多賀城 「奥の細道」(万葉編)
2019.11.15(金) 晴
 先月は台風19号の影響で出張そのものを中止、楽しみにしていた「旅の未知草」(羽黒古道;いにしえの羽黒古道に踏み入りて蜂子皇子の俤をみゆ)も落葉のごとく散り失せた。コースに入っている「月山八合目」を中止し、行こうかと思ったが災害が甚大だったこともあり、「仙台周辺散策」(宮城県多賀城市・塩釜市)に切り替えた。
 家を2時(1:47)に発、「多賀城政庁跡」に11時半(10:25)着、ホテル・チェックインは17時半(15:19)の旅。
 【多賀城政庁跡】 多賀城市
 「国分寺」(僧寺・尼寺)は、天平13年(741)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の各国に建立を命じた寺院である。これより20年足らず前の、奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点(平時は陸奥国を治める国府)として神亀元年(724)に「多賀城」として築城(古代城柵=多賀柵)、その後11世紀半ば(平安時代末期)まで存続した。「奈良・平安」・・・・万葉和歌の時代と重なると認識しておこう。
 「多賀城」の中心なる「政庁跡」は小高い丘陵南斜面側が表、模型と図面Google Mapを比較してみよう。
 駐車場は、模型の右上外側に位置する。よって、散策は後方より前方へと進む。左画像は「後殿跡」、右画像は「政庁跡」になる。
 
 ここは、「石敷広場」と、両サイドにある「東・西脇殿」。何もない「多賀城跡」・・・・広大な草野球場のようたがを想像してみよう・・・・かつて「国分寺跡」を訪ねた時のように・・・・
 「多賀城」の正面、「城柵」の外部にあたる石段を降りる。「石段」の上部に「南門」(左右に西・東翼部)があり、中央部(南門)より外に出る。右画像は、「多賀城碑」を見てから戻る際に撮影したもの。
 先月の台風19号、大雨が創り出した浸食傷痕が痛々しい。デコボコ台地をキツネが跳ねるように横切るも、早足で画像として捕えら切れず。右画像は「多賀城碑」より「多賀城跡」を望む。
 【多賀城碑】(壺の碑) 多賀城市
 「多賀城碑」(壺の碑)は、文化庁より「おくのほそ道の風景地」に指定されている。
「籬が島」(曲木島)は「歌枕」の地
 
01「思ひこそ千鳥の奥を隔てねどえぞ通はさぬ壺の石文」 顕昭
 02「みちのおく壺の石文ありと聞くいづれか恋のさかひなるらん」寂蓮
 03「陸奥のいはで忍ぶはえぞ知らぬ書きつくしてよつぼのいしぶみ」源頼朝(新古今和歌集)
 04「思ふこといなみちのくのえぞいはぬ壺の石文かきつくさねば」慈円
 「多賀城碑」(壺の碑)は、書道史「日本三古碑」のひとつ。「多胡碑」(群馬県高崎市)・「那須国造碑」(栃木県大田原市)、何故かもう一つ「宇治橋断碑」(京都府宇治市)をもって「日本三古碑」という。「多賀城碑」は、陸奥国(陸前国)令制、西暦762年建立で11140字で、多賀城創建(724)と改修(762)を伝える。
 芭蕉も「奥の細道」旅中で訪れ、「壺の碑」の序として「壺碑 市川村多賀城にあり。」と題し記載している。
 「多賀城碑」に並んで芭蕉句碑がある。「あやめ草足にむすばん草鞋の緒」、元禄254-8日、「奥の細道」旅中「仙台」での作。
 【浮島神社】 多賀城市
 
 平安時代に歌枕として詠まれた「浮島」の地と伝承、多賀城の在った頃は栄えたと考えられている。
 
 
 
