保福寺道Ⅱ (長野県) 歴史の道“令制東山道Ⅰ”
2021.05.002(日) 晴
 「保福寺道」めぐり、第1話は妻を誘っての旅立ちであったが、ここからは単独紀行となる。「皇太神宮」と「浦野薬師堂」「浦野宿」は重複するが、重要な場所ゆえ改めて記述する。→「東山道浦野宿
皇太神宮】 所在地;上田市浦野
 古代東山道沿いにある「皇太神宮」。東山道を往還した人々は先ずこちらにお詣りし、その後、「馬背神社」の東宮と西宮を参詣したのだろう。その昔は4つの神社があった。浦野は「大津の日吉大社」(後述)の社領であり、日吉神社があったが、青木村殿戸へ移ってしまった。日吉神社が浦野の総社であったようだが、総社がなくなり衰退したのであろう。日吉神社の案内標示が国道143号にあり、気になっていたので改めて行ってみよう。
 
 
 日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていた。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。境内大宮橋は日本百名橋に選定されている。 全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。
浦野薬師堂】(東昌寺仁王門跡) 所在地;上田市浦野
 
 
 
 「かの子ろと寝ずやなりなむはだ薄宇良野の山に月片寄るも」(あの子と寝ずに過ぎてしまうのだろうか。宇良野の山にもう月が傾いているなあ。)万葉集 巻14-3565 相聞往来の歌。
 裏に万葉仮名「可能古呂等宿受夜奈里奈牟波太須酒伎宇良野乃夜麻尓都久可多与留母」で刻まれている。
 
 
 
馬背神社】(西之宮) 所在地;上田市浦野
 「馬脊神社」は、東西に二社が存在し二社合わせて馬脊神社と称する。浦野の集落の中心部あたりに、馬脊神社の境外社である皇太神宮が鎮座。皇太神宮から北東へ500mほどに当社東宮があり、皇太神宮から北西へ500mほどに当社西宮がある。東宮・西宮ともに集落から数百m離れており、普段の参拝は、この皇太神宮で行われているのではないだろうか・・・・。
 
 
 
 
浦野宿・浦野氏館跡一望】 所在地;上田市浦野
 「馬背神社」(東宮)は何処、社叢らしき場所は確認出来るも通ずる参道がなく彷徨い歩いた。もしかして廃社になっているかもと諦め車を置いた「皇太神宮」に戻る途中、開けた高台から「浦野宿」(眼下)と「浦野氏館跡」(中央右手)が指呼出来た。
浦野宿】 所在地;上田市浦野
 「浦野宿」は、保福寺街道の宿駅で松本城の城下から丁度1日程度の道中だった事から参勤交代での松本藩主はじめ、多くの旅人や商人が利用した宿場町です。
 
 
 本陣は渡辺家が歴任し、現在でも長屋門や土蔵などの屋敷が見られ、往時の繁栄が窺えます。宿の中心部には枡形の鍵の手となり、高札場が立てられ、案内板によると上田小県地方では高札場の保存されている所は少ないので貴重であるとの事。
 現在も街道沿いにはウダツのあがる町屋建築など古民家が点在し宿場町らしい町並みが残され、名称「旧東山道、浦野宿の家並み」として「上田の景観
80選」に選定されています。
 
 何処も限界集落化が進み、住む人も居なくなった家が年々増え目に付くようになっている。
 
馬背神社】(東之宮) 所在地;上田市浦野
 旅の醍醐味「一期一会」が此処でも・・・・。前述の如く徘徊の末「東之宮」への参道は「高札場」(浦野宿問屋本陣の渡辺家)西側の小路奥であった。それでもと、庭で仕事をしてる方に尋ねると、「土地の人しか知らないような神社を訪ねて写真まで撮って頂きありがとうございます」と丁重なご挨拶をされ、良き出逢いについ話し込んでしまいました。
 
 
 
 参道山道を登り詰めると鳥居があり、境内はびっくりするほど手入れがなされていた。先程お話された方のような人たちがきっと管理されているのだろうと思い納得、清々しい気持ちで自然に合掌、いい旅の始まりだ・・・・。


 
東昌寺】(浦野氏一族の菩提寺) 所在地;上田市浦野
 
 
 
 立派な楼門風の山門に典雅な鐘楼を持つ、森の中に建つ曹洞宗のお寺さん、鎌倉時代からこの地を支配した武将、浦野氏の菩提寺だというが、石垣に支えられた門と境内は、まるで山城(城砦)のような印象で聳え立つ。前回は、落葉する紅葉の時期であったので様子が異なる。
 
