蜂子皇子補遺 (山形県) 続蜂子皇子と月山肘折口
2020.07.017(金) 晴/曇
 先月の「蜂子皇子ゆかりの地」めぐり、撮り残しやら回り切れずに保留とした所が何ヶ所もあった。気持ちが薄らまないうちにと「補遺」編を・・・・。先月同様、仮眠中にも雨が降ったり止んだりと・・・・。家を 0:20 に出た時は雨も止み、隣り街を通過する時には路面も乾き始めていた。
 コースづくりの過程で、何時もの如く「
Google Map」を駆使し、「八方七口」(肘折口)完結の手応えを得ることが出来た。その楽しみがメインイベントへと・・・・
 【大河津橋】(大河津分水路の夜明け) 新潟県新潟市
大河津分水路大河津橋 新潟市西蒲区赤鏥
 「未明から日出1時間前に細い月と金星が並ぶ」天体ショーは、予定外の道草(3:42-4:25)になった。折角なのでパノラマサイズと思ったが、粒子が粗く取止めたが画像をクリツクして見て欲しい。この遅れを取り戻したのは11時頃(羽黒山から皇野に向かう頃)になった。
 【笹川流れ】 新潟県村上市
 
 梅雨前線に線状降雨帯が重なり、一時は「村上市」に雨災害がとも思われた。海岸沿いを走るか、内陸(R7)を走るか・・・・夜明け後なので「海岸沿い」を、躊躇なく選んだ。
 磯の岩場を歩く足元が覚束無い。長距離運転で下半身が萎縮している。今回は、長雨ゆえ事前散歩は一度も行っていなかった。(前回ほど歩き回る場所がないので・・・・)
「八乙女伝説」(出羽三山神社開祖;蜂子皇子) 再掲載
 推古元年(593)に崇峻天皇の第三皇子である蜂子皇子が、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子からの追撃を逃れて現在の鶴岡市由良にたどり着いた。その時、由良の浜辺の岩の上で八人の乙女が舞踊る様子に心奪われ、その乙女たちの中の恵姫と美鳳という二人の乙女の誘導を受け近くの海岸に上陸した。上陸した蜂子皇子は「私は天皇家のもので、人々を苦しみから救うために聖なる山を目指している」と乙女たちに伝えると、恵姫は「この浦は山の神様が生まれた場所で、東に向かえば神様が住んでいる聖なる山に到着しますよ」と教えた。蜂子皇子は上陸した場所(八乙女浦)にあった権現穴(かつての羽黒修験の山伏修行“峰中”の出発地)という洞窟に籠もり、しばらくの間、由良の地で修業を続けた。
 蜂子皇子が修行を続けていたある朝、由良のはるか東にある聖なる山から清らかな光が立ち上っているのを見た。蜂子皇子は由良の北東にあり、聖なる山を望むことができる荒倉山(荒倉山・荒倉神社)に登り、聖なる山に無事到着できるように祈願した。その当時、庄内平野は大きな湖になっており、蜂子皇子はその湖の周りを歩いて山に向かうしかないのかと歩いていたところ、荒倉山の麓にある竹ノ浦という村にたどり着いた。そこに住む漁師に対岸まで連れて行ってくれるかとお願いしたところ、漁師は快く蜂子皇子の依頼を受けてくれたので湖を渡ることができた。大きな湖の対岸である山添(櫛引地区付近)に着くと、蜂子皇子は聖なる山の方向を見定め(八幡神社)、そこで禊を行い、途中を流れる赤川を超えて山を目指した。現在の羽黒町仙道地区付近に着き、小高い丘の上にある松の木の下で蜂子皇子がうとうとしていると、夢の中に仙人のような白い髭の老人が顕現され「この先の分岐は、桔梗の花がたなびく道の方に進むがよいぞ」と伝えた。目を覚ました蜂子皇子が再び歩み出すと、老人の言葉通り、分かれ道があり、桔梗の花がたなびく道の方へ進んだ。
 日が暮れたので、家の明かりを頼りに民家を訪ねると、ひとりのおばあさんが出てきた。そのおばあさんに、「私は東の聖なる山を目指しているのですが、少し休ませていただきたい」と頼むと、玉という名前のおばあさんは「夜の山は危険なので、うちに一晩お泊りください」と言った。次の朝、蜂子皇子は玉おばあさんから道を聞き、東を目指した。現在の羽黒町に建立されている玉川寺(駐車場、山門とは反対側の社叢の中)に祀られている「玉刀自観音」は、この玉おばあさんを祀ったものだとされている。
