蜂子皇子 (山形県) ; 八乙女伝説を訪ね |
2020.06.019(金) 晴 |
4月7日に、コロナウィルス感染に関する「緊急事態宣言」が発令された。「不要不急の県境移動」の自粛もあり、仙台出張(4月・5月の会議)は取止めていた。そして、6月19日に「県境移動」の自粛も解除された。昨年の台風19号の影響で計画していた「蜂子皇子ゆかりの地」めぐりは半年も延期になっていた。 |
【八乙女浦】(八乙女伝説・由良上陸) 山形県鶴岡市 | ||
「八乙女浦」に直接行くことは出来ない。観光船で海側より眺めることになる。位置関係を示す→Google Map | ||
「三瀬海水浴場」を目指し「夕日地蔵神」より眺めることにした。国道7号から海側の車1台やっと通れる小道に左折し「琴平荘」前の駐車場へ。そこから眺め、「夕日地蔵神」左手の岩山に「琴平荘」を回り込むように戻り「登口」より這い上がるように頂へ、いずれからも地図表記の「三瀬」(八乙女浦中心部)は眺められない。 | ||
家を出て(0:30)、新潟回りで「道の駅あつみ」までノンストップ、朝食休憩し「三瀬海水浴場」(6:20)420kmの深夜ドライブ。「コロナ自粛」で弱まっている足腰を散歩で鍛え直す。しかし、同じ体制で長時間の緊張は体を固めてしまう。岩山に登る足元が覚束無い。足を滑らせたら怪我では済まないだろう。 |
足元に咲く「岩ゆり」(蝦夷透百合)が、「八乙女の化身のように脳裏に焼き付き「旅の未知草」のことつとして記憶に残り続けるだろう。 | ||
「蜂子皇子」に纏わる「八乙女伝説」、その場所の記事(①~⑧)として掲載します。立ち寄り順が異なるため順不同になります。ご容赦を・・・・ | ||
①推古元年(593)に崇峻天皇の第三皇子である蜂子皇子が、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子からの追撃を逃れて現在の鶴岡市由良にたどり着いた。その時、由良の浜辺の岩の上で八人の乙女が舞踊る様子に心奪われ、その乙女たちの中の恵姫と美鳳という二人の乙女の誘導を受け近くの海岸に上陸した。上陸した蜂子皇子は「私は天皇家のもので、人々を苦しみから救うために聖なる山を目指している」と乙女たちに伝えると、恵姫は「この浦は山の神様が生まれた場所で、東に向かえば神様が住んでいる聖なる山に到着しますよ」と教えた。蜂子皇子は上陸した場所(八乙女浦;三瀬)にあった権現穴という洞窟に籠もり、しばらくの間、由良の地で修業を続けた。 |
【由良海岸】(高台より白山島を眺める) 山形県鶴岡市 | ||
国道7号より左に外れ「由良海岸・温泉街」が一望できる展望台が左手にあったので一時停車し撮影する。 |
コミュニティセンターの駐車場から「白山島」を眺める。3,000万年前の火山性噴火で出来たといわれる高さ72m、周囲436mの玄武岩で形成される島。赤い橋は177m、島の頂には「白山神社」が祀られている。 |
「八乙女の像」とあるが、「蜂子皇子」を岩の上から手招きして船を誘導した「恵姫と美鳳」の二人。 |
鳥居をくぐり、177mの赤い橋を渡り「白山島」へ。→白山島の案内図 |
真っ直ぐに登る参道石段は263段、登りは疲れるだけだが、下りはつま先下がりになりすべ落ちるのではないかとの恐怖で鉄パイプ製の手すりにつかまり慎重に慎重にと・・・・ |
下りの恐怖心を和らげようと枝の隙間から「八乙女浦」を眺める。 |
参道を降り、左手に折れ反時計回りに「白山島周回遊歩道」(周囲436m)へと、滞在30分予定だが折角なので時間オーバーは承知で足の向くままに・・・・。 | ||
白山島より陸地、由良温泉街を眺める。左手のなだらかな山が、次に行く「荒倉山」(荒倉神社)、陸地が切れた左手の海岸線上に薄っすらと鳥海山が見えた。 |
