保福寺道Ⅲ (長野県) 歴史の道“令制東山道Ⅱ”
2021.05.006(木) 晴
東山道古道入口の碑】(牧寄遺跡) 所在地;青木村奈良本(下奈良本)
 前回の「保福寺道Ⅱ」は、「歴史の道東山道」の「牧寄遺跡」(青木村奈良本)から「青木村役場」へと「上田宿」側に戻った。多くの旅人は「スイッチバック」のような非高率なことはしないだろう。計画的な旅を好む反面、こういった気侭な旅をする自分に時たま飽きれるのである。→青木村文化財マップ
 そもそも、私が訪ねるのは「保福寺道」である。ここで重要な誤りに気付いたのである。「青木村役場」付近から「保福寺道」は県道12号から東側にずれ「浦野川→沓掛川→相染川」(呼名が変るだけ)の左岸沿いに抜ける。一方「古道東山道」(地図上では無表記)は県道12号の西側を抜ける。合流するのは「瀧仙寺」付近である。
 
 
 奈良本は平坦地の下奈良本と山麓の入奈良本からなり、保福寺道が通る宿場町である。また古代官道の東山道も通った歴史の古い街道集落でもある。保福寺峠を挟んで東麓(上田/青木側)の奈良本に対し、西麓(松本側)の宿場町が街道の名にもなった保福寺宿です。
歴史の道東山道】(瀧仙寺に向かう途中2ヶ所) 所在地;青木村奈良本(下奈良本)
 
 
 Google Map Streetview」で「歴史の道東山道」の道しるべをこまなく拾い出し、付近の民家の住所等で見当をつけカーナビを設定する。「旅の未知草」で磨き上げたテクニックである。
瀧仙寺大門跡】(歴史の道東山道) 所在地;青木村奈良本(下奈良本)
 「瀧仙寺」の参道、山門跡に「歴史の道東山道」の標柱があった。その隣に説明板がある。→説明版
 
 角に道祖神が佇んでいる。「歴史の道東山道」の標柱には、その方向に「川原町」との表記があり。編集時に見落としたかと「Google Map Streetview」で確認したところ、【瀧仙寺に向かう途中2ヶ所】の小画像2枚がそれであった。通りそのものに感じる面影はなかった。
歴史の道東山道】(上手町宿周辺) 所在地;青木村奈良本(下奈良本)
 「瀧仙寺大門跡」向かいの滝川橋を渡ると「歴史の道東山道」(上手町宿跡)の標柱がある。「瀧仙寺」に向かう前に目と鼻の先ゆえ観ておいた。
 
 
 
 「上手町宿場跡」宿場機能があったのは麓の下奈良本のようですが、もはや往時を偲ばせる家並みを見つけることは出来ません。(既筆)・・・・この「上手町宿跡」がそうであろう。ゆっくりと車を走らせたが、確かに停車して撮ろうと思えるものは皆無であった。
瀧仙寺】 所在地;青木村奈良本(下奈良本)
 
 
 
 
 起源は古く、七百数十年前にさかのぼる。現在地から少し奥の滝山に寺の前身寺(竜泉寺)があった。火災で焼失したため、現在地に約四百年前に建てられた曹洞宗の寺で、以降一度も火災に遭わなかく当時のままの形で建っている。開基は真田氏の家臣、池田出雲守定信の墓がある。本堂の屋根に家紋「三ッ蝶」が付いている。
 ここ瀧仙寺にも、史跡「義民増田興兵衛の墓」がある。青木村は義民の里というのがキャッチフレーズ、何で義民の里かというと、上田藩の領地であったこの村は、藩政時代五回も農民一揆の起こったところだそうだ。
瀧仙寺】(瀧仙寺からの遠景) 所在地;青木村奈良本(下奈良本)
 
 「瀧仙寺」から見下ろす集落の山の手に、日本秘湯を守る会の看板が立つ「沓掛温泉」がある。「歴史の道東山道」の探索を終え帰路に立ち寄ってみた。
割り込み画像】(沓掛温泉) 所在地;青木村沓掛
 
 
 左画像は、沓掛温泉街。旅館2件の小さな温泉地。平安時代、国司の滋野親王が目を患い入浴したところ完治したので、薬師堂を建立し温泉守護神を崇めて開湯されたという歴史ある温泉。地名の旧称から「浦野の湯」と呼ばれた時代もあり、文化七年(1810)「旅行用心集諸国温泉292ヶ所」にも記載されるほど昔は湯治客で大変賑わい、近隣の温泉地をはるかにしのいだと伝えられている。
 右画像上方の集落に向かう道が県道
12号、その先に見える若葉いろの高台に瀧仙寺がある。相染川のに架かる橋より左半分に見える道が保福寺道で通行止の標識がある。
上野坂上り口】 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 
 
