紅葉探し (長野県) 病院帰りの未知草
2020.11.011(水) 晴
 主治医が町医から総合病院に戻され久しい。血糖コントロールが安定しているので定期検診も3ヶ月毎になっている。今回は年に一度のCT検査、以前はMRI検査、造影剤アレルギーが出てから変更になっている。予約は9:30、通勤ラッシュで15分前到着。検査は4-5分で終えた。病院帰りに「社寺の紅葉撮り」を計画した。厚生連篠ノ井病院を出たのは9:45(予定;11:00)、大幅に余裕が出たので、最初の「高円寺」の前に「長谷寺」を加えた。
 【金峯山 長谷寺】 長野市
 「長谷寺」は、真言宗智山派、山号は金峯山。通称、信濃長谷寺。日本各地に数多くある長谷寺の中でも、日本三所と呼ばれる大和・鎌倉・信濃の三大長谷寺のひとつである。信濃国・長谷観世音霊場・信濃第十八番札所」。舒明9年(637)奈良の長谷寺が出来る百年ほど前、信濃国の更級郡にある姨捨山のそばに、允恭天皇の六代目の子孫にあたる白助という翁がいた。長谷観音の開基伝説「シラスケ物語」・・・・後述。
 本堂裏手の急斜面に「三十三観音石仏」が・・・・出だしからタウンシューズで足腰弱まってきているというのに登山かい!
 亡き父母の供養を願う男シラスケの父母への孝養の心が、観音菩薩との出会い、美しい女性との出会いと別れ、魂の再生と成熟へと展開していく・・・・
 【高円寺】 千曲市
 「高円寺」は曹洞宗の寺院、詳細不詳。病院へは、通勤ラッシュを避けたく国道18号を避け県道77号を利用する。「高円寺」さんの仁王門の直前を横切る。立派な門構えだと常々気になっていたので立ち寄ってみた。
 【武水別神社】 千曲市
 武水別大神は人皇第八代孝元天皇(紀元前214-156)の御代に御鎮斎と伝承。その後安和年間(968-970)に京都の石清水八幡宮より、誉田別命・息長足比売命・比咩大神が勧請され、相殿に奉斎された。延喜式(平安初期の年中儀式や制度などを記した書物)に名神大社として記載されており、三代実録(延喜元年に編纂された歴史書)によると貞観二年(860)に従五位下、同八年に従二位の神階を受け、同九年に官社に列したと有り、上古よりの大社であったことを窺い知ることが出来ます。
 長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊穣と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。
 【姨捨の棚田】(四十八枚田) 千曲市
 信濃国更級郡八幡に広がる棚田、水を張った水田の一つ一つに映り込む月は、古くから「田毎の月)と謳われるほど美しいことで知られていた。この「田毎の月」とは、長楽寺の持田である四十八枚田に映る月をいう。
 【姨捨山放光院 長楽寺】 長野市
 「長楽寺」は天台宗の寺院、山号は姨捨山、姨捨山放光院長楽寺と号する。本尊は聖観世音菩薩、信濃三十三観音霊場第14番札所。創建時期は不明。宝暦3年(1753)の「千曲之真砂」や、江戸時代末の善光寺道名所図会には八幡の武水別神社神宮寺の支院と説明されていた。明治初年の神仏分離令により一時無住になったこともあって記録を失い、現在この寺の創建年代等については不詳である。
 しかし、古今和歌集に記されていることなどから、10世紀には、姨捨山として知られていたと考えられている。また江戸時代の写本と見られる長楽寺縁起は大山姫や木花咲耶姫、諏訪の神等が登場する神話となっている。
 月見堂は本堂と同じ頃の建築で平成15年(2003)に修理、観音堂は元禄4年(1691)に再建されたとあるが、虹梁の絵様の様式から宝暦・明和年間(1751-1771)の再建と推定、平成16年(2004)保存修理が行われた。
 
