常陸太田 (茨城県・福島県) 里山の風景と歴史
2021.11.19(金) 晴
 家を0:30(予定1:00)に出て、水戸に向かうコース(R18-R50-R349)、日出時刻は6:18と遅くなっている。「旅の未知草」としての活動時間は4時間余りと短く制限がある中での晩秋の旅路。しかし立ち寄り先は21ヶ所と平均より多い。今回の「旅の未知草」には、140年振りという「ほぼ皆既月食の満月」というおまけ付である。
【阿弥陀寺】 所在地;茨城県那珂市
 
 到着予定時刻は6:00、滞在予定時間は20分、日出時刻に合せたものだ。勿論、充分な余裕をとった上、出発時点で30分早めているので早い到着は当然のことである。到着4:58、それにしても1時間早い、妻が持たせてくれた朝食を摂り、仮眠・十四夜月の入りを撮り車中での待機。→「大山禅坊阿弥陀寺」「額田城跡」案内板
 
 住職様が[梵鐘」を6つ鳴らす。6時を告げる時報の鐘(晩鐘の鐘⇔暁鐘/ぎょうしょう、入相の鐘⇔明けの鐘)である。鐘楼から降りて来られたのでご挨拶(早朝からの突然参詣のお許し)に向かう。
 
 寺院の鐘の音は日本人にとって馴染み深いもの。大晦日に鳴る「除夜の鐘」や、朝夕に鳴る「時報の鐘」、不思議と懐かしさを感じる。特に夕暮れ時の境内に鳴り響く様子は、とりわけ美しい光景のひとつ、この鐘の音を合図に遊び呆けていた子供の頃、もう帰らないと母さんに叱られると・・・・旅先(人生の)での懐かしい思い出。
暁鐘に合せ色づく楓かな
 日出と共に鳴り響く暁鐘の鐘の音に合せ明るくなる境内の楓が徐々に色づきを見せてきた。梵鐘を鳴り終えて鐘楼より降りて来られた和尚さま、境内の楓を指さしやっと色づいてきました。日出とともに鮮やかな楓に変わるところをご覧くださいと・・・・
【鈴木家住宅】 所在地;茨城県那珂市
 
 鈴木家は水戸藩の庄屋を務め、徳川光圀の娘を嫁に迎えたほどの旧家。光圀が西山荘に行く途中に立ち寄り、その宿泊にも用いたとされる書院もある。八畳敷きの二部屋からなり、奥の間と平書院を設け、控えの間には筬欄間を入れるなど御殿風の造りになっている。元禄時代の建立。→説明板
【額田神社】 所在地;茨城県那珂市
 佐竹昌義による神殿造営、源義家が社殿境内外を改修、徳川光圀公が現在地に奉還・改築。→説明板
【堀江家書院】 所在地;茨城県常陸太田市
 
 佐竹氏の家臣堀江氏一族と伝える旧家、本家は佐竹氏秋田への国替えに同行、分家筋の当家は残留。水戸藩時代は領地巡回の途次、各代藩主が立ち寄った旧家と伝承。早朝(6:44)の立ち寄りに、嫌な顔ひとつしない御主人は、損傷が著しく維持継続が困難になり、文化財指定の取り下げを思案中とのこと。→説明板
【西山荘】(西山荘詩碑) 所在地;茨城県常陸太田市
 ※「棚倉街道」概要;棚倉街道は水戸城下(茨城県水戸市)と棚倉城下(福島県棚倉町)を結ぶ街道で、主に棚倉藩の参勤交代で利用された。古代の官道として古くから常陸国内での主要幹線のひとつで、戦国時代には常陸の大名だった佐竹氏が南奥羽進出の軍事道として利用された。中畑新田宿(矢吹町新町)から、枝川宿(ひたちなか市枝川までの約103kmの街道。棚倉宿-東館宿-明神峠-徳田宿-小中宿大中宿折橋宿-河原野宿-上渕宿-町屋宿太田宿額田宿-菅谷宿-枝川宿とあり、佐竹氏一族・水戸徳川家の史跡が常陸太田市に集中している。
 常陸太田市は、平安時代末期からの約470年は佐竹氏の拠点として発展し、その後の江戸時代は水戸藩の要地だったことから、佐竹・徳川両氏に関係の深い社寺・史跡が数多く残され「里山の風景と歴史」に触れることが出来る。
 
