浅香山 (福島県) 帷子ほして通里介李
2021.12.17(金) 雨
旅の未知草」(郡山補遺)の目的
 須賀川宿―郡山宿間は、奥州街道を北上すれば十数キロ。比較的平らな道だが、芭蕉たちはわざわざ山道を迂回している。目的は大元明王をまつる守山の寺「泰平寺」(現田村神社)の宝物だった。須賀川俳壇の面々が拝観を勧めたこと、更に彼らの書いた寺などへの紹介状もあった。これら「曽良随行日記」の記述から分かる。郡山宿に着いた芭蕉たちは同地で一泊した。その感想が曽良の「日記」に一言だけある。「宿ムサカリシ」、つまり「宿が汚い」。結構きつい言われ方である。そのせいか、郡山宿があった郡山市中町周辺に芭蕉の句碑はない。悪口は残しても、句は一つも残してないのか・・・・。郡山を詠んだ芭蕉の句が。さらに芭蕉の句碑も過去にはあった。「淺香山帷子ほして通りけり」(存疑の部)、歌枕「安積山」(浅香山)を詠み込んだ句。(福島民友新聞より)
【乙字ヶ滝】(石河の滝) 所在地;福島県玉川村
「おくのほそ道」(須賀川-浅香山・信夫の里-飯塚の里)
 等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮の宿を離れて、浅香山あり。→等窮が宅(須賀川)、檜皮の宿(郡山)と芭蕉はこの間のことには触れていない。珍しいことではない。「越後道」(
16日間)を「此間九日」と記述あり。
「曽良随行日記」(四月廿九日 快晴)
 巳中尅、発足。
石河滝見ニ行(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡)。須か川ゟ辰巳ノ方壱里半計有。滝ゟ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハゞ百二、三十間も有レ之。滝ハ筋かヘニ百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニゟ壱丈計ノ所も有レ之。芭蕉は「五月雨耳飛泉婦梨う川む水可佐哉」を詠んでいる。それゟ川ヲ左ニナシ、壱里計下リテ、向小作田村と云馬次有。
 ソレゟ弐里下リ、守山宿と云馬次有。御代官諸星庄兵へ殿支配也。問屋善兵へ方(手代湯原半太夫)へ幽碩ゟ状被レ添故、殊之外取持 。又、本実坊・善法寺(現田村神社)へ矢内弥市右衛門状遣ス。則、善兵へ、矢内ニテ、先大元明王へ参詣。裏門ゟ本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。村レ雪(雪村)哥仙絵・讃宗鑑之由、見物。内、人丸・定家・業平・素性・躬恒、五ふく、智證大し并金岡がカケル不動拝ス。探幽ガ大元明王ヲ拝ム。守山迄ハ乍単ゟ馬ニテ 被レ送。昼飯調テ被レ添。守山ゟ善兵へ馬ニテ郡山(二本松領)迄送ル。カナヤト云村へかゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ゟ郡山ヘ弐里余。日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。
 
 
 芭蕉の句碑。「おくのほそ道」(須賀川)元禄2427日、「須賀川」滞在中の作。「乙字ヶ滝」は阿武隈川本流にある段差で、当時は「石河の滝」と言われていた。先代の句碑は須賀川市立博物館にある。
五月雨の瀧降うつむ水かさ哉
 
