庄内補遺 (山形県) 最上川流域を訪ね
2021.07.016(金) 晴
【道の駅あつみ】 所在地;山形県鶴岡市
 
 酒田市の日出時刻4:27、ノンストップの無休憩ドライブ「道の駅あつみ」到着は4:20/351km、日本海沿岸での日出は山側、ほぼ日出時刻であるが日出画像は望めない。磯に設けられている遊歩道で夜明けの日本海を眺め、車に戻り妻が持たせてくれた朝食を摂り35分間の休憩をとる。
 この日の午後は、
2回目のコロナワクチン接種、安静にと看護師さんから言われたが、そうもいかないので仮眠後23時前に家を出た。副反応が出なければ良いが・・・・
【留悼庵島】(留悼庵島灯標) 所在地;山形県鶴岡市
 「道の駅あつみ」より国道7号を北上すること14km余り、「堅苔沢」地区に「留悼庵島灯標」(航路標識)が岩礁の上に建っている。休憩して間もないが路肩に駐車スペースがあったので撮影停車をした。
【荒倉神社】(竹の浦口石鳥居)「蜂子皇子;八乙女伝説を訪ね」の補遺 所在地;山形県鶴岡市西目丁
 
 「竹の浦」に「荒倉神社」の石鳥居があることを知ったので立ち寄ってみた。「里の宮」があると思い探してみたが見当たらず。多分、宮司さんのお宅が社務所としてあるのであろうと思う。早朝故、尋ねるのも失礼なので山際まで集落を歩く、古い家が立ち並ぶも撮影も控え先を急ぐ。→説明板
   蜂子皇子が修行を続けていたある朝、由良のはるか東にある聖なる山から清らかな光が立ち上っているのを見た。蜂子皇子は由良の北東にあり、聖なる山を望むことができる荒倉山(荒倉山・荒倉神社)に登り、聖なる山に無事到着できるように祈願した。その当時、庄内平野は大きな湖になっており、蜂子皇子はその湖の周りを歩いて山に向かうしかないのかと歩いていたところ、荒倉山の麓にある「竹ノ浦」(荒蔵神社竹の浦口にある石鳥居)という村にたどり着いた。
 そこに住む漁師に対岸まで連れて行ってくれるかとお願いしたところ、漁師は快く蜂子皇子の依頼を受けてくれたので湖を渡ることができた。
 実は、6km強手前の国道7号左手(三瀬宮ノ前)付近に、「八乙女浦」の後方崖の上に「八乎止女神社」の鳥居があるので立ち寄ってみたいと常々思っていたが、早朝であり人気もない不気味な場所なので、今回も左目に通過した。眼下に「蜂子皇子上陸の地」(岩礁)が見えるかと思う。
【庄内富士】(6時前の鳥海山眺望) 所在地;県道38号(酒田鶴岡線)「善寶寺」通過辺り
【旧赤川跡】(灌漑用水路) 所在地;山形県酒田市
 車で行ける「最上川」(京田川)まで800m地点の「旧赤川跡」(灌漑用水路)より「最上川河口部」を眺める。
 
 長山邸に滞在した松尾芭蕉は、屋敷近くにある内川・大泉橋のたもとにある船着き場から川船に乗り、内川・赤川・最上川と下り酒田に赴いたと言われています。
 「赤川」は、大正時代までは海岸に沿って北へ流れ最上川に合流していた。合流付近で頻発する洪水に対し、黒森山という山を掘り割って庄内砂丘を横切り、日本海に直接放流する新水路の開削に着手し、昭和
27月(1927)赤川新川が完成した。旧河川流域は埋め立てられ水田や住宅地に再開発されている。
【奥井三所神社】 所在地;山形県酒田市
 旧赤川が完全に締め切られたのは昭和18年(1952)、その赤川河床は田畑や住宅地として利用されている。今でも往時の赤川流路跡を所々に忍ぶことができる。この記事を信じ、「旧赤川」沿いにある神社を中心に、例の如く「Google Map Street view」で「道祖神・庚申塚・石碑群」を探索したところ、「奥井三所神社」に的を絞ることが出来た。
 
