出羽三山 (山形県) 八方七口(補遺編)
2020.10.016(金) 晴
 8月の「旅の未知草」で計画した「出羽三山八方七口」(補遺編)は、顧問先の盆休みの関係で末の土曜に延期され、それも最終的には中止になった。そして9月は日本海側の天気予報が雨とのことで「千葉・茨城」紀行へと出発当日に変更した。そんなことで3ヶ月遅れでの旅行きになつた。「秋の天気は女心」、山形の天気予報は直前まで「曇/雨」であつたが、出発時は星空、そして終日「秋晴れ」・・・・やはり「晴れ男」なのかと思うところである。
 【庄内の夜明け】 鶴岡市
 「由良の八乙女の像」駐車場(下段左端画像)で30分の朝食休憩を摂り国道7号を更に北上、「鶴岡西IC」を通過したところで右前方に「何やら白い帯状」のものを確認した。ビニールハウスにしては長すぎるし「朝霧」にしては薄く短い・・・・7月に「逆霧」(層雲)を撮影した付近で、その「正体」が認識出来た。
 本日の撮影は、旅のスナツプ用ミラーレス448枚、一眼レフ480枚(CD保存に際し60枚程廃却してある)、主として「ミラーレス」(16-50mm f3.5-5.6)の正式デビューとして主体的に画像を選出した。
 【羽黒の日出】 鶴岡市羽黒町
 「羽黒山大鳥居」を潜る一直線の道路(県道47合線;鶴岡羽黒線)を走る際は必ず撮っている。鳥居の右後方の山並みの上部がほんのりと赤らんでいる。そこからの日出を待つとした。(6:00-6:15
 「手向宿坊街」「野口道」(旧月山参道)等を撮り終え、「照光寺」(八方七口、川代口)へ向かうため「手向」を後にする。同じ道を戻ることになり、再び撮影する。順不同での掲載(9:03
 【金剛樹院】 鶴岡市羽黒町
 「金剛樹院」は、庄内唯一の天台宗寺院で、羽黒山内八大寺院(来迎山千勝寺の主坊)として、能除太子が開基したとされる。最上義光のお局であった妙円禅尼が住んでいたという同院裏のお局山には、妙円禅尼の御神仏・聖観世音菩薩を安置した観音堂と大昔の居住跡と思われる「羽黒山百穴」(平安前期の古墳、中館跡)がある。
 【寺小路】 鶴岡市羽黒町
 
 「金剛樹院」様の駐車場に停めさせて頂き、「寺小路」を抜け「赤坂薬師神社」へ
 【赤坂薬師神社】 鶴岡市羽黒町
 元は薬師如来を祀っていたお堂で神仏分離令により神社となる。
 【檀所院大塚坊】(宿坊) 鶴岡市羽黒町
 
 「手向宿坊街」、目抜き通りの宿坊を撮ってみました。
 【自坊小路】(自坊=羽黒山伏) 鶴岡市羽黒町
 
 一帯はかつて「堂庭」であり神域だった。そのため馬などは通れず、小路を抜けて裏道を回ったという。裏道には馬道との呼び名も残る。なお、自坊小路の自坊とは羽黒山伏のこと。小路の先に自坊の屋敷があることを指す。
 【正善院・黄金堂】 鶴岡市羽黒町
 
 正善院はかつて羽黒山十大伽藍の一つ手向山中禅寺の本坊として配下に三百坊をおいた寺であった。また、庄内札所三十三霊場第一番。荒澤寺の本坊でもある。
 【正善院周辺の宿坊街】 鶴岡市羽黒町
奥井坊 宮下方 宮田坊
 【峰薬師神社】 鶴岡市羽黒町
 
 
 神仏習合時代は「峯の薬師」と称する仏堂であったが、明治以後は少彦名命を祭る「薬師神社」となり、昭和37年(1972)に現在の社号に改めた。修験者の三山入峰修行(秋の峰)の際、当社で「梵天投じ」という重要な儀礼が行われ、神仏習合時代の伝統を残している。
 【福王寺稲荷神社】 鶴岡市羽黒町
 