 「西山荘碑」(人見寧詩碑)、「西山途不遠・可問義公荘・雅樸懐清徳・老梅花転香」(西山の途遠からず・問うべし義公の荘・雅樸清徳を懐い・老梅花転香し/西山のみち遠からず・問うべし光圀公の荘・がぼくせいとくをおもい・うたたかんばし)→説明板
【西山御殿/西山荘】(徳川光圀公隠居所) 所在地;茨城県常陸太田市
 到着時刻は7:00、開園9:00には大分ある。売店横の「歴史の里遊歩道」から西山御殿庭園に行くことが出来そうなので行って見た。
 元禄3年(1690)に建設され、隠居した光圀(江戸時代初期の水戸藩主2代徳川光圀/水戸黄門様)が同4年(1691)から同13年(1700)に亡くなるまで過ごした。光圀はここで歴史書「大日本史」の編纂に尽力した。当時の建物は文化14年(1817)の野火によって焼失し、現存するのは文政2年(1819)に8代藩主・齊脩によって再建。2011年の東日本大震災で大きな被害を受け、2013年から1年かけて復旧工事を行い現在に至る。
 建物は茅葺平屋建て、内部は粗壁のままという質素なもので、華美を嫌った光圀の人となりを伝えるものとなっている。また、園内には当時の守護役の侍の居宅を復元し、資料館として光圀ゆかりの品などを展示しているという。
 山を切り開いた西山御殿庭園は、池を掘り滝をかけて趣きが深く、池の形は「心」という字に掘ってある。
 
 西山御殿庭園沿いに10分ほど進むとフェンスが張り巡らされた「西山御殿」に着く。すぐ手前に2本の柱が建っている。これが「くぬぎ門」、その奥にあるのが「裏門」(通用門)。くぬぎで造られた裏門は家臣や近所の人たちが通ります。表門よりも立派なのは領民を大切にする想いからといわれ、光圀の倹約家としての面が伺えます。
 水戸黄門と言えば助さん格さん、実在の人物ではないがモデルは実在する。助さんこと佐々木助三郎のモデルは、佐々宗淳(通称介三郎)、寛永17年-元禄11年、江戸初期の僧・儒学者。徳川光圀に仕えた。西山御殿の手前右側の不老池の奥に「助さんの住居跡」がある。家来衆の住居は、このように少し離れた所に在った。
【久昌寺】(光圀の生母の墓) 所在地;茨城県常陸太田市
 今から340年ほど前に、常陸太田市にある稲木という地の莫大な土地に、七堂伽藍という、とてつもない多くの寺院建築施設を有して建てられた久昌寺は、水戸徳川第二代藩主の徳川光圀、俗に言う水戸黄門光圀公が、生母(谷久子)の菩提供養のために建立したものである。当時の水戸藩の財政を揺るがすくらいの費用をかけたものなのに、どうしたことか当初からまるで必要のないように住職は居ない。この人ならと見込んだ僧が見つかると、全国から常陸の國に呼んでいるので不要との考え方のようだ。それにしても日々の運営・事務決定をする人は絶対に必要であったはず。当時、久昌寺を訪れた人々は、身延山久遠寺の歴代、千葉県中山法華経寺の歴代、京都山科本圀寺の歴代という、当時の高僧ばかりであったとのこと。
 
 久昌寺は、光圀公の生母「久昌院」と父の水戸藩初代藩主頼房公の生母「養珠院」(光圀公の祖母)の墓所。→説明板
 
 久昌寺のすぐ後ろには、光圀公の遺徳を偲んで建てられた「義公廟」がある。実は、当時水戸黄門公が隠居した西山荘と、稲木の久昌寺の間は小さな山を境にして、その中間に小さな庵がありました。摩訶衍庵と名付けられた庵で、そこに久昌寺を管理する人がいたようです。それも京都からわざわざ訪れた高僧で、光圀公とその高僧が久昌寺と三昧堂檀林を動かしていたのです。
 「義公廟」のすぐ後ろの稜線から見下ろすと、そこは「西山御殿」のすぐ後方。ここから「西山御殿」を見下ろし、改めて「山を切り開いて造った」ということが理解出来た。
 
【佐竹寺】(佐竹氏祈願所) 所在地;茨城県常陸太田市
 
 佐竹寺は、鎌倉時代から江戸時代にかけて常陸国を支配した佐竹氏代々の祈願所。大同2年(807)の開山、あるいは寛和元年(985)に花山天皇の勅願を受けて元密上人が創建したとも言われている。創建当初は、鶴ヶ池の北に位置する観音山にあったが、天文12年(1543)に兵火によって焼失、同15年(1546)に佐竹義昭によって再建された。一時は隆盛を極めたものの、佐竹氏の秋田移封にともない、その寺運は次第に衰えていった。
【ヨネビシ醤油】 所在地;茨城県常陸太田市(内堀町の街並み)
 
