陰陽師 (千葉県・茨城県) 安倍清明伝説を訪ね
2020.09.018(金) 晴
 今年の329日、テレビ朝日「ドラマスペシャル陰陽師」(乾)を観た。番宣では「シリーズ最強の敵・平将門」(坤)が登場する長編作品「瀧夜叉姫」を初の映像化、佐々木蔵之介が陰陽師・安倍晴明、市原隼人が晴明の相棒・源博雅を熱演」。ネットで検索、「陰陽師」「安倍清明」は実在のものであったと初めて知る事になった。
 「陰陽師」は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人・技官)として配置された者を指す。 中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。
 「安倍晴明」(921~1005)は、平安時代の高名な天文博士・陰陽師である。記録上には天徳4年(960)天文得業生として現れ、寛弘元年(1004)左京権太夫として名を連ねる。多くの事柄を予言するなど、その伝承は「今昔物語」「大鏡」などで流布され、「狐と人間の婚姻説話」で知られる。
 【犬吠埼】 千葉県銚子市
 「犬吠埼」へのルートは「熊谷-加須-野田-印西-香取-神栖-銚子」(282km6時間)。家を23時に出て、犬吠埼着は5時、日出時刻520分。ところが、10年も住んでいた熊谷で行田方面(R125)へ左折なのに通過してしまった。すぐ先に左折する道は何本もある。しかし、ナビは連れなくも国道17号を直進せよと、大宮手前の外環状国道16号で野田迄、以降は予定ルート、約20kmの遠回り、犬吠埼着は445分、15分前着であった。
 
