出羽三山補遺 (山形県) 天宥法印ゆかりの地
2021.10.15(金) 晴後曇
 家を23:30に出て、いつものコース(R18-R8-R116-R8-R7)で日本海沿岸をひた走り「道の駅あつみ」に着く、走行距離351km。しばしの朝食休憩を取り、もうひと頑張りと5:10に出る。庄内平野に入ると欲が出る。以前に撮影した朝霧の撮影、今朝は出ていない。ならば「羽黒山大鳥居」の中から昇る朝日が撮れるかもと、赤らむ稜線上の空を気にしながら先を急ぐ。菅政権から岸田政権に代る、菅政権でコロナ新規感染者数は、25,858612迄減少。
【出羽の夜明け】 所在地;山形県鶴岡市
 
 日出方向を背に庄内平野を望む、そこには「夜明けに架かる虹」が、日出前に撮ろうと優先する。
 
【三山大愛教会】(芭蕉の天宥追悼文) 所在地;山形県鶴岡市
 羽黒山中興の祖「別当天宥法印」は芭蕉が訪れる15年前に配流先の新島で亡くなっている。別当代会覚阿闍梨の要請で、「奥の細道」(羽黒山、元禄263-10日)芭蕉は「天宥別当追悼句文」を書いている。羽黒山頂にある出羽三山神社歴史博物館にその親筆が青銅鏡などと一緒に展示されている。その追悼文の末尾に「其玉や羽黒にかへす法の月」の句が記されている。芭蕉庵桃青拝と署名のある追悼文はしっかりした筆使いで格調高く書かれている。
 
 
 同句碑の左手前に、「芭蕉三山句碑」がある。「涼風やほのミか月の羽黒山」「雲の峯いくつ崩れて月の山」「かたられぬゆどのにぬらす袂かな」
 
 羽黒山別当執行不分叟天宥法印は、行法いみじききこえ有て、止観円覚の仏智才用、人にほどこして、あるは山を穿、石を刻て、巨霊が力、女か(女咼)がたくみを尽して、坊舎を築、階を作れる、青雲の滴をうけて、筧の水とほくめぐらせ、石の器・木の工、此山の奇物となれるもの多シ。一山挙て其名をしたひ、其徳をあふぐ。まことにふたゝび羽山開基にひとし。されどもいかなる天災のなせるにやあらん、いづの国八重の汐風に身をただよひて、波の露はかなきたよりをなむ告侍るとかや。此度下官、三山順礼の序、追悼一句奉るべきよし、門生等しきりにすゝめらるゝによりて、をろをろ戯言一句をつらねて、香の後ニ手向侍る。いと憚多事になん侍る。
  其玉や羽黒にかへす法の月
                                       元禄二年季夏
→天宥さんの魂は月の世界を通りすでに羽黒へ帰っています(天宥法印死後
14年経た1689年に詠む)
【大進坊】(芭蕉句碑等) 所在地;山形県鶴岡市
 
 
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「凉しさやほの三日月の羽黒山」「雲の峯いくつくつれて月の山」「加多羅禮努湯登廼仁奴良當毛東迦那」の三句を刻んだもので「三山句碑」という。月山旧登山道(野口道)にあった三山句碑(羽黒山頂に移設)の模写。
【出羽三山神社】(随身門から一の坂入口まで) 所在地;山形県鶴岡市
 
 随神門より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がる。随神門はこの広い神域の表玄関である。この門は初め仁王門として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されたが、明治の神仏分離の折り、随身像を祀り随神門と名付けられている。
 随神門より継子坂を下りると祓川に掛かる神橋に出る。昔三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとり三山への登拝の途についた。朱塗りの美しい神橋は見事な浸蝕谷にかかり、向かいの懸崖から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しい。
 滝は承応
3年(1654)時の別当天宥により月山の山麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。又、一般的には神域とは随神門と伝えられているが、ここより山上と山麓を呼び分け、山上には維新まで本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいた。
 