磯釣りの若者たちが・・・・。 |
「羽黒山開祖・蜂子皇子上陸の八乙女浦遠望地」、最初の立ち寄り地「三瀬」からの遠望とは正反対側。→説明板 |
「旧遊歩道」は随所が崩落し、新たに海側に設けられた遊歩道を進む。 |
遊歩道の上方に「岩百合」の群落が、その上に朝日が昇る。折角なのでハーフグラデーションフィルタを装着し逆光撮影をした。 |
「白山島遊歩道」を一周した地点より「八乙女浦」を撮る。岩場で磯釣りをする人影が見えた。予定を大幅に超える1時間20分の滞在。さて、先を急ごう。 |
【荒倉神社】(荒倉山) 山形県鶴岡市 |
「蜂子皇子ゆかりの地」は「荒倉山」であり、計画時点では「蜂子皇子」が登った「竹ノ浦」(荒倉散策路;竹野浦公民館)から徒歩で登る予定であった。出発直前の天気予報では「午前;曇/午後;雨」、折角「薄曇り」と良さそうな雲行き、更に楽しむためにも「荒倉神社」「羽黒古道」を短縮かつ午前中に済まそうと予定変更をした。「山口公民館」前に居られた地元の方に「車道」の状況を伺い車で行くことにした。 「古からの伝承」ゆえ「想像→創造の世界観」を持って臨まない限り今回の「旅の未知草」は成立しないと・・・・「蝶を求めて里山歩き」(Prologue);書店で「みやぎの峠」(小野寺寅雄著/河北新報社刊)を購入し、宮城県丸森町と福島県相馬市を結ぶ県道大内黒木線の「旗巻峠」(1999.5.22)に行ったとき)のことです。丸森町青葉集落を起点に道幅4m弱の峠道を歩くこと約2km、旗巻峠の峠頂手前を左に折れ旧峠頂があった古戦場跡で休憩、目を閉じ想像の世界にタイムスリップ、何故かこれまでになかった不思議な一時を送ることが出来ました。 |
「竹野浦公民館」からの「荒倉散策路」の神社参道付近を探索、「庄内平野」(羽黒方向)らしき眺望点を見付け「創造の世界」へと「想像の準備」を整えた。 |
②蜂子皇子が修行を続けていたある朝、由良のはるか東にある聖なる山から清らかな光が立ち上っているのを見た。蜂子皇子は由良の北東にあり、聖なる山を望むことができる荒倉山(荒倉山・荒倉神社)に登り、聖なる山に無事到着できるように祈願した。その当時、庄内平野は大きな湖になっており、蜂子皇子はその湖の周りを歩いて山に向かうしかないのかと歩いていたところ、荒倉山の麓にある竹ノ浦という村にたどり着いた。そこに住む漁師に対岸まで連れて行ってくれるかとお願いしたところ、漁師は快く蜂子皇子の依頼を受けてくれたので湖を渡ることができた。大きな湖の対岸である山添(櫛引地区付近)に着くと、蜂子皇子は聖なる山の方向を見定め、そこで禊を行い、途中を流れる赤川を超えて山を目指した。現在の仙道地区付近に着き、小高い丘の上にある松の木の下で蜂子皇子がうとうとしていると、夢の中に仙人のような白い髭の老人が顕現され『この先の分岐は、桔梗の花がたなびく道の方に進むがよいぞ』と伝えた。目を覚ました蜂子皇子が再び歩み出すと、老人の言葉通り、分かれ道があり、桔梗の花がたなびく道の方へ進んだ。 |
「荒倉神社」は車道の横、空地に駐車し、参道石段を下り最下の鳥居まで降りた。画像は並び替えてある。 | ||
