大猷院 世界遺産「日光の社寺」
2019.12.20(金) 晴
 「足尾銅山」と「日光東照宮」、「日足トンネル」の両隣・・・・考えてみれば「江戸幕府」という線で点と点が結ばれている。その片や「近代化産業遺産」、そして「世界文化遺産」・・・・日光市は「日本の近代化・産業化と公害対策の起点」として提案書を文化庁に再提出(初提案 2007.9.26)しているようだ。
 古の鉱都「足尾銅山跡地」; 栃木県日光市足尾
いにしへの鉱都に立ちて眺むれば栄枯盛衰ここにありしも
 時は「フランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸」した翌年、そして「織田信長が家督」を継ぐ前の年・・・・足尾銅山は1550年(天文19年)に発見されたと伝承。1610年(徳川家康が江戸幕府を開いて7年後)に百姓二人が鉱床を発見し。江戸幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになった。足尾に幕府は鋳銭座を設け、銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われる発展を見せた。採掘された銅は日光東照宮や江戸・増上寺の部材などに使われたほか、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していた。その後、一時は採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。
 明治4年(1871年)には民営化されたが、銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んでいた。足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年に古河市兵衛は足尾銅山の経営に着手、数年間は全く成果が出なかったが、1881年に待望の有望鉱脈を発見。その後、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見された。古河市兵衛の死後、1905年に会社としての古河鉱業の経営となった。当時の明治政府の富国強兵政策を背景に、銅山経営は久原財閥の日立鉱山、住友家の別子銅山とともに急速な発展を遂げた。20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。
 鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地の樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が大気汚染を引き起こしていた。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れ下った流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染(公害)を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件(日本公害運動の原点)である。1891年、田中正造による国会での発言で大きな政治問題となった。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。
 昭和48年(1973年)228日をもって採鉱を停止し、銅山としての歴史を閉じた。閉山後も輸入鉱石による製錬事業は続けられたが、1989年(平成元年)にJR足尾線の貨物輸送が廃止されて以降は鉱石からの製錬事業を事実上停止し、2008年(平成20年)時点では、製錬施設を利用しての産業廃棄物(廃酸、廃アルカリなど)リサイクル事業を行っているのみである。2010年、精錬所の一部施設を残して解体され現在の姿になる。
 鉱毒は銅の精製過程で排出されたもので、付近の環境に甚大な被害をあたえました。1885年、渡良瀬川の鮎が大量死したことにより事件は表面化します。直後、渡良瀬川から取水していた上流部1,200haの田畑が、鉱毒の影響で数年間収穫不能に陥る事態に見舞われてしまいました。そもそも、鉱毒は問題が表面化する以前から近隣の山々を蝕んでいたのでしょう。鉱毒の影響で上流部の山林は荒廃し、禿山となった土壌から大量の土砂が流出。土砂は下流部(現在の足利市あたり)に堆積し、大規模な天井川を形成します。天井川は大雨の度に氾濫し、田畑は広範囲にわたって鉱毒の海と化しました。
松木川に架かる廃線橋梁と本山小学校跡(講堂) 間藤・赤倉集落
 JR東日本「足尾線」は、平成元年(1989)に第三セクターに転換、「間藤-足尾本山」間を廃線。橋梁の先に見えるのは「本山小学校跡」(古河足尾銅山尋常小学校として明治40年に新築移転、最盛期は数千人の児童数、平成17年に足尾小学校に統合され廃校)、講堂は足尾銅山の歴史を伝える遺構に指定。赤倉・間藤には短期間に商店街が形成。明治40年には約140軒の店が軒を連ねるも、同年の大暴動事件により銅山機能は本山から通洞に移動し、それにともない中心地も移動した。後徐々に衰退し昭和48年に閉山、赤倉は現在は200人弱の小集落となった。
 
 「古河橋」「本山製錬所」、高台に残る3基の「硫酸タンク」、「大煙」と呼ばれる高さ46.8mの排ガス用煙突。大正時代建造の「製錬施設」で操業が不安定で使用度も低く、保存状態もよく残っている。
 「日光東照宮」; 栃木県日光市
 