 寛政12年(1800)創業の老舗の醤油蔵元。土蔵造りの仕込み蔵と九尺の杉の木桶は、伝統や風格とともに、長年の間に木に染み付いた微生物が複雑な味を生み出している。
【旧棚倉街道】 所在地;茨城県常陸太田市(東一町の街並み)
 久慈川の支流・里川と源氏川に挟まれた丘陵上にある常陸大田の町。古くから大田郷と呼ばれ、秀郷流藤原氏が大田城を築いて支配。その後は源氏の流れを組む佐竹氏が支配し、この時代から町の基礎が整備された。室町時代になると佐竹氏は岩代国や下総国へ支配を広げ、常陸国内を完全に統一。
 
 丘陵上の街並みは、細長い丘陵上の町で2つの筋に形成され、古い白壁の伝統的な商家などは東の筋に多く分布している。町の北側の内堀町にはヨネビシ醤油とその付近に蔵と商家の街並みが見られ、「坂の風景」としては金井町に下る板谷坂の街並みが有名。
【旧稲田屋赤煉瓦蔵】 所在地;茨城県常陸太田市(東一町の街並み)
 
 赤煉瓦蔵は、明治43年にこの地で酒造業を営んでいた「稲田屋」の稲田敬造氏が建造した。茨城県内の明治期に於ける三階建ての赤煉瓦蔵が少ないこともあり、平成21年常陸太田市から委託を受けた筑波大学によって学術調査が行われた。建築にあたったのは、当時の太田町金井町在住の宮大工棟梁齋藤辰吉氏であり、同時期に建造された国の重要文化財である、旧太田中学校講堂の影響が感じられる興味深い作風となっている。特に煉瓦蔵の三階の天井部分の柱と梁の組み方の美しさは、齋藤辰吉氏の卓抜した技術の粋が凝縮されており、見る人を楽しませている。往時は隣地に赤煉瓦二階の外側漆喰跡から繋がる土蔵二階の商家があり、敷地内には三つの井戸跡や裏の門柱、更に敷地を遮る煉瓦塀が残っており豪商「稲田屋」の姿を想像することができる。→説明板

 
【板谷坂】 所在地;茨城県常陸太田市(板谷坂と金井町の街並み)
 
 坂上からの眺めは素晴らしく「眉美千石」とも言われていた。坂の途中にある板谷稲荷神社は佐竹氏と縁が深かったと伝承。名前の由来は佐竹氏がこの地を治めていた時代に、この地に「番屋」があったからとの伝承。車移動の関係で坂下からの見上げ・・・・ちょっと残念なるも遠目でよしとしよう。
【太田落雁】(水戸ハ景) 所在地;茨城県常陸太田市
 この碑がある高台付近からは、阿武隈連山を背景とした素晴らしい眺めや「真弓千石」と呼ばれる水田地帯、雁が苅田に降りる様子などを望むことができました。その情景を斉昭公が「さして行く越路の雁の越えかねて太田の面にしばしやすらふ」と詠んだことから太田落雁と命名されたという。→説明板、
 