 聖なる山へ踏み入った蜂子皇子だが、山奥に分け入っていくにつれ道を見失ってしまった。自らの修行不足のためかと不安になり、観音菩薩に助けを求めた。すると、蜂子皇子の前に大きな三本足のカラスである八咫烏が突然舞い降りてきた。八咫烏は舞い上がると、蜂子皇子を先導するように上空を飛んだ。蜂子皇子は八咫烏の後を追い、草木をかき分けて山を進んでいくと、八咫烏は滝の音が聞こえる谷間の杉の木に止まった。八咫烏が止まった杉の木の根本を覆う落ち葉の中から光が見えたので落ち葉をかき分けると、そこには観音菩薩像があった。
 蜂子皇子は、聖なる山にたどり着けたことに感謝し、その山の
阿久谷という場所で修行を積んだ。そして、聖なる山に棲まう龍神と出羽国の国魂である伊氐波神が顕現され、ついにその御姿を拝することができたのであった。山中で修行していた所、猟師の隆待次郎というものと出会い、隆待次郎の願いで、腰痛に悩む出羽大泉荘の国司を助けてほしいと乞われた。隆待次郎の願いを聞いた蜂子皇子が下山すると、国司の家が火に包まれ、中にいた国司が逃げ出すと、不思議な事に腰の痛みは取れて歩くことができるようになり、蜂子皇子が国司の家に着く頃には火事は鎮火し、家も元のままであった。人々は「蜂子皇子が観音菩薩の般若の智火(慈悲の炎)で国司の腰の病を癒してくださった」と噂しあった。
 蜂子皇子の霊験は朝廷にも伝わり、大泉荘の国司は蜂子皇子に病を癒してもらったお返しとして寺院を建立し、蜂子皇子を導いた。八咫烏に因んで「羽黒山寂光寺」という寺号を宣下された。また、人々の苦難を能く除いたため、蜂子皇子は「能除太子」という名前を賜った。ある時、酒田の湊の沖に桑の木が浮いており、それは夜毎に光を放つ不思議なものであった。蜂子皇子はその浮木を使って軍荼利明王と妙見菩薩像・脇士の二像を作り、聖観音菩薩と合わせて 「羽黒三所権現」として寂光寺の伽藍にお祀りした。
 その後、蜂子皇子は遠くにある雪を頂いた大山に分け入ってみると、そこで補陀落の如来が山や海を金色の光で照らし、十方世界を浄土とした。大山の山頂では人々を苦難の海から助けてくださり、仏として完全である阿弥陀如来が顕現されたので、山頂に「暮礼山月山寺」という寺院を建立した。また、阿弥陀如来が顕現されたときの光に過去・現在・未来が見えたときの様子が、まるで鏡の表面に物が浮かぶときのようだった。鏡はまるで月のようであり、月は夜を司る神であることから、阿弥陀如来と月の神がおわす大山に「月山」と名付け、奥の院では銀の御鏡を崇めたという。
 次に大日如来にお逢いしたいと思った蜂子皇子は、月山を下り、草深い谷間を進んでいくと、光が静かに輝く場所を見えた。そこをよく見ると大日如来が顕現され、その御姿を拝しようとして谷間に向かい下っていくと、急な坂道に出た。坂道を下るにも難しい場所であったが、しきりに光明で照らされるため少しも危なく感じなかった。その坂を合坂(むなかい)と呼ぶという。合坂で大日如来の御姿を参拝した所、その御姿から出た火が蜂子皇子の体に燃え着いて蜂子皇子の身の三毒を燃やし尽くし、その火は天に登り宝珠になった。この宝珠はある時は温かいお湯が滴り、またある時は五味を出し、火を出す不思議な物で、その輝きの中に浄土と地獄を見せた後、大日如来から「この宝玉を意に従って用いなさい」と蜂子皇子に与えられた。この宝珠から湯が絶えることがないことから、蜂子皇子は大日如来がおわすこの聖なる山を「湯殿山」と名付けた。蜂子皇子はこの宝珠を懐中に入れ、衆生の利益を想い羽黒山の荒沢に納め、湯殿山権現の荒魂として不動明王を、和魂として地蔵菩薩を本尊としてお祀りした。これが、荒沢寺の常火堂であるという。そして、湯殿山を羽黒山・月山・葉山の三山の奥の院として秘所に定められたという。
 蜂子皇子はその後も人々のために祈りを捧げ、多くの寺を建立し、病気や災害から人々を守った。そして、641620日に79歳でこの世を去った。蜂子皇子は、景行天皇21年(91)から羽黒三所権現が祀られていた地である「皇野」から、五色の雲に包まれて月山の彼方へと消えていったとされている。(完)
前月 今回 阿久谷は立入禁止、所在不詳(峰中コースにあるも他言無用)
 