 
 福王寺と言うお寺でであったが廃寺となり、鎮守の神として稲荷神を祀り現在に至る。
 【桜小路宿坊街】 鶴岡市羽黒町
大聖坊 田村坊 薬師坊
 「大聖坊」13代目羽黒山伏星野文紘(山伏名;尚文)、初代は1630年、新潟十日町から来た山伏。出羽三山神社責任役員理事、出羽三山神社祝部総代、羽黒山「松例祭」の羽黒権現役「所司前」を務めておられる。
 往時は300軒余あった宿坊も、明治時代初頭に発令された神仏分離令と、その後に吹き荒れた廃仏毀釈運動、明治5年(1872)に発令された修験禁止令により30軒(善学坊、養清坊、宝積坊、小関坊、明光院、正伝坊、勝木坊、壇所院、太田坊、宮下坊宮田坊奥井坊、東林坊、春照坊、双林坊、大聖坊薬師坊田村坊大進坊、三光院、三山大愛教会、桜林坊、生田坊眞田延命院、大江坊、小林坊、神林坊、東光院)前後に減少し、宿坊町も衰微してきた。朱記12坊を撮影した。→宿坊
 【大進坊】(芭蕉句碑) 鶴岡市羽黒町
 
 句碑説明;奥の細道 芭蕉の道 出羽三山句(芭蕉三句)
  「涼しさやほの三日月の羽黒山」「雲の峰いくつ崩れて月の山」「かたられぬ湯殿にぬらすたもとかな」
 「大進坊」は、
300年以上の歴史を刻む宿坊である。
 
 月山旧登山道(野口道)にあった三山句碑(羽黒山頂に移設)の模写。
  「凉しさやほの三日月の羽黒山」「加多羅禮努湯登廼仁奴良當毛東迦那」「雲の峯いくつくつれて月の山」
 【長圓坊・長傳坊三山大愛教会】(芭蕉・曾良句碑) 鶴岡市羽黒町
 
 
 右の句碑(芭蕉句)
  「無玉や羽黒にかへす法の月」
 碑の裏面に天宥別当追悼句文が刻まれている。幾度も撮り、また句碑の前をも通ってもいるが見逃していた。羽黒山第
50代別当天宥法院は、政治力ならびない傑物で、羽黒山中興の祖であったが、庄内藩との抗争に巻き込まれ、酒田家の讒言によって 寛文8年(1668)伊豆新島に流罪となり、延宝2年(1674)彼の地で果てた。此度下官、三山順礼の序、追悼一句奉るべきよし、門徒しきりにすゝむるによりて、をろをろ戯一句をつらねて香の後に手向侍る。
 左の句碑(芭蕉三句)
  「涼風やほのミか月の羽黒山」「雲の峯いくつ崩れて月の山」「かたられぬゆとのにぬらす袂かな」
 「千利休の喚鐘」や「掛け軸」がある由緒正しい宿坊で一元さんの利用は難しい。「神道教会」としての宗教法人(2015年国税庁認可)である。宿坊とは別の「神道教会」の内容については不詳。
 【聖山稲荷神社】(三山開祖蜂子皇子が千日修行をした聖地) 鶴岡市羽黒町
  蜂子皇子ゆかりの社寺を巡るコース
高寺山照光寺
高寺山雷電神社
玉川寺
羽黒山金剛樹院
羽黒山正善院
随身門
出羽三山神社
羽黒山開山堂蜂子神社
羽黒山荒澤寺
叶宮(本日予定も通行止)
赤坂薬師神社
峰薬師神社
福王寺稲荷神社
聖山稲荷神社
本日、過去、は未訪 
 三山の開祖蜂子皇子(能除太子)が千日修行をした聖地(聖山=阿久谷=羽黒山の山頂付近の某所)で、その時に感得した神(稲倉魂命)を祀る神社。地元観光会社では、蜂子皇子ゆかりの社寺を巡る特別なコースが組まれている。
 【桜小路宿坊街】 鶴岡市羽黒町
眞田延命院 生田坊 神林坊
 【天童稲荷神社】 鶴岡市羽黒町
 【桜小路宿坊街】 鶴岡市羽黒町
 【出羽三山神社社務所】 鶴岡市羽黒町
 【随身門周辺】 鶴岡市羽黒町
出羽三山神社鳥居 随身門(元仁王門) 天拝石
末社羽黒山 天地金神社(元三大師像を祀る大師堂) 豆腐地蔵尊
 【いでは文化記念館】(芭蕉句碑) 鶴岡市羽黒町
 羽黒山碑の杜(右より)
  「涼風やほのミか月の羽黒山」「雲の峯いくつ崩れて月の山」「かたられぬゆとのにぬらす袂かな」
 【荒澤寺】 鶴岡市羽黒町
 