 境内にある「姨石」(姨岩)は、高さ約15 m、幅約25 m、奥行約25 m、頂上から善光寺平を一望でき、月の眺めも別格である。江戸時代後期の紀行文作家であった菅江真澄は夥しい人々がこの岩の上からの月見をしている様子を絵に残している。なお、この岩が姨捨山縁起から伝説の姨捨山だと伝えられている。
 眼下に眺望の広がる境内には多くの歌碑や句碑がある。中でも門脇の松尾芭蕉の句「俤や姥一人なく月の友」を刻んだおもかげ塚(芭蕉翁面影塚)が著名。芭蕉が姨捨山の月を眺めに木曽路から当地を訪れた更科紀行でこの句を詠んだのは貞享5年・元禄元年(1688)のこと、おもかげ塚の建立は明和6年(1769)に加舎白雄による。
 【聖湖】 麻績村
 「聖湖」は、へら鮒釣りのメッカで全国から太公望が訪れる。岸部に整備された釣り専用桟橋で、美しい自然に癒されながらの釣りが楽しめます。今にも雪になりそうな空模様に一変、撮影は数枚に留め先を急ぐ。
 【一乗山 大法寺】 青木村
 「大法寺」は大宝年間(701-704)に、東山道浦野駅(馬駅)の駅寺として創建された市信州有数の古刹となつている。三重塔は、正慶二年(1333)に建てられた和様建築様式を正確に守られて建築、奈良・京都の建造物に遜色ない美しさを際立たせ、その美しい姿をつい振り返って眺めてしまうことから「見返りの塔」と呼ばれている。
 「当郷の地」は、「日本霊異記第二十二話」に書かれている「他田舎人蝦夷」(おさだのむとねりえみし)が住んだ信濃国小県郡跡目郷であったとされ、奈良時代から仏教信仰が根付いていた地である。また、「政治要略」や「延喜式」では塩原牧、「吾妻鏡」では浦野庄と記され、古くから周辺牧場関係者や地頭の崇拝を受けていた。
 「一乗山観音院大法寺」は、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のお寺、飛鳥時代に開山された歴史を誇り、国宝の三重塔のほか、日本最古の鯱、東信最古の十一面観音菩薩等貴重な文化財を有する。
 
 大法寺にまつわる万葉集(東山道と浦野の馬駅);大法寺は、東山道の開通にともない奈良時代に創建。万葉集には、嶮しい東山道の旅路の安全を願う和歌と馬駅があった浦野の地で都に残した女性を懐かしく思い出す和歌が、大法寺に深い関係のある和歌として残されている。
信濃路は今の墾(は)り道刈りばねに足踏ましなむ沓履け我が背
 現代語訳;信濃の路は、いま切り拓かれたばかり。切り株に、足を踏みつけぬよう、きちんと靴を履いてください。これ以外にもある(かの児ろの寝ずやなりなむはだすすき浦野の山に月片寄るも)ようなので、改めて調べ、歌碑めぐりをしてみたい。→マツプ
 
 
 
 【故郷を代表する里山】 夫神岳(1250m)と子檀嶺岳(1223m
 「大法寺」から「東昌寺」に移動する途中で撮影する。左画像は、実家からだと右手後方からの眺めになる。
 【東昌寺】 上田市
 
 事前調査でのリストアップに基づきナビ設定は済ませてある。位置的には、「大法寺三重塔」の右手の山間で徒歩でも行けるが車での移動にした。一旦、広い道に出て直ぐに見右手から回り込む。何となく「大法寺」の参道のようだ。「大法寺」墓地の間を抜ける狭い道を直角に曲った所で車を停め徒歩に切り替える。
 心細い山道を数百メートル上ると、「エッ!」と驚く立派な山門が見えてきた。車の場合は反対方向から来るらしい。隣り合わせの「大法寺」は青木村、「東昌寺」は上田市。「東昌寺」のある地区は「浦野」、実家とは丘陵を挟んで隣り村であり、認識の中では「青木村」であった。「東昌寺」は、「浦野氏」の菩提寺になっている。入母屋造り、桟瓦葺、袴腰という形体で、県内でも数の少ない貴重な鐘楼として市指定重要文化財になている。浦野氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の長野県上田市浦野地区から小県郡青木村一帯において栄えた地方豪族であったと云われています。11世紀のころには、この地方を豊かな荘園に開発するとともに、居館を構え、山城をも築いており、天文年間には現在の上田市大字浦野に現存する曹洞宗の萬年山東昌寺を中興開基しています。
 