 「乙字ヶ滝」には幾度となく来ている。前回は何時だろうか、すっかり様変わりしていた。今回の「旅の未知草」は大荒れになるとの天気予報、ずっと青空が広がる師走、この日に限って「雨」、明日は「雪」かも知れない。予定(1:00)より50分遅らせ家を出た。雨になったのは那須ヶ原辺りから、「乙字ヶ滝;7:00着」の当初予定通り9分前と何時もながらの正確に・・・・ニヤリ!
 芭蕉と曽良は須賀川から守山へ行く予定であった。守山に行くのには、三春街道を行くとすぐ近くなのだが、等雲(吉田祐碩)の勧めで石河の滝(乙字ケ滝)を見てから守山に入ることになった。ところが、連日の雨で川を越すことが出来ないからと、一日延期したのである。(今日の雨天、芭蕉・曽良の気持ちになれたと感謝
 (翌日は)珍しく快晴であった。十時ごろ須賀川を発って石河の滝(乙字ケ滝)に向かった。滝壺のやや下流は床滑(ほぼ、撮影した中洲付近)になっており、其処は徒歩で渡れるのだが、この日は水量が多くて渡れなかった。やむなくさらに下流の渡舟場(
Google Map)を渡り、1キロも上に登って(サイクリングコースになっている)滝の南岸に着いた。滝の水かさが増しており、阿武隈川の川幅いっぱいが滝となっている豪快な眺めであった。
 石河滝を見てから、芭蕉と曽良は再び道を引き返し、小作田村に入った。小作田村は阿武隈川東岸の宿場で「馬次」であった。ここで阿武隈川に別れ、山間の街道を守山へと向かったのである。
 撮影を終えたのは7:22、予定に8分の余裕がある。妻が持たせてくれた朝食を済ませ7:38に発つ。ドアを閉じる際に雨傘を挟み傘の骨を折ってしまった。本降りの雨、外回りは始まったばかりである。何処かで買い替えよう。さて芭蕉はこの先、下流の「八流の滝」から「守山村」へと向かう。
【和田大仏及び横穴墓群】 所在地;福島県須賀川市(小作田村付近)
 芭蕉は「五月雨耳飛泉婦梨う川む水可佐哉」を詠んでいる。それゟ川ヲ左ニナシ、壱里計下リテ、向小作田村と云馬次有。・・・・その「小作田村」(馬次)には、当時を偲ぶものがあるか調べるも見当たらない。「Google Map」で川(阿武隈川)一つ挟んだ対岸に「和田大仏及び横穴墓群」なる遺跡が眼に止った。
 
 この付近一帯は、古墳時代「石背の国」の中心地であったらしく、たくさんの古墳が点在している。大仏の掘られた(鎌倉時代)崖面にも数十基の横穴古墳が築造されている。これらは、阿武隈川流域を中心に支配していた豪族の墓跡と考えられている。阿武隈川左岸に伸びる丘陵地丘陵地、「和田大仏」より川下側400m程の地に「和田城跡」(土塁)がある。これは、「二階堂氏」の家臣「須田氏」の居城と言われている。
 天正176月(1589)摺上原の戦いで蘆名義広が大敗して蘆名氏が滅亡すると、伊達政宗に須賀川城を攻められた。和田城主の須田美濃守盛秀は須賀川城の城代となっており、籠城して伊達軍に徹底抗戦したが、1026日落城した。須賀川落城後、盛秀は自らの居城・和田城に火を放ち常陸国に逃れ、佐竹義宣に仕え、文禄4年(1595)に茂木城主として須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣など約百騎(茂木百騎)を預けられた。盛秀は義宣の信頼厚く、関ヶ原の戦いの後、義宣が出羽国に移封されると慶長7年(1602)に角館城を受け取り城代を務め、さらに翌年には横手城城代となった。また、寛永元年(1624)に改易されて秋田久保田藩へのお預けの身となった本多正純・正勝父子を監視役として預かった。寛永2年(1625)、死去享年96歳。ちなみに、芭蕉・曽良がこの地を訪れたのは元禄2427日(1689)、64年後のことである。
【八流の滝】(網ノ輪滝) 所在地;福島県須賀川市(小倉村→小塩江村→須賀川市)
 