 
 大日如来にお逢いしたいと思った蜂子皇子は、月山を下り、草深い谷間を進んでいくと、光が静かに輝く場所を見えた。そこをよく見ると大日如来が顕現され、その御姿を拝しようとして谷間に向かい下っていくと、急な坂道に出た。坂道を下るにも難しい場所であったが、しきりに光明で照らされるため少しも危なく感じなかった。その坂を合坂(むなかい)と呼ぶという。合坂で大日如来の御姿を参拝した所、その御姿から出た火が蜂子皇子の体に燃え着いて蜂子皇子の身の三毒を燃やし尽くし、その火は天に登り宝珠になった。この宝珠はある時は温かいお湯が滴り、またある時は五味を出し、火を出す不思議な物で、その輝きの中に浄土と地獄を見せた後、大日如来から「この宝玉を意に従って用いなさい」と蜂子皇子に与えられた。この宝珠から湯が絶えることがないことから、蜂子皇子は大日如来がおわすこの聖なる山を「湯殿山」と名付けた。蜂子皇子はこの宝珠を懐中に入れ、衆生の利益を想い羽黒山の荒沢に納め、湯殿山権現の荒魂として不動明王を、和魂として地蔵菩薩を本尊としてお祀りした。これが、荒沢寺の常火堂であるという。
 【荒澤寺】(月山の八方七口の一つ荒澤口/羽黒口、野口道;旧月山参道) 鶴岡市羽黒町
 「東北自然歩道」(新・奥の細道)なるものがある。山形県には「一周ルート」(24ヶ所)、「鼠ヶ関ルート」(7ヶ所)、「月山ルート」(3ヶ所)、「山形西ルート」(8ヶ所)、「米沢北ルート」(3ヶ所)である。
 「羽黒山山頂にある「三山句碑」、元は「野口」にあったものを移設したのだという。その「野口」とは何処なのか長年探し続け、やつと突き止めた。「月山ルート」(羽黒修験道のみち)の一部に「野口道」なるものをみつけた。今回は、「荒澤寺」Google Mapから「旧月山参道野口道出口半合目傘骨」Google Mapを探索することにした。
 
 「羽黒山山頂-荒澤寺」(奥の細道)は「荒澤寺」山門前に降りてくる。車道を渡り、山門を抜けると左手に本堂(地蔵堂)がある。女人禁制碑(是より女人きん世以)を正面にし、左手方向に「常火堂」、右手方向が「野口道」に続く「旧月山参道、荒澤口/羽黒口」である。
 「コロナ過」の影響が表れているのか分からないが、殆ど歩いている形跡が見当たらない。旧月山参道の半合目「傘骨」ぐらいまでは、「不気味」さを感じさせないよう「安心」して散策出来るようにして頂きたいと感じた。
 「東北自然歩道」と、指定したからには「耕作地の農道」ぐらいの整備(草刈り)はして頂きたいものです。指定時にボランティアの紐付けぐらい出来ないものだろうか?
 右手に「荒澤寺」の墓地らしきものが見えた。左手に下る獣道らしきもの、そこを降りると「月美橋」付近に、「荒澤寺」の境内回りを歩いただけ・・・・案内表示を整備し「旧月山参道の野口道」として頂けたらと感じた。
 
 山駆けなどの荒行で「死と再生」を疑似体験し、自らと向き合う山伏修行。出羽三山ならではの厳格な修行への注目が、改めて高まっている。山伏の称号が与えられる修行は出羽三山神社と羽黒山荒沢寺(正善院)が行っている。同神社の山伏修行「秋の峰入り」や女性を対象にした「神子修行」の希望者は10年ほど前から増加しているという。入山制限をしており、参加者は抽選で倍率は数倍だ。古くから湯殿山は生まれ変わりの山とされてきた。「悩み、苦しむ方が生まれ変わりたい、生きる力が欲しいと救いを求めてやってくる」とのこと。(山形新聞)
 【野口道】(東北自然歩道) 鶴岡市羽黒町
 営業中とは思えない「菊田旅館」の看板を見て右折、別荘らしき廃墟が点在、狭く泥濘の道になってきたので車から降り徒歩で奥へと、「荒澤寺」と「傘骨」の中間地点の「野口道」を探索と思いしや、廃道のように荒れて識別不能、諦めて戻る。
 