【舞鶴城跡・佐竹城】(太田小学校校内) 所在地;茨城県常陸太田市
 
 舞鶴城(太田城)は、佐竹氏約470年間の居城。平安末期に藤原秀郷の子孫である通延が太田大夫と称して築城したのが始まりと伝承。その後、佐竹氏が秋田に移封されたのに伴い廃城になった。
【正宗寺】(佐竹一族の墓) 所在地;茨城県常陸太田市
 萬秀山正法院と号する寺院で,延長元(923)年に平将門の父良将が創建。→説明板、
 「助さん」のモデルとされる佐々宗淳の墓がある。説明板
 境内には佐竹氏代々の墓と伝えられる宝篋印塔がある。→説明板
 創建当初は勝楽寺と号し、律宗で奉仕され、その後貞王2年(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を、暦応4年(1341)に9代貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き、同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺とした。勝楽寺と正法寺は後の争乱によって衰えたが、正宗寺は佐竹氏の菩提所として、関東十刹の一つに挙げられるまでに繁栄。徳川の時代にも朱印100石を受け、12の末寺を有するまでになった。境内は約5,300平方メートル、堂宇は本堂・庫裏・総門などを備えていたが、天保9年(1838)に総門の一部を残して焼失。現在の庫裏と本堂は、それぞれ天保10年(1839)と明治3年(1870)に再建された。
【水戸徳川家墓所】(Googll Map航空写真) 所在地;茨城県常陸太田市
 水戸德川家墓所は、瑞龍山と号し、茨城県の北部、常陸太田市の北部郊外、阿武隈山地から続く国見山の南側丘陵斜面部に立地している。東西約360m、南北約500m、標高65-134mの範囲に営まれ、東に里川の沖積平野を、西に谷津田を望む景勝地です。墓の形態は、2代光圀が儒教に基づいて定めた水戸德川家独自の形態です。葬祭は無宗教であるため、墓所内に菩提寺はなく、僧侶の立ち入りは禁じられていました。墓所は、寛文元年(1661)の初代頼房の埋葬、墓造営に始まり、延宝5年(1677)に頼房側室久子(光圀生母)、初代水戸領主の武田信吉(家康5男)、2代夫人尋子が水戸から改葬され、本格的な墓所造営が開始されました。江戸時代の墓は水戸藩主(当主)・夫人墓が29基、一族墓86基、その他4基の合計119基営まれました。瑞龍山墓所の中程に小さな沢が入り、東西2つに分かれる峰の南側斜面に墓が点在します。東の峰には初代、7代、9代、11代、12代、13代の墓が、西の峰には2代、3代、4代、5代、6代、8代、10代の墓が営まれ、代が降るに従って下部に造営されました。→墓所Map
 フェンスで囲まれ世情されているので見学は出来ませんでした。見学希望は、「墓所の見学についてはJTB水戸支店に電話(029-225-5233)で問い合わせすること」(事前予約)が必要とのこと。特別公開もあるようだ。
【旧町屋変電所・発電所跡】(里川水系水力発電所群) 所在地;茨城県常陸太田市
 明治42年1月(1909)、日立製作所の前身である久原鉱業所日立鉱山によって建設された水力発電所の変電施設。その後、明治44年(1911)の春に「茨城の電気王」と呼ばれた前島平が設立した茨城電気(後の東京電力)が町屋発電所を買い取りました。
 旧太田町などで初めて電灯が灯ったのは同年の1128日、町屋の人々は「電気見たけりゃ町屋へ行け」と偉大な町のシンボルを誇ったといいます。説明板
【天龍院と里川渓流】(茨城百景) 所在地;茨城県常陸太田市
 
 Google Map に「天竜院」ならびに「天竜院山荘」なる標示がある。ネット検索で次なる記事があった。→①山荘と庭園があるが、現在この敷地内は立ち入りが制限されている。最近の地形図で集落内に複数の建物が記されているが、残存しているものは先述の山荘のみ。現地では23箇所ほどの屋敷跡が見られた。道脇の広い平坦地は水田の跡か。植林が施されておらず明るく開けているが、やや荒れた印象。村史によると、先述の山荘は「悠然亭」(天竜院御殿)と呼ばれるもので、水戸徳川家第11代当主昭武が建設したとのこと。明治15年に開設された天竜院牧場に滞在する際の宿泊地として、同19年から20年にかけて建設された。庭内から小さな滝を観賞できるため、建設当時は「観瀑亭」とも称されていた。また、こんな記事も→②延宝6年(1678)、水戸徳川家2代光圀公が南部藩より馬13頭を取り寄せ、水戸藩の軍用馬を飼育するために「大能牧場」を開設した徳川家の山。その後、9代齊昭公が「新牧」を新たに営み、さらに11代昭武公が隣接する旧里美村の天竜院地区にも牧場を開設した。この山林は、齊昭公の七男である徳川幕府15代将軍慶喜公も訪れ、弟である11代昭武公とともに狩猟を楽しんだ由緒ある土地。天竜院地区の樹齢100年を越える林の中ほどに、明治19年(1886)に水戸徳川家11代昭武公が建てた山荘がある。昭武公の兄であった15代将軍慶喜公もここを訪れている。現在は管理人不在となり立入禁止になっている。
【大中神社】(棚倉街道大中宿) 所在地;茨城県常陸太田市
 常陸太田市内にある神社の中でも指折りの豪華さと優美さを兼ね備えた市指定文化財。大中神社の創建は大同2年(807)との伝承あるも、本殿が建造された時期は江戸時代中期と推定される。総欅の入母屋唐破風造りで、幾重にも積み上げられている升組の土台や、美しい色彩が施された彫刻、屋根の曲線美などからは熟練した宮大工の技術の高さが伺える。佐竹公ならびに光圀公との繋がりもある中々の神社である。→説明板
【小中宿】(街並み) 所在地;茨城県常陸太田市
 20049月に常陸太田市に編入合併した旧・里美村は人口約4,000人ほどの茨城県北辺の村で、南北に流れる里川が作り出した谷底平野を、同じく南北に貫く旧棚倉街道に沿って発展した宿場町・在郷町が現在の各集落の起こりでした。この里川地域は古くから蝦夷攻略の為に官道が整備され、駅家も置かれていたと言われています。中世から見られる主な集落は小里上、小里中、小里下と呼ばれていましたが、江戸時代ごろから小中・大中・折橋という地名に改称されたといいます。旧里美村内の宿場町は北から、国境(県境)に接し、番所も置かれた徳田宿・小妻宿・小中宿・大中宿・折橋宿・河原野宿がありました。棚倉街道は常陸太田街道のほか、小里通りとも呼ばれ、水戸城下から地域経済の中心地であった太田を経て、陸奥棚倉城下など中通り南部地域を結ぶ幹線道路で、物資の往来が多く、さらに水戸支藩である守山藩もあって両藩家臣の往来、そして60万石に及ぶ年貢米の集積地もあって幕府役人の往来も盛んな街道でした。中でも小中宿と折橋宿は棚倉街道に東西を結ぶ街道が交差する交通の要衝で、木材や米穀、煙草などの在郷商人が多く、今も旧家が旧道沿いに見られます。昭和の合併で村の中心となった大中宿は、地理的に中心であった事から選ばれたと思われます。
 74にして、初めて知った「在郷町」とは、江戸時代、城下町あるいは主要経済都市の近郊農村に発生した町で、「在町・郷町・町方・町村」などと呼ばれたものの総称。都市と村落の中間に位置するもので、一般の村と違って地子免除などの特権をもつ場合もあったが、行政上は郡奉行など郷村担当の役人の支配下にあった。三宿の中で一番見応えがあるのが、小中宿で酒蔵も営む旧家の井坂家邸(右)と佐藤家邸(中)。重厚な薬医門にナマコ壁の塀・土蔵が迫力で、この棚倉街道の繁盛ぶりを伺わせます。もっとも小中宿は明治の大火で焼失し、これらの家はその後に再建されたものだといいます。


