保福寺道Ⅳ (長野県) 岡田宿→保福寺宿
2021.05.15(土) 晴
 保福寺道は、上田宿(上田市常磐城)から岡田宿(松本市岡田町)までの約33kmの街道です。概ね昔の令制東山道の道筋と重なります。上田からは松本道・保福寺道、松本からは上田道とも呼ばれています。4/26・5/2・5/6そして今回、約33kmを徒歩でもないのに4日もかかる長旅もいよいよ大団円を迎えます。
【岡田神社旧参道】 所在地;松本市岡田町
 
 県道284号(惣社岡田線)に「岡田神社旧参道」の大鳥居がある。「岡田宿」の南端に位置する。ここを起点に「保福寺宿」へと「保福寺道」を辿る。ちなみに「岡田宿跡」まで700m、岡田口番所跡」まで更に250mある。
【地蔵菩薩】 所在地;松本市岡田町
 
 500m進んだ左手に「地蔵菩薩」があった。「岡田宿」の南口(岡田宿跡南200m)に享保六年(1721)/八代将軍吉宗公の時代、善光寺参り等の通行人の安全祈願に安置された。説明版
【岡田宿跡】(幕府役人御用達の小宿) 所在地;松本市岡田町
 
 江戸方面(上田宿から保福寺道で)から松本城下へ入る直前の宿として重視された。一説では、上方方面からの大名や松代藩真田候などは、松本宿でなく岡田宿の滞在を好んだと伝えられる。18世紀初頭頃から松本城下から武石道を使って芦田・長窪両宿へ運搬する事が盛んになり岡田宿を通過する荷物が減少し衰退をたどる。
【岡田口番所跡】(口留番所跡) 所在地;松本市岡田町
 
 
 「口番所跡」右から後方へ通る道が「江戸道」(保福寺道)で次は稲倉峠を越え「保福寺宿」、手前右から左への道が「善光寺道」で次は刈谷原峠を越え「刈谷原宿」へと共に峠越えを控え、水野忠職公(江戸前期、信濃国松本藩代2代藩主)が「あらざりし宿場」(往古馬次宿にあらず)と言いつつ設けた宿場である。
 
 
 城下町には外敵の侵入に備えて城や町の見通しを悪くし、攻防を有利にするために「枡形」が設けられていた。岡田口番所の南隣り(黄色矢印)に宿場の見通しを悪くするために「枡形」が設けられ今なお残っている。
 「道標」がある。「右 江戸海道」「左 せんく王うし道」と記されている。これは、江戸海(街)道(保福寺道)と北国脇往遷(善光寺道)との分岐点の道標である。江戸海(街)道は、稲倉(しなくら)峠・保福寺(ほうふくじ)峠を越え、北国街道・中山道を通り江戸に至る街道である。一方「北国脇往遷」は、洗馬宿から岡田・麻績などの宿場を通り北国街道・善光寺に通じる街道である。
【稲倉東の道祖神】(稲倉;しなくら) 所在地;松本市稲倉
 
 「稲倉」(しなくら)地区は、国道254号三才山トンネルを越え松本に行く時には必ず通る最初の集落である。今回、初めて山添の集落に足を踏み入れた。後述する「稲倉峠口の道標」の「右 みさやま」集落外れの道祖神ということになる。「保福寺道」から「稲倉」集落に入るのではなく、通過して「みさやま」口から戻るルートで「稲倉峠口道標」に向かう。ナビ設定の条件により、「稲倉東の道祖神」「水口神社」は非対象地であった。
【水口神社】 所在地;松本市稲倉
 
 稲倉と岡田方面の開発のため、女鳥羽川から揚水する大口堰(岡田堰)の堰口に建てられた女鳥羽川を祭る水神、平安時代の延喜式にのる岡田神社はこの社。明治44年御射神社秋宮に号社され遥拝所となる。稲倉学校が一時設置される。
【稲倉峠口道標】 所在地;松本市稲倉
 「稲倉峠口道標」から「稲倉峠」(標高1009m)を越え、保福寺町側の「白張神社」までは、Google Mapでは道があるものの、峠の両側は廃道になっていることがネット検索で判明、知る人の案内で徒歩で抜けるなら峠越えは可能であろう。従って国道143号で迂回することになる。ちなみに、徒歩で行くとしたら標高差で上り254m、下り233m、道のりは6.1kmになる。
 