 左端は「堤防落成紀念碑」(右画像)、その右隣り「治水之碑」(下左画像)と読める。
 
 
 榊田清兵衛(さかきだせいべい)という人は、秋田県に住んでいた政治家で、赤川の治水工事を行った代表的な人物です。昔、最上川に合流していた赤川は、大雨のたびに水害をおこしていました。そこで、田んぼをつぶして赤川の川幅を広げようという計画が考えられました。清兵衛は仕事で庄内に来たときに、「農家の人は田んぼをなくしては困ります」という話しを聞いて、田んぼをつぶすかわりに砂丘をほって、最上川と赤川を切りはなす治水工事を政府に願い出て、新しい川の流れをつくる工事がはじまりました。
【旧赤川跡】(灌漑用水取水口) 所在地;山形県酒田市
 
 「新赤川」架る「赤川橋」の右岸上流450m地点に「灌漑用水取水口」がある。「赤川橋」袂の空地に車を停め徒歩で行って見た。必要に応じポンプで汲み上げているようた。車に戻り、「赤川橋」の中央部か取水口ならびに河口方向を眺める。折角なので、この後「河口」まで行ってみた。
 
【新赤川河口】(庄内砂丘) 所在地;山形県酒田市
 右岸に沿って河口まで行ける砂利道が有った。河口付近には釣り人の車が10台余り止っていた。海岸は「庄内砂丘」と言うらしい。オブジェになりそうな小さな流木を5本ほど持ち帰った。
 
【善寶寺】(龍王尊祈祷道場) 所在地;山形県鶴岡市
 県道38号(酒田鶴岡線)を「Google Map Street view」で流していたら、壮大な寺院が目の前に・・・・不特定な「寺社めぐり」として立ち寄るのも良かろうと行程表に繰り入れた。→境内案内板
 
 「善寶寺」縁起;平安時代中期の天台宗の僧、善寳寺開基龍華妙達上人は、出羽国(現在の山形県)の庄内平野の南の山に天暦五年(951)の秋、龍華寺という草庵を開き、もっぱら「法華経」を読誦していたと伝えられる。天暦九年(955)に五穀断ちをして、入定修行に入り、七日後にこの世に蘇ったといわれている。
 
 
 峨山禅師より七代後の善寳寺開山太年浄椿禅師は文安三年(1447)龍華寺を復興して伽藍建立をはたし、龍澤山と号し、善寳寺と改められた。その受戒会に再度、龍神様が現れ戒脈伝授を願う。この寺は、海の守護神・龍神の寺として全国的に知られており、四季を問わず多くの参拝者が訪れます。
 
【宝昌院】(芭蕉句碑) 所在地;山形県鶴岡市
 
 
めつらしや山を出羽の初なすひ
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄2610日、「出羽三山」参詣を終え「鶴岡」に出て鶴岡藩士「長山重行邸」へ。ご馳走になった珍しい長茄子を褒めることで挨拶吟とした。
【照光寺】(月山の八方七口の一つ川代口) 所在地;山形県鶴岡市
 照光寺の創建は元正天皇の御代である養老2年(718)、出羽三山を開いたとされる蜂子皇子(能除太子:崇峻天皇の第3皇子)が鎮護国家の祈願所として開山したのが始まりとされる。その際、蜂子皇子は酒田湊に流れ着いた霊木の本木から照光寺の本尊、中木から薬王山東光寺(酒田市飛鳥)の本尊、末木から羽黒山の本尊を彫刻しそれぞれ安置し庄内三大権現と称されました。出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)・七五三掛口(注連寺口)・大網口・岩根沢口・肘折口・大井沢口・本道寺口・川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は平成9年(1997)まで女人禁制であった。別当寺は、女人参詣所という役割もあった。なお、八口のうち「川代口」は江戸時代初期に廃された。
雷電神社】 所在地;山形県鶴岡市
 