 通行止め区間に入り間もなく、グーグル・ストリートビューで確認してある「標柱」を見付けその先に停車。「野口道」の出口付近も踏み入る状態でなく先を急ぐことにした。今春に計画した段階では、この先「海道坂」(一合目)、「大満・小月山神社」(二合目)、・・・・「八合目」~「御田原参篭所」まで行く予定であった。
 →「荒澤寺」~「八合目」までの各合目の位置(
Google Map
 【照光寺】(月山の八方七口の一つ川代口) 鶴岡市羽黒町
 照光寺の創建は元正天皇の御代である養老2年(718)、出羽三山を開いたとされる蜂子皇子(能除太子:崇峻天皇の第3皇子)が鎮護国家の祈願所として開山したのが始まりとされる。その際、蜂子皇子は酒田湊に流れ着いた霊木の本木から照光寺の本尊、中木から薬王山東光寺(酒田市飛鳥)の本尊、末木から羽黒山の本尊を彫刻しそれぞれ安置し庄内三大権現と称されました。古くから雷電神社と神仏習合し羽黒山修験の支配下として寺運も隆盛し往時は高寺十三坊と称されていました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により雷電神社とは離れ仏像や仏具などが照光寺に移されています。「雷電神社」は、旧羽黒町の川代口から西補陀落(雨告山)を経て湯殿山へ通ずる登拝道の出発点である。
 雨告山(西補陀落)は月山火山のカルデラの中央に位置する尖った小ピークである。金剛沢が流れる南側はすっぱり切れ落ちており断崖の下にはかつて西補陀落として祀られている秘所があった。西補陀落は胎蔵界。慈悲と女性の象徴。そこには以前湯殿山の御神体岩と似た硫黄を含んだ巨大堆積物があって、その天辺に2m程度の大きさで深さ20cm程の窪みがありお湯が溜まっていたのだそうだが、現在は完全に崩壊し秘所の面影を留める物は土砂に埋もれ何もなくなっている事。「古くは旧羽黒町の川代口から西補陀落を経て湯殿山へ通ずる登拝道があったが、四百年前、羽黒山の第50代別当天宥が秘所として常人の入山を禁じたため、熱心な行者以外は現在は足を入れなくなっている」。かつての場所から金剛沢を遡ったやや東側に仮の拝所もあるが、現在は雨告山山頂に西補陀落・守山神社の碑があるようだ。
最下段3枚の画像は雷電神社の参道
 出羽三山参詣は、「霞場」と呼ばれる講を結成して行われた。出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)・七五三掛口(注連寺口)・大網口・岩根沢口・肘折口・大井沢口・本道寺口・川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は平成9年(1997)まで女人禁制であった。別当寺は、女人参詣所という役割もあった。なお、八口のうち「川代口」は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽院が置かれた。
 【注連寺】(七五三掛口/注連寺口→大網口/大日坊と統一) 鶴岡市大網中台
 
 出羽三山の参道のうち七五三掛口に位置し、注連寺から先が結界とされていたため、出羽三山が女人禁制の時代は「女人のための湯殿山参詣所」として信仰を集め、大いに賑わった。江戸時代初期には羽黒山の別当だった天宥(1592-1674)によって天台宗への改宗が図られたが、湯殿山派4ヶ寺(本道寺・大日寺・大日坊)が結束して幕府に訴え湯殿真言を守った。湯殿山の表口別当として、湯殿山信仰の中心となり、また月山、湯殿山は女人禁制の為、注連寺は女人の遥拝所とされ、湯殿山行者の根本修行道場として繁栄を極めました。注連寺や大日坊では湯殿山の開祖を空海とし、湯殿山と高野山を「空海によって定められ清められた、対となる聖地」としている。明治の神仏分離に伴い湯殿山を含む出羽三山がいずれも神社となると、湯殿山参詣所としての注連寺の役割は急速に失われ、寺は勿論のこと周辺の宿坊も次第に廃れ、住職も去り「破れ寺」への道を歩んだ。
 湯殿信仰の布教と衆生救済の聖者として、信仰を集めた鉄門海上人の即身仏が安置されれている。注連寺は即身仏の聖地とされている。注連寺系即身仏は、庄内地方を中心に8体もの即身仏が安置されているが、そのうちの5体が注連寺系とされる。
 【瀧水寺大日坊】(月山の八方七口の一つ大網口) 鶴岡市大網
 大日坊は大同2年(807)弘法大師によって開創され、寺号を教王瑜伽寺と称し、後に瀧水寺金剛院と改められた。古来より湯殿山が女人禁制だったために、大日坊に湯殿山大権現をお招きし、またお沢八万八千仏を祀って女人の湯殿山礼拝所(湯殿山全てを祀る寺)として建立したのがこの寺の源となっている。
 幕府の命令により湯殿山
4ケ寺共同運営となり、他の三寺院は元の山号があるも、大日坊は湯殿山の山号だけです。「大日坊」という名称は、隆盛を極めた頃に建立された僧が生活する宿舎である僧坊や、湯殿山流戒律の修行道場、執事本坊、講堂も兼ねた建物、湯殿山の本坊を大日坊と呼ばれたことにちなむと言われている。
 