元正天皇の御代、養老元年(717)の創立。大和文化が北進したころ、荘内地方を平定し出羽の国が設置されてから5 年後の創立。当時の信濃・上野・越前・越後より移住し開拓に従事した者たちが農耕の守護神として祭られた。 それ以前は山自体がアラクラの神として信仰をあつめ、数々の伝説が残る。平安末期には神仏習合が普及するに伴い荒倉大権現と称するようになり、本地佛として聖観音を安置し、別当寺として観頂寺が建立され荒倉山を治めていた。 康平2年(1060)前九年の役に敗れた安倍貞任の一族、安倍孫太郎李任が荒倉山の別当となり、代々その職を継ぎ勢力が次第に強くなった。中世にはいると庄内を治めた武将、武藤氏の崇敬社となり、安倍氏はその臣下として広大な社領地をおさめ、領内には33の宿坊を構え東の羽黒山に対し、西羽黒と称するようになった。 天正11年(1583)武藤義氏の家臣前森藏人が最上義光に通じ謀反を起こし、義氏は自害した。側室のお鶴の方は難を逃れ、荒倉山に匿われた。その後、武藤氏は復興をはかり、義氏の弟・義興がたつが最上氏に敗れ、庄内は最上領となる。その後、最上氏よりも崇敬を得たが、豊臣秀吉により上杉領となる。 天正19年(1591)上杉氏の検地に反対した一揆がおこり荒倉山もその一端をになったため、本社を始め宿坊が悉く破壊され、神領も没収される。 慶長6年(1601)再び最上氏の領となったため、荒倉神社復興を計るようになる。次第に庄内の崇敬も回復したが、社殿復興には至らなかった。元和8年(1622)に最上氏は改易になると庄内には酒井忠勝が信州松代より転封された。このとき、別当職が佐藤刑部太夫に委ねられた。刑部は明暦元年(1655)社殿の再建を行う。 さらに安政2年(1855年)に現在の社殿が建立され、同年、神祇管領吉田家の執奏をもちて神階正一位の勅許があり、明治9年(1909)県社に列せられる。 |
予想もしなかった広大な境内を探索、何であるか解らないが途轍もない重いモノを感じた。「蜂子皇子」(東羽黒・元羽黒)とは正反対の「西羽黒」と由緒ある寺社なるも、「蜂子皇子」の威圧であったのだろうか・・・・正しくこれを「パワースポット」と呼ぶのであろう。なお、竹の浦口からの参道途中に拝殿・社務所があるも立ち寄らず。 |
【羽黒へ】 山形県鶴岡市 |
「出羽三山神社大鳥居」(羽黒山大鳥居)、南北朝の末期から羽黒山に勢力を得た大泉庄の地頭武藤氏は、政氏の代に羽黒山の別当を称し、子孫にその職を継いだ。政氏は長慶天皇文中元年(1372)羽黒山に五重塔(国宝)を再建、その居城大宝寺(鶴岡の旧名)に鳥居(鳥居町;鶴ヶ岡城跡の東方)を建立させ羽黒山一の鳥居とした。 |
【玉刀自観音】(玉川寺向かい) 山形県鶴岡市 | ||
③日が暮れたので、家の明かりを頼りに民家を訪ねると、ひとりのおばあさんが出てきた。そのおばあさんに、「私は東の聖なる山を目指しているのですが、少し休ませていただきたい」と頼むと、玉という名前のおばあさんは「夜の山は危険なので、うちに一晩お泊りください」と言った。次の朝、蜂子皇子は玉おばあさんから道を聞き、東を目指した。現在の羽黒町に建立されている玉川寺(駐車場、山門とは反対側の社叢の中)に祀られている「玉刀自観音」は、この玉おばあさんを祀ったものだとされている。「玉川寺」は、以前に参詣しているので省略。 |
【荒澤寺】(常火堂と蜂子皇子碑) 山形県鶴岡市 | ||
羽黒山の奥の院といわれる寺院。かつて女人参詣が許されていた羽黒山で唯一の女人禁制の聖地だった。現在は羽黒修験にとって重要な修行のひとつ、「秋の峰入り」の行場となっている。本坊は正善院。出羽三山の開祖といわれる蜂子皇子がここで修行を積んだといわれ、羽黒山信仰の奥の院に当るといわれている。また、ここは庄内三十三観音札所の首番といわれ、ここから一番へと向かうことになる。 | ||