 
 【犬吠埼】(補遺①) 千葉県銚子市
 
 夜明け撮影にと「28-75mm 1:2.8」(大口径レンズ+ハーフグラデーションフィルタ)を装着したカメラで撮るつもりであったが、カーエアコンで冷えていたところに外気の湿った暖かさで一気にレンズが結露してしまった。
 【犬吠埼】(補遺②) 千葉県銚子市
 薄暗い朝夕の撮影は、いつもコンデジ(TG-4)で保険と思って撮っている。昔から、オリンパスのズイコーレンズのファンでもあった。
新生代・新第三紀・中新世頃(地質時代) 新生代・第四紀・更新世頃(洪積世) 現在GoogleMap
 「犬吠埼」(白亜紀浅海堆積)の形成史を何かでみた記憶がある。利根川や鬼怒川等により湾が埋め立てられ、関東平野が出来たとのこと・・・・関東平野の成り立ちは非常に古く、1650 万年前の日本海の拡大末期まで遡る。新第三紀以来続いている「関東造盆地運動」で形成された。これは現在の関東平野の中央部で沈降が起こり、周囲の山地などが隆起する運動である。この運動で周囲の山地からの土砂が平野に流れ出し厚く堆積(第三紀層:3000m)する。さらに隆起して丘陵や台地を多く形成した。平野中央部の堆積層の下には、フォッサマグナ東縁線、中央構造線など大型断層が存在すると考えられている。
- 「銚子の清明伝説」(延命姫との伝説)のあらまし - (乾)
恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太(しのだ)の森のうらみ葛の葉  
 浄瑠璃の「蘆屋道満大内鑑」の「葛の葉子別れ」の段の中で「狐の葛の葉」(清明の母)が詠む歌
 千葉県の銚子の一つ手前「松岸駅」に近い垣根町の海上小学校のとなりに「長者山仁王尊阿弥陀院」(根本寺)というお寺があります。入口の門柱にも「長者山」と書かれています。ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたことによります。この長者にまつわるお話です。この長者屋敷は「垣根の長者屋敷」と呼ばれていました。長者の名前は「根本右兵衛義貞」といいました。垣根の長者、海上郡随一の金満家であった根本右兵衛義貞には一人娘「延命姫」がおりました。
 平将門の乱討伐のために筑波に足を運んでいた右大臣藤原師輔に見いだされた安倍晴明は、時の天皇に寵愛され才能を発揮します。しかし、天皇を取り巻く政争にまきこまれ、 身の危険を感じた阿倍晴明は都を脱出し 故郷の筑波山麓にもどっていました。西暦
986年 、筑波に戻っていた阿倍晴明はさらにこの銚子に逃れてきてこの長者屋敷に泊まりました。そこで垣根の長者の延命姫と出会い、姫が晴明に一目惚れしてしまったのです。しかし延命姫は、生まれながらにして顔の左ほほ全面にアザがあったのです。父の義貞は、裕福な資産家であり、娘のために安倍晴明に自分の財産を全て提供し、娘との結婚を願い出ました。都から逃れてきていた安倍晴明は、最初はしぶしぶ延命姫との婚姻を約束するも、やはり次第に後悔しはじめ、延命姫のもとから逃げ出してしまいました。
 晴明は、垣根屋敷から利根川に添って少し下流の「今宮」にやってきました。そして、そこから対岸の波崎にわたろうとしました(
GoogleMap)が、海(川)が荒れていて渡れません。そのため、晴明は「飯沼観音」へ逃げて、更に東の「和田不動尊」(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。姫は「常世田薬師堂」(常灯寺)に三日三晩籠もり、晴明がいる場所を知らせてほしいと願掛けをしたのです。晴明は、逃げても逃げても延命姫が追ってくるので、ついに屏風ヶ浦の小浜の地まで逃げたところで一計を案じたのです。自分が死んだように見せかければ姫もきっとあきらめると考えたのです。屏風ヶ浦の「通漣坊」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の「明王山真福寺」に身を隠しました。追ってきた延命姫は、通漣坊にぬぎすてられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。真福寺には、晴明が隠れたといわれる小さなお堂(晴明堂)が遺されています。また、姫が海に飛び込んだことを知った晴明が罪滅ぼしのためにここで荒行をしたといわれています。
 また延命姫が身を投げた「通漣坊」は、 千葉縣海上郡誌に「潮漣洞」として下記のように紹介されています。豊岡小浜磯見川の河口にあり、潮汐沿岸を洗い、岩石為めに穿たれて一の大なる竈形の空洞を生ず。一洞崩壊すれば、随って一洞を生ず。 世俗之を「延命淵」と称す。数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。小なるを「女竃」と称し、大なるを「男竃」と称せり。海上浪高き時は、侵入する潮汐、恰も長鯨の水煙を呼出するが如く、実に奇観なり。遠近伝えて奇異の顕象となし、夏季観客常に絶えずという」。また、ここの名前の「延命が淵」については、この安倍清明伝説をそのまま紹介して、この空洞はこの延命姫が身を投げたときにできたものだとの伝説を紹介しています。この「通蓮洞」は、「旭市」との市境にあり、銚子市小浜側の「男竃」は「小浜通蓮洞」、旭市上永井側の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていたそうですが、「男竃」は侵食により明治
30年代に消滅し、「女竃」も昭和30年代まで一部が残っていたそうですが今は見ることが出来ません。また岩が潮を噴き上げる壮観な景観の場所であり、素晴らしい風光明媚な場所であったそうです。現在も歩いてこの海岸淵に下りられますが、昔の洞窟などはなくなってしまっているようです。
 さて、海に身を投げた延命姫の髪の毛は銚子川口の岩(千人塚の付近)にからみつき、歯と櫛が川口の地に打ち上げられたのです。そして、その歯と櫛を川口の丘に埋めて祀られました。これが現在の「川口神社」です。この川口神社は伝承によれば最初「歯櫛明神」とよばれ、それがいつしか「白紙明神」と名が変わり、明治
3年には現在の「川口神社」に改名されたといいます。この延命姫は顔にアザがあったのですが、この川口神社に櫛や鏡などを納めて祈願すれば、女性は美しくなり、神社にある「白」をつけるとアザがきえると信仰されてきたそうです。
 さて、安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)「清明橋公園」
で生まれたとする説もかなり有力なのです。晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
 平将門(伝説の地
)がいたのもこの近くです。この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。坂東三十三観音の霊場は、第25番;筑波山 大御堂(つくば市)、第26番;南明山 清瀧寺(土浦市)、第27番;飯沼山 円福寺(飯沼観音)(銚子市)、と土浦市の筑波山の麓よりこの銚子の飯沼観音へと続いており、昔は水路で人の流れもつながっていたように思われます。(Google Map
 【仙人塚海難漁民慰霊塔】(伝説の地②) 千葉県銚子市
 
