降は、出羽三山神社の道中祈願所として栄え、湯殿山正別当と称した本道寺に親依してきた修験道の二院を基とすると伝承。江戸時代以降は、鉱山師、鉱山従事者の信仰を集め、全国唯一の鉱山の神として信仰の対象となってきた。西川町の歴史にとって欠かせない出羽三山信仰、とりわけ類例の無い修験道建築や鉱山信仰の栄華を今に伝える数少ない建造物。八聖山金山神社は、ひとつの神社に二つの宮司社家。これは現在も残っている二つの金山神社の別当(宿坊など)がそのまま二つの宮司社家となっている。社殿に近い側が最上別当、その南側に大瀧別当となっている。
 
 
大瀧別当 最上別当
 第908話(2019.5.17)「ゆどのみち;古道“六十里越街道”を行く」の補遺、「最上別当」の撮影を漏らしていた。「最上別当」(最上大元宮司)は、「口之宮湯殿山神社」の宮司でもある。
 
- 編集後記 -
「月山登山土産」
 大吟醸「銀嶺月山」(月山酒造)
→寒河江市の地酒に留まらず全国的に知られる銘酒。

「仙台出張土産」(晩酌の友)
浦霞酒造
 生貯蔵酒
  本醸造「ぼとる浦霞」
3
一の蔵酒造
 本醸造生酒
  ひゃっこい「一ノ蔵」
2
 辛口本醸造
  「一ノ蔵」
2
 
 「登山」(月山;1,984m)を主目的とした「旅の未知草」は初めての事。脳裏にこびりついていた「月山山頂の芭蕉句碑」も無事撮ることが叶い「奥の細道」(碑撮り旅)も完走と声高らかに言えるようになった。往路、月山まで434km、仙台まで通しで579km、翌日の会議を終え14:45に仙台を後に、仙台東ICから西那須野塩原ICまで高速、その後は日光・足尾経由の一般道、21:38に帰宅、往復ジャスト1,000kmであった。
 MP3 夢幻の風