 「おくのほそ道」に記載ないが、「曾良随行日記」には、「八日・・・・仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。末ノ剋、塩竈ニ着。湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもハくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ、法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入。」と記載あり。
 境内に「歌枕浮島参道」なるものがあり、参道沿いにパネルで掲示されていた。
 05「浮島の花見るほどは陸奥に沈める事も忘られにけり」       橘為仲(橘為仲朝臣集)
 06「塩竈の浦の干潟のあけぼのに霞に残る浮島の松」         後鳥羽院(続古今和歌集)
 07「世のなかはなほ浮島のあだ浪に昔をかけてぬるる袖かな」     飛鳥井雅経(明日香井集)
 08「わたつみの浪にも濡れぬ浮島の松に心を寄せて頼まん」      大中臣能宣(拾遺和歌集)
 09「たのまれぬ心からにや浮島に立ち寄る浪のとまらざるらん」    中務(中務集)
 10「定めなき波にただよう浮島はいづれの方をよるべかとみる」    藤原公重(風情集)
 11「いづくなるところをかみしわが身よりまた浮島はあらじとぞ思ふ」 和泉式部(和泉式部集)
 12「定めなき人の心にくらふればただ浮島は名のみなりけり」     源順(拾遺和歌集)
 13「浮島の松の緑を見渡せばちとせの春ぞ霞そめける」        清原元輔(元輔集)
 14「陸奥は世を浮島もありと云ふ関こゆるぎの急がざらなん」     小野小町(小町集)
 15「塩竈の前に浮きたる浮島の憂きて思ひのある世なりけり」     山口女王(新古今和歌集)
 【多賀城廃寺跡】 多賀城市
 多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡で、多賀城跡の南東約1,200mにあります。東に塔、西に東面する金堂があり、その北には講堂が置かれ、中門から延びた築地塀が塔と金堂を取り囲み講堂に取り付くという伽藍配置は、大宰府付属の観世音寺と共通しています。寺の名称は伝わっていませんが、山王遺跡から「観音寺」と書かれた土器が発見されており、寺名の可能性が高いと考えられています。→説明板①説明板②補完図
ひとつ脱ぎ息をつく背に小春風
 12月の「俳句講座」(生涯教育講座)の宿題は、画像がないので「改案」を投句する。バレバレの手抜き→「中七・下五の良さを台無しにした上五」と酷評!→成案
史跡めぐり立ち止まる背に小春風→ひとつ脱ぎ立ち止まる背に小春風
 
 
 
 「多賀城廃寺」の社叢(神社のみでなく寺院も含めるようだ)が、綺麗に紅葉と化していた。桜の木も多く、春には桜の名所(大半が昭和41-44年、史跡公園整備事業で植樹されたもの)になっている。→GoogleMap
 【多賀神社】 多賀城市
 
 「多賀神社」は、「多賀城廃寺」の隣り、一方通行路を挟んである。柵があり行くことが出来なかったので「多賀城廃寺」より横眼に観るに留めた。多賀城には、「坂上田村麿呂」や万葉の歌人「大伴家持」が赴任してきます。天応2年(78265歳の年です。万葉集の編纂にも深く関わったとされる大伴家持が滞在した「多賀城」、残念ながら当地で詠んだ歌は無いようです。悠久の歴史流れる「史都多賀城」、大伴家持を偲びながら万葉の世界に迫るのもよかろう。
 【野田の玉川の碑】 塩釜市
 
 「野田の玉川」は歌枕の地
 16「夕されば汐風こして陸奥の野田の玉川千鳥鳴くなり」 能因法師(新古今和歌集)
 【野田の玉川】(おもわく橋) 多賀城市
 「野田の玉川」(塩釜市)は、六玉川の一つ。他の玉川は、「井手の玉川」(京都府)、「野路の玉川」(滋賀県)、「高野の玉川」(和歌山県)、「調布の玉川」(東京都)、「玉川の里・三島の玉川」(大阪府)。
 
 17「踏まま憂き紅葉の錦散り敷きて人も通はぬおもわくの橋」 西行法師(山家集)→説明板
 「前九年の役」(平安時代後期に起った源頼義・義家による陸奥の俘囚長安倍氏討伐戦)で知られる安倍貞任が「おもわく」という名の娘に想いを寄せ、橋を渡って通ったとの伝説があり、「安倍の待橋」とも呼ばれる。
 
 「おくのほそ道」(末の松山・塩竈)に、「それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ」と記載あり。
 【野田の玉川】(野田橋) 多賀城市
 
 
 【野田の玉川】(天神橋) 多賀城市
 
 18「朽ちのこる野田の入江のひとつばし心細くも身ぞふりにける」 平政村(夫木和歌集)
 19「せきかくる野田の入江の澤水に氷りて留まる冬の浮き草」   藤原為家(夫木和歌集)
「ひとつばし」は「おもわくの橋」、「野田の入江」は「末の松山・興井」辺りか・・・・。「夫木和歌集」は、鎌倉時代後期に成立した私撰和歌集。「私撰和歌集」とは、「万葉集」以来の和歌のうち「勅撰和歌集」に採録されなかった
17,387首を収集した巨編。
 