 海に身を投げた延命姫の髪の毛は銚子川口の岩(千人塚の付近)にからみつき、歯と櫛が川口の地に打ち上げられた。ここ「千人塚」には、伝説を知り得る文言は何一つ見当たらなかった。→「千人塚」&(Google Map
 【銚子川口神社】(伝説の地③) 千葉県銚子市
 
 
 その歯と櫛を川口の丘に埋めて祀られました。これが現在の「川口神社」です。この川口神社は伝承によれば最初「歯櫛明神」とよばれ、それがいつしか「白紙明神」と名が変わり、明治3年には現在の「川口神社」に改名されたといいます。この延命姫は顔にアザがあったのですが、この川口神社に櫛や鏡などを納めて祈願すれば、女性は美しくなり、神社にある「白」をつけるとアザがきえると信仰されてきたそうです。工事中につき参道途中で閉鎖になっていました。
 【和田山不動堂】(伝説の地④) 千葉県銚子市
 
 晴明は、垣根屋敷から利根川に添って少し下流の「今宮」にやってきました。そして、そこから対岸の波崎にわたろうとしましたが、海(川)が荒れていて渡れません。そのため、晴明は「飯沼観音」へ逃げて、更に東の「和田不動尊」(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。
 時は6時半、まだ薄暗い境内で憧れの蝶「モンキアゲハ」とのご対面がありました。
 【圓福寺本堂・飯沼観音】(伝説の地⑥) 千葉県銚子市
 
 海(川)が荒れていて渡れません。そのため、晴明は「飯沼観音」へ逃げて、更に東の「和田不動尊」(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。
 
 
 
 
 飯沼観音・圓福寺は、坂東三十三ケ所観音霊場二十七版札所で、本尊は十一面観世音菩薩が奉安されている。銚子の繁華街や商店街は、飯沼観音を中心に形成され門前町として繁栄してきた。観音堂は圓福寺の本堂で、昔は境内地であったが、太平洋戦争の後、本堂と本坊が離れた。飯沼観音(本堂)境内には仁王門、大仏、五重塔、鐘楼堂、また本堂内天井画、境内には日本選奨土木遺産の飯沼水準原標石(日本における河川測量の原点)などがある。
 【圓福寺本坊・大師堂】 千葉県銚子市
 
 本堂から国道254号を南に260m行くと本坊がある。本坊には、大師堂、地蔵堂、竜神堂・閻魔堂・涅槃堂などが立ち並んでおり、間口12間・奥行8間の瓦葺で大師堂と称し、客殿庫裡が連なっている。
 【清明稲荷神社】(伝説の地⑥) 千葉県銚子市
 
明和元年(1764)、旧飯沼村の森田家により建立されたものとされ、平安時代の有名な陰陽師・安倍晴明所縁の神社というのだが、どういう契機で創建されたのかは明らかでない。「圓福寺・飯沼観音」から直線距離で100m程の地、当時は同境内と言っても良い範囲、安倍清明が立ち寄ったとされても不思議ではない。
 【屏風ヶ浦】(伝説の地⑩) 千葉県銚子市
 屏風ヶ浦の「通漣坊」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の「明王山真福寺」に身を隠しました。追ってきた延命姫は、通漣坊に脱ぎ捨てられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。
 延命姫伝説の舞台でもある「通蓮洞」は、これより1.3km先にあり、「小浜通蓮洞」(男竃)と「上永井通蓮洞」(女竃)と呼ばれ、「男竃」は明治30年代に消滅し、「女竃」は「岩山」の「残骸」が昭和30年代まで見られ、河口の砂洲が広く美しかったそうです。無きものは遠くから「想像」という眼鏡で眺めるべし・・・・。
 【眞福寺】(伝説の地⑤) 千葉県銚子市
 
