保福寺道Ⅰ (長野県) 歴史の道“令制東山道”へ
2021.04.026(月) 晴
【真田太平記館】(池波正太郎) 所在地;上田市中央
 
 9:15に出て、郵便局で所用(お布施/終活)を済ませ、最初の目的地近くの駐車場に着いたのは10:00、隣接の「池波正太郎;真田太平記館を横目に目的地「北国街道柳町」へと先を急ぐ。→真田十勇士ウォーキングマップ
【北国街道・柳町】 所在地;上田市中央
 真田昌幸による上田築城以来、城下町として栄えてきた信州上田市。その市街地に位置する北国街道の上田宿「柳町」です。北国街道に沿った町人町として、江戸時代には上田紬等の商店や旅籠、休み茶屋で賑わい、呉服家だけでも25軒程ありました。蛭沢川が流れ、土蔵や石垣、格子戸のある家が立ち並び、モダンと伝統が織り成す素敵な風情ある街並みで、特徴的な「袖卯建」は二階の妻部に瓦を葺いた小壁が付き出している。→句碑横句碑縦
 
 
 
 
 
 
 ここでUターン
 
 
 
 
 平成4年(1992)柳町活性化のため「まちづくり協議会」が設立。平成14年(2002)に「柳町まちづくり景観協定」が締結され、翌年に県条例で認定され約200m余りの区間に16の店舗が開業された。
 
 岡崎酒造代表銘柄「亀齢」(きれい)、ルヴァン「天然酵母パン」、名取製餡所「くるみおはぎ」を土産として、帰路に実家に寄るため「くるみおはぎ」を追加で購入した。
【保福寺道起点】(別称松本街道) 所在地;上田市常磐城
 
 保福寺道は、岡田宿(松本市岡田町)から、上田宿(上田市常磐城)までの約33kmの街道です。
 
 「保福寺道起点」に「北向観世音道」(別所街道)と刻まれた万延元年(1860)の道標が建っている。この道標は、別所にある北向き観音を指す道標であり、明治28年(1895)上田橋が完成するまで上田と別所を結ぶのは、この道だけであった。「保福寺道起点」から「千曲川」までの道筋、千曲川を渡渉して左岸に、「その地点から別所温泉」までの「推定別所街道」をなぞってみた。
【歴史の散歩道】 所在地;上田市常磐城
 
 当時の面影を今もまち並みの中に残している「坂下通り」を、歴史の散歩道として上田市が石畳を敷き、石の街灯を設置するなどして整備したが、沿道の建物も新築時や改築時に形態や色彩を合わせたり、壁の塗り換えをするなどし、周辺が一つになって歴史的雰囲気を醸し出し、一昔前の風景を思わせる小路となっている。
 
 歴史的まち並みとして景観を保存しようと、市民と行政が一体となって景観形成を図った良い例である。
【芳泉寺】(小松姫の墓) 所在地;上田市常磐城
 
 創建は不詳なるも、古くから千曲川右岸に境内を構え、大福寺・常福寺・真福寺と軒を連ねていた事から総称として三福寺などと呼ばれていた。その後、真田家の祈願所として庇護され、慶長5年(1600)に真田信之が現在地に移し、全称庵主含霊を招いて菩提寺とした。
 
 
 元和6年(1620)に信之の正室である小松姫は病気がちになり、江戸から草津温泉に湯治に行く途中、武蔵国鴻巣の勝願寺(鴻巣市)で倒れそのまま死去、勝願寺で密葬され一周忌をもって菩提寺となった常福寺、密葬された勝願寺、小松姫が日頃信仰していた正覚寺(沼田市)にそれぞれ分骨され墓碑(宝篋印塔)が建立された。さらに常福寺には御霊屋が設けられ篤く弔われたが元和8年(1622)信之が松代藩に移封されると御霊屋は松代城の城下の大英寺に移された。小諸藩から上田藩の藩主となった仙石忠政は小諸にあった菩提寺の宝仙寺を当地に移し父である仙石秀久の墓碑を改葬、翌年に秀久の戒名「円覚院殿宝誉道樹大禅定門」に因み円覚院芳泉寺と改称した。
【東山道日理駅跡推定地】(わたりのうまや) 所在地;上田市常磐城
 
 
 東山道は、どこかで千曲川を渡らなければならない。曰理駅とはその千曲川を渡ったところにあったからつけられた名である。その「渡り」はどこにあったか。これには古来諸説があったが、「イボ神様」と称する塔心の礎石や瓦塔の発見によって、今の古舟橋の北岸、諏訪部地籍の一帯にあったろうというのが定説となっている。
 