 「稲倉峠口の道標」は、江戸時代の道標で「左 江戸道、右 みさやま」と刻まれている。江戸道は峠を越えて保福寺町を経て上田に出た。昭和30年代まで錦部の人々の大事な生活路であった。一方、みさやま峠を越えて鹿教湯へ出る道も重要な道であつた。→説明画像
【上道の石造物群】(増沢助右エ門筆塚) 所在地;松本市稲倉
 
 「稲倉峠口道標」より「保福寺道」を、「岡田宿」方向に350m戻ると右側に「上道の石造物群」なるものがあった。「稲倉峠」が通れなく国道143号で迂回して保福寺町へと向う際に目に付いたものである。→説明版
【稲倉峠保福寺口】(白張神社界隈の探索) 所在地;松本市七嵐
 
 
 ナビを「白張神社」に設定し鵜飼いする。「錦部郵便局」先の車1台やっと通れる細い道へと右折誘導する。最初の立ち寄り地点の「道祖神」に付くも、停車スペースもターンも間々ならない。止む無く「郵便局」まで退散。
 郵便局前の道路脇スペースに駐車し、「道祖神」から「白張神社」へ徒歩で向かう。「予定の探索」(県道R181号保福寺道消滅地点-赤怒田-竹川不動尊-白張神社)。矢印「実際の探索」(錦部郵便局スタート)
 
 
 「白張神社」がない、この編集時に初めて迷ったことに気付く。その時は、単に疲れたので引き返したまで、往路850m34分。
 
 
 
 帰路は途中(6番画像)より左折し「錦部小学校」(2013.3に四賀小学校に統合し廃校になる)を目指す。復路1200m、約16分。全2050m50分。徒歩に切り替え、迷った6番画像を左折すべきであった)こともあり長時間なるも楽しい探索だった。
【道祖神・二十三夜塔・庚申塔】 所在地;松本市七嵐
 
 
 「保福寺道」から外れるが「七嵐」地区に「道祖神・二十三夜塔・庚申塔」が有るので立ち寄ってみた。
【常光寺】 所在地;松本市保福寺町
 
 
 
 「保福寺宿」の入口付近に「常光寺」があるので立ち寄ってみた。保福寺川に段差があり滝になっている。藤の花が綺麗なので眺める。県道181号(保福寺道)の路肩に車を停めたので、その地点から「保福寺宿」(350m)を歩いて探索することにした。
【保福寺宿】(信州最古の峠口) 所在地;松本市保福寺町
 「保福寺宿」は、松本からの「保福寺道」最後の宿場で「信州最古の峠口」、明治27年(1894)の大火で殆どが消滅するも、街の造り等の面影は残っている。日本史を紐解けば、日清戦争が始まった年にあたる。
 保福寺峠は明治時代末期まで盛んに利用され、東北信と中南信を結ぶ信州の交通の重要な箇所であった。保福寺峠を挟んだ地域は、峠を通る人々の宿場町として栄えたといわれ、松本藩主も参勤交代の際にこの峠を越え、江戸に向かったようです。明治時代になると、長野県による「七道開削工事」の候補の一つとして保福寺峠を通るルートが提案されました。しかし結局青木峠を通るルート(現在の国道
143号)に決定し、保福寺峠は衰退の一途をたどる。
 
 
 現在は県道181号(下奈良本豊科線)として使用され、松本建設事務所では安全な通行のため道路を拡げる工事などを行っている。峠頂には、「ウォルター・ウェストン日本アルプス絶賛の地」という石碑が建ち、保福寺峠から見た日本アルプスを絶賛した場所で知られています。一方、古道東山道の峠でもあり、「信濃道は今の墾道刈株に足踏ましむな履著けわが夫」(万葉集巻十四東歌)の歌碑も建てられている。
 
 
 大画像を撮影した場所が「保福寺宿本陣跡」の駐車場、宿場通りの探索を終え車で戻り館内に入ったので、関連画像はひとまとめにして後述掲載する。
 
 
 突き当りの左側に火の見櫓が見える。通りは左に直角に曲がる「枡形」が設けられている。その先右手に「保福寺町番所跡」がある。ここで「保福寺宿」は終わり、車を停めた宿場通りの入口まで戻ることにした。往復700m、今回の放っ記歩きは本当に歩き回る。1年以上も続くコロナ過の自粛で足腰の筋肉の衰えを思い知らされた。
 
 
 