 
 屏風ヶ浦の「通漣坊」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の「明王山真福寺」に身を隠しました。追ってきた延命姫は、通漣坊にぬぎすてられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。真福寺には、晴明が隠れたといわれる小さなお堂(晴明堂、右上画像)が遺されています。また、姫が海に飛び込んだことを知った晴明が罪滅ぼしのためにここで荒行をしたといわれています。
 
 【常世田薬師常灯寺】(伝説の地⑪) 千葉県銚子市
 
 それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。姫は「常世田薬師堂」(常灯寺)に三日三晩籠もり、晴明がいる場所を知らせてほしいと願掛けをしたのです。「常灯寺本堂」説明板
 【阿弥陀院根本寺】(伝説の地⑫) 千葉県銚子市
 
 「長者山仁王尊阿弥陀院」(根本寺)というお寺があります。入口の門柱にも「長者山」と書かれています。ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたことによります。この長者にまつわるお話です。この長者屋敷は「垣根の長者屋敷」と呼ばれていました。長者の名前は「根本右兵衛義貞」といいました。垣根の長者、海上郡随一の金満家であった根本右兵衛義貞には一人娘「延命姫」がおりました。
 平将門の乱討伐のために筑波に足を運んでいた右大臣藤原師輔に見いだされた安倍晴明は、時の天皇に寵愛され才能を発揮します。しかし、天皇を取り巻く政争にまきこまれ、 身の危険を感じた阿倍晴明は都を脱出し 故郷の筑波山麓にもどっていました。西暦986年 、筑波に戻っていた阿倍晴明はさらにこの銚子に逃れてきてこの長者屋敷に泊まりました。そこで垣根の長者の延命姫と出会い、姫が晴明に一目惚れしてしまったのです。しかし延命姫は、生まれながらにして顔の左ほほ全面にアザがあったのです。父の義貞は、裕福な資産家であり、娘のために安倍晴明に自分の財産を全て提供し、娘との結婚を願い出ました。都から逃れてきていた安倍晴明は、最初はしぶしぶ延命姫との婚姻を約束するも、やはり次第に後悔しはじめ、延命姫のもとから逃げ出してしまいました。
 銚子に伝わる「陰陽師安倍清明」(延命姫)の伝説。ことの始まりが最後の訪問先になるとは、ほっとして「延命姫供養塔」(Google Map)を撮り忘れていた。ネット社会、「Google さん、援けて」の一声にズバリ応えてくれました。試しに「Click!」してみてください。
 ここで、今回の「旅の未知草」、最後の訪問地が「安倍清明生誕の地」、編集の関係で次に繰上げました。
 【清明橋公園】(安倍清明生誕の地) 茨城県築西市
 
 安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)「清明橋公園」で生まれたとする説もかなり有力なのです。晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
- 平将門終焉の地 - (坤)
よそにても風の便りに吾そ問ふ枝離れたる花の宿りを
 将門は戦乱の中、一旦は優勢に立ち、敵将平貞盛の妻と源扶の妻を捕らえました。将門はその前の戦いで妻である君の御前と娘を敵方に捕らえられ、殺害されていたにもかかわらず、陵辱された彼女たちを憐れんで新しい着物を与えて送り返しました。
 本作、テレビ朝日「ドラマスペシャル陰陽師」では晴明と博雅の前に、「シリーズ最強の敵・平将門」が立ちはだかります。死後20年を経て復活した将門の激しい怨念によって、都は滅亡の危機に…!将門の死の真相、なぜ将門は復活したのかなど、平安の世に渦巻く怨念と陰謀に、晴明&博雅コンビが挑みます!
 「平将門」は、平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。
 下総国川口にて将門軍と合戦となる。将門自ら陣頭に立って奮戦するも、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛けるために幸島郡の広江に隠れる。しかし、官軍は勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、藤原為憲も加わり、「将門の本拠石井」
に攻め寄せ焼き払う焦土作戦に出た。当の将門は身に甲冑をつけたまま探索をかわしながら諸処を転々とし、幸島郡の北山を背に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古く確実な例が、この将門である。
 補記;「・・・・帝都に攻めのぼらんとて諸軍勢に知らせてその用意をなしけるに、力を憑きしつる藤原秀郷となりければ驚くを大方ならず。先貞盛、秀郷を退治せんと下野を発向なさるに・・・・」とあるので、「将門記」の下野合戦(現、栃木県)から始まり、川口村の戦い(茨城県結城郡八千代町水口付近といわれる)、島広山の決戦(岩井市中根付近に残り、将門の政治、経済、軍事の本拠地だった石井の営所があった場所といわれる)、へと・・・・。
 【神田山延命院】(平将門の胴塚) 茨城県坂東市
 