 月山八方七口「大網口」(七五三掛口/注連寺口→大網口/大日坊と統一)、旧大網口(皇檀の杉)の位置関係。
 
 
 真如海上人は、湯殿山大権現を信仰し本寺大日坊を拠点として各方面の教化につとめ、寺を建て慈悲を施して社会福祉につとめられたため、 徳望一世に高く生き仏として多くの人々より尊ばれました。一世行人を誓い生身のまま土中に入定するまで七十余年の長い間この難行苦行をつみ重ね日本一の即身仏となられました。
 
 其の昔、湯殿山は女人禁制であり、それを哀れんだ空海上人(弘法大師)は此の地に湯殿山本地仏大日如来(湯殿山大権現)を勧請し祀りました。月山(本地仏は阿弥陀如来)の麓の聖地に祀った為、大日如来の大と阿弥陀如来の阿弥で「大阿弥」、大網(大阿弥)は大日坊の事なのです。今日でも大日坊旧境内地(皇檀の杉周辺)は大網一番地であり大網の発祥地となっている。→「皇檀の杉」、「旧境内図
 【月の女神像】(あさひ月山湖展望広場駐車場) 鶴岡市大網
 
 しばしの休憩・・・・「行く秋やしばしやすらふ月山湖」
 【志津御番所跡】(湯殿山の玄関口) 西川町志津
 志津の入口には口留番所があった。文化6年(1809)の「印鑑張」他、数冊の文献に番所の存在を裏づけた文章が残っている。志津に入る手前に御番所跡とされる小高い林があり、そこには文化4年(1807)信夫郡飯坂の行者によって湯殿山に奉納された常夜灯がある。志津の集落は内陸と庄内の接点に位置し、湯殿山行者の宿場と、加えて庄内往還六十里越の村継場として発達した。ここには、本道寺・大日寺の賄小屋があり、行者に食事を出した。
 大日寺から村の北端を通り抜け、大越川の橋を渡って八幡坂を上り、弓張平に出て北進し、志津に入る。そこから六十里越街道と合流し、湯殿山神社には大岫峠を上って行った。この参道は応永
24年(1418)大日寺中興の祖といわれた道智上人が、自ら峠の道路改修に当たったと伝えられ、関東一円と米沢・長井方面からの利用者が多かった。(道智上人が開いた大井沢・志津参道)
 
 「五色沼」湖畔、芭蕉句碑の左隣りに「不動院跡」なるものがある。かつて巨大なブロンズ製の不動明王像と大日如来像が祀られていたという。芭蕉の句碑は、「雲の峰幾つ崩れて月の山」、「奥の細道」旅中で詠まれた句。
 ここ「五色沼」も幾度となく訪れている。「芭蕉句碑撮影」「ゆどのみち」「月山山頂の句碑撮影」等々・・・・。それでも見落としているものがある。
 「旧六十里街道碑」、少し足を踏み入れれば「石塔坂」で「志津口留番所跡」「常夜燈石碑」がある。
 