 
【あぶくま洞】 所在地;福島県田村市
 
 当初、「滝川渓谷」(矢祭町)で1時間の渓流・滝めぐりを計画していた。今夕の満月は140年振りの「ほぼ皆既月食」、何処かで撮りたく「小中宿」通過時点の時刻で「あぶくま洞」の閉園時刻17:00迄の余裕で判断することにしていた。結論は、2時間の余裕であったが通過。「あぶくま洞」着は13:24(予定16:00)。
【あぶくま洞】(一般コース+探検コース) 所在地;福島県田村市
 探検コースの終点、そこは「あぶくま洞」最大ホールの「滝根御殿」、螺旋階段を登り詰め天を仰ぐ・・・・合掌。
 「一般コース」で入洞、中で「探検コース」の受付があったので選択する。一眼レフ2台(暗くて撮れず)を肩に掛け、ミラーレスを左手に這い蹲っての鍾乳洞見学、結局撮影したのはコンデジで・・・・。初おろしのジャケットは滴る地下水で斑模様、帰宅したらクリーニングかな。
 この付近はサラリーマン時代から何度も通っているが、よくよく考えたら初見学かと再認識した。
 「あぶくま洞」を後にしたのは14:33(予定17:00)、夕食は宮城県山下町の某レストランで海鮮料理を食べたく42km離れた常磐富岡ICに向かう。明るいうちに高速に乗れて良かった。山下ICで降り国道6号へ、予定したお店は開店していない。やむなく亘理町へと先を急ぐ。
【観月】(140年振りのほぼ皆既月食)
阿弥陀寺(那珂市)撮影;5:00 亘理町 撮影;17:17 亘理町 撮影;17:30
岩沼市 撮影;18:43 仙台市 撮影;19:05 塩谷町 翌夕撮影;18:04
 「旅の未知草」、ホテルチェックインは18:51、走行距離は550.3kmであった。亘理町のコープで浦霞・一ノ蔵を各6本、全12本を購入した。また、鐘崎で笹蒲鉾を土産に、帰路は大間々(みどり市)から大きく赤城山の裾野をナビに連れ回され、いつもの50号合流点より5kmしか離れていない場所で開放され帰路は450km程と遠回り、往復1,003kmであった。
 今回の旅で儲けたことがひとつ、くまなく車内を探しても見つからなかった
Sony α6400のバッテリーが何故かボックスティシュの中から出てきたことだ。地酒代がまるまる浮いた形になった。これって儲け?
              MP3 夢幻の風