近代建築 (福島県) ; 福島中通見聞録 |
2020.01.017(金) 晴 |
目まぐるしく変わる週間天気予報、最後にチェックし仮眠をとる。場所別に午前・午後の予報をメモる。総じて午前;晴、午後;曇/雪」。最初の撮影地「西白河郡役所」(南湖)に5:30着、朝食と仮眠で「夜明け」を待つ。 | ||
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松平定信(陸奥国白河藩3代藩主)によって1801年に築造された日本最古の公園。「士民共楽」の理念を掲げ「塀がなく誰も」が訪れることのできる地を造った。 |
【南湖神社】所在地;白河市 | ||
「松平定信」(白河楽翁)公を祀る。1920年(大正9年)に神社設立が認可され、1922年(大正11年)に竣工。 |
【西白河郡役所】 所在地;白河市 設計;不詳 竣工;明治16年(1883) | ||
明治12年(1879)「西白河郡」が発足し、郡区役所が白河町に設置。当時1町79村。木造一部2階建て金属板瓦葺き寄席棟造り。明治時代初期に建造された郡役所建築の典型。元々は同市道場小路(白河駅付近)にあった。 |
【生神女進堂聖堂】(白河ハリスト正教会) 所在地;白河市 設計;河村伊蔵 竣工;大正4年(1915) | ||
ビザンチン様式のギリシャ正教会系ロシア正教会。堂内の聖像画50点、山下りん(聖像画家1857-1939)5点。 |
【白河小峰城二の丸跡】 所在地;白河市 |
小峰ヶ岡と呼ばれる標高370mの東西に細長い独立丘陵を利用し、正平年間(1340~1369)に、結城宗広の嫡子親朝が築城した梯郭式の平山城である。以降、慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いにより落城焼失。 |
【白河駅】 所在地;白河市 設計;不詳 竣工;大正10年(1921) | ||
かつて車で熊谷から小名浜に出張していた頃の通り道、たった一度だと記憶しているが、「白河駅」で立ち食いうどんを食べた(朝食)ことがあった。また、本社に戻ってからは、新白河CCでコンペをすることが多く、全営オープンの帰路、東北道で購入したばかりのアウトビアンキY10ターボで追突事故を起こした記憶も生々しい。白河駅周辺はずいぶん綺麗になり、いにしえの俤が全くなくなっていた。 |
【旧大越娯楽場】(大越武道館) 所在地;田村市 設計;今和次郎 竣工;大正15年(1926) | ||
農村の若者が都会に出てしまう状況を憂いた宗像利吉(田村郡一帯をたばこの生産地化に尽力)が先頭に立ち、農村には珍しい劇場を開場。芝居・演芸、繭・たばこの共同出荷・農産物の品評会として使用。以降、大越町公民館。 田村市の東部は「原発帰宅困難区域」に含まれ、ここ大越娯楽場から直線距離で約15kmしか離れていない。大越町の現状は 0.11-0.17μ㏜/h、環境省基準では 0.23μ㏜/h、追加被曝線量 0.19μ㏜/h、以下と定められている。 |
【旧郡山商業銀行】(東邦銀行) 所在地;郡山市 設計;大林組 竣工;昭和11年(1936) | ||
「旧郡山商業銀行」(若松支店)も「会津西洋館」として近代建築群に名を連ねている。郡山商業銀行は1920年に創立、昭和期に入って白川実業銀行・川俣銀行を買収している。郡山商業銀行、会津銀行、白河瀬谷銀行の3行に対して、国は1940年に合併を勧めた。そして翌年対等合併によって生まれたのが東邦銀行である。→竣工当時 |
【郡山尋常小学校】(金透記念館) 所在地;郡山市 設計;増子儀三郎 竣工;明治9年(1876) | ||
旧郡山尋常小学校(木造2階建、寄棟、桟瓦葺、平入)は、擬洋風建築で明治天皇東北御巡幸に随行し当地を訪れていた木戸孝允によって「金透学校」(朱子語録:陽気發處金石亦透、 精神一到何事不成)と名付けられた。前年に完成した開成館と設計・棟梁・時代背景、雪国なのに長いバルコニーを設けるなど類似している。又、当時の学校建築の特徴である玄関ポーチ上部のベランダや手摺、丸柱などが採用され、多角形やバージボードなどもみられる。 現在は前面のファサードのみ昭和53年(1978)移築保存され金透記念館となっている。 |
【郡山合同庁舎】(旧郡山市役所) 所在地;郡山市 設計;宮田荘七郎 竣工;昭和5年(1930) | ||
「旧郡山市役所」として建てられた近代建築。左右対称のシンメトリーな構成で、玄関ポーチなどに凝ったデザインが施されている。 |
【郡山公会堂】 所在地;郡山市 設計;矢橋賢吉・萩原貞雄 竣工;大正13年(1924) | ||
大正13年の市政施行を記念して築造(オランダ・ハーグの平和宮をモデル)された公会堂。平成14年に国の有形文化財に登録され、平成16年に外観の復元大規模改修工事を行い、イベントホールとして継続利用されている。 |