 
 「八流の滝」は「網ノ輪滝」とも呼ばれ、宇津峰を源とする塩田川と小倉川とが合流した下流にあり、磨いた砥石のような断崖から、川の水が八條に分れて流れ落ちる。
【芭蕉の辻】 所在地;福島県須賀川市(小倉村→小塩江村→須賀川市)
 「須賀川」を発った芭蕉と曽良は「石河の滝」(乙字ヶ滝)を訪ね、「八流の滝」の上流に向かう細い山道を北へ上り詰め、須賀川・塩田間の道路、この十字路「芭蕉の辻」を通って大渋沢へと向った。
【守山城跡】(城山八幡宮) 所在地;福島県郡山市(守山村→守山町→田村町→郡山市)
本丸土塁 二の丸跡
 
本丸跡にある城山八幡宮
 城跡は谷田川と黒石川に挟まれた段丘上に占地し、主郭部は東端の小高い丘陵に所在している。 近年において近世初期蒲生氏時代の大規模な野面積みの石垣が発掘調査により確認された城跡で、主郭(本丸)と推定される通称城山八幡にも郭と明確な土塁が残存している。
本丸跡の周りに見られる低土塁(木立)
 坂上田村麻呂(平安時代;797)が蝦夷追討の際にこの地に城を築いたと伝承。その後、坂上田村麻呂の子孫である田村庄司氏が本拠地として南北朝時代までこの地方を支配。関東公方の攻撃(永享の乱;1438)による没落後は、三春田村氏が三春城に居城を移すまで本城となった。その後、三春田村氏は、伊達氏の傘下に入る。天正16年(1588)伊達政宗は、白石宗実、片倉景綱らを守山城へ配して、蘆名氏を摺上原の戦いで破り、南奥羽をほぼ制圧した。豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達氏がこの地を去ると、代わって蒲生氏郷の支配下に入る。守山城へは田丸直昌が配され改修が行われたが、後に三春城へ移る。慶長3年(1598)に蒲生氏が宇都宮城へ移った後は、上杉景勝の支配下に入り、慶長6年に再び蒲生氏の支配下に入るが、元和元年(1615)一国一城令により廃城となった。
【守山馬次】 所在地;福島県郡山市(守山村→守山町→田村町→郡山市)
 
守山問屋(善兵衛)跡   守山陣屋跡
 元禄2年(1689)旧暦三月二十七日に江戸を発った芭蕉は四月二十九日(新暦616日)に須賀川から乙字滝を経て守山に到着している。曾良は次のように記している。「ソレゟ弐里下リ、守山宿と云馬次有。御代官諸星庄兵へ殿支配也。問屋善兵へ方(手代湯原半太夫)へ幽碩ゟ状被レ添故、殊之外取持 。」
 当時、守山は幕府領で代官が置かれていた。代官所の跡は分っていないが、おそらくその後の守山藩の陣屋と同じ屋敷地であったろうと推測される。時の代官は諸星庄兵衛であった。問屋善兵衛は樫村善兵衛で守山の庄屋を勤めている。樫村家は明治維新まで庄屋役を勤めていた。樫村家の屋敷地は陣屋のすぐ南側にあった。須賀川の幽碩が紹介状を善兵衛方へ遣わしたので、殊の外もてなしを受けたのだろう。(説明板
【田村神社】 所在地;福島県郡山市(守山村→守山町→田村町→郡山市)
 元禄2年(1689)旧暦三月二十七日に江戸を発った芭蕉は四月二十九日(新暦616日)に須賀川から乙字滝を経て大元明王を参詣している。曾良は次のように記している。「本実坊・善法寺へ矢内弥市右衛門状遣ス。則、善兵へ、矢内ニテ、先大元明王へ参詣。裏門ゟ本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。村レ雪哥仙絵・讃宗鑑之由、見物。内、人丸・定家・業平・素性・躬恒、五ふく、智證大し并金岡がカケル不動拝ス。探幽ガ大元明王ヲ拝ム。」
 本実坊は本願坊のことで東参道南側にあった。善法寺は善法院のことで東参道北側にあった。善法院は比叡山の直末寺であったが、明治の神仏分離で廃寺となった。芭蕉は善法院で雪村の歌仙絵五幅、智証大師と巨勢金岡の不動明王像を拝観しているが、今は散逸して残っていない。芭蕉が拝んだ狩野探幽の描いた大元帥明王像は現在も残っている。鎮守山泰平寺大元明王は明治の神仏分離で廃寺となり、その本堂は現田村神社の本殿となっている。本尊の聖観音菩薩像と大元帥明王像は今も本殿内の厨子に安置され、新暦一月十三日と旧暦六月十三日に狩野探幽作の画像と共にご開帳される。
 元禄2422~29日、「奥の細道」旅中「須賀川」での作。芭蕉・曽良は29日に田村神社(大元明王/明治15年に改名)を参詣している。
風流のはじめや奥の田植うた
 「田村神社」には、芭蕉の句碑撮りに幾度となく訪れている。芭蕉・曽良が、わざわざ遠回りして参拝している場所であることを見落としていた。
【阿武隈川の河道跡;三日月湖】(金屋) 所在地;福島県郡山市(金屋村→高瀬村→田村町→郡山市)
 「金屋」、曾良は次のように記している。「カナヤト云村へかゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ゟ郡山ヘ弐里余。日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ」。→Google Map
【日ノ出橋】(「アブクマ川ヲ舟ニテ越」の探索) 所在地;福島県郡山市安積町日出山
 「本通日出山ヘ出ル」となれば、道筋は「笹川」→「日出山」となり地形等も含め(前述の三日月湖の内側も日出山の一画)推察してみた。→Google Map
【耳語橋の碑】(耳語橋と音無川) 所在地;福島県郡山市
 