 【八幡神社】(見立て八幡) 山形県鶴岡市下山添
 蜂子皇子が各地を遍歴された時、当地方にも参られ由良の八乙女から、当地にお着きになり当神社に参籠し東方羽黒山をお見立てになり、羽黒山をお聞きになった伝説から、当神社を「見立ての八幡」として昔から語り継がれております。蜂子皇子が「禊」をしたと伝えられる「禊清水」そのとき御衣をかけた「御裳掛杉」が史跡として石碑を建立し継承しております。→説明板
 【八幡神社】(禊清水と御裳掛杉) 山形県鶴岡市下山添
 
 
 「八幡神社」と「禊清水・御裳掛杉」の場所。→(Google Map
 
 
 
荘内富士(鳥海山) 出羽三山に架かる逆霧(層雲)
 【荒澤寺】(常火堂と蜂子皇子碑) 山形県鶴岡市羽黒町
 
 先月訪れた際、何処に「常火堂」があるか解らず。「出直せ」との事か、そう受け止め改めての参詣。→説明板
 
 蜂子皇子が湯殿山から羽黒山へ戻る途中、大日様から授かった「水の玉」を月山に納めます。月山から流れる川を「玉川」(月の沢温泉で立谷沢川に合流)と呼ばれるのもそれが由縁です。羽黒山に着くと「火の玉」を「荒沢」という地に納め、大日様の化身として不動様と地蔵様を祀り、護摩修行をするための火を焚こうとしました。しかし、火はすぐに消えてしまいます。困っていると不動様が現れ、右手の剣で自分の左ひじを切って松明とし、したたる血を注ぐと炎となって護摩木を激しく燃やしました。次に地蔵様が現れ、額から放った光で燃え盛る炎を清めます。 清められた火は、納めたお堂の中で絶えることなく燃え続け、「常火堂」と呼ぶようになり、また不動様は、「ひじ切り荒沢不動」と崇められるようになりました。
 
 
 【出羽三山神社】(開山廟と御座石) 山形県鶴岡市羽黒町
 
 
 舒明天皇の131020日御年91歳で薨去、「蜂子皇子御墓」(能除太子)として宮内庁管轄で祀られている。
 
天宥社と芭蕉像・三山句碑 荒澤寺付近の旧参道
 荒沢寺から月山へ登る旧参道「野口」(所在地不詳)に文政8年(1825)に建立された。その後、行く人稀になつた旧参道から山頂へと昭和40年(1965)に移建され「芭蕉野口(三山)句碑」と呼ばれる。「凉しさや ほの三日月の 羽黒山」、「加多羅禮努 湯登廼仁奴良 當毛東迦那」、「雲の峯 いくつくつれて 月の山」。いずれも「奥の細道」旅中、出羽三山詣での作。
東照社 神興社 東照社裏手の社叢(上部より)
霊祭殿 東照社裏手の社叢(下部より) 羽黒古道山頂部
羽黒古道霊祭殿口 霊祭殿 鐘楼・梵鐘
鏡池 三神合祭殿 三神合祭殿
 「阿久谷」に関する記述は無いに等しい。ただ一つ「阿久谷回峰は神子修行の結願日」に組み込まれ、急峻な崖を這い登り、その先に秘密滝があるとか・・・・。その場所は「東照社の背後」とか、「荒沢寺と三神合祭殿との線上」とか、「一般人立入禁止」とか、位置関係の相関が曖昧な古地図「湯殿月山羽黒山一枚繪圖」(皇野からの羽黒古道は東照社と霊祭殿の間に出るので、総合考察で開山廟裏手と推察する)等、依然とベールに包まれている。
 