 古くから雷電神社と神仏習合し羽黒山修験の支配下として寺運も隆盛し往時は高寺十三坊と称されていました。「雷電神社」は、旧羽黒町の川代口から西補陀落(雨告山)を経て湯殿山へ通ずる登拝道の出発点である。明治時代初頭に発令された神仏分離令により雷電神社とは離れ仏像や仏具などが照光寺に移されています。
【長圓坊・長傳坊・三山大愛教会】(天宥追悼文) 所在地;山形県鶴岡市
 「手向宿坊街」は、幾度となく訪れている。つい最近になって「天宥追悼文」(芭蕉)が句碑裏面に刻まれていることを知った。これを撮るのが、今回の最大の目的である。
 
 
其玉や羽黒にかへす法の月
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「羽黒山」での作。伊豆大島に流罪となり果てた羽黒山第50代別当「天宥法院」を偲んで詠んだ追悼句。
 
 「天宥追悼文」(芭蕉真蹟懐紙)の最後に「其玉や羽黒にかへす法の月」と刻まれている。
なお、羽黒山第
50代別当天宥法院は、政治力ならびない傑物で、羽黒山中興の祖であったが、庄内藩との抗争に巻き込まれ、酒田家の讒言によって 寛文8年(1668)伊豆大島に流罪となり、延宝2年(1674)彼の地で果てた。天宥法印の墓の近くに句碑があり、碑文は芭蕉翁自筆のものと伝えれている。
 
涼風やほのミか月の羽黒山    芭蕉
雲の峯いくつ崩れて月の山    芭蕉
かたられぬゆどのにぬらす袂かな 曾良
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「羽黒山」を詠む。「涼しさや」ではなく「涼風や」になっている。「涼しさや」の初案が刻まれている
 
【大進坊】(三山句碑模写) 所在地;山形県鶴岡市
凉しさやほの三日月の羽黒山   
加多羅禮努湯登廼仁奴良當毛東迦那

雲の峯いくつくつれて月の山
   
「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「涼しさや」「雲の峰」「語られぬ」の三句を刻んだもので「三山句碑」という。月山旧登山道(野口道)にあった三山句碑(羽黒山頂に移設)の模写。
 
 庭には東北最大と言われる芭蕉の句碑(向って右側)や神仏混淆時代の羽黒山の本地仏「聖観世音菩薩」(向って左側)が建立されている。
→羽黒山は、蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も低く村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれます。
【手向宿坊街】(羽黒町) 所在地;山形県鶴岡市
 宿坊街を提灯で照らす「光の道(提灯ロード)」、提灯は出羽三山神社の花祭りや八朔祭、松例祭などの行事や、大型連休、お盆の時期などに設置される。(幾度となく訪ねているが、初めて気づいた。)
【歴史の道】(180m) 所在地;山形県鶴岡市
 
 関川から狩川・添津・山崎・三ヶ沢・添川と登って来た羽黒参道、今やその面影も消え、ここ「前山の赤坂」に昔の道が180mほど残っている。元禄二年、曾良と共に羽黒山に登った芭蕉もこの道を通ったであろう。

 「街道一の難所」と言われたというが「ほぼ平坦地」に見える。「道祖神・庚申塚等が並ぶ開けた場所は「鶴岡市藤島農村環境改善センター」(添川)である。
 町村合併30周年の記念として整備(1984.9)された「歴史の道」は現在を表すものばかり。期待はしないまでも・・・・儚い想いを寄せ暑い最中に探索。期待ほどの歴史を感じさせない。→説明板
【白狐山光星寺】 所在地;山形県庄内町
 庄内三十三観音(庄内札所三十三観音霊場第六番)の一つであり、全国から多くの人が巡礼に訪れる寺院。貞観三年(861)に羽黒山に留まっていた住宝僧正が白狐に導かれて開山と伝承。庄内町では唯一の神仏習合の寺。
【西光寺】(注連寺鉄門海上人開創) 所在地;山形県庄内町
 東北山形には「三つの十三仏霊場」(山形十三仏霊場・出羽路十三仏霊場・出羽の国十三仏霊場)があります。残念ながら、殆どの方はその存在を知らないでしょう。最上霊場の第一番である天童市の若松観音(観音菩薩)、あじさい寺で有名な山形市の良向寺(文殊菩薩)、即身仏で有名な酒田市の海向寺(大日如来)等と県内有数の寺院が霊場となっている。その「出羽の国十三仏霊場」第9番が当寺「西光寺」(勢至菩薩)であり「鉄門海上人開創・眼病祈願」となっています。死後に即身仏にされた一世行人は極めて少なかった。死んだ一世行人の大部分は即身仏にされず菩提寺で僧侶が標準的な葬式を行った。
 
