東京へ 新旧コラボ
2019.09.26(木) 晴
 肺に癌が見つかり気落ちしている兄を、妻と元気づけに行ったのは727日、もうそんなに経つのかと・・・・。いよいよ手術が決まり見舞いに行く日になった。最初は車と思ったが、病院が築地ということで高速バスの方が便利と、始発のJR2号(佐久平駅 5:40)に乗車すべく家を 5:00 に出た。
 【佐久平の夜明け】 佐久市
 
 冬季の仙台出張は、「高速バス」「新幹線」を利用していたが、最近は車で行くようになった。早朝の「小諸→新宿」は金曜日、今回は木曜日、そのせいか分らないが練馬からの一般道の混雑ぶりはひどく「練馬」(25分遅れ)で下車した。目的地に直行するには「都営地下鉄大江戸線」が直通ゆえ便利でもあった。
 【増上寺】(徳川将軍家菩提寺) 東京都港区
 「練馬」から「築地市場」まで都営地下鉄「大江戸線」で40分弱、9時を大幅に回ってしまう。このまま病院に向かっても手術室に向かっているし・・・・。通常面会の13時にしようと決断し、2つ手前の「大門」で下車。
 「東京タワー」が2基・・・・「三解脱門」(三門)に角が生えている。そう見える場所を見付け少し得意げ。
 どぉ~んと構えるは、「三解脱門」(三門)、三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門、元和八年(1622)建立、江戸初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で重要文化財に指定。
 「浄土宗大本山増上寺」(三縁山広度院増上寺、阿弥陀如来)は、関東での正統念仏道場として、明徳四年(1393)酉誉聖聰上人により、江戸貝塚(千代田区紀尾井町)に創建、慶長三年(1598)に現在地に移転、徳川将軍家の菩提寺として、また浄土宗の宗務を統べる総登録所、関東十八檀林の筆頭として隆盛を極める。最盛期には、百二十を越える堂宇、百軒を越える学寮、三千名の僧侶が修学に励む大寺院であった。徳川家の菩提寺ゆえ、特に苦難の明治期(神仏判然令;神仏分離令)を経て、昭和四十九年(1974)の大殿再建を期に徐々に復興を果たす。ちなみに、日本電波塔、愛称が東京タワー;増上寺の紅葉山を購入し1958年開業された。
鐘楼堂 熊野神社
 「安国殿」(左画像)は、平成22年(2010)年、法然上人800年御忌を迎え念仏信仰「南無阿弥陀仏」の拠点として、徳川家康公が成し遂げた「天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い建立された。
 「西向き観音」は、江戸33霊場21番札所、安産・子育て祈願、通称「千体地蔵」(1,300体の子供お地蔵さん)
 「徳川将軍家霊廟」には、「二代秀忠公夫妻」(1605-1623)、「六代家宣公夫妻」(1709-1712)、「七代家継公」(1713-1716)、「九代家重公」(1745-1760)、「十二代家慶公」(1837-1853)、「十四代家茂公」(1858-1866)ならびに「皇女和宮」、「合祀塔」が集められている。
 
二代秀忠公(台徳院)・お江の方(嵩源院) 皇女和宮(静寛院)
 家康の三男。関ヶ原の戦いでは父の不興を買ったが、家康の死後はその遺命を守り、武家諸法度の制定など幕政の整備に努めた。
 浅井長政の三女、母は市(織田信長の妹)、長姉は淀殿(茶々)、秀忠とは3度目の婚姻。
   仁孝天皇の第八皇女。6歳の時、11歳年上の有栖川宮熾仁親王と婚約したが、15歳の時、幕府から朝廷に対して「十四代将軍徳川家茂へ降嫁を請う」(公武合体)と執拗な申し出があり、婚約を解消し承諾するに至った。16歳の時、文久元年(18611020日に中山道を江戸に下り1115日に江戸到着。
 話は変るが、徳川家康の側室、「英勝院」(お勝の方)と部屋子の「養源院」(お六の方)の墓所は・・・・「英勝院」は鎌倉の「英勝院、「養源院」は日光東照宮内の「養源院跡」である。十五代慶喜公は、仏教から神道に改宗しているため墓所は「谷中霊園」、「院号」もない。
 