 
 羽黒山は、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいる。山麓の黄金堂は重文に、山内の五重塔は国宝である。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが一の坂の登り口左手に素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っている。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)庄内の領主で、羽黒山の別当・武藤政氏の再建と伝えられている。
←「随身門」から「一の坂」迄の往復35、天宥法印ゆかりの地は「参道石段・須賀の滝・杉並木
「山頂駐車場」から「南谷」迄の往復100分、天宥法印ゆかりの地は「天宥社・南谷・杉並木等→
麓(左)、山内(右)の図中「」間を参観した
【天宥社と芭蕉句碑】(出羽三山神社) 所在地;山形県鶴岡市
 第50代執行別当天宥法印は、江戸時代初期、戦国の動乱により荒廃した羽黒山を立て直したことから、中興の祖と讃えられています。天宥法印は、江戸幕府の黒衣の宰相と称された天海僧正の弟子となり、全山挙げて天台宗に改宗し、幕府の庇護のもと関東全域に出羽三山信仰を広めました。また、13年の歳月をかけて表参道に杉並木や2,446段の石段を築き、8km先の水呑沢から祓川まで水を引いて「不動の滝(現・須賀ノ滝)」を落とすなど山内を整備し、女性の登拝にも供しています。
 天宥法印は、何百年も先の羽黒山の姿を思い浮かべながら、これらの事業に取り組まれたことでしょう。当時は幼木だった杉は今や老杉となり、国の特別天然記念物に指定され、参道を覆い尽くさんばかりに天高くそびえ立っています。永遠に続くように思える石段も、長い年月をかけて、数多の参拝者の一歩一歩によってすっかり丸みを帯び、過去でも未来でもない今だからある姿を見せてくれています。山頂への道を進みながら、羽黒山を守り続けてきた人々や祈りを捧げてきた人々の思いと、石段を踏みしめる自らの心を重ねられることでしょう。
 社殿の前には新島より寄進された石灯籠が立っている。
 芭蕉の立像とその右に並ぶ三山句碑。羽黒山山頂の手水舎脇に、昭和486月(1973)に建立された芭蕉像があり、その隣に、巨大な出羽三山の三山句碑が建っている。この句碑は、月山旧登山道の通り道にあたる野口に、文政8年(1825)建立されたもので、「芭蕉野口句碑」とも呼ばれ、現在地への移転は、昭和40年(1965)。【大進坊】(芭蕉句碑等)参照。
 
【出羽三山神社】(山内) 所在地;山形県鶴岡市
【出羽三山神社】(南谷) 所在地;山形県鶴岡市
 三の坂の麓で右へ伸びる道を400mほど進んだところに、「おくのほそ道」の旅で芭蕉が泊まった別院紫苑寺の跡、通称「南谷」があり、「ありがたや雪をかほらす南谷」と詠んでいる。心の字の形をした「心字池」は夏も涼しげな風を運び、南谷を時間のとまったような苔むす場所にしている。かつて涸れていたこの池に320年ぶりに水が湛えられたのは2000年のことでした。羽黒の若者たちによるNPO法人蜂鼓山社中が中心となったボランティア活動が、羽黒山の聖地を整備、今は羽黒山の隠れた名所(羽黒山南谷の蘚苔と杉並木)となっています。→「かおり風景100選」は、平成1310月(2001)に環境省が日本各地の自然や生活、文化に根ざした香りのある地域を全国から募集し、応募された600件の中から100件を選定、「羽黒山南谷の蘚苔と杉並木」が登録されている。
 
 
 
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、芭蕉は、羽黒山の「南谷別院」に舎す。本坊で巻いた八人歌仙での発句。曽良は「川船のつなに螢を引立て」を詠む。
 
 
 