【塔婆坂】(芭蕉翁五月雨塚) 所在地;山形県酒田市
五月雨を集めて早し最上川
 「おくのほそ道」(最上川)元禄2528-29日、「大石田」での作。右は「巴陵碑」(宝暦頃の俳人)で、「世に遊ぶ石の齢の幾秋ぞ」。「巴陵」は宝暦頃の俳人。左は、「三世雪中庵蓼太敬白、安永六年四月十二日」、造立を賀して「さみだれやあつめて爰に塚ひとつ」蓼太。大島蓼太は江戸中期の俳人。信濃国伊那郡大島の人。名は陽喬、通称平助・また平八、別号として雪中庵・老鶯巣・空摩など。御用縫物師。23歳のとき桜井吏登(服部嵐雪門、,雪中庵2世)に入門。その後剃髪し、奥羽・上方などを行脚、延享4年(174730歳にして雪中庵を継承し3世となる。芭蕉の顕彰・注釈事業にも功があった。
 
【芭蕉上陸之地】(最上川水駅/清川関所跡) 所在地;上田市常磐城
 松尾芭蕉上陸の地である清川は、出羽三山へと至る「いのりの道」のスタート地点であり、ここから上陸した人々は出羽三山へと旅を続けました。羽黒の山のにぎわいは、そのままかつての清川のにぎわいでもあったと伝えられています。そして江戸時代には交通の要所であるこの地に関所がありました。
 
五月雨を集めて早し最上川
 「おくのほそ道」(最上川)元禄2528-29日、「大石田」での作。句碑は新庄市の「芭蕉乗船の地」にもある。芭蕉と曾良は、元禄二年六月三日(1689)に、この地に上陸し狩川を通って羽黒に向かいました。
 
 関川から狩川・添津・山崎・三ヶ沢・添川と登って行く羽黒参道、真逆の順で辿ってきました。「旅の未知草」は、更に「大石田」まで遡ります。
【白糸の滝】(最上川) 所在地;山形県戸沢村
 
 芭蕉は「白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水漲つて舟あやふし。」と「おくのほそ道」に記している。
 小説「最上川一夜観音」は、昭和399月、中村孝太郎(山形市)の山形新聞文学賞作品である。→説明板
【芭蕉乗船の地・八向楯】(本合海) 所在地;山形県信新庄市
五月雨を集めて早し最上川
 「おくのほそ道」(最上川)元禄2528-29日、「大石田」での作。説明板
【澁谷風流亭跡】 所在地;山形県新庄市
 元禄261日、大石田を出た芭蕉と曾良は,猿羽根峠を越えて鳥越の一里塚、柳の清水を経て、尾花沢で知り合いとなった豪商の渋谷風流(甚兵衛)宅に着きました。当時の新庄藩は二代藩主戸沢正誠の代で、この頃までに初代藩主政盛から継承した藩政の諸策が整い、城下は財政、文化両面において全盛の時代を迎えていた。
 風流宅に着いた芭蕉は、そこで三つ物の発句「水の奥氷室尋る柳哉」を詠みました。折りしも、旧暦61日は、暑気払いや夏の厄除けをした「氷室の節句」に当たっていたので、「氷室」という言葉を入れ、風流への接待に感謝の気持ちを表したものです。

 「水の奥氷室尋る柳哉」翁(松尾芭蕉)
 「ひるがほかゝる橋のふせ芝」風流(渋谷甚兵衛)
 「風渡る的の變矢に鳩鳴て」ソラ(河合曾良)
  芭蕉遺構 風流亭跡
 翌日、芭蕉主従は、風流の兄(本家)盛信宅に招かれ、ここでも「風の香も南に近し最上川」という三つ物の発句を詠みました。またそこで、地元の俳人たちと、風流の発句「御尋に」で始まる歌仙を巻きました。
 