 出羽三山開祖蜂子皇子を祀る「蜂子神社」。出羽三山信仰の礎を築かれた第32代崇峻天皇の御子蜂子皇子の御尊像は、江戸の初めまで五重塔に安置されていた。比叡山の湖海院という高僧が五重塔を参拝された折、御尊像について尋ねられ九拝された。開祖のことは宮中の記録にあり、独自の御殿がないのはいかがなものかといわれた。
 徳川家康から秀忠に代ったのが
1603年;そこで、元和5年(1619)宥俊別当は羽黒山頂に御堂(開山堂)を建立し、開祖の御尊像を移築安置された。その後、明治始めに行われた神仏分離により羽黒山は神の山となり、「開山堂」は「蜂子神社」と改められた。
 
 「三神合祭殿」と「蜂子神社」の間の通路を進み、左に降ると「斎館」だが、「三神合祭殿と斎館をつなぐ渡廊下」を潜った先に「開山廟」がある。蜂子皇子の御廟とされる場所は、こちらの「開山廟」と、同じく羽黒山頂にある「蜂子皇子御陵墓」、そして、蜂子皇子が昇天した地とされる皇野にある「開山塚」の三ヶ所がある。脇の小高い場所が羽黒山頂(標高414m)である。
 羽黒山頂の地図です。→(Navitime Map)リンクが開いたらスケール目盛を「+1」してください。羽黒山頂が「開山廟」、「厳島神社」隣りが「蜂子神社」旧開山堂)、「出羽三山神社」(旧寂光寺)、「蜂子皇子墓」等の位置関係を確認ください。
 羽黒山参籠所「斎館」(旧華蔵院)。元禄10年(1697)の再建である正穏院、智憲院と共に三先達寺院の一つで、羽黒山執行別当に次ぐ宿老の住した寺であったが、明治の「神仏分離」の際神社の「斎館」として残った。江戸時代には山内に30余坊あったが全て取り壊され、往時の山伏達の住した遺構として今に残る唯一の建物である。
 
 「斎館」の表門を出ると、「随身門」から約2km2446を数える参道の最上部、左に登ると山頂鳥居がある。
 
 「山頂鳥居」の右手前に「能除太子御挫石」がある。これは能除太子が登上の折、休息された場所とか、昇天のとき召されたのがこの場所にあったと伝えられる。
 【皇野】(皇野・元羽黒の開山堂) 山形県庄内町
 
 先月行き着かなかった「皇野・元羽黒の開山堂」はこの辺りと黙す鳥居に直行する。「稲荷神社」・・・・何か変?
 
 一旦車道に戻り、軽トラで畑仕事に来ていた同年代のご婦人に尋ねる。杉林の一画を指し、「地蔵様がある墓地」があり、その先に「開山塚」と「御手洗の池跡」が、今は「御手洗の池跡」は水も無く草生していると・・・・。
 
皇野の開山塚
 蜂子皇子の墓と言われている場所は三ヶ所。一つは、ここ昇天の地、皇野の開山塚。羽黒山頂には、江戸時代後期に照見大菩薩の名をいただいた記念碑の建つ開山廟と明治初頭に政府が羽黒山頂に定めた墓の二ヶ所がある。
 