 天保6年(1835)に建てられた「延命院復興記」碑によると、開基は京都東寺の僧宗助で、中興の祖は来世法師とあります。現存する観音堂は、関宿城主牧野成春公の助力で宝永7年(1710)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝承。不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山(かどやま)と称しています。将門は、天慶3年(940)の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れました。その首は藤原秀郷によって京都に送られ、東市にさらされたと伝承。残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられています。この地は、相馬御厨の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいるといわれています。その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っています。また、胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。
 【北山稲荷大明神】(北山古戦場跡) 茨城県坂東市
 
 
 右画像、「鎮魂平将門公之碑」(右)、「終焉之地遍田北山古戦場」(左)。「将門記」には、将門が最後に陣を張った地を「辛島郡(猿島郡)之北山」と記されている。この「北山」の候補はいくつかあり、その一つが辺田の北山稲荷神社辺りという。左の石碑は平忠常の乱を平定した源頼信が、この地に建てた将門鎮魂の板碑のレプリカとかで、「天慶三庚子年 将門禅門位二月十四日長元辛未年長征總土鎮魂鬼神源頼信」(拡大)と刻まれている。
 【一言神社】 茨城県坂東市
 
 
 下記「石井の井戸跡」を参照。
 【石井の井戸跡】 茨城県坂東市
 
 この井戸は、中根台地の裾辺にある地下水の湧き出し口で、古代人がこの地に来て、湧水近くに居を構えて以来、人々が移り住んだと思われます。奈良時代には、石井郷という行政区域になっていました。 平安時代に書かれた「将門記」には、将門の本拠となる石井営所として記述されています。
 
 将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなお方なのでしょうか」と尋ねると、翁は畏まって「久方の光の末の景うつる岩井を守る翁なりけり」と唱じると姿を消してしまった。将門はこの翁を祀る(一言神社)とともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。
 【島広山石井営所跡】 茨城県坂東市
 
 
 石井営所が「将門記」に現れるのは承平7年(937)。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、営所内を調べあげて良兼に知らせる。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけるも、将門方の郎党の急信により大敗します。
 石井営所の周辺(島広山台地)には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには二千・三千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要であった。今の上岩井から中根一帯(
Google Map)に、これらの施設が設けられていたと考えられている。石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わうも、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われるに至った。
 【医王山延命寺】(平将門の菩提寺) 茨城県坂東市
 
 延命寺は島広山の台上に石井営所(島広山)の鬼門除けとして建立された。天慶3年(940)藤原秀郷、平貞盛等に石井営所一帯を焼かれた時、薬師如来像を移し隠され、世の静まるのを待って現在の低湿地に祀られた、島の薬師として知られている。文政2年(1445)守谷城主相馬家が大檀那となって本堂、薬師堂、山門を建てたがその後火災にあい山門だけが残った。薬師堂は有慶上人によって再建されたが、これも焼け、現在は仮堂である。
 
 延命寺は当初、平将門を祭る国王神社の別当寺院で境内も隣接していましたが享保年間(1716-1736)に分離し、神職を飯塚氏に譲ると、境内を現在地に移しました。水戸藩では2代藩主徳川光圀の命により寛文3年(1663)から藩内の社寺の由緒などの調査が行われ、それを基にして神仏分離政策が実行、最終的には半分の社寺が廃社、廃寺に追い込まれています。
 