 
 駐車場近くの「西洋料理明治の館」。明治時代、日本に滞在する外国人たちが日光の歴史、文化、自然に魅せられ次々にこの地を訪れた。日本で初めて蓄音機・レコードの製造販売を行った日本蓄音機商会(日本コロムビアの前身)を創設し「日本における蓄音機の父」と呼ばれるアメリカ人F.W. ホーンもそのひとり。彼が建てたこのアメリカスタイルの別荘は、当時の日光の匠の粋を尽し、時間を惜しむことなく「乱れ石積み」の技法を用い、壁面全てを日光石で積み上げた貴重な近代遺産。終戦時の外務大臣・重光葵が東京大空襲で家を失った際に、一時この邸宅に疎開され、ここから降伏文書の調印式に向かわれた。そんな歴史やドラマを背景に昭和52年、明治の近代遺産としての姿を残しつつ、「西洋料理 明治の館」として開放された。
 廃仏毀釈で廃寺になった「養源院」、寛永3年(1626)水戸頼房の養母・家康の側室・英勝院が、家康の側室・於六の方の菩提を弔うために建てた徳川御三家の水戸家が大檀家であった寺。元禄2年(1689)には、松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中、東照宮を参拝するために江戸浅草にあった清水寺の紹介状をここ養源院に届け、大楽院に行き東照宮を参拝した。
 「徳川御三家」とは、江戸時代において「徳川氏」のうち「徳川将軍家」に次ぐ地位を持った「三家」で、家康九男「徳川義直」(尾張徳川家;尾張藩名古屋城)側室・相応院(亀)、家康十男「徳川頼宜」(紀州徳川家;紀州藩和歌山城)側室・養珠院(お万の方)、家康十一男「徳川頼房」(水戸徳川家;水戸藩水戸城)同側室・養珠院(お万の方)である。→徳川家康の家系図
 
 左側の大きい墓は英勝院(水戸頼房の養母)、右が養源院(家康の側室・お六の方)のものです。
 
 「日光東照宮」の「仁王門」と「五重塔」の間を抜け「二荒山神社の参道」へと進む。
 
 「日光東照宮」の拝観で欠かせない「二荒山神社の上新道の石灯篭」は・・・・いつ観ても心が安らぐ。
 
 「二荒山神社」の境内を抜け、今回の参詣目的である「日光山輪王寺大猷院金閣殿」へ・・・・8:55 静寂
 「大猷院金閣殿」(日光山輪王寺); 栃木県日光市
 「大猷院」(だいゆういん)は「徳川三代将軍家光公」の廟所である。祖父「家康公」(東照宮)を凌いではならぬという遺言により、金と黒を使用し重厚で落ち着いた造りになっている。
 「徳川家光公」は、2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる「お江与」(嵩源院)、最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子は、姉茶々の猶子(義子)となる。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。乳母は春日局(福)、15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。
 家光の遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年
5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653)、「4代将軍家綱」により大猷院廟が造営された。 →徳川家光の家系図
 
常行堂 法華堂
 慈覚大師円仁は比叡山の第三代天台座主となった下野出身の僧です。承和五年(838)唐に渡り、かの地の修行法や密教などを取り入れた。日光山でこの影響を受け建立されたのが常行堂・法華堂で、現在のお堂は江戸期のもの、宝形造り正面向拝付き総土朱塗りの純唐様の建築様式で、須弥壇に本尊普賢菩薩・鬼子母神・十羅刹女などを安置している。常行堂のご本尊は宝冠阿弥陀如来で、現在は回向道場として使われている。
 