御手洗の池跡 羽黒修験道発祥の地(皇野・元羽黒の遠景)
 「皇野」には、「羽黒山本社・大皇山満納寺・坊舎」等が軒を並べて栄えていたと伝承。今日は、その証なる「開山塚・御手洗の池跡」が残り、羽黒修験道発祥の地とされる。→(Navitime Map)。
「月山八方七口」の正式巡礼の旅
 「旅の未知草」を紐解いてみよう。「即身仏;湯殿山信仰の極み」(2018.6.15)、「神仏習合;神仏分離前の出羽三山」(2018.7.20)この日「本山慈恩寺」(葉山信仰)も訪ねる、「廃仏毀釈;出羽三山の神仏分離」(2018.8.17)、「石鳥居;山岳信仰の神秘にふれて」(2018.9.14)、「ゆどのみち;古道“六十里街道”を行く」(2019.5.17)、「県境移動解除;蜂子皇子ゆかりの地」(2020.6.19)と続いてきた。
 その中で何かが欠け、胸中スッキリしなくずっと引きずっていることがある。それは、「月山八方七口」の正式な巡礼の旅である。月山に登拝するための八つの登り口。かつてはそれぞれの登り口に寺院や宿坊街があった。羽黒山の荒澤口(羽黒口)、阿吽院肘折口日月寺の岩根沢口注連寺七五三掛口大日坊大網口大日寺大井沢口本道寺本道寺口照光寺川代口(寛永年間に閉鎖)。
 【湯殿山大日坊大蔵出張所跡】(松高山大蔵院跡) 山形県大蔵村
 
湯殿山大日坊大蔵出張所跡 作之巻渡船場跡
 最上川左岸、「本合海船着場」(芭蕉乗船之地・句碑)より上流約4km対岸に位置する。大蔵村にある4つの渡船場跡の最下流、県道30号沿い高台に「湯殿山大日坊大蔵出張所跡」(大谷家)がある。→(Google Map
 
 
 「湯殿山大日坊別院松高山大蔵院跡」碑   「最上三十三觀世音菩薩紀念」 
 竹の巻の山裾にある「大日坊大蔵出張所」(松高山大蔵院)は、大日如来をご本尊とする朝日村大網にある大日坊の出張所として明治期に設けられた。それ以前は、直接大網より僧が出張し教義を解き、三山信仰の中心であった湯殿山参詣の先達を務めていたといわれる。
 
 初代弘信海上人(即身仏になっている)・大谷家代々の墓。「湯殿山大日坊大蔵出張所」「初代弘信海上人」に関する記述は「大日坊」にないのは何故だろうか・・・・
 【稲沢の渡し公園】(稲沢渡船場跡) 山形県大蔵村
 
 「作之巻渡船場跡」→「稲沢渡船場跡」→「烏川渡船場跡」。→(Google Map
 【阿吽院跡】(烏川阿吽院/片見家と地蔵尊及び烏川渡船場跡) 山形県大蔵村
 
 「烏川渡船場跡」→「八幡神社社務所」→「烏川史地蔵尊」(阿吽院跡)までの徒歩道順。→(Google Map
 
 肘折口別当の阿吽院は、江戸初期に肘折から最上川沿岸の烏川へ移転し、肘折には松之坊、竹之坊、梅之坊の3坊が存在したという。竹之坊の存在は確実であるが他の2坊は明確でない。その後、最上川水運の発展にともない参詣者の多くは肘折口を通過し、清川まで舟で下って羽黒口から参詣する経路に転じた。そのような経緯で、「肘折口」は限定的なものになった。
 
 「八幡神社社務所」→「Navitime Map」(地図が表示されたら拡大してください)
 
 
 「烏川地蔵尊」とある。「烏川」とは、「肘折」を流れる「銅山川」の別名である。その「銅山川」は月山南東斜面に源を発し、当地「赤松」から最上川に合流する。
 「烏川地蔵尊」(阿吽院跡)。「阿吽院」(片見家)は中世以来湯殿山の肘折口の別当を務めた家である。同家に伝来する古文書に、先祖は大分県の片見源右ェ門という修験者で、諸国巡礼の折、当地に至り道に迷い、今の銅山川に紵麻の流れ来るを見て、川上に人家有りやと川をさかのぼり、今の肘折で地蔵様に会い温泉を発見、さらに地蔵様の頼みから、肘折に居を構え、三山信仰の行者のため峻嶮を切り開き湯殿山への登拝道を開いたのは明徳元年(1390)の事とある。その後、源右ェ門の子孫は肘折で別当を務めていたが、肘折は山奥のため肘折を通る行者も少なく、そのため七代目の頃烏川に移住し、その時地蔵様の社殿も建立されたという。それ以後、村山、仙台方面からの舟で下り来る多くの出羽三山への参詣者を、烏川から肘折口に誘導するようになった。→説明板
 【地蔵倉遺跡】 山形県大蔵村
 地蔵倉探索路は肘折温泉街から、ここからだと約15分、工事事務所にお願いしたところ通行止ゲート前に駐車ししてOKとの了解を得た。国道458号(6/8-12/25舗装工事で全面通行止)を150m程進むと左手に地蔵倉への標柱がある。事前調査では、ここより地蔵倉までは約15分(実13分)とのことであつた。→説明板
 