 「水緑景観モデル事業」区域の最上流部に「玉川橋梁」がある。野田の玉川にかけられていた旧塩釜線の鉄道橋梁で、レンガ積みの橋台などが良好な状態で残っている。この橋梁は、明治20年(1887)に日本鉄道奥州線が開業した当時に造られたと推定され、宮城県内最古の鉄道遺構の可能性が指摘されている。
 【末の松山】(寶國寺) 多賀城市
 
 「寶國寺」の「末の松山」を撮っていると、自転車を押す旅人から「興井」(沖の石)を尋ねられた。手にしている一冊の本で「奥の細道行脚」とすぐに分かった。福島中通りにお住まいとか・・・・今日は「石巻」まで行きたいとのこと(13:00)。私の行脚も、20136月から6年余り経つが、初めての出会いとなり、しばし話し込む。寝袋持参、初冬に入り朝晩の冷え込み、大変な自転車旅と察する。
 
 「末の松山」は、文化庁より「おくのほそ道の風景地」に指定されている。「おくのほそ道」(末の松山・塩竃)に、「末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの末も、つひにはかくのごとはと、悲しさもまさりて、」と記述あり。→説明板①説明板②
 「末の松山」は歌枕の地
 20君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波もこえなむ」   未詳(古今集東歌陸奥歌)
 21
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」   清原元輔(後拾遺集、百人一首)
 22「うらなくも思ひけるかな契りしを松より波は越えじものぞと」 紫上(源氏物語)
 23「わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし」   未詳(後撰集)
 24「浦ちかく降りくる雪は白波の末の松山越すかとぞ見る」    藤原興風(古今集)
 「末の松山」は海抜10mほど、歌が詠まれる前の貞観11年(869)、陸奧国で大地震が発生し、多賀城の国府のそばまで大津波が襲ってきたようです。東日本大震災後「千年に一度の規模の地震」として語られるようになった貞観地震のことです。「東日本大震災」時の巨大津波は、この付近まで「浸水域」になっている。→津波浸水域マークが末の松山)、GoogleMap 「末の松山」「興井」と「多賀城駅」の間を流れる「砂押川」を遡る「津波画像」をネットで探しました。「末の松山」は「多賀城駅」より海側に位置します。
 【興井】(沖の石) 多賀城市
 
 「末の松山」と目と鼻の先にある。先述の「野田の入江」はこの辺りらしい。「興井」(沖の石)は、入江にありそうな磯の岩を装う。「興井」は、文化庁より「おくのほそ道の風景地」に指定されている。「おくのほそ道」に記載ないが、「曾良随行日記」に記述あり。(浮島神社参照)→説明板
 
 「興井」(沖の石)は歌枕の地
 25「おきのゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまべのわかれなりけり」 小野小町(古今和歌集)
 26「わが袖はしほひにみえぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき」  二条院讃岐(千載和歌集)
 「野田の入江」を詠んた歌・・・・「おもわくの橋」で記載した歌を読みかえしてみたくなった。
 【煙波亭】(愛宕神社) 塩釜市
 
 「愛宕神社」境内に「煙波亭」(えんぱてい)がある。そこに「芭蕉翁晩鐘の碑」がある。今回で3度目になろうが、ナビに翻弄され迷いに迷ってしまった。途中より男性2名が乗る乗用車に追尾される。「愛宕神社」に着くと、追い付かれ「道に迷われたようで・・・・お困りですか?」と尋ねられる。一方通行で余り通りませんから、路肩に寄せ駐車してもかまいませんと丁寧にご案内頂いた。
 
 芭蕉翁晩鐘 塩竈の浦に入相の鐘を聞
五月雨の空聊かはれて夕月夜幽に籬か島もほと近く蜑の小舟こきつれて肴わかつ聲々つなてかなしもとよみけむ心もしられていと哀也其夜目盲法師の琵琶をならして奧上るりと云ものをかたる平家にもあらす舞にもあらすひなひたる調子うち上て枕ちかうかしましけれとさすかに辺土の遺風忘れさるものから殊勝に覺えらる早朝塩竈明・に詣國守再興せられて宮柱ふとしく彩椽きらひやかに石の階九仭に重り朝日あけの玉かきをかかやかすかかる道の果塵土の境まて・靈あらたにましますこそ吾國の風俗なれと貴けれ・前に古き寶燈在かねの戸ひらの面に文治三年和泉三郎寄進と有五百年來の俤今目の前にうかひてそそろに珍しかれは勇義忠孝の士也佳名今に至りてしたはすといふ事なし誠に人の道を勤義を守へし名もまた是に隨ふと云り。(おくのほそ道、末の松山・塩竃)→碑面拡大①碑面拡大②
 