 江戸時代まで、千曲川南方地帯の人々にとって、上田城下町への唯一の入口である渡し場があった。
【千曲川】(千曲川右岸) 所在地;上田市常磐城
 「日理駅跡」(わたりのうまや)、「東山道・保福寺道」の千曲川の渡しは、川に向かい直進した古舟橋の北岸、諏訪部地籍の一帯にあったというのが定説となっている。道路の関係で川上側の道を進み千曲川右岸に出た。頃合いも良く、河川敷に降り昼食を摂ることにした。渡し場跡は、右手川下方向に400m程の地点になる。
【水天宮】(千曲川左岸) 所在地;上田市御所
 
【石久摩神社】(上田原古戦場跡) 所在地;上田市上田原
 
 
 かつて、国道143号南側沿いにあった上田原駅(上田丸子電鉄)の西側(青木方向)にあった小高い段上に「上田原合戦場跡」の木製標柱が有ったことを記憶している。今は土地開発で、どうやら取り除かれてしまったようだ。「上田原合戦場跡」は、国道143号より南側、神畑よりかと記憶していた。ところが実際は真逆の北側に当る。実際に尋ねるのは今回が最初であり驚いている。
 
 「上田原の戦い」(上田原古戦場)は、天文17214日(1548)に信濃国上田原で行われた、甲斐国の戦国大名武田晴信(後の信玄)と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信はこの合戦で重臣と多くの将兵を失った。合戦自体は村上方にも損害が出ているため痛み分けともとれるが、それまで武田家中の中心だった板垣信方、甘利虎泰を同時に失ってしまった戦いであったため事実上の敗北といえる。
 
 「村上義清」(1501-1573)戦国時代の武将。文亀元年生まれ。信濃葛尾城主。北信濃を支配し、天文17年(1548)、19年(1550)の2度にわたり武田信玄の侵攻軍をやぶったが、22年(1553)城を脱出して上杉謙信をたよる。これを契機に5度にわたる川中島の戦いがおこった。元亀411日死去。73歳。
【道祖神・庚申塚・石碑・石仏群】(保福寺道) 所在地;上田市築地
 
 「築地の交差点」の場所は以前より知っていたが、「築地地区」に足を向けたのは初めてである。これより青木方向に500m、築地集落の西外れ近くに立派な「道祖神・庚申塚・石碑・石仏群」があった。
嚮善学校正門】(千曲川左岸) 所在地;上田市小泉
 
 明治12年に、このあたりの四つの学校が合併して小泉村字高田に開校した「嚮善学校」の正門です。文化財をいつまでも引き継ごうという地域の方々の願いで、平成13年に第六中学校内に移築されました。→説明版 
ところで、「嚮善(きょうぜん)学校」って何・・・・「嚮」(きょう)の意味は「さきに、むかう」すなわち「ある方向に向かう」という意味で、すなわち、「善(ぜん)に嚮(むか)ひて教えを受けて身につける学び舎」ということであろうと理解した。
 明治という元号に込められた意味;明治という文字は「明るく治(おさ)まる」と書く。つまり、新しい時代が「明るい国になるように」という願いがこめられている元号。五経の一つ「易経」にある「聖人南面而聴天下、嚮明而治」(せいじん なんめんして てんかをきき、めいにむかひておさむ)、「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」という文章に由来します。「明(メイ)に嚮(むか)ひて治(おさ)む」と訓読され、「明るい方向に向かって治める」という意味です。
【道祖神・庚申塚】(保福寺道) 所在地;上田市小泉
 
 「築地集落」から「小泉集落」へと「保福寺道」を進み、前述の「嚮善学校正門」を左手に道は左に折れる。小泉集落に入って間もない「道祖神・庚申塚」が目に止った。
【高札場跡の手洗石】 所在地;上田市小泉
 
 小泉の高札場は、現在もそのままの形で残されています。前の道は、昔は松本と上田を結ぶ保福寺街道が通っていたそうです。高札場の隅に壊れかけた手洗石があり、これに高遠石工銘が彫られています。→説明版
【道祖神・庚申塚】(保福寺道) 所在地;上田市小泉
 
 保福寺道の「小泉高札場跡」を抜ける通りは「宿場」らしき雰囲気が残り、浦野川に架かる「和合橋」に出る。その手前右岸の空地に「道祖神・庚申塚」があった。此の間、1,100mばかり、浦野川を挟んだ左岸山の手には「小泉大日堂」がある。
 備忘録;本編集時に、「塩田神社」(上田市小泉2336)境内に「河合曽良の句碑」があることを知り得た。曽良が1702年頃献納。「汐飛ぶや岩にこびつく沼の苔」と刻まれている。曽良が芭蕉の「更級紀行」の跡をたどって「姨捨の月」を訪ね、上諏訪の生家への帰途に塩田神社へ立ち寄ったのではないかと伝承。芭蕉は1694年に亡くなっている。また、曽良は1710618日頃、幕府巡見使随員として壱岐(長崎県壱岐市勝本浦)で病没。
【道祖神・庚申塚・石碑・石仏群】(保福寺道より750m外れる) 所在地;上田市下室賀
 