 天平4年(732)奈良が都として栄えていた頃、都より葛城王が按察使として陸奥の国に下向の際、片平郷の国司祇承が三年の年貢を怠っていたので王の怒りにふれた。その時、みめ麗しい春姫が「安積山影さえ見ゆる・・・・」と詠みて歓待につとめたので王の怒りがとけた。王が都に還る時、この地まで見送りにきた春姫と、橋の上で別れを惜しみ何やらささやいたが、里人には何も聞こえず川の流れも一瞬止まったと云われ、後世この川を「音無川」、橋を「耳語橋」と称するようになった。
 
 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾れ思はなくに 万葉集
 あづま路やささやきの橋中たへて文だに今はかよはざりけり 源頼義
 みちのくの音無川にわたさばやささやきの橋しのびしのびに 源頼義
【天性寺】 所在地;福島県郡山市(安積町笹川御所前)
 「篠川(ささがわ)御所」の足利満貞公は応永27年(1420)京都の天龍寺(足利尊氏を祀る寺)の「天」「龍」一字づつ入れて「天性寺」と「龍性寺」の二寺を御所内に開山しました。「龍性寺」は明治6年(1873)に廃寺。「天性寺」は明治43年(1910)に汽車からの飛び火で焼失し現在地に移築、現在に至る。足利満貞は室町時代中期の武将、第2代鎌倉公方足利氏満の二男、兄は第3代公方足利満兼である。陸奥国安積郡篠川(現郡山市)に派遣、下向し「篠川御所」(篠川公方)と呼ばれる。同時に弟の満貞も陸奥岩瀬郡稲むら(現須賀川市)に下向し「稲村御所」(稲村公方)と呼ばれる。鎌倉府の奥州統治体制の再編成によるもの。→天性寺説明板
 天性寺様の大駐車場をお借りし、この後「熊野神社」「東館稲荷神社」(篠川御所東館跡)に向かう。
【旧一里塚跡供養碑】 所在地;福島県郡山市
 
 天性寺駐車場の東側を東北本線が走っている。踏切を渡り右方向に「熊野神社」に続く道がある。そこに、「旧一里塚跡供養塔」が建っていた。→説明板
【熊野神社】 所在地;福島県郡山市(安積町笹川篠川)
 当社創立は不詳なるも、応永27年(1421)足利満貞の治世のおり、紀州熊野大権現より分霊されたもので、篠川御所の守護神であった。→説明板
 「天性寺」→「熊野神社」→「東館稲荷神社」(篠川御所東館跡)の徒歩マップ。→Google Map
 