⑦次に大日如来にお逢いしたいと思った蜂子皇子は、月山を下り、草深い谷間を進んでいくと、光が静かに輝く場所を見えた。そこをよく見ると大日如来が顕現され、その御姿を拝しようとして谷間に向かい下っていくと、急な坂道に出た。坂道を下るにも難しい場所であったが、しきりに光明で照らされるため少しも危なく感じなかった。その坂を合坂(むなかい)と呼ぶという。合坂で大日如来の御姿を参拝した所、その御姿から出た火が蜂子皇子の体に燃え着いて蜂子皇子の身の三毒を燃やし尽くし、その火は天に登り宝珠になった。この宝珠はある時は温かいお湯が滴り、またある時は五味を出し、火を出す不思議な物で、その輝きの中に浄土と地獄を見せた後、大日如来から「この宝玉を意に従って用いなさい」と蜂子皇子に与えられた。この宝珠から湯が絶えることがないことから、蜂子皇子は大日如来がおわすこの聖なる山を「湯殿山」と名付けた。蜂子皇子はこの宝珠を懐中に入れ、衆生の利益を想い羽黒山の荒沢に納め、湯殿山権現の荒魂として不動明王を、和魂として地蔵菩薩を本尊としてお祀りした。これが、荒沢寺の常火堂であるという。そして、湯殿山を羽黒山・月山・葉山の三山の奥の院として秘所に定められたという。 | ||
幾度となく立ち寄った「荒澤寺」、肝心の「常火堂と蜂子皇子碑」を探すも見当たらない。 |
【御瀧神社】(羽黒古道御瀧ルート) 山形県庄内町 | ||
折角の空模様、午前中に「羽黒古道」を回り切ろうと予定変更をする。羽黒山「出羽三山神社」への有料道路ゲートを左に見送り反対側へと向かう。「月の沢龍神街道」に突き当たり左折、「立谷沢川」に架かる橋の手前より左岸堤防上の農道に乗り入れる。 |
「羽黒古道」(御瀧神社ルート)、「吹越神社」周辺に上り詰める参道(羽黒古道のひとつ)入口に建つ「御瀧神社」。今は、古道歩きの人のみか草刈りの形跡はあるも荒れていた。 |
山伏修行の「秋の峰修行拝所」の一つ「御瀧神社」に下山するルートになっている。ちなみに「秋の回峰行」の道程は、「羽黒山随神門-御坂-三神合祭殿-吹越-月山高原ライン(一部旧道)-八合目中之宮(泊)-九合目-月山本宮-牛首-月光坂-御澤-湯殿山本宮」、全行程徒歩、約七里(29km弱)となっている。 |
【皇野】(羽黒古道立谷沢ルート) 山形県庄内町 | ||
出羽三山の開祖として知られる蜂子皇子が修行を重ね、修験道を広めた羽黒山本社創建の地とされる、「皇野」。今回の「旅の未知草」の目玉・・・ | ||
「羽黒古道」入口の標 | 立谷沢川右岸の立谷沢集落を振り返り眺める |
水神様の湧水 | 地蔵様 |
皇野公園石柱 | 右手が元羽黒(開山塚・御手洗の池跡は不詳) |
引き返した場所のすぐ先に「開山塚・御手洗の池跡」があったのでは・・・・。「荒澤寺」に次いで大チョンボ。 |
直進「羽黒古道」・右「元羽黒」とすべき | お地蔵様(素性不明) |
飛脚の墓(いつの世の?) | 危険な一本丸太橋(設けた気が知れない) |
「行者塚」は、蜂子皇子の墓とされている。これには疑義あり。(3ヶ所との伝承が4ヶ所になつてしまう) |
蘆藪 その昔は何であったかと想像 | 稚児塚(幼くして亡くなった僧の墓) |
麓の「鉢子集落」は20戸足らず。「蜂子」であるが、恐れ多く「鉢子」としたようだ。 |
大平集落(Google Map)へと向かう。「羽黒山参詣の古道」⑤地点(肝煎/きもいり)に立つ、画像中心が地点③である。水田を中心とした耕作地が「皇野」(すべの)、左手の杉林が「元羽黒」、室町時代までは羽黒修験の寺社や坊舎など500余りの建物が軒を連ね反映していたと伝承。(Google Street view ) |