 大井沢からも、その灯が見えたという志津御番所跡の常夜灯。大井沢大日寺は湯殿山別当四ケ寺の一つ。江戸時代中期以後最も繁栄し、「湯殿まで笠の波うつ大井沢」と歌にまで詠まれた。
 【月山神社】(ダム湖に沈んだ集落の証) 西川町月山沢
 寒河江ダムの建設に伴い昭和51年(1976)に月山沢の南部、寒河江川左岸側の斜面にある「小砂子関集落」の全戸が転出した。離村時45戸。うち1戸は水没を免れたが、周辺集落から孤立するため転居している。月山沢小学校および同中学校、公民館・保育所・診療所などといった施設があった。寒河江ダム建設が決まり、用地となった一帯の集落は移転することに。家々は解体され、仁田山橋は湖の底に沈んだ。水没した小砂子関集落、月山大橋を・・・湖の水位が下がると、昔の地形が現れる。「ああ、あそこか」と思いにふけることもあるとかつての住民は話す。
 【椿沢の追分石】(六十里越街道西川町側入口) 西川町月山沢
 寒河江ダムの建設に伴って水没した「砂子関」から「四ツ谷」に通じる六十里越街道は椿沢を経て一本木沢を走っていた。椿沢から移設(国道112号砂子関トンネル寒河江側出口)した「追分石」には「右湯殿山・庄内、左大井沢」と刻まれている。「一本木茶屋跡」まで行く予定であったが取止めた。
 【口之宮湯殿山神社】(月山の八方七口の一つ本道寺口) 西川町本道寺
 
 八方七口の一つ「本道寺口」の別当寺跡。かつては門前集落に二十数軒の宿坊があり、庶民信仰の証である代参塔群が見られるなど、出羽三山への参拝者でにぎわった当時の面影を残しています。。「出羽三山参拝の本道」とされたため、本道寺を通る六十里越街道には多くの行者が行き交い、街道沿いの集落は、「夏の稼ぎだけで遊んで暮らせた」ほどの繁栄を誇った。明治7年(1874)に神仏分離令が発せされると、本道寺は寺号を廃して口ノ宮湯殿山神社となった。
 参道石段右手にある芭蕉句碑は「語られぬ湯殿にぬらす袂哉」、「奥の細道」旅中「出羽三山」にて詠まれた句。中央の画像→「芭蕉句碑
 【岩根沢三山神社】(月山の八方七口の一つ岩根沢口) 西川町岩根沢
 出羽三山のひとつ、霊峰の誉れ高き月山への登拝口は、古来より「八方七口」と呼ばれる七ヶ所が開かれていた。そのうち月山の北側に位置する羽黒口と肘折口の二ヶ所を除く、岩根沢、本道寺、大井沢、七五三掛、大網の五口は、すべて六十里越街道沿いに開かれており、しかも直接湯殿山に登拝するのに好都合な立地であった。
 江戸時代に入ると出羽三山信仰の主体が湯殿山に移ったことで、それまでの月山を中心とする三山回峰参拝ではなく、湯殿山参りが全盛を迎える。さらに経済的な側面からも重要性が増して街道の整備が進められたことも拍車をかけ、六十里越街道は東北地方のみならず遥々関東地方からも訪れ、数多くの参拝者で溢れかえった。
 六十里越街道沿いから北へ2kmほど入った岩根沢の集落に建つ。かつて神仏習合時代は日月寺(天台宗)と称する月山への登拝口・岩根沢口の別当寺で、江戸時代の羽黒山中興の祖と呼ばれる第50代別当・天宥の出身寺としても知られる。
 裏手の山に「要害神社」(旧日月寺大日堂)と「祖霊社」(旧日月寺地蔵堂)がある。
 戦国騒乱の時代に25歳の若さで羽黒山別当の重職についた。 天宥は、当時黒衣の宰相と言われた上野寛永寺天海僧上に師事した。 そして一山の改革を図るとともに、参道に石を敷き(石段)、植林を奨励(杉並木)し、祓川に須賀の滝を落としたりして、山の威厳を整えた。晩年は反対派によって新島に流配となり、 島で7年を過ごし、82歳でなくなった。
 天宥と岩根沢日月寺の密接な関係は以前から指摘されており、近年になって岩根沢旧日月寺の世代墓地に天宥の両親の墓石が発見され(右上画像)、天宥の両親は老後を岩根沢ですごし、そこで亡くなったものとみられるため、天宥は岩根沢の出身であるともみなしうるが、岩根沢のある山形県西付山郡西川町の安中坊(寒河江市の慈恩寺に属した)の出身であるとする説が有力である。
 今回も予定通り、仙台のホテルに到着したのは17:42(予定18:00)、走行距離は597.5km。山形の地酒6本と、西洋梨カリフォルニア1箱を土産。翌日は、15時過ぎに会議を終え帰路に、21:39着、西那須野からの一般道は何時になく信号に引っかからず快適、421km、全走行1,021km
         MIDI 里の小さい秋みつけた