【東館稲荷神社】(篠川御所東館跡) 所在地;福島県郡山市(安積町笹川高瀬)
撮影画像ピンボケにてネット検索での借用画像
 
 鎌倉公方足利満兼は1399年、弟の満直(篠川御所)と満貞(稲村御所)を陸奥に派遣するが、南奥の一角に根拠を持つことができたにすぎない。鎌倉府滅亡の永享の乱(1438年)にて、稲村御所満貞は鎌倉に上って鎌倉公方足利持氏とともに自害、篠川御所満直は幕府と直結し、持氏にとって代ろうとする野心をみせるも、成功するはずもなく永享12年(1440)の結城合戦で殺されてしまう。この間41年(1399~1440)。
【明治天皇笹川御小休所之碑】 所在地;福島県郡山市
【石造宝塔三尊供養塔婆】(子安観世音菩薩) 所在地;福島県郡山市
 
 高さ67cm、凝灰岩に半肉彫した三尊仏と2基の三重層塔、その構図が珍しい。三重塔を中尊の両側に配しているのは、全国的にもこの作品だけと思われ珍しい。→説明板
【善導寺】(芭蕉句碑) 所在地;福島県郡山市
 
浅香山帷子ほして通里介李
淺香山帷子ほして通りけり (存疑の部)
 令和元年、同じ地区にある安積国造神社に所蔵されていた古文書「安藤親重覚書」(第55代宮司)から、芭蕉が旅の途中で安積郡片平を訪れた際に詠んだとされる「浅香山帷子ほして通里介李」という句が発見(20199月)された。そのなかに、その句碑が同寺にあったと記されており、文化4年(1807)の郡山宿大火で同寺が焼失した際に行方不明となったことも判明した。善導寺(中村隆敏住職)が、江戸時代に同寺境内にあった、「おくのほそ道」で知られる俳人松尾芭蕉の句碑を令和2128日(2020)に再建した。
 「安藤親重覚書」には、芭蕉作として記された句「安積山かたびらほして通りけり」とともに、室町時代後期の連歌師で会津・猪苗代氏の一門、猪苗代兼載の歌「安積山片平越に袖ぬれて初時鳥おとづれぞする」も少し誤って記されています。定本では「安積山片平越えて来てみれば初ほととぎす音信ぞする」とあり。また、夏に、「帷子」(かたびら=衣服)を干すイメージは、「万葉集」にある有名な持統天皇の御製「春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天の香久山」と重なります。これは芭蕉作の句が、この先人らの作品を踏まえていたことを示しています。
 曽良は次のように記している。「五月朔日 天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出。壱里半来テヒハダノ宿、馬次也。町はづれ五六丁程過テ、あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣而ソノ辺山ゟ水出ル故、いずれの谷ニも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハ、コレゟ(道ゟ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ゟ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。」
→「帷子」(衣服=かたびら)⇔「片平=現郡山市片平町」、衣服と地名を掛けて詠んでいるとか・・・・。
 「片平村」は「安積山」より西方に2里ほど離れているし、「奥の細道」の「山ノ井清水」は「安積山」にある。曽良が記す「帷子=片平村」には「采女神社の山ノ井」(采女の里)がある。「安積山影さえ見ゆる山の井の浅き心をわが思わなくに」は、「片平村」である。私は「曽良随行日記」との整合性もあるので「奥の細道」(浅香山)とのリンクで「疑義の部」からの繰上げに1票を投じたい。→「片平の安積山」(采女)、「日和田の安積山」(芭蕉)、「逢瀬の安積山」(額取山/ひたいとりやま1009m)(万葉集)
 中画像は「露秀句碑」、右画像は「冥々句碑」。「安積国造神社」で記す①と②、松尾芭蕉の来訪から80年ほどたった18世紀後半、郡山宿では、芭蕉の作風を受け継ぎ、実力を持った俳人たちが登場しました。その郡山俳壇の中心人物が、①佐々木露秀(1735-1807)と、その弟で本宮宿の商人となった塩田②冥々(1740-1823)です。
【安積国造神社】(あさかくにつこじんじゃ)(芭蕉句碑) 所在地;福島県郡山市
 創建は、第13代成務天皇の御代。勅命により、比止禰命が安積国造に任ぜられ、当時未開の地であったこの地を開き、治めました。社稷の神として、安積国造神社がお祭りされ、それ以来、祭祀が継承され今に至ります。江戸時代、最高学府の昌平坂学問所教授となった大儒安積艮斎先生は、第55代宮司安藤親重の三男です。→説明板
浅香山帷子ほして通里介李
 松尾芭蕉の来訪から80年ほどたった18世紀後半、郡山宿では、芭蕉の作風を受け継ぎ、実力を持った俳人たちが登場しました。その郡山俳壇の中心人物が、①佐々木露秀(1735-1807)と、その弟で本宮宿の商人となった塩田②冥々(1740-1823)です。郡山俳壇誕生の経緯は安積国造神社の代55代宮司、安藤親重が天保2年(1831)、覚書に記しています。それによると郡山宿には当時、俳諧を好む人も多かったのですが、実力を身に付けたのは師との出会いからでした。その師が、磐城生まれの能楽師、俳人の二世服部(露仏庵)沾圃(1701-1773)。一世沾圃は、芭蕉の晩年の弟子です。二世沾圃は、芭蕉と交流のあった磐城平藩主の次男内藤露沾に20歳の頃から仕え、豊かな文芸の才能を愛されました。露沾の没後は各地を巡り、郡山宿を訪れたのは宝暦年間(1751-1764)の初めでした。郡山での沾圃の門人では、露秀が儒学に優れていたこともあり群を抜いて優秀でした。露国、露滴(水戸新左衛門)、左考(沢屋、遠藤左五右衛門)、沾三といった門人も熱心で、左考、露滴、青二(田村屋、国分荘蔵)たちは長く俳諧を続け、安積国造神社に発句、沾圃の筆で連歌を奉納もしています。その後、露秀と冥々は安積、田村、安達、岩瀬の俳壇の大きな勢力となり、芭蕉が大成した蕉風俳諧を広げていきました。さらに明和5年(1768)、俳諧集「俳諧三本桜」を出版すると、その名は全国区となりました。現在、同市清水台の善導寺には安永8年(1779)、沾圃の七回忌に露秀らが建立した師の顕彰碑が立ち、郡山俳壇の生みの親、沾圃の功績をたたえています。句碑は二ノ鳥居手前左手、駐車車両に隠れ目立たない所にある。→説明板
 
