飯坂温泉(福島県) 奥の細道(福島)
2021.2.019(金) 晴
 「奥の細道」(飯坂温泉);福島城下を出立。「文知摺石」を見学、「医王寺」を参拝、「飯坂温泉」に至る。
 仙台出張は、歯科と大腸内視鏡検査の都合で12月と1月を自粛取り止めにしていた。2月は上期見通しと下期予算立案と重要な節目、コロナ感染者の減少等もあり仙台行きを決行、ところが13日の23:07M7.3震度6強の福島沖地震が発生、福島・宮城の県境(中通・浜通り)に大きな被害をもたらした。
 【那須野原の夜明け】 (6:36-7:01)栃木県那須町
 家を2時少し前に出る。直近の天気予報で「足尾・日光」経由は雪模様とのことで、国道50号を小山迄行き、国道4号を北上することにした。那須町辺りで東の空が赤く燃え、爽やかな夜明けを迎えた。
 
 
 国道4号、余笹川の橋を渡り左折し那須岳が見える場所を探し左岸の道を上って行く、どう走ったか解らないが「那須の丘」(墓地)より奥まで進む。道路は残雪が圧雪となり氷結している。眺望が望めないので県道68号(那須グリーンライン)まで戻り白河に向かう。最も狭くなる残雪の山道を走りながら良さそうな場所で朝日を撮りながら国道4号「稗返」(福島県西白河郡西郷村)に戻る。
 【郷ノ目村とは・・・・】 福島県福島市郷野目 「福嶋町カラ五六丁前、郷ノ目村ニテ神尾氏ヲ尋」
 夜明けとともに郡山宿をたち、あまり寄り道もせず奥州街道を北上してきたこの日、元禄251日、松尾芭蕉たちがゴールの福島城下まで歩いた距離は12里余。いやぁ長かった。気付けば夕暮れも近い。当時の旅人が1日に歩いた距離は、一般的に9里。ならば、福島城下の十数キロ手前にある八丁目宿(福島市松川町)で泊まるのが自然だ。何か、その日のうちに福島にたどり着かねばならない理由があったのか・・・・。
 
51日の後半の記述。芭蕉たちは、安達ケ原で鬼の岩屋などを見た後、再び供中の渡しで阿武隈川を越え、川に沿い北上。福岡村(二本松市油井福岡)を通り奥州街道に戻ると八丁目宿、さらに福島城下を目指した。
 芭蕉たちは、福島城下に入る手前で、郷ノ目村(福島市郷野目)に住む「神尾」という人物を訪ねたとある。「ほそ道」には出てこない挿話だ。しかし、神尾氏は江戸へ出掛けていて留守。そのため、芭蕉たちは神尾氏の妻と母に会うと、すぐに福島城下へ向かい宿に入った・・・・と「日記」は続く。
 その「郷ノ目村」なる「郷野目」走ってみた。参考に「福島路」(郷ノ目村-福嶋泊-岡阝ノ渡リ-モジズリ石・草ノ観音堂-月ノ輪ノ渡リ-瀬ノ上-佐藤庄司ノ寺・医王寺-飯塚の里鯖野)を、現在の主要道路でなぞってみた。
 【県庁前公園】(市立第一小学校) 福島市杉妻町
 「みちのくのしのぶもぢずり誰故に亂れむと思ふ我ならなくに」、恋歌を思い出し、田植えの所作に恋する乙女の面影を偲ぼうと・・・・「早乙女にしかた望まむ信夫摺」。「おくのほそ道」(信夫の里)元禄252日、「陸奥の田植風景」を詠んだ芭蕉の句、「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の初案。
 【JR福島駅東口】(芭蕉と曽良の旅姿立像) 福島市栄町
 松尾芭蕉は、門人曽良を伴って、元禄二年三月二十七日江戸を旅立ち、五月一日ここ福島に一夜を過ごした。翌五月二日「信夫文知摺」をたずね、さらに月の輪の渡しを経て「医王寺」をおとずれ、飯坂の湯宿に泊り、五月三日伊達の大木戸を越えて白石を目指した。
 【文知摺橋】(岡部の渡し跡) 福島市高野河原下
 「岡部の渡し」という渡し船によって岡部村と現在の堀川町にあたる五十辺村とが繋がれていた場所であり、元禄2年に松尾芭蕉が文知摺観音ヘ向かう際に利用したとされる。明治22年に「岡部橋」が架けられ、現在は第三世代の橋になる。右上画像は、第二世代の橋桁跡かと思う。
 [親柱」に芭蕉と子規の句が彫られている。左画像;「早苗とる手もとや昔しのぶずり」(芭蕉)、右画像;「涼しさの昔を語れしのぶ摺」(子規)。
 「親柱」には歌も彫られている。左画像;「みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに」(河原左大臣源融)、右画像;「春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず」(伊勢物語)
 【文知摺観音】(普門院) 福島市山口
 「おくのほそ道」(浅香山・信夫の里);明くば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遥か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里のわらべの来たりて教へける、「昔はこの山の上にはべりしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試みはべるを憎みて、この谷に突き落とせば、石の表下ざまに伏したり」といふ。さもあるべきことにや。