 
 
 
 「浦野氏一族の菩提寺」と言うが、その墓地への順路も表示もなく、お寺さんにも尋ね難く広い墓地をくまなく探索するはめになった。それらしく古そうな墓石を一通り撮影、家に戻りネット検索と画像照合、合致画像があった。
村松神社】 所在地;青木村村松
 とても感じの良い「神楽殿」があった。日本の神様は歌舞音曲が大好き。神社で行われるお祭りの時には、巫女舞や雅楽の演奏などが神楽として神様に捧げられる、そのとき舞台となるのが神楽殿。神社によっては夏祭りなどに地域の人たちが神楽殿で踊りや音楽を披露することもある。
 
 
 
村松殿館跡】(村松の宝篋印塔/真田信繁の長姉) 所在地;青木村村松
 村松殿は真田昌幸の長女であり、信幸(信之)と信繁(幸村)の姉であることから著名であるのだが、小山田茂誠の正室であり別居の可能性も無いと思うので本来ならば「小山田茂誠館跡」とするのが妥当であろうか。
 東塔の銘に「善福寺に寄進し奉る田畠の事、右寄進の田地は、浦野荘内村松藤次郎入道在家三分(の)二、田三畝、寄進すること如件、貞治四年(1365)十二月二十日、沙弥朝阿」と記され、浦野荘内に住む法名朝阿という人が田などを善福寺に寄進したことを書いてあるという。本来紙に書く寄進状を宝篋印塔の基檀に陰刻したのは、多分この塔が沙弥朝阿の供養塔であって、生前の善福寺に対する信仰の深さと業績を記したものであろうという。
 
 この銘にある善福寺は祢津氏所領の祢津小田中にあった善福寺とおもわれ、浦野荘の代官が祢津氏一族の浦野氏であることなどから、その中にある村松郷も祢津氏所領に関わる可能性を示唆している。天文十年(1541)に村上・諏訪・武田の連合軍が海野氏を攻めるまでは、塩原・田沢・奈良本は祢津氏の関係所領であったが、以後は村上氏の所領となり塩田にいた村上氏代官の「福沢氏」(実家の先祖に当る)の支配となったとされている。やがて武田氏の支配となるが、武田氏滅亡後は真田氏の所領となり一門の小山田茂誠に与えられたものである。
 
歴史の道東山道】 所在地;青木村奈良本(奈良本神社入口) 今回は此処迄 国道143号まで戻る
 
 右画像は「牧寄遺跡」の表示板であり、左手一段上の耕作地が該当する。→表示板
 表示板の左手に「歴史の道東山道」の標柱があり左手の方角(保福寺峠方向)を示している。Googl Mapによると県道12号線を越えた山際に相染川があり手前左岸沿いに小道があり、それが保福寺道になっている。
 
 
 「歴史の道東山道」は、前右上画像から、当右上画像、そして左大画像、右下画像へと「浦野宿」(上田市浦野)へと続く。
 上右下画像の石仏と民家の間の道で、奥突き当りの民家手前から「歴史の道東山道」遊歩道(下画像)に続く。一旦、県道12号に戻り上田方向へ900m、「歴史の道東山道」の道標を左折し山裾まで進む。この山沿いの農道は、後日Google Map Streetview」で確認するも再訪の必要性はなさそうだ。

 
歴史の道東山道】 所在地;青木村田沢(太子山公園南下)
 
 
 県道12号を青木村役場方向に約900m戻る。左手に入ると「歴史の道東山道」(遊歩道)の標柱がある。
歴史の道東山道】 所在地;青木村田沢(廃寺光明寺跡)
 
 
 「廃寺光明寺跡」、浄土宗系の寺院で明治の廃仏毀釈で廃寺になったようだ。後方高台の跡地に残る「大杉」は、青木村指定天然記念物。
道祖神】 所在地;青木村田沢
 
 「保福寺道」は、青木村役場の前を抜け国道
143号を横切る。その交差点脇に道祖神があった。この少し先から「東山道」は右に分れ県道12号を真ん中に、「保福寺道」は左、「東山道」は、3本で青木村奈良本まで進む。そして、すれ違いもままならない山道1本となり「保福寺峠」へと至る。
 さて、「牧寄遺跡」より峠側に続く「歴史の道東山道」はどうなっているだろうと「Google Map Street view 」で追ってみた。やはり、見ておきたい所が6ヶ所(標柱3ヶ所、寺院1ヶ所、神社2ヶ所)あった。どうしたいの、勿論すぐにでも行きたい。
                       MP3 悠久の絆