 青木村奈良本は、里の下奈良本と山麓の入奈良本に区域が分けられている。地図では表示されていないので大まかに分けてみた。かすかに古感が感じられるのは入奈良本である。「歴史の道東山道」の標柱があり「上野坂上り口」と記されている。
厄除観音】 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 青木村一帯は、その昔信濃16牧のひとつであったところから、馬を祀る信仰が盛んでした。
 
 この標柱に「右 権現堂の湧井」とあり、「道細く車行き難そう」なので取り止めた。編集時に確認(GoogleMap)すると、徒歩350m先の道路右下にこんこんと湧き出る「湧井」があった。
 
 
市之沢宿跡】(東之宮) 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 「市之沢宿跡」と記されているが、この通りには往時の面影みなく先を急いだ。
恋渡神社】(参道入口の鳥居) 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 
 
 この鳥居から「恋渡神社」までの参道石段を登っても良いが、先に「市之沢集落」に立ち寄るため車で行くことにした。
市之沢集落】 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 
 
 
浦野宿遠景】(義民を祀った新七稲荷勇吉宮よりの眺望) 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 中央に見える「浦野宿」(令制東山道浦野駅)、指呼する古の旅人たちは何を考え何を思っていたのであろう。
 
恋渡神社】 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 
 
恋渡神社周辺集落】 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 
 
 
 宿場機能があったのは麓の下奈良本のようです。辛うじて家並みや集落が残るのが、保福寺峠へ向かう山麓の入奈良本の市之沢集落です。市之沢は幕末にこの集落を宿場町として整備しようとした庄屋と対立した村民が一揆を起こした事で知られています。入奈良本・市之沢は、明治まで峠を越える人馬で賑わったと言われています。
歴史の道東山道】(入奈良本出口付近) 所在地;青木村奈良本(入奈良本)
 ここから保福寺峠頂まで8km、推察通行止地点まで4.1km、峠頂から「津嶋神社」(松本市保福寺町)まで8km。両峠口間は16km、これ程ではないが簡易舗装はされているようだが、道幅は良くてこの通り。
 通行止区間を「
Google Map Streetview」で確認したところ両路肩部は土砂の流出・草生して狭くなり避け違い部はあるもののどちらか一方の後退は免れない。通行量が少ない(稀)県道12号ゆえ、災害復旧工事の緊急性は低く日数がかかるのは止む無いことかと・・・・。「保福寺峠越え」の計画は、無期延期ということになろう。
 
令制東山道浦野駅跡】(推定) 所在地;青木村当郷
 
 
 平安時代に編さんされた「延喜式」に、左右馬寮が所管で、皇室の用馬を放っている牧場名が記されています。「御牧」とよばれて信濃と東国3ケ国に32牧が設けられていました。早く開かれたのは信濃で、時期は8世紀後半、恵美押勝の乱直後にあたっています。信濃の御牧数は16と他の3国に比べて桁違いに多く、この頃、信濃は馬産地として有名でした。1牧は100疋くらいと規模は小さかった模様で、そのことは牧場の始まりのさかのぼることを意味しています。おそらく、6世紀頃から開かれた在地豪族の私牧で、それが8世紀末になって御牧にして接収されたということでしょう。大室牧・高井牧(高井郡)、笠原牧・平井手牧・宮処牧(伊那郡)、新張(新治)牧(小県郡)、塩原牧・岡屋牧・山鹿牧(諏訪郡)、望月牧・長倉牧・塩野牧(佐久郡)、埴原牧・大野牧(筑摩郡)、猪鹿牧(安曇郡)、萩倉牧。毎月4月に都に献上する貢馬は信濃国全体で80疋と指定されていた。→説明版
 
日吉神社】(県宝) 所在地;青木村殿戸
 古代東山道沿いにある「皇太神宮」。東山道を往還した人々は先ずこちらにお詣りし、その後、「馬背神社」の東宮と西宮を参詣したのだろう。その昔は4つの神社があった。浦野は大津の日吉大社の社領であり、日吉神社があったが、青木村殿戸へ移ってしまった。日吉神社が浦野の総社であったようだが、総社がなくなり衰退したのであろう。(5/2保福寺道Ⅱ記事の「日吉神社」である)
 
 
 
周辺の敷地は平安時代より浦野荘とよばる日吉大社(滋賀県大津市)の社領だったことから祭神である大山咋命の分霊を勧請したものと推定されています。当初は大法寺近くの山王平に鎮座していましたが、後年現在地に遷座され、以来、浦野地区の総鎮守として崇敬され現在に至っています。現在の日吉神社本殿は室町時代中期に再建されたと推定される建物で五間社流造、見世棚造、こけら葺き、外壁は素木板張り、正面5間向拝付き、神社本殿建築としては長野県内では最大級で、平成2年(1990)に長野県の県宝に指定されています。
                       MP3 悠久の絆