④聖なる山へ踏み入った蜂子皇子だが、山奥に分け入っていくにつれ道を見失ってしまった。自らの修行不足のためかと不安になり、観音菩薩に助けを求めた。すると、蜂子皇子の前に大きな三本足のカラスである八咫烏が突然舞い降りてきた。八咫烏は舞い上がると、蜂子皇子を先導するように上空を飛んだ。蜂子皇子は八咫烏の後を追い、草木をかき分けて山を進んでいくと、八咫烏は滝の音が聞こえる谷間の杉の木に止まった。八咫烏が止まった杉の木の根本を覆う落ち葉の中から光が見えたので落ち葉をかき分けると、そこには観音菩薩像があった。 蜂子皇子は、聖なる山にたどり着けたことに感謝し、阿久谷という場所で修行を積んだ。そして、聖なる山に棲まう龍神と出羽国の国魂である伊氐波神が顕現され、ついにその御姿を拝することができたのであった。山中で修行していた所、猟師の隆待次郎というものと出会い、隆待次郎の願いで、腰痛に悩む出羽大泉荘の国司を助けてほしいと乞われた。隆待次郎の願いを聞いた蜂子皇子が下山すると、国司の家が火に包まれ、中にいた国司が逃げ出すと、不思議な事に腰の痛みは取れて歩くことができるようになり、蜂子皇子が国司の家に着く頃には火事は鎮火し、家も元のままであった。人々は「蜂子皇子が観音菩薩の般若の智火で国司の腰の病を癒してくださった」と噂しあった。 |
⑧蜂子皇子はその後も人々のために祈りを捧げ、多くの寺を建立し、病気や災害から人々を守った。そして、641年6月20日に79歳でこの世を去った。蜂子皇子は、景行天皇21年(91)から羽黒三所権現が祀られていた地である「皇野」から、五色の雲に包まれて月山の彼方へと消えていったとされている。(完) |
【熊谷神社】(亀之尾発祥の地) 山形県庄内町 | ||
稲品種「亀ノ尾」の発祥の地とされ、明治26年(1893)、冷害により稲作が全滅した為、阿部亀治が日頃から信仰している熊谷神社に参拝したところ、御告げで示された場所に行ってみると全く被害を受けなった三本の稲穂を発見し、新たな品種「亀之尾」が生み出されたと伝えられています。 |
熊谷三郎兵衛は「慶安の変」(軍学者、由比正雪が浪人救済を掲げて幕府転覆を画策した事件)が発覚、逃亡し芝泉岳寺の空き家に潜伏、同年江戸で自殺したとされます。妻の郷里である現在の山形県鶴岡市に身を隠し、寺子屋の師匠をしていましたが発覚して捕えられ、打ち首獄門の刑に処されたとも伝承。哀れに思った人たちが、その首を盗んで、鶴岡市三光町の宝林寺に葬られ、寺の本堂裏には熊谷三郎兵衛の首塚があり木造が安置され、熊谷講という信者の集まりもあるそうです。 |
更に、庄内地方では生存説が根強く、庄内町立谷沢では当地に隠遁生活をしながら住民達を救う為に尽力し、最後は即身成仏して信仰の対象(画像上)になったと伝えられています。 |
【吹越神社・蜂中籠堂】(旧参道) 山形県鶴岡市 | ||
吹越は羽黒派古修験道の根本道場である。吹越神社は三山の開祖・蜂子皇子を祀る。 |
修行を成就したことを示す、中世後期の石製碑伝「峰中碑伝」。(右画像の3碑) |
「峰中籠堂」は、明治までは秋の峰の二の宿であったが、現在は全てこの峰中籠堂を拠点に行を行う。 |
木立の合間から「荒倉山」の方角(推測)を指呼する。右画像は「旧参道」(上は出羽三山神社に至る、下は荒澤寺に至る)。 |
【出羽三山神社】(神仏分離前の境内図) 山形県鶴岡市 | |
⑤蜂子皇子の霊験は朝廷にも伝わり、大泉荘の国司は蜂子皇子に病を癒してもらったお返しとして寺院を建立し、蜂子皇子を導いた。八咫烏に因んで『羽黒山寂光寺』という寺号を宣下された。また、人々の苦難を能く除いたため、蜂子皇子は『能除太子』という名前を賜った。ある時、酒田の湊の沖に桑の木が浮いており、それは夜毎に光を放つ不思議なものであった。蜂子皇子はその浮木を使って軍荼利明王と妙見菩薩像・脇士の二像を作り、聖観音菩薩と合わせて 「羽黒三所権現」として寂光寺の伽藍にお祀りした。 | |
中央に「御本社」(寂光寺)、左手に「皇野」「阿古谷」(阿古谷は寂光寺右手の東光院後方、羽黒古道鉢子に降る)、右手に「荒澤寺」、その下に「手向宿坊街」→「羽黒山伝-本地垂迹資料便覧」「羽黒山境内図」、更に「Google Map」で「羽黒古道」(皇野・元羽黒) |