 参道の杉木立は、400本以上に及び、国の天然記念物に指定されています。山頂までは所要約50分。参道の両側に聳える杉の巨木は、第50代別当で羽黒山中興の祖と呼ばれる天宥が在職中に植林したものと伝えられています。天宥は、正保2年(1645)に東照宮を羽黒山に勧請。慶安元年(1648)に総計2446段という山上・十五童坂まで続く全長1.7kmの石段を築き始めます。松尾芭蕉も「奥の細道」途中、元禄263日(1689.7.19)夕刻、この参道を歩き、一の坂、二の坂を越えて、三の坂下の参道から南に分岐する細道を歩いて南谷の別院・玄陽院に向かい宿泊しています。芭蕉一行は、断食して潔斎し、65日、首に注連を掛け羽黒権現に参拝しています。
 天宥は、寛永11年(1634)、出羽三山の復興を願い、3代将軍・徳川家光に謁見。寛永18年(1641)、真言宗ながら大願成就を期して天台宗の天海大僧正(徳川三代に仕え、黒衣の宰相と呼ばれた僧)の弟子となり、師の一字を貰って名を宥誉から天宥に改めています。山内に日光東照宮を勧請する、南谷に350両を費やして壮大な伽藍を造営など、天海大僧正の後ろ盾で、出羽三山の統一を進めた。その最中、寛永20年(1643)、天海がこの世を去り、湯殿山四ヶ寺(本道寺、大日寺、大日坊、注連寺)を天台宗へと改宗させることもできず、さらには羽黒山の智憲院や愛染院などと対立し、ついには幕府を巻き込む訴訟となり、ついに寛文84月(1668)、伊豆七島・新島への島流しになります。天宥は、新島で7年を過ごし、延宝210月(1674)に82歳の生涯を閉じています。
 
【玉川寺】(天宥改修の庭園) 所在地;山形県鶴岡市
 羽黒山の大鳥居の手前を右手に入ると、「九輪草の寺」と呼ばれる玉川寺がる。羽黒の自然の懐に抱かれた庭園には月山の湧水が流れ、四季折々に咲く可憐で優しい花が目を楽しませてくれるという。現在の玉川寺庭園に改築したのは、江戸時代初期、羽黒山の第五十世執行・別当であった天宥である。数々の事業に手腕を揮った傑僧のみならず、書画・彫刻にも優れ作庭も手がけた。玉川寺の他、羽黒山本坊・南谷の寺・荒沢寺の聖之院・手向の三光坊・鶴岡の本鏡寺の庭を築いたとされるが現存しない。→庭園説明
 
 抹茶を頂き庭園の歴史に思いを馳せていると芭蕉がこの地を訪れたことがふと過ぎる。元禄2年(1689)であるから、玉川寺の庭園を完成させた天宥がこの地を去って20年ほど経ている。芭蕉が玉川寺を訪れた記録はない。
【岩根沢三山神社】 所在地;山形県西川町
 
 
 常々「六条豆腐」(豆腐を天日干しにして乾燥させた保存食品)は何処で手に入るか・・・・と。京都六条から出羽三山参りに訪れた修行僧が、山形県岩根沢地区に伝えたのが始まりとされる。現在、製造販売しているのは山形県西村山郡西川町大字岩根沢の「六浄本舗」一社である。なお、六浄本舗は、京都の六条から来た行者から伝わった意味と「六根清浄お山は晴天」の意味を込めて、「六浄豆腐」と名付けて販売している。→岩根沢マップ
【岩根沢三山神社】(天宥法印御両親供養塔) 所在地;山形県西川町
 天宥と岩根沢日月寺の密接な関係は以前から指摘されていた。近年になって岩根沢旧日月寺歴代墓所に天宥の両親の墓石が発見され、天宥の両親は老後を岩根沢で過し、そこで亡くなったものとみられる。天宥は7歳のとき、師の宥俊が日月寺にいたときに弟子となり仏門に入った。岩根沢のある西川町の安仲坊(寒河江市の慈恩寺に属した)の出身であるとする説が有力である
 
【阿弥陀堂跡】(阿弥陀堂屋敷) 所在地;山形県西川町
 承久乱に敗れ寒河江荘に潜居していた大江親広は、嘉禄元年(1225)広元が没すると、深く父の死を悲しみ、阿弥陀堂を造り、この像の胎内に、多田満仲の念持仏と父広元の遺骨を納入し、吉川の館に安置して供養した。仁治二年(1241)六月、吉川の館の鬼門(東北方)にこの阿弥陀堂を移築した。その場所が阿弥陀堂屋敷である。後に徳川幕府から阿弥陀堂領として1189斗余りの御朱印を受けた。また墓所には、親広、その外祖父多田仁綱、及び安中坊代々の墓がある。
 