 「日光東照宮」には幾度となく参詣しているが、いずれも「二荒山神社」まで、「仁王門」を撮影し「下新道」の途中で芭蕉句碑を撮影し日光東照宮を後にしている。
 
 「仁王門」より真っ直ぐに進むと、右手に「水盤舎」がある。その先の「龍光院」(立入禁止)は、三代将軍「家光」公の家臣であった梶定良(梶左兵衛佐定良)の菩提寺。8歳年下で、幼少の頃より家光公に信任され常に側近に使えた重臣。家光公亡き後も、江戸から日光に移り住み、元禄11年(169887歳で逝去するまで47年もの間、境内の警護にあたるとともに、家光公に霊膳を捧げるのを日課としていた。逝去後、尊骸は大猷院近くに葬られ、位牌は龍光院の仏間に祀られている。
 
 「二天」を安置する「二天門」、「口を開いた阿形(あきょう)」(持国天)と「口を閉じた吽形(うんぎょう)」(増長天)、二体の仁王像(金剛力士像)が安置されている。「阿吽の呼吸」は、ここからきている。
持国天 増長天 雷神 風神
 四体の夜叉(阿跋摩羅・毘陀羅・烏摩勅伽・犍陀羅)が安置される「夜叉門」(牡丹門)は「霊廟」を守っている。
毘陀羅(ひだら) 阿跋摩羅(あばつまら) 犍陀羅(けんだら) 烏摩勅伽(うまろきゃ)
 
 「大猷院」の中心となる建物である「拝殿・相の間・本殿」(国宝)と連なる独特の構造で「権現造り」と呼ばれる。多くの金彩が使われているので別名「金閣殿」と呼ばれている。
 
 
 「皇嘉門」は、奥の院の入口で家光公のお墓所がある。「皇嘉門」(竜宮門)は明朝様式の竜宮造り。
 
 「大猷院」を出て、右手奥、「二荒山神社」沿いに進むと左手に「龍光院」が木立の合間から眺められる。
 
 東照宮宝物館(旧館)に、句碑「あらたうと青葉若葉の日の光」「奥の細道」旅中での句がある。日光東照宮に立ち寄って「この場所」に寄らないことはない。
 奥に見える「石鳥居・石唐門」、これは寛永十八年(1641)東照宮奥社に建てられたが、天和三年(1683)震災(日光大地震)により破損したので、奥社裏山深く埋められて二百数十年に及んだが、当宮三百五十年祭記念として、ここに移し建てた。幕府の作業方、大棟梁・平内氏の設計により巨石から切り出されたもので、江戸時代における代表的石造りである。
 【旧青木家那須別邸】 栃木県那須塩原市
 
 「道の駅明治の森・黒磯」に立ち寄る。隣接する「旧青木家那須別邸」は、明治時代にドイツ公使や外務大臣等を務めた青木周蔵の那須別邸。(国定重文)
 【横断道路・那須岳眺望】(西岩崎ポケットパーク) 栃木県那須塩原市
 「矢板」から「白河」までの山辺みち(横断道路;県道30号線)を初めて走ってみた。仙台出張の帰路、白河ICで降り抜け道として相応しいか確認するも、殆どが追越禁止で部分的にセンターラインのない山道でもあり、利便性に欠けると認識した。那須高原のソーセージ等を土産に買い17:40にチェックイン。430kと直行距離に匹敵。
 
那須野が原幾重の篠を眺め行く起伏に富んだ横断道路
山辺みち扇状越へる枯野かな  那須の野辺背筋伸ばせば時雨虹
- 編集後記 -
冬晴の那須の野辺行く試写の旅
 来シーズンに向け戦力強化、「大口径ズーム」70-200mm)が1210日に到着した。既に持っている「大口径ズーム」(28-75mm)と併せ「28-200mm 全域で F/2.8」が揃った。「180mm 1:3.5 MACRO 1:1」と遜色ない「28-200mm F/2.8 MACRO」が装備できた。今回の「旅の未知草」は「試写の旅」である。その第1部は「日光山輪王寺大猷院金閣殿」(日航東照宮)、第2部は「那須野」(横断道路で矢板-白河)で、「2本の大口径レンズの試写の旅」と洒落てみっか・・・・。そんな予定であったが、新たなレンズでの試写は一枚もなし。
 追伸;昨年の
1210日、19,670kmで乗り始めたインプレッサ、帰宅時に39,548kmになっていた。
 MP3 秋の野