【日本聖公会郡山聖ペテロ聖パウロ教会聖堂】 所在地;郡山市 設計;不詳 竣工;昭和6年(1931) | ||
ゴシック意匠が優れた、鉄筋コンクリート造平屋建て、切妻・鉄板葺きの建物で、3階建ての塔屋が付属。 |
【日本基督教団郡山細沼教会】 所在地;郡山市 設計;不詳 竣工;昭和3年(1929) | ||
【安積疎水土地改良区】 所在地;郡山市 設計;渡辺恒雄 竣工;昭和12年(1937) | ||
安積疏水は、水利が悪く不毛の大地だった郡山の安積原野に猪苗代湖からの水を引いた大事業。「疏水」とは、潅漑や舟運のために新たに土地を切り開いて水路を設け通水させること。安積疏水の開さくは、明治12年から始まった国直轄の農業水利事業の第一号。3年の年月を費やし、延べ85万人の労働力を注ぎ込み、総経費40.7万円(約400億円)を投じ、明治15年8月、幹線水路の延長52km、分水路78km、トンネル37か所、受益面積が約3,000ha。新館の左側に「旧館」があったが、現存しない。 |
【郡山尋常小学校】 所在地;郡山市 設計;増子儀三郎 竣工;明治8年(1875) | ||
「旧郡山尋常小学校」は、明治8年に建てられた擬洋風建築。明治天皇東北御巡幸に随行していた木戸孝允(維新三傑の一人、桂小五郎)によって「金透学校」と名付けられた。現在は前面のファサード(正面部分)のみ移築保存され金透記念館となっている。(編集の都合で「開成館」と入替掲載する) |
【開成館】 所在地;白河市 設計;増子儀三郎 竣工;明治7年(1874) | ||
開成館は明治7年、区会所として建てられた擬洋風建造物で明治天皇の東北行幸の際は、行在所や昼食会場として使用された。現在は、安積開拓を中心とした資料展示・安積開拓官舎・安積開拓入植者住宅と共に一般公開。 |
【日本聖公会福島聖ステパノ教会】 所在地;福島市 設計;J・M・ガーディナー 竣工;明治38年(1905) | ||
【日本基督教団福島新町教会】 所在地;福島市 設計;W・M・ヴォーリズ 竣工;昭和2年(1927) | ||
W・M・ヴォーリズは、アメリカ出身の建築家であると共にキリスト教徒伝道者でもあり日本国内に多くの近代洋風建築を設計する傍ら、キリスト教の伝道を行い、教会建築も数多く手懸けたことで知られる。 |
【日本基督教団福島教会】 所在地;福島市 設計;W・M・ヴォーリズ 竣工;明治42年(1909) | ||
英語教師として来日、キリスト教伝道のためもあって、伝道施設の建設を契機に関西を中心に設計活動を開始。明治41年(1908)京都でヴォーリス建築事務所を設立し、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。学校・教会・YMCA・病院・百貨店・住宅など、その種類も様式も多彩である。 |
【亀岡住宅】(歴史文化資料館) 所在地;伊達市 設計;不詳 竣工;明治40年(1907) | ||
施主の亀岡正元は蚕種製造で財をなした豪農で、後に県会議員や郡会議員を務めるなど政治家としても活躍している。この建物も正元の住居として建築されたが、社交や集会の場も兼ねていたと伝承。もとは約4,600㎡の敷地に土蔵などが建ち並ぶ広大な屋敷であったが、今は主屋の一部のみが移築されている。建物は座敷部と居住部からなる。座敷部は、桁行17.7m、梁間12.3mの木造二階建。正面中央に塔屋がある。居住部は桁行14.9m、梁間12.5mの木造平屋建で、土間と板間の炊事場と、井戸と石敷きの洗場を持つ台所がある。 |
内部は、一部に洋室を設けたりガラス障子を多用するなど洋風技法を採用するものの大部分は和風の座敷からなり、洋風の外観とは対照的な造りとなっている。 |
【旧伊達郡役所】 所在地;桑折町 設計;山内幸之助・山内銀作 竣工;明治16年(1883) | ||
総二階建で、塔屋を頂く大規模な疑洋風様式による近代役所建築。明治12年(1879)に保原町に設置されたが、桑折町の有志が誘致運動を行ったことにより、明治16年(1883)に移設。廃止になるまでの約43年間、郡行政の中心的役割を果たし、廃止後も県の出先機関として利用されていたが、昭和49年(1974)にその役目を終えた。 |
「奥の細道文学碑」(笈も太刀も五月にかざれ紙幟)がある、「おくのほそ道」(飯塚の里)元禄2年5月2日、「飯坂の鯖野」にある「佐藤庄司旧館跡」を尋ね、近くの古寺(医王寺)で墓参りをして詠んだ句。→文学碑 | ||
仙台のホテル、チェックインは17:50、走行距離は505km。「朝日花やかに指出る程に」(象潟の段より)明けた令和2年、年初めの「旅の未知草」もつつがなく終えた。 |