 
【阿弥陀堂跡阿弥陀屋敷】(安仲坊代々の墓) 所在地;山形県西川町
 
 江戸時代の「安仲坊」;江戸時代に入ってからの安仲坊・大江氏は「吉長-道空-義綱-広興-広隆-広照-広義-広顕-広秀-広親-広豊-広信-広満」と連なり、阿弥陀屋敷の墓地に殆どの墓石が遺っている。(以下、一部重複)
 「旅の未知草」(瞑想編)は慣れたもので違和感は全く感じない。しかし、今回の「旅の未知草」は江戸時代初期であったはずだが、「鎌倉時代から戦国時代」まで、さらに瞑想は徘徊の域に達する。
【鎌倉時代から戦国時代】
 寒河江荘吉川は、鎌倉幕府より大江広元が地頭に任じられた際、多田仁綱が目代として起居した地である。仁綱はこの地が、故地摂津国多田郷吉川村に似ていることから吉川と名を改め居住したとされる(安仲坊系譜)。大江広元が亡くなると、嫡男で寒河江荘に潜居していた大江親広が吉川に阿弥陀堂を建てて宗廟としたという。正平
23年・応安元年(1368)、2代鎌倉公方足利氏満・羽州探題斯波兼頼・奥州管領大崎直持(斯波兼頼の兄)が攻め寄せた漆川の戦いにおいて、総大将大江茂信(溝延城主)始め一族61名が犠牲となる大敗を喫すと、寒河江時氏は寒河江(現寒河江市丸内)の地に移り寒河江氏を称し、溝延茂信の遺児・家広に宗家を継がせたという。その後代々備前守を称し、血脈が途絶えると同族の左沢氏・白岩氏から養子を取り存続している。また、白岩氏4代満教・寒河江氏18代高基・柴橋頼綱(橋間勘十郎)らを輩出した。天正12年(1584)寒河江氏が最上氏によって滅ぼされると、当主・隆広も自害し吉川氏は一時断絶する。隆広の子・良光は蘆名氏を頼って会津へ落ち延び出家し、その後寒河江氏旧臣らの嘆願により吉川阿弥陀堂で大江氏宗廟を守ることを最上義光から許された。僧体であったが慶長出羽合戦に出陣した様子が窺われる。慶長8年(1603)寿斎と嫡子広道は最上義康が暗殺された際にともに討たれた。
【江戸時代以降】(天宥法印と安仲坊の関係)
 江戸時代を通じて金仲山無量寿院(旧阿弥陀堂)の住持を務めた。寿斎の子吉長(宥鏡:安仲坊二十六世)は徳川秀忠から御朱印を受け、
その子・天宥(宥誉)は次男であったため羽黒山に入り中興の祖と呼ばれた。二十八世義綱(一雲院豊感)は徳川家光から御朱印を受け、その他界に伴って日光山で納経した。その後代替わりで徳川家綱に拝謁した(帝鑑の間)。家光三回忌、家康五十回忌、家綱他界時の納経などを行った。徳川家への納経は8代将軍・徳川吉宗の葬儀まで続いた。
 江戸時代の安仲坊は代々羽黒山の修験を生業とし、吉長の代で天台宗の東叡山に属する無量寿院を興す。同院は広隆(元禄期)、広豊(天保期)の時に再建された。吉長の子・道空は「安仲坊系譜」を作成し、慶安二年(1649)、江戸幕府将軍・徳川家光から阿弥陀堂領に御朱印・1189斗余を拝賜された。また、道空の弟に羽黒山参道の石段や杉並木造成に寄与した「羽黒山第五十代別当・天宥」がいる。これらのことから、江戸時代の安仲坊・大江氏と羽黒山の関係が親密であったことが伺える。