 「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」(万葉集巻第十六 三八〇七 大伴家持)が、一の鳥居右手にあった。
【妙寶寺】 所在地;福島県郡山市
 「善導寺」さんの駐車場(予定;12:50、到着;11:55、ほぼ1時間の余裕)に車を置かせて頂き、先ずは妻が持たせてくれたお弁当で昼食を摂る。「善導寺」参詣目的の「芭蕉句碑の撮影」、そして徒歩で「安積国造神社」へと「芭蕉句碑の撮影」を済ませ、「善導寺」さんの駐車場前を通過し「妙寶寺」さんに向かう。
 高嶽山如寳寺は大日如来をご本尊とし、真言宗豊山派長谷寺(奈良県桜井市)をご本山としてる。古より郡山の中央高台に位置し、1万坪の境内には七堂伽藍の荘厳な建造物群のほか、平安朝時代の古瓦、鎌倉時代の古碑、明治の先覚者遺碑などが保存され、千余年もの年月を数える由緒ある寺院です。特に、笠石塔婆と板石塔婆は供養塔として、東北地方最古のもので、国の重要文化財の指定を受けている。とのことで拝観させて頂きたかったのだが・・・・。
 「切支丹墓碑」は、郡山旧家・川崎屋宗形氏の先祖の墓で、銘に残る元禄7年は島原の乱後57年にあたります。当時キリシタン弾圧の厳しい時代で、はっきりと十字章を残したものは珍しく、当地方にキリシタンが多く存在したことを明らかにすると同時に、切支丹研究にも貴重な墓碑となっています。
 あいにく、境内が工事中であったこと、立派な門が2つ並び、参道が庭園になっているように見えたので、一旦門を潜り外に降り、もう一方の仁王門より再び境内に戻った。仁王門から左手に「切支丹墓碑」が見え、その先に数多くの古碑や板石・塔婆等があり、すっかり気を取られてしまった。大本堂・書院を再び注視し前を通り過ぎ先を急いだ。ここで、大本堂と2つの門の間が死角になっていることに気付かなかったことで、肝心の収蔵庫「国寶殿」(笠塔婆や板碑が納められている小堂)を見落とすことになった。そもそも「国寶殿」の存在は、紀行編集時の再検索で初めて知ったことなので、今回のチョンボは単なる事前調査不足である。
①石造笠塔婆;東北地方で最古級の供養塔。承元2年(1208)の銘がある。
②板石塔婆;東北地方で最古級の供養塔。建治
2年(1276)の銘がある。
←画像は「妙寶寺」ホームページより参考借用
【郡山尋常小学校】(金透記念館) 所在地;福島県郡山市
 
