信州の鎌倉 (上田市) 故郷の秋さがし
2020.11.03(火) 晴
 【KAITA EPITAPH 残照館】(旧信濃デツサン館)
 信濃デッサン館の閉館後、窪島はコレクションの喪失に伴う悲しみに苛まれ、その後の入院生活の中でギャラリーの再開を決意。村山槐多の墓碑銘、そして年老いた自身に対する感傷から館名を「KAITA EPITAPH 残照館」に改め、令和266日(2020)に再オープンした。
 【無言館】(信濃デツサン館別館)
 「無言館」に通じる山道の路肩は所狭しに駐車、本来の駐車場は1台のみ空いていた。未だ、こんなに混んでいることはなかった。何事かと入口に近寄ってみると「第18回成人式」との立て看板が・・・・。
 【KAITA EPITAPH 残照館】(旧信濃デツサン館)
 「無言館」の中庭にあるベンチで妻とのツー・ショツト撮影と思っていたがイベントゆえ片付けられていた。
 窪島誠一郎について
 1941年、東京生れ。印刷工・酒場経営などを経て、1964年小劇場「キッド・アイラック・ホール」を設立。1979年、夭折画家の作品を展示する「信濃デッサン館」を設立。1997年、戦没画学生慰霊美術館 「無言館」を設立、その活動は野見山暁治とともに、2005年、菊池寛賞受賞。主著に「父への手紙」(筑摩書房)、「無言館」の坂道」(平凡社)、「漂泊・日系画家野田英夫の生涯」(新潮社)、「高間筆子幻景」(白水社)、「戦没画家靉光の生涯」(新日本出版社)などがあり、野見山暁治との共著「無言館はなぜつくられたのか」(かもがわ出版)がある。
 【前山寺】
 「無言館」で掲載した「【KAITA EPITAPH 残照館】(旧信濃デツサン館)は、「前山寺」の山門左手にある。紀行のタイトル画像として「無言館」の経営主体であったことで順不同で掲載した。
 鎌倉時代に長秀上人が発展させたという真言宗智山派独鈷山前山寺は、弘仁年中(812)空海上人が護摩修行の霊場として開創したと伝えられている。塩田城の鬼門に位置し、塩田北条氏の祈祷所ともなりました。境内には、二層目と三層目に縁と勾欄がないため「未完成の完成塔」といわれる国の重要文化財・三重塔があります。
 境内には秋咲ツツジが紅葉に混じり咲いていました。
 
 【龍光院】
 龍光院の創建は弘安五年(1282)、塩田北条氏二代北条国時公が父である義政公の菩提を弔う為、月湲和尚を招いて開山したのが始まりと伝えられている。義政公は鎌倉幕府三代執権泰時公の弟、重時公の五男で幕府の連署という副執権ともいえる重職にありましたが建治三年(1277)に出家し、この塩田に閑居しましたが、僅か四年後の弘安四年(1281)に四十歳で没しました。塩田北条氏は三代五十余年この地で栄え、また当寺も塩田北条氏の菩提寺として庇護され、「信州の鎌倉」とも言われた文化の中心的寺院として寺運も隆盛しました。
 解説塩田城跡と福沢氏塩田地方は、鎌倉幕府が滅亡するとともに北条氏にかわって村上氏の勢力下におかれた。村上氏はいまの坂城町を本據とした豪族であるが、塩田地方の支配権を握ると、重臣福沢氏を代官として塩田城に置き前進基地とした。(福沢氏は室賀峠北麓の要衝福沢の出身である)
 福沢氏の名が史料にみえるのは、室町初期の文安
5年(1448)ごろからであるが、それより前からここに在城しており、天文22年(1553)、武田信玄に攻められて落城するまで少くも百数十年間、村上氏の代官として塩田城を管理していた。時には村上氏が直接ここを居城としていたこともあったらしい。昭和50年から3年間にわたる発掘によって発見されたのは、主としてこの福沢氏在城時代の遺構であり遺物であると推定される。
 「高野山」に「蓮華定院」なるものがある。鎌倉時代に創建された、高野山真言宗を宗旨とする寺院です。関ヶ原の戦いの後、真田昌幸公と真田幸村公が仮寓していた真田家ゆかりの寺です。高野山は大永元年(1521)の大火により、4000ヶ寺が焼失するという災禍に見舞われました。翌年、当院は使者を信州佐久郡、小県郡の豪族に送り、宿坊の契約を結ぶことで再建を図りました。真田家の源流にあたる海野氏ともこの時ご縁が結ばれました。
 実は、坂城村上氏ともご縁があり、村上氏が衰退する頃、福沢氏が奉納に上がっていることが当院の古文書に掲載されており、その子孫に我が福澤家も近いという説があります。一度、蓮華定院に伺ってみたいと思う。
 【中禅寺】
 中禅寺は、長野県上田市前山にある真言宗智山派の寺院。山号は竜王山、院号は延命院。平安時代末期から鎌倉時代初期頃の建立とされる薬師堂は日本最古の木造建築物。本尊の薬師如来座像、神将像とともに国の重要文化財に指定されています。鎌倉初期の創建とされ「方三間宝形作り」という様式で建築されています。
 【実家】
 実家近くの蕎麦屋さんで昼食、実家には、「妻と二人の入墓」のお布施と、「干柿用の柿」「ジャム用林檎」採りが目的であった。義姉は留守(多分、入院であったかと・・・・)であり姪が案内してくれた。
              MIDI 朱