 
【安仲坊無量寿院跡】(吉川学校) 所在地;山形県西川町
 安仲坊・大江氏の居所であったとされる吉川地区の「安仲坊別当屋敷跡」を歴史公園に整備する工事が2021517日より開始され、同年9月末に完成した。発掘調査の結果、中世末のものと考えられる土塁状遺構や柵列遺構などが出土、全体的には近世以降に作られたものが大半であった。その中でも阿弥陀堂別当が居住した安仲坊の寺や、大江広元・親広親子と多田仁綱を祀った無量寿院の跡地は、安仲坊の歴史を考える上で重要な発見になった。
 慶応三年(1867)、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還により、安仲坊も阿弥陀堂領の御朱印を上地することになった。また、明治の廃仏毀釈の際、安仲坊は僧籍を離れ廃寺となる。この時、阿弥陀堂は解体されたのだろう。現在、阿弥陀堂跡地と推測される場所には地蔵堂が建っている。無量寿院は、明治9年から27年まで「吉川学校」の校舎として使用されていた。当時の吉川地区の子どもたちはこの寺内で勉学に励んでいたようだ。
 
 明治28年、無量寿院は建物ごと山形市の常念寺に譲渡され、現在も同寺の庫裡として存在している。また、山門は明治5年に山形県西村山郡河北町溝延5482の聞徳寺(R112道の駅さがえより84.2k)に移設されている。
【本山慈恩寺】 所在地;山形県寒河江市
 鎌倉時代の1185年、修験を導入し葉山を奥の院とした葉山修験の中心地は別当慈恩寺に、葉山は羽黒山・月山とともに出羽三山の一山に数えられていたが、天文年間(1532-1555)葉山との関係を断ち、これ以降は三合山を奥の院と定めた。その後、出羽三山の一山に湯殿山が入り葉山修験の中心地は大円院(寒河江市)へと変わる。
【常念寺】(庫裡;旧安仲坊無量寿院) 所在地;山形県山形市
 常念寺は、山形一の戦国大名、最上義光の嫡男・義康の菩提寺です。関ヶ原の戦いでは、徳川方として上杉家と合戦を繰り広げた最上義光。しばらくして、跡継ぎ問題や家臣同士の諍いなど、義康との親子仲に亀裂が入った父・義光は、義康への疑念が晴らせず、ついに高野山への出家を命じ、その道中で討ち取りました。
 一体何を企んでいたものかと、義康の家を捜索した義光は、親子の和解と、父の今後益々の武運を神仏に祈った息子・義康の祈願書を見つけます。義康の本心も聞かず、一方的に追い出してしまったと深く後悔した義光が、義康の菩提を弔ったお寺が、ここ義光山常念寺です。(常念寺Hpより)
 
 当山の客殿は、山形県西川町(川土居村)にあった旧真言宗安仲坊の本堂でした。この安仲坊が明治維新後に廃寺となった際、本堂を譲り受け当山へ移築したものが客殿として現存しております。安仲坊とは、鎌倉時代の武将大江親広ゆかりの寺院であり、また親広の父・広元の位牌を祀る朱印寺でもありました。大江広元の位牌は本堂と共に当山へ移り、現在は位牌堂にて尊置してあります。しかしながら、百数十年経ちました今日、客殿の雨漏りや耐震問題がいよいよ課題になって参りました。つきましては、浄土宗開宗850年に当たる2024年を目処に、客殿の整備改修を発願致します。(常念寺Hpより)
 
 「旅の未知草」、ホテルチェックインは17:42、走行距離は590.6kmであった。常念寺近くのコープひがしはらで山形の地酒6銘柄各2本全12本を購入した。また、東北自動車道那須塩原SAで肉製品・チーズタルト他も土産に、帰路は418k、往復1,010kmであった。
 今回の旅で悔しいことがひとつ、
Sony α6400のバッテリーを、常念寺の駐車場で交換時に車から落としことに気付くことなく仙台に向かってしまったことだ。買えば済むことだが、Sonyだけあって結構値が張る。
              MP3 夢幻の風