 「煙波亭」「愛宕神社」まで足を伸ばすのは初めてである。→説明板
 【塩釜神社】 塩釜市
 
 「志波彦神社」の赤鳥居から「奥の細道の文学碑」までの紅葉が、本日の中で最も映えていた。
 
 「奥の細道の文学碑」は、前文略で「塩竈の浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊晴れて、夕月夜幽に、籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴分つ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜目盲法師の琵琶をならして奥浄瑠璃と云ものをかたる。平家にもあらず舞にもあらず、鄙びたる調子うち上て、枕近うかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。早朝、塩竈の明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り、朝日朱の玉垣を輝かす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、文治三年和泉三郎奇進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳命今に至りて、慕はずといふ事なし。誠人能道を勤め、義を守るべし、名もまた是にしたがふと云り。
 
 「千賀ノ浦」(ちがのうら)とは、古代の国府津(こうづ;国府の外港)のことで、現在の「仙台塩釜港」がこれに相当する。
 
 
 「七五三特別祈願」(10/1-11/30)詣りの姿があちこちで見えた。まるで、爺婆が主役のように見えた。
爺婆の笑顔ほころぶ七五三
 
 「塩釜神社」には、「右宮拝殿」(武甕槌神)と「左宮拝殿」(経津主神)そして「別宮拝殿」(塩土老翁神)がある。「塩釜神社唐門」を入り右手に「別宮」、正面の「左右宮拝殿」より回廊を通り右側の「左宮」そして左側の「右宮」の順でお参りするのが正式とか・・・・
 
 「塩釜神社」境内には「文治の燈籠」(左画像)と「文化の燈籠」(右画像)がある。→説明板
 【籬が島】(曲木島) 塩釜市
 
 「籬が島」は、文化庁より「おくのほそ道の風景地」に指定されている。ここに祀られているのは、「塩釜神社」の十四末社の一つ「曲木神社」(籬島明神)です。参拝日は毎月、1日、他の日は橋が閉ざされている。
 「籬(かきね)」(竹・柴などを粗く編んで作った垣根=籬垣/りえん)の語によって人を隔てるイメージを持ち、陸奥での都恋しさの念を表現するのに用いられた。この画像は、「マリンゲート塩釜」より撮影した。
 「籬が島」(曲木島)は「歌枕」の地
 27
わが背子をみやこに遣りて塩釜のまがきの島のまつぞ恋しき」 未詳(古今和歌集・東歌)→説明板
 28「さてもなほ籬の島のありければ立ち寄りぬべく思ほゆるかな」 未詳(後撰集)
 29「あけくれは籬が島をながめつつ都恋しき音をのみぞ泣く」   源信明朝臣(新勅撰集・雑歌)
 30「春くれば籬の島にかけてほすかすみの衣ぬしや誰なる」    俊惠法師
 31「塩釜の浦ふく風に秋たけて籬が島に月かたぶきぬ」      源実朝
「籬(かきね)」(竹・柴などを粗く編んで作った垣根=籬垣/りえん)の語によって人を隔てるイメージを持ち、陸奥での都恋しさの念を表現するのに用いられた。
 【マリンゲート塩釜】(塩釜港) 塩釜市
 
 こんなところに「芭蕉翁」が・・・・地元の「仙臺四郎」より商売繁盛に寄与している?
 
 夕食には大分早いが「海鮮丼・酢がき」を食べ、土産(金華さば缶×6、新ワカメ×3)を予定通り買う。毎回、同じお店で同じ物を買う・・・・「脳が無いね!」と言うと、無言でニッコリされ嬉しくなる。
- 編集後記 -
 「初チョンボ!」・・・・恒例の「地酒みやげ」(浦霞と一ノ蔵)をホテル近くのA-coopで調達、給油を終えいつになく早いチェックイン。(走行距離462k16:39着)
 フロントで宿泊カード、書き込む段階で「あれっ、予約してないかも?」・・・・予約は、チェックイン時に翌月分をしている。
10月は台風19号の影響で千曲川氾濫・国道18号・上信越自動車道・生活路が全面通行止、顧問先の社長様に連絡をとり「出張取止」にしていた。気も動転し「宿泊キャンセル・翌月予約」をしてなかったことに気付いた。フロントの女性に、事の成り行きを説明しお詫びをする。支配人に相談に行ったのか席を離れる。しばらくして、「かしこまりました。お部屋をご用意致しました」・・・・と、毎月泊っているので便宜を図って頂けたようだ。
 お断り;文中に掲載した「和歌」は、詠まれたものを調べて掲載したもので「歌碑有り」と誤解なきよう。
 MP3 秋の野