 「風の香も南に近し最上川」翁
 「小家の軒を洗ふ夕立」柳風
 「物もなく麓は霧に埋て」木端
 「御尋に我宿せばし破れ蚊や」風流(渋谷甚兵衛)
 「はじめてかほる風の薫物」芭蕉(松尾芭蕉)
 「菊作り鍬に薄を折添て」孤松(加藤四良兵衛)
 「霧立かくす虹のもとすゑ」ソラ(河合曾良)
 「そゞろ成月に二里隔けり」柳風(澁谷仁兵衛)
 「馬市くれて駒むかへせん」筆
 「すゝけたる父が弓矢をとり傅」芭蕉(松尾芭蕉)
  芭蕉遺構 盛信邸跡
【新庄市民プラザ】(芭蕉句碑) 所在地;山形県新庄市
 
風の香も南に近し最上川
 「おくのほそ道」(最上川)元禄261日、「大石田から羽黒山」道中(新庄)の「盛信亭」で盛信へ「薫風は南より至る」(白楽天の詩)を引用した挨拶吟。
 この後、「柳の清水跡」に向かう途中「ヨークベニマル新庄下田店」に立ち寄り「山形の地酒」(くどき上手吟醸/亀の井酒造、東光純米/小嶋総本店、初孫峰の雪渓/東北銘醸、何れも生酒各3本)を土産に購入した。
【柳の清水跡】(芭蕉句碑) 所在地;山形県新庄市
 
水の奥氷室尋る柳哉
 「おくのほそ道」(最上川)元禄261日、「大石田から羽黒山」道中(新庄)の「風流亭」(澁谷甚兵衛宅)で詠んだ句。」風流(渋谷甚兵衛)は「ひるがほかゝる橋のふせ芝」、曽良は「風渡る的の変矢に鳩鳴て」を詠む。説明板
 
 「柳の清水跡風」(新庄市)を後にし「養泉寺」(尾花沢)に向かう国道13号、ほぼ半分強行った国道沿いに「尾花沢西瓜」の生産販売所があ。昨年のこの時期、「旅の未知草」で購入している。東京の兄と近所の姉、そして我が家への土産として買う。兄へは宅急便で送った。明日の帰路、日光通過時に配達されたとの電話を貰う。我が家で食べるより早いとは驚きだ。持ち帰った2個のうち一方が傷付き車中の暑さもあり傷みが進んでいたので姉には「話」の土産に代えてもらった。
【養泉寺】(芭蕉句碑) 所在地;山形県尾花沢市
涼しさを我か宿にしてねまる也
「おくのほそ道」(尾花沢)元禄2517-27日、国境の峠越えが予定通りだったら「蚤虱」の名句や「山刀伐峠」の労も無かっただろう。
 
すゞしさを我やどにしてねまる也 芭蕉
つねのかやりに草の葉を燒 清風  

鹿子立をのへのし水田にかけて 曽良

ゆふづきまるし二の丸の跡 素英  
 「おくのほそ道」(尾花沢)元禄2517-27日、尾花沢滞在中の興行。養泉寺の北側は尾花沢館跡(現尾花沢小学校)であり、芭蕉来訪時は幕府の尾花沢代官所があった。栄枯盛衰の跡に感慨が深い。それだけに地元の俳人素英の付句には歴史的懐古の情がこめられている。
【清風邸跡】(芭蕉・清風歴史資料館) 所在地;山形県尾花沢市
 