 増上寺は個別の墓石はなく、「大納骨堂」への本骨・分骨の納骨をしている。 本堂での法要後、当山僧侶により納骨しているようです。条件は、本骨は[後継者がいない」「菩提寺がない」「その他の事情」、分骨は「浄土宗檀信徒」のようです。回向料のみ、管理料はなし。
 散歩をされていたご近所の方でしょうか、[普段は扉は閉っているのに、今日は開いていますね」と声を掛けられた。ご本尊の「地蔵尊像」は、高村光太郎の父「高村光雲」(仏師・彫刻家;1852-1934)作をもとに作られた。 さて、「東京タワー」が随所で写り込んでいます。「東京タワーが見守る寺院」(新旧コラボ)・・・・そんな「観点」で参詣するのも都会的かも知れません。
 
 「貞恭庵」は、幕末の劇的な時代を生き抜いた徳川家十四代将軍家茂公の正室「皇女和宮さま」ゆかりの茶室。昭和五十五年(1980)に移築・改修されたもの。月一日、一般利用日あり。
 「圓光大師堂」は、浄土宗総本山知恩院(華頂山知恩教院大谷寺;京都府)より開祖法然上人の御廟の御浄砂を拝顔、御身柄と命名し、法縁を承け奉安する御堂を平成二十一年(2009)に建立した。
 
 左は「景光殿表門」(旧広書院)。右は「黒門」(方丈の表門)、「三解脱門」の南側にある。
 左は「経蔵」、慶長10年(1605)に創建。天和元年(1681)改造移築し、さらに寛政12年(1800)、黒門(旧方丈門)脇の現在地に移された。右は「慈雲閣」(開山堂)。
 増上寺は、徳川将軍家の菩提寺として名高いが、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえ言われていた。しかし、昭和
203月の東京大空襲によりその大半が焼失。昭和33年に実施された改葬で、徳川家の墓所は安国殿裏手にまとめられた。
 徳川将軍家の菩提寺(墓所)は、別に「家康公」(日光東照宮)、「三代家光公」(日光輪王寺)、そして「寛永寺」(上野)には、「四代家綱公・五代綱吉公・八代吉宗公・十代家治公・十一代家斉公・十三代家定公」の御廟があるも、幕末に起こった上野戦争により伽藍の多くは灰と化し、敷地の大部分は上野恩賜公園として利用される。その後、関東大震災や太平洋戦争時の空襲により、多くの歴史的建造物が失われ、現存するのは五代綱吉公の勅額門と水盤舎、八代吉宗公の御宝塔だけになった。
 左は「光摂殿」、(講堂、大広間を持つ道場)、右は「増上寺会館」、一階にある大食堂は、お坊さんだけでなく一般人も食べられる。メニューは・・・・精進料理ではなくカレー・コロッケ・メンチカツ等々あるようです。
 「旧台徳院霊廟惣門」ならびに「木像仁王像」、「台徳院霊廟」は二代将軍徳川秀忠の霊廟建築。→説明板
霊廟は
1945525日に空襲に遭い、旧国宝指定物件の15棟のうち、惣門、勅額門、丁子門、御成門、奥院玉垣を除く10棟と附指定の銅燈籠8基が焼失した。これら焼失物件は、19491013日の官報告示で正式に指定解除された。なお、奥院玉垣は焼失物件ではないが、焼失した他の物件とともに指定解除された。焼け残った惣門、勅額門、丁子門、御成門の4棟は1950年の文化財保護法施行後は重要文化財となっている。勅額門、丁子門、御成門の3棟は1960年に埼玉県所沢市上山口のユネスコ村(現在は狭山不動尊)に移築され、惣門のみが芝公園に残っている。→江戸図屏風絵
 【旧芝離宮恩賜庭園】 東京都港区
 
 旧芝離宮恩賜庭園は江戸幕府の老中・大久保忠朝の上屋敷内に作庭した大名庭園楽寿園を起源とする回遊式庭園である。作庭当時は海岸に面しており、浜離宮恩賜庭園同様汐入の庭であった。現在では周囲の埋め立てと、ビル群により海の眺望は失われた。一部が鉄道の増設用地に提供され面積が狭くなった。
 幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となった。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となる。大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けた。
 宮内庁管理の離宮を経て、大正13年(1924)、昭和天皇の御成婚を記念し東京市に下賜され、、園地の復旧と整備を施した後「旧芝離宮恩賜庭園」として公開されるようになった。
 「増上寺」では「東京タワー」が写り込んでいました。ここ「旧芝離宮恩賜公園」は、高層ビルに囲まれた庭園であり、どの方向を眺めても借景に近代ビルが目に入る。「江戸時代と現代の融合」(新旧コラボ)・・・・そんな「観点」で見学するのも都会的かも知れません。
 池は海水を引き入れた「潮入りの池」(回遊式泉水庭園)であった。引き潮の時は中島から浮島に渡れたり、潮の干満により州浜や島々の風景が劇的に変化したといわれている。今は残念ながら海水の取り入れができなくなり、淡水の池になっています。
 数々の名石が用いられた庭造り、根府川山や中島の石組は一見の価値がある。特に大久保家の藩地であった小田原から、多くの根府川石が運ばれ、いくつかの石組と泉水周りの飛石に使われている。
 