 保福寺道は、「和合橋」(浦野川右岸詰)を渡らず直進する。「道祖神・庚申塚・石碑・石仏群」があることを知っていたので「和合橋」を渡り「県道273号」を山の手側に750m走った右手まで行く。この道は更に3.5km程行くと左折し築北村坂井まで続く、同分岐点を直進する「県道160号」で「室賀峠」を越えると「坂城町」に着く、「坂城町」はかつての豪族「村上氏」の領地。ここ一帯の「室賀」は、同時代の豪族「室賀氏」の領地であった。
※「保福寺道」は「2021.4-5」の2ヶ月の期間に「4回」に分けて探訪した。その紀行文は、「Ⅳ→Ⅰ」へと遡る形でまとめ、「本編」の編集(レイアウト修正)は8月に行っている。この間に、大きく変わっていることがあった。それは、次の「浦野氏館跡」(浦里小学校)、両表示が Google Map から消えていることだ。
【浦野氏館跡】(浦里小学校閉鎖) 所在地;上田市浦野
 
 平安時代末期から浦野郷を支配した浦野氏の居館跡は浦里小学校の敷地となっている。南西には土塁が残り案内板が設置されている。・・・・とのことであった。訪ねた際には、職員らしい方がおられ、詳しい事は分らないのでご自由にご覧くださいとのことで歩き回れるグランド方向を見回り後にした。校内に入らなくても確認出来そうなので、何かの折にでも立ち寄ってみようと思う。
【浦野宿跡】(千曲川左岸) 所在地;上田市浦野
 
 「浦野宿」は、観光としての手が入らない「海野宿」と思えた。むしろ「この程度の面影」の方が「歴史探索」には良いと感じた。→「浦野宿」~「東山道浦野駅跡」までの「保福寺道」(Google Map
 
 「浦野宿」は松本城下と上田城下を結ぶ保福寺街道(松本街道)が開削され街道が整備されると浦野、入馬越、中馬越の集落が集められ宿場町として整備されまた。松本藩の参勤交代ルートは保福寺街道で上田城の城下に入り北国街道(善光寺街道)と合流し追分宿から中山道に入り江戸に向う。松本城の城下から浦野宿の行程が約1日かかり、「浦野宿」を利用するのは参勤交代だけでなく多くの旅人や物資が集まり交通や経済的な中心として宿場は活気に満ちていたと言われていた。
 
 明治時代以降に国道143号線が整備されると次第に宿場町としての機能が薄れた。現在でも街道沿いには古い建物が建ち並び当時の雰囲気を残している。宿場の中心部には「高札場むが残されていて、案内板によると「高札場は藩からのおふれや禁令及び隣の宿場までの人馬賃銭札などを掲げた所で旧幕時代からの明治の初めまで村々の庄屋前や本陣問屋前の道路に面した所におかれた。現在上田小県地方では高札場の保存されている所は少ないので貴重である。」とあります。
 
 
【皇太神宮】 所在地;上田市浦野
 
 馬脊神社は東西に二社が存在し、二社合わせて馬脊神社と称する神社。浦野の集落の中心部あたりに、当社の境外社である皇太神宮が鎮座している。東宮・西宮ともに集落から離れており、東宮・西宮の里宮、遥拝所として機能しているのかもしれない。
 
 
【浦野薬師堂】 所在地;上田市浦野
 
 その昔、「錦沢錦庵」と称し浦野堂平にあったが、明徳元年(1390)の大降雨により崩壊流失ね十二地籍に再建されお薬師さまとして信仰の対象に、その後天保七年(1836)に村内大火災で焼失、等々→散策マップ説明版
 
 「浦野薬師堂」に万葉歌碑があるというので立ち寄ってみた。
 
万葉歌碑 碑文  かの子ろと寝ずやなりなむはだすすき浦野の山に月かたよるも
 歌碑の表(東面)には「訓読」で上記碑文が刻まれ、裏(西面)には「原文」が刻まれている。
 
原文  可能古呂等宿受夜奈里奈牟波太須酒伎宇良野乃夜麻尓都久可多与留母
訓読  かの子ろと寝ずやなりなむはだすすき宇良野の山に月片寄るも
 あの子と共寝することなく終わりそうだ。はだすすきの繁る宇良野の山に月が片向いてきた。(万葉集 第143565番 作者不詳 東歌)
補足  「宇良野の山」は、東山道「浦野宿」の北側の山とされている。
 妻と実家に行く約束の時刻も迫ってきたので「保福寺道」めぐりの続きは改めてということで先を急いだ。
          MP3 悠久の絆