清風邸跡→清風邸跡 芭蕉・清風歴史資料館→歴史の道芭蕉と清風の出逢い
【みちのく風土記の丘】(資料館) 所在地;山形県尾花沢市
 
涼しさを我が宿にして寝まるなり
這い出でよ飼屋がしたのひきの声
まゆはきを俤にして紅粉の花 

蚕飼する人は古代の姿かな 曾良
 「おくのほそ道」(尾花沢)元禄2517-27日、芭蕉の「尾花沢三句」と曾良の句が刻まれている。
【西光寺】(芭蕉句碑) 所在地;山形県大石田町
 江戸時代に大石田では、俳諧(当時の俳句は「俳諧連句」として行われ、後に発句が独立して俳句となりました)が盛んに行われました。今から300年以上前、松尾芭蕉が大石田に来町した元禄期、それから100年ほど経った明和・安永期、そして幕末期の3つの時期に特に盛んに行われました。このような大石田の俳諧史を端的に物語る文化財が、西光寺境内にある3基の句碑(町指定有形文化財)です。
 
芭蕉句碑(新碑) 李兮句碑 暁花園句碑
 「さみ堂礼遠つめてすゝしもかミ川 芭蕉」と陰刻されています。松尾芭蕉が来町してからおよそ80年後の明和年間に、土地の俳人土屋只狂が歌仙「さみだれを」を得た喜びを記念して建てた句碑という伝えがあり、歌仙の発句を模刻したものです。
 「吹るゝや骨となっても枯尾華 田李桂兮」と陰刻されています。「田李兮」とは田中李兮のことで、土屋只狂を中心とする市馬窓社中の優れた俳人でしたが、若くして亡くなったと伝えられています。この碑は、李兮の一周忌にあたる天明59月(1785)に岡村好和の発意により暁花園社中によって建てられました。
 「暁花園」と陰刻され、碑陰に「夜着重し桜や咲ん雨の音」と陰刻されています。「暁花園」とは、土屋只狂を中心とする俳諧の結社名で、「市馬窓社中」とも称しています。碑陰の句は、土屋只狂の晩年の句で、只狂が没した寛政元年(1789)に暁花園社中が陰刻したものです。
さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川
 「おくのほそ道」(最上川)元禄2528-29日、「大石田」での作。大石田は、当時の最上川舟下りの起点、前句「あつめて早し」の初案。原碑は風化が進み、保存のために碑を小さなお堂に収めガラス窓で仕切ってある。
 
 
   
【大石田大橋と最上川特殊堤防壁画】 所在地;山形県大石田町
 
【高野一榮邸跡】(芭蕉句碑) 所在地;山形県大石田町
 平成元年は、芭蕉翁が「おくのほそ道」を旅してから三百年にあたる。その記念として、「初折の表六句」と「名残の裏六句並びに奥書」を2倍に拡大して刻んだ碑を歌仙が巻かれた由緒の地に建立された。
 
初折の表六句 名残の裏六句並びに奥書
さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川 芭蕉
岸にほたるを繋ぐ舟杭 一栄
爪ばたけいざよふ空に影待ちて 曽良
里をむかひに桑のほそミち 川水
うしのこにこゝろなくさむゆふまくれ 一栄
水雲重しふところの吟 芭蕉
雪みぞれ師走の市の名残とて 曽良
煤掃の日を草庵の客 芭蕉
無人を古き懐帋にかぞへられ 一栄
やもめがらすのまよふ入逢 川水
平包あすもこゆべき峰の花 芭蕉
田の種をいはふむらさめ 曽良
 奥の細道全体を通して山形での作品に秀句が多いのはなぜだろう。これも最も人口に膾炙した句の一つである。山形では句会が多く催されたらしい。この作品は、529日夜大石田の船宿経営高野平左衛門 (一栄)方にて行われた句会の冒頭の発句「五月雨を集て涼し最上川」である。これはまた随分とやさしい句だが、「涼し」一語を「早し」と変えただけで、怒涛渦巻く最上川に変るから言葉の持つ威力はものすごい。
  編集後記
   「赤川河口」から持ち帰った流木を、「土橋」の上に無造作に重ね置きした。真横から撮影すると、何やら叫んでいる「亀」あるいは「大蛇」のようにも見える。いずれも「縁起」がよいものだが、やや不気味なので今はひとつひとつに崩し並べてある。

 さて、
8月の営業会議の議題は「来期の予算について」であるが、「コロナ感染の爆発的拡大」で出張自体どうなるか先が見えない状況にある。
            MP3 夏の風