 国王神社と延命寺との分離もこの政策の一環と思われますが、平将門と強い繋がりがあった事が評価されたのか国王神社、延命寺共に存続が許されています。延命寺に安置されている薬師像は行基菩薩が霊木から自ら彫刻したものと伝えられるもので、その後、将門の守り本尊となり、将門の死後、当寺に納められたと伝えられています。
 【國王神社】(平将門終焉の地) 茨城県坂東市
 
 天慶三年二月十四日(940)、新皇として下総国猿島郡石井郷(現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構えた平将門軍と、朝廷による将門討伐の命を帯びた藤原秀郷・平貞盛連合軍が、この地で最終決戦を迎えました。 将門公の四百騎は、三千騎の敵軍に対して追い風を得て、当初敵を圧倒します。しかし、にわかに風向きが逆転して劣勢に立たされた将門は、陣を敷いた北山へと退く途中で、流れ矢に当たって戦死したといいます。地元の言い伝えによれば、首を取られた将門公の身体は馬に乗せられ、のちに國王神社となるこの場所(石井営所近辺)に辿り着いたのでした。→説明板
 
  月日は流れ、将門公の最期から三十二年が過ぎたあるとき、一人の尼僧が石井郷を訪ねてきました。奥州・慧日寺に逃れていた、将門公の三女・如蔵尼です。奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、ある日悪夢を得て急いで下総に帰郷し、村人に父の最期の地を尋ねました。熾烈な残党狩りの記憶があった村人たちでしたが、尼僧が将門公の縁者だと分かると、将門公が辿り着いた最期の地・現在の國王神社の場所に案内したのでした。如蔵尼は、この場所で傍らの林の中より怪木を見つけ、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠こそ、現在の國王神社であり、以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。
参考;平将門には二男三女がいるという。
「五月姫」(長女);将門の娘とされる伝説上の人物で、妖術使いとして浄瑠璃などで描かれる。茨城県つくば市に「瀧夜叉姫の墓」と伝わる石板がある。「夜叉=鬼神」
「如春尼」(次女);将門の次女とされる人物。千葉氏などの系図には平忠頼に嫁ぎ、平忠常や平将恒を生んだとされるが、詳細は不明。
「如蔵尼」(三女);将門の三女とされる人物。将門の死後、奥州の恵日寺に逃れ寺の傍らに庵を結んだとされる。国王神社は如蔵尼が将門の三十三回忌に創建したと伝わる。
 
 「犬吠埼の日出」を眺め「陰陽師安倍清明、延命姫伝説」の地を訪ね、その後「平将門終焉の地」を訪ね、最後は「安倍清明誕生の地」を訪ねる。古希を数年前に迎えた者とは思えぬ長旅、ここから更に仙台へと300kmを越える長距離ドライブが待っている。筑西市から一般道を北上し、矢板ICより高速に乗りホテル近くの仙台東ICまで、流石に疲労も蓄積し安積PAで休憩、ホテル着は20時ジャスト(旅程表予定22:00)。時間があれば立ち寄ってみようと思った「南明山清瀧寺」(土浦市)と「筑波山大御堂」(つくば市)は取り止めた。走行距離は782.5km。翌日の帰路は425.1km、総走行距離は1207.6km
 編集後記
 蝶撮影に重きを置いた機材、当日のような天気だと全体的に切れの悪い眠気を誘う画像ばかり、スナップはやはりコンデジに任せた方が良かろう。手持ちの「
TG-4」も、それなりに応えてくれたのだが・・・・衝動買いに近いが9/25にカメラのキタムラネットで「来季戦力強化」の名目で妻におねだりし許可を受けた。「ソニー製のミラーレス」、ボディは「α6400」、レンズは「SELP1650」(16-50mm)と「SEL55210」(55-210mm)である。
                    MP3 陰陽師