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り   

 「おくのほそ道」(信夫の里)元禄252日、「福島」での「陸奥の田植風景」を詠んだ句。境内正面、石垣で囲まれた盛土、ならびに手前右手の芭蕉像の台座に刻まれている。正面句碑の裏手に「文知摺石」がある。
 左画像は;正岡子規「涼しさの昔をかたれしのぶすり」句碑。右画像;河原左大臣「陸奥の忍ぶもち摺誰故に乱れ染めにし我ならなくに」歌碑。
右画像;福島城主堀田正虎が文知摺石を顕彰した碑
 陸奥国信夫郡毛知須利石 始称其名不知何時其説亦未詳也 後人不知其斯石故表而立碑於石
 【月の輪大橋】(月ノ輪の渡し跡) 福島市瀬上町
 「おくのほそ道」(飯塚の里)の書き出しに、「月の輪の渡しを越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。
 
 橋の歩道部(右岸側)に芭蕉の句碑が建てられている。「早苗とる手もとやむかししのぶ摺り」、「おくのほそ道」(信夫の里)元禄252日、「福島」での「陸奥の田植風景」を詠んだ句。
 また、左岸側には「橋名の由来」が掘られている。橋の名称は所在地である福島市鎌田字月ノ輪をもとにした周辺地名の愛称の月の輪から取られ、これはかつて阿武隈川が流路を変えていた時にできた「三日月湖」(月の輪の渡し・船前・古川辺りか・・・・)にちなむ・・・・と、欄干上にある銘板に記されている。
 「おくのほそ道」(飯塚の里)の書き出しに、「月の輪の渡しを越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる」。
月の輪の渡し-飯塚の里鯖野/医王寺

  「佐藤庄司が旧跡」とは、「医王寺」と「大鳥城跡」の
2ヶ所
  「飯塚の里鯖野」とは、「医王寺」を指す
  「丸山」は
2ヶ所あり、「平野丸山」は医王寺の先、「湯野丸山」は温泉街より更に山の手、前者であろう
 
 【月の輪の渡し碑】 福島市蒲田
 「月の輪の渡しを越えて、瀬の上といふ宿に出づ」。
 【瀬上の渡し記念碑】(瀬上の渡し跡) 福島市瀬上町
 「月の輪大橋」より阿武隈川右岸堤防のサイクリングロードを下る。往復30-40分は歩いただろうか・・・・。
 【医王寺】(飯塚の里) 福島市飯坂町
  これ、庄司が旧館なり。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落とし、またかたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづせあはれなり。女なれどもかひがひしき世に聴こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。
 笈も太刀も五月に飾れ紙幟
五月朔日のことにや。
 