 次に参詣することがあれば、「大法寺」の裏手からでなく、もっと上田側からの車道で来よう。
 【独鈷山】
 子檀嶺岳や独鈷山のある、上田市の南に広がる塩田平は、俗に“信州の鎌倉”と呼ばれる。上田郊外には国分寺が置かれ、大法寺や安楽寺には国宝の三重の塔があり、ほかに中禅寺、前山寺など鎌倉時代の古刹が目白押し。子檀嶺岳は、青木村の田沢・村松・当郷の奥社で、この一帯に展開していた塩原牧(旧地名)の信仰となっていた。
 【前松寺】 上田市
 
 長閑な山里のお寺さんと言う雰囲気がよいのだろう。山門の前に、「田園空間博物館」という案内板があった。
 【浅間山系】 懐かしく想い眺める郷里の原風景
 ここから眺める「浅間山系」は、見慣れた幼少期の風景である。つい、懐かしくなり車を停め撮影した。さて、故郷を後にしたのは1966年の事、品質管理から営業技術へと移籍し、転勤族に転じ宮城で退職・独立、2004年に郷里に戻り、2011年より現在の終の住処、信州人に戻り54年ぶりにしみじみと眺める。
 【専念寺】 上田市
 
 上田市下室賀の専念寺は浄土宗総本山知恩院(京都東山)の末寺で仏眼上人の開山で万治元年(1658)に創建したといわれる。時は、徳川四代将軍・家綱の時代、鎖国経済の時だった。
 
 山門をくぐると上田市指定樹の立派な松の木が、この松は当寺第十六世和尚の二人の弟子が明治の初期に一本ずつ植えたもの。本堂前の建物には正観音様が安置されている。この観音様は「池に入れられた観音様」である。かつて日照りの時、本尊をかつぎだし、下室賀の樋之詰大池に入れ雨乞いをした。
 
 本堂は幸運にも創建以来火災にあっていない。そのため建物は当時のままであったが、昭和十七、十八年ころ基礎全面改修をし、同四十四年には、かやぶき屋根にトタン板を覆う補修工事をしている。火災が無かったため過去帳が全部揃っている貴重な寺でもある。
 【驚覚山法性院 高仙寺】(小泉大日堂) 上田市
 
 「大日堂」は、小学低学年の頃に遠足で行った記憶がある。それ以降・・・・行ったという記憶がない。小学生にタイムスリップしたわくわく感が込み上げてきた。本堂西側に長い参道が里から続いている。
 
 本堂は帰りに寄るとして、まずは「大日堂」へと参道を山側へと上って行く、→小泉大日堂沿革
 
 「高仙寺」は真言宗の寺院で、大同元年(806)に「大日堂」を創建したのがはじまりといわれている。天文十一年(1542)に茅葺に改めたと伝えられ、同十六年の武田・上杉氏のあいだで争われた上田原の戦火で大半の堂宇を焼失するも大日堂だけは焼け残りました。「大日堂」は大規模な五間堂で、屋根は宝形造となっている。 細部の様式的特徴から室町時代後期の建設と考えられ、県内に残る中世の大規模仏堂の遺構として唯一のものです。
 
 「大日堂」は、当初から未完成であったようで、虹梁などの部材には皮つきの粗末な材も使われており、戦乱の多かった時代に建てられたことを物語っている。現在の大日堂は間取も外観も当初のものとはかなり違ったものになっている。当初の間取は、前方の二間通りが外陣で、その後方に桁行三間・梁行二間の内陣があり、内陣の左右と背後は入側となっていたようです。また、現在は周囲に縁はないが痕跡は残っている。このような間取や外陣の化粧屋根裏の意匠は、中世の密教本堂の一般的形式にしたがっている。大日堂の建設年代は、拳鼻の絵様などから、16世紀前期(寺伝の天文十一年頃)に建設されたと推定されます。 →高仙寺記
 
 「病院帰りの未知草」は、紅葉真っ盛りのみならず「懐かしく想い眺める郷里の原風景」に触れ、思いもしなかった「郷愁」に浸ることが出来ました。次の機会があれば、「浦野氏館跡」(浦里小学校)から東昌寺東界隈の「保福寺道」沿いにある「馬背神社」(西宮・東宮)や「皇太神宮」を参詣、古道「保福寺道」を「青木村役場」を抜け「保福寺峠」まで行ってみたい。信州最古の「保福寺峠」には、万葉歌碑やウエストン碑がある。
  MP3 風の香り