出羽三山御開祖・蜂子皇子は、推古天皇の御代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に稼檣の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救い給うなど、幾多の功徳を残された。民の全ての苦悩を除くという事から能除太子と称され、舒明天皇の13年10月20日御年91歳で薨去された。蜂子神社の御祭神として祀られ、「蜂子皇子御墓」(左上画像)は御本殿への参道途中「天宥社」(同右)の左方にあり、現在宮内庁の管理するところとなっている。 |
「三山句碑」は、荒沢寺から月山へ登る「旧道野口」にあったものを昭和40年7月12日に当地に移建という。その「野口」は、「東北自然歩道」(羽黒修験道のみち)、「荒沢寺から半合目/傘骨」(=野口道;1km強)に在ったと推察する。羽黒山温泉「菊田旅館」奥が開けその林縁まで行ってみる価値あり。 |
末社 | 神興社 |
東照社 | 霊祭殿 |
羽黒古道 鉢子ルート 霊祭殿右奥に旧参道降り口がある |
鐘楼・梵鐘 | 三神合祭殿 | |
三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿(月山・羽黒山・湯殿山の三神)と称している。 |
「蜂子神社」(並んだ左側は厳島神社)、表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。 |
参道の石段の尽きるところに朱の鳥居がある。鳥居の手前の坂を十五童坂といい、坂の左に、一山の貫主の住んだ執行寺跡、右に本社のかぎを取り扱った鍮取役という一生不犯の清僧修験の住んだ能林院が在った。能除太子が登上の折、休息された場所とか、昇天のとき召されたのがこの場所にあったと伝えられる能除太子御挫石がある。 |
「斎館」(旧華蔵院)は、「正穏院」「智憲院」と共に三先達寺院の一つで、羽黒山執行別当に次ぐ宿老の住した寺であった。明治の神仏分離の際、神社の「斎館」として残った。江戸時代には山内に30余坊あったが全て取り壊され、往時の山伏達の住した遺構として今に残る唯一の建物である。 |
「羽黒古道」(御瀧神社ルート)への下り口はこの辺りになろう。 |
【正善院】 山形県鶴岡市 | ||
正善院はかつて羽黒山十大伽藍の一つ手向山中禅寺の本坊として配下に三百坊をおいた寺であった。 |
正善院黄金堂は、源頼朝が平泉の藤原氏を討つにあたり、勝利祈願のため寄進したと伝えられています。東北でも珍しい等身大の三十三体の聖観世音菩薩像が黄金に映えることから黄金堂と呼ばれています。 |
荒沢寺は、羽黒山修験本宗の本山で、山号は羽黒山、正善院が本坊である。・・・・と言うとで、「常火堂」と「蜂子皇子碑」が見つからなかったことで、もしやと思い、羽黒町を後にする前に正善院に立ち寄った。 |
【最上川】 山形県戸沢村 | ||
白糸の滝 | 道の駅とざわ | |
時間の都合や見落としで撮り残した「蜂子皇子ゆかりの地」は、7月の「旅の未知草」(補遺)で計画しよう。 | ||
①「御裳掛杉と御禊清水跡」(鶴岡市櫛引町)、②「八幡神社/見立て八幡」(鶴岡市櫛引町)、③「稲荷り祠・御手洗池跡/開山塚・蜂子皇子の墓」(庄内町)、④「荒澤寺/常火堂・蜂子皇子碑」(鶴岡市羽黒町)、⑤「出羽三山神社/開山廟・御座石」(鶴岡市羽黒町) ⑥「月山肘折口」関連(大蔵村) |
【男体山】(黒髪山) 栃木県日光市 |
明日は「夏至」。帰路の日光通過(6.20.17:40)、男体山への日の入時刻は19:08、太陽の位置は高い。黒髪山を覆う雲の合間から「天使の梯子」が・・・・ハーフグラデーションフィルタを付けての撮影。 |