「おくのほそ道」(飯塚の里)元禄252日、「飯坂の鯖野」にある「佐藤庄司旧館跡」を尋ね、近くの古寺(菩提寺の医王寺)で墓参りをして詠んだ句。新旧句碑がある。
「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」
 「義経」(NHK大河、2005)のロケ地(佐藤一族の菩提寺)、境内に「佐藤忠信・源義経・佐藤継信」の像鵜と「あゝ義経~佐藤一族の歌碑」がある。歌詞の前に「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」(芭蕉)が刻まれている。
 佐藤一族の菩提寺で、有名な佐藤基治・乙和夫婦の墓碑、佐藤継信・忠信兄弟の供養塔、「医王寺の石造供養石塔群」がある
 参道・境内にある大きな石灯篭等が6日前(2/13)に起きた「福島沖地震」(M7.3、震度6強)により倒壊したままになっていた。
 【飯坂温泉駅】(芭蕉像) 福島市飯坂町
 「芭蕉像」の横には「飯塚の里」での説明碑があり、「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」の句が刻まれている。
 「飯坂温泉駅」の横を流れる「摺上側川」と「十綱の渡し跡」「十綱橋」を眺める。「みちのくのとつなの橋にくる綱の絶すも人にいひわたるかな」(千載集)
 【旧堀切邸】(江戸以降の豪農・豪商) 福島市飯坂町
 天正6年(1578)に梅山太郎左衛門菅原治善が若狭国(福井県)から当時の上飯坂村に移住し、名を「若狭」と改め、「川跡田畑4町歩(約39,700㎡)あまりを開作」し、農業・養蚕に注力。また、村を流れる赤川がたびたび氾濫し被害がでるため、「堀を切って」赤川の流れを変え、埋め立てた場所を田圃や宅地にしたことから、ここの地名を「堀切」とし、治善のことを「堀切」と呼ぶようになる。
 近年の堀切家では、14代良平の長男で我が国の近代政治史にその名を残す堀切善兵衛(衆議院議長、駐イタリア大使)、そして関東大震災後の東京復興に尽力した次弟・善次郎(東京市長、内務大臣)、福島経済界に大きな役割を果たした末弟・久五郎(衆議院議員)を輩出している。
 【鯖湖湯/佐波来湯】(芭蕉と曽良入浴の地) 福島市飯坂町
 芭蕉はこの「飯塚」では、苫屋のような宿に泊まったため好意的な感想を記していない。当時の飯坂は「鯖湖湯」など温泉宿が4軒、人口326人、戸数74戸と小さな温泉街だったようだ。温泉地としての体裁が整ってきたものの内湯はあまり見られなく、思い思いに宿を選んで、点在する外湯で湯治を施すようなスタイルであったようだ。
 第10代鵬城主の佐藤師治が藤太湯を佐藤家専用の温泉にして当座湯(1125)と名付けるも、その後、当座湯は枯渇した。堀切家の主導(1578)で、赤川の流れが変えられ、そのせいか、堀切の地(摺上川沿い)に温泉が湧き出し再び「当座湯」と呼ばれる。赤川がまたも氾濫(1804)し、現在の湯沢に温泉が出る。当座湯とは若干場所が異なるが、温泉が地面の下を透過して別の場所へ達して湧き出たので、透達湯と呼ばれる。1992年に、建物の老朽化のために透達湯は取り壊され、その場所に現在の鯖湖湯が建っている。いにしえの佐波来湯、藤太湯、当座湯、透達湯は、1992年に復元された今の鯖湖湯に受け継がれてきた。
 【滝の湯跡】(俳聖松尾芭蕉ゆかりの地) 福島市飯坂町
 飯坂小唄に唄われる「ちゃんこちゃんこ降りて」(73段)と呼ばれる石段を下ると摺上川畔に建つ今は無き「滝の湯跡」に着く、「滝の湯」(瀑布湯)はお湯が自然に湧き滝のように流れることから名づけられた。
 芭蕉が入浴したの「滝ノ湯」であろうとされてきたが、研究が進み「滝ノ湯」ではなく「鯖湖湯」あるいは「当座湯」であろうとの見解が有力視されている。(説明板
 【法圓寺】 福島県桑折町
 「風流の初やおくの田植うた」、元禄24「奥の細道」旅中「須賀川」での「等窮」への挨拶吟。芭蕉 田植塚は、東北最古のもの。ご住職に戴いた「俳諧田植塚記」なる思い出のある場所だ。
 地震の被災地を訪ねる「旅の未知草」、他所では大きな被災であったと顧問先の営業会議で聞く。往路473.1km、復路420.1km、総走行距離は893.2kmであった。枯渇した宮城・山形の地酒を忘れずに調達した。
                    MP3 二人の旅人