 江戸の人達の垂涎の場所であった西湖は、中国の杭州(現在の浙江省)にある湖、西湖堤は風光明媚な西湖の蘇堤を模した石造りの堤です。古来、詩歌や絵画の題材として珍重されました。
 
 「旧芝離宮恩賜公園」は、高層ビルに囲まれた庭園で、どの方向を眺めても借景に近代ビルが目に入る。「江戸時代と現代の融合」(新旧コラボ)・・・・そんな「観点」で見学するのも都会的かも知れません。
 【竹芝桟橋】 東京都港区
 
 
 「竹芝桟橋」は、随分むかしになるが、20代初期に職場旅行で「伊豆大島」へ行った時に乗船した桟橋だ。
 【浜離宮恩賜庭園】 東京都中央区
 
 東京湾から海水を取り入れ潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。江戸時代には「江戸城」の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園であった。
 
 承応3年(1654)、徳川将軍家の鷹狩場に、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てた。その後、綱重の子、綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり「浜御殿」と呼ばれるようになった。以来、歴代将軍によって幾度かの造園・改修工事が行われ、十一代将軍家斉の時代に「ほぼ現在の巣が手の庭園」が完成した。
 明治維新の後は皇室の離宮となり「浜離宮」と名称が変った。関東大震災や戦火によって、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し往時の面影はなくなった。昭和20年(1945)に東京都に下賜され、整備の後に昭和21年(1946)から「浜離宮恩賜庭園」として公開されるようになった。「富士見山」から「潮入の池」(大泉水)を撮り(ひとつ上画像)、右手に続く遊歩道を進み「東京湾」を臨む。
 
 
 
 
 
 【兄の見舞い】(上京の本目的) 東京都中央区
 
 「大手門」から出て、左手に首都高「汐留JCT」を見上げる。右画像は「環二通り」で、「隅田川」を渡り[月島」「晴海」を経て「豊洲」「有明」へと通じる。「小池都知事」「築地・豊洲市場」「東京五輪」等々の時事問題が脳裏を横切る。兄が入院している病院の周辺には昼食を摂る店が極めて少なく、あっても長蛇の列をなしている。「東銀座」辺りまで彷徨い、やっとファミレスを探し出した。
 
 面会時刻は13時から、12時半過ぎに総合受付へ、17階ナウスステーションで受付するようにと案内を受け、「休憩兼待合コーナー」で待機する。真下に築地市場のセリ跡がクッキリと浮き出ている。その先には、隅田川に架かる勝鬨橋も見える。
 
 左へと目を向ければ、そこには築地市場の出店街が、かなりの観光客で賑わっている。ここで昼食を摂っても、歩き回る時間を考えたら良かったかも知れない。手術は13時に終え、義姉と娘二人が手術待合室より戻ってきた。1時間もすれば、元部屋(二人の相部屋)に戻るとのことだったが15時を過ぎても音沙汰なし、心配が高まる。義姉が元部屋を見に行くと、新たな患者さんが寝ていたと、さらに気を病む。次女がナウスステーションへ、術後の麻酔がきれ傷みが強く、心臓手術もしているし高齢なので強い痛み止めは打てないので一人部屋に移っているとのこと・・・・。暫くして、面会OKとの連絡を受け休んでいる部屋へと見舞いに行く。
 
 兄に声を掛け、16:30に病室を出た。築地市場で早めの夕食に鮨を食べ、地下鉄大江戸線で「バスタ新宿」へ、どの便に乗っても良いように「最終便」の切符を取ってある。乗車変更をお願いすると「5分前に出ました」とのことで、「19:35発→佐久平22:17着」に乗る。「月山登山」から一週間と疲れも残る中、朝早くから歩き回った(約15km)ので、どっと疲れが出て睡魔に襲われ「バスタ新宿」を出てすぐに爆睡。翌日、義姉より術後リハビリを始めたとの連絡を受けた。
 そして、記事を書きあげた
108日、昨夜頼んだ「短歌」(文化祭発表作品)の添削結果を待つ、痛みは残っているが自宅で通常生活に戻っているという。そのうちに「抜糸」をするらしい。案じた程に至らなくて良かった。
 Midi ゆりかご