 登山口の標柱より8分、「万里の長城」を思わす遊歩道、引き返したくなるような「桟」、鉄柵は固定穴に差し込んだだけ、つかまるとグラグラする。「そろ~り、そろ~り」と浸み出す水でぬかる遊歩道、へたに避けて足を滑らせたら元も子もない。岩壁に張り付くように進む。たったの3分だが、30分ぐらいに感じた。
 
 
 渡り切ると、垂直方向に岩肌を登る。僅かであるが、鉄柵は「何と山側で谷側は開放!」。恐々、這い上がる。
 
 「高所恐怖症」なんだからよせばいいのに、登り切った岩肌の先で「足元撮影」そして「記念撮影」、カルデラ壁(火口壁)、谷は火口ということになる。気象庁では、肘折カルデラを「活火山」に指定している。
 
 
 この「地蔵尊」こそ、「烏川地蔵尊」(阿吽院)。「出羽三山」の「八方七口」のひとつ「肘折口」の「阿吽院」発祥の地ということになる。
 【肘折温泉街】 山形県大蔵村
 村営バス停駐車場に車を停め、①亀屋旅館、②薬師神社(湯坐神社)、③丸屋旅館、④旧肘折郵便局、⑤横山仁右エ門商店と回る。→(Google Map
 
亀屋旅館 丸屋旅館
 江戸時代には、肘折温泉から月山を始めとする出羽三山への参道口(八方七口の一つ“肘折口”)として多くの参詣客を集めた。肘折温泉には、天台宗寺院である「阿吽院」が建てられた。一方、葉山修験の拠点としても、真言宗寺院である「密蔵院」があった。肘折温泉は出羽三山、葉山両山への参道口として多くの宿坊があった。
 阿吽院が別当を務めたのは
1611年頃まで、以降は烏川へ移転している。それ以後は密藏院が別当を務めた。密藏院は、現在の丸屋旅館(神野氏)の位置にあった。明治期には宿坊「豊後屋」も営んだが、明治35年に肘折から転居、亀屋旅館(横山氏)が密藏院を引き継いだ。月山修験者が隠れて修行をしたという「密蔵院」(隠し蔵)が「丸屋旅館」の屋根裏に残っているとか・・・・
 
薬師神社から温泉街をに眺める 旧肘折郵便局舎(昭和12年木造建築)
 「肘折カルデラ」と呼ばれる直径2kmのカルデラ(火山のマグマ溜り)の東端上に位置する。温泉街唯一のストリート。車を停めたのは最も奥、すれ違いが出来ない狭い径、一方通行にしたくても一本径。此の先にある横山仁右エ門商店で地酒を購入、荷造りをお願いし車を取りに行く。このお店は、明治29年に旅館業(朝日屋)から土産物店(肘折系こけしを製造販売)に商売替えをした温泉街最古参のお店である。
 今回の「旅の未知草」は、計画立案前に600kmほどになろうと踏んでいた。ホテル着18:00、予定より1時間早く、実走距離は何と598.5km。来月は・・・・コロナ感染が急増に転じている。今回の「旅の未知草」で気付いたことに「月山;八方七口」をまともに観てない、早速計画を立ててみよう。
 追記;全国ニュース(最上川は728日深夜から29日早朝にかけ、大石田町と大蔵村の計4ヶ所で氾濫した。 29日時点で、床上・床下浸水が最も多いのは大石田町の116棟。 県のまとめによると、浸水は大江町が29棟、白鷹町21棟、大蔵村17棟などとなっている)で山形地方に災害級の豪雨で最上川水系での河川氾濫、肘折温泉では越水で温泉街が浸水、先日立ち寄ったばかりである。心よりお見舞い申し上げます。被災地になつているので来月は無理ですね。
  MP3 夢幻の風