 
【保福寺宿本陣跡】(小沢家→Satoyama villa 本陣) 所在地;松本市保福寺町
 本陣小沢家は江戸街道(保福寺道)の旧保福寺宿のほぼ真ん中にあり、参勤交代の⾏き帰りに殿様の休憩に使われていた。その頃の建物は明治41年に全焼したが、大正2年に昔通り復元したものが現在に残る。宿泊・飲食施設運営を行う扉グループは、アグリツーリズム四賀推進協議会によって改修された歴史的建造物を利用し、殿様も休憩したお屋敷を新たな民泊施設として「Satoyama villa 本陣」の運営を20209月に営業開始。
 
 
 ダイニングとラウンジは宿泊者専用時間帯以外は一般の方も予約制で利用できる。暑い中「放っつ記歩き」で喉も乾いたのでアイスコーヒーを飲み、しばしのタイムスリップ、決してお殿様とは言わないまでも・・・・。
 
 
 お殿様が実際に休息した奥座敷、家来と会議をしたと伝承される部屋、吹き抜けの大空間に架けられた渡り廊下がある部屋が客室となり、かつてこの家で使用されていた囲炉裏が残るダイニングエリアがある。昭和初期に建てられた総檜造りの離れでは現存するステンドグラス細工をそのまま生かした大正ロマンの空間にアンティークの家具を配したラウンジで、螺旋階段の2階には客室がある。
【保福寺町番所跡】 所在地;松本市保福寺町
 
 保福寺番所は当初、峠に近い場所にあったが慶長十八年(1613)に現在の碑のある場所に移され、以後明治の最初まで建物が残っていたが、その後失火により焼失してしまったという。特筆されるのは番所の役人を代々務めてきた小笠原家の家臣だった小沢氏の屋敷(本陣)が残っている事であろう。
 石碑左後方の山に掻揚城跡がある。会田・刈谷原は善光寺街道の宿場として、保福寺は江戸街道の宿場として栄えていた。保福寺峠を越えれば上田・小県地方に出られることから、戦国時代にも重要な街道として使用されていたようである。その峠の入口にあるのが掻場城で、文亀
2年(1502)小笠原長棟の築城。刈谷原城の出城であったが、天文二二年(1553)に武田信玄が攻略した。
【保福寺】(山中高所の寺院) 所在地;松本市保福寺町
 鎌倉時代の草創当時は臨済宗の寺、世変により荒廃し文亀2年(1502)に小笠原氏の菩提寺・廣澤寺五世和尚により復興開山、曹洞宗に改修された。
 
 
 
 
 
 平安時代の天台宗・真言宗の寺院は山中に建立されることが一般的であったと見られ、奈良時代末期から畿内(京都に近い、山城・大和・河内・和泉・摂津の五か国)に登場し始めたが、平安時代に入ると地方にも広がっていった。こうした山中の寺は、後世に山腹・山麓に下りて造り直されたものが多く、保福寺もそうした伝承を持つ。

 
【津嶋神社】 所在地;松本市保福寺町
 保福寺宿を抜け保福寺峠へと上り始める地点に「津嶋神社」があったので立ち寄ってみた。→説明画像
 
 参道を徒歩で行かず、車で「保福寺道」の様子を見ようと向かう。次の「保福寺町外れ」の分岐点を左折する。急に道幅が狭くなり通行止が解除しても峠越えをするか考えものだ。
【保福寺町外れ】 所在地;松本市保福寺町
 「保福寺道」は、県道181号で保福寺峠へと左折して上って行く、通行止の表示板が建てられている。「旧保福寺道」は直進し、550m先で消滅している。保福寺川に沿って山道が残っているかも知れないが確認はとれない。まして、「古の東山道」ともなれば跡形もなさそうだ。
【保福寺道の消滅地点】 所在地;松本市赤怒田
 「Google Map」を見ていると気になる地点がある。気になったら、とことん調べる性分なので帰路にもう「ひと探索」といこう。→徒歩コースで多分、「消えた保福寺道」であろうと想像してみた。
 
 県道18号の路肩に車を停め、保福寺川に架かる「なかきどばし」を渡り左に90°曲がる地点(90m)まで行ってみた。そこには、「馬頭観世音」を真ん中にした石塔が並んでいた。時刻を確認すると1520分、さぁ帰ろうと車に戻り、青木峠経由の予定であったが広い道が恋しくなり三才山トンネル越えで来た道を引き返すことにした。
 通行止の解除も1年後、「保福寺道」探索もひとまず完了ということで良かろう。本日の「旧保福寺道」との分岐点から「保福寺峠」まで8.0km、その先は前回の「青木村奈良本」の引き返し地点までだと15.6kmと細道が続く、この区間の「ウェストン碑」と「万葉歌碑」は見ておきたい気持ちも捨てがたい。
          MP3 悠久の絆