 「妙寶寺」を後にし通りに出ると、見覚えがある建物が目に入った。「郡山尋常小学校」(金透記念館)は、「旅の未知草」、「近代建築;福島中通見聞」(2020.1.17)編で訪れていた。ほぼ、2年前のことである。
【郡山宿】(なかまち夢通り) 所在地;福島県郡山市
 芭蕉句碑「浅香山帷子ほして通里介李」があった。当時の「善導寺」は、文化4年(1807)に類焼し、再建後の慶応4年(1868)に戊申の兵火で再び焼失。明治18年(1885)中町の現みずほ銀行裏(芭蕉通り辺り)から現在地に移転して再建されたものの明治33年(1900)に焼失した。
 「日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。」なる場所を訪ねる。郡山駅と「善導寺」「安積国造神社」の間に「郡山市中町」なる一画があり、「旧奥州街道」(なかまち夢通り)が通っている。郡山の「うすい百貨店」と「みずほ銀行」の間を抜ける街中道路である。中画像辺りが「芭蕉一宿の地」(Google Map)らしい。
 芭蕉と曽良が元禄2429日に一宿した郡山での宿は「斎藤洞水の宿跡」(現郡山市中町の斎藤方)だと地元では伝えられている。斎藤家の子孫、中町11番の酒屋「つたや」。専務の斎藤淳宏さんは「うちは分家で、本家は現在の中町番。うすい百貨店の前の通りに面した、居酒屋の辺りにあった。伝わる家系図によると、当時の主人は斎藤惣右衛門。別名は洞水といい、これは俳号のようだ」と話す。(福島民友新聞記事より)
 「なかまち夢通り」から細い小路「代官小路」を「陣屋通り」まで行き、同じ小路を元に引き返した。
 一旦「なかまち夢通り」に戻り先へ、「表参道」へと左折する。「安積国造神社」の鳥居が有り、突き当りに「安積国造神社」が指呼できた。更に進むと小路(芭蕉通り)があり左折する。
 「芭蕉小路」で今回の「旅の未知草」は終了。只今の時刻13:31、予定は14:20、「善導寺」到着後に昼食11:55。お腹が空いた訳ではないが、「旅の打ち上げ」として「芭蕉小路」にある「比内やサスケ」でランチ(更科そば+ミニ親子丼)を頂く、この「ミニ親子丼」は生れて初めて口にする「スプーン」で食べる(飲む?)という代物。
 この後、少しばかり遠回りになるが予定より早いので「安積山」へと舵を切る。
【安積山】 所在地;福島県郡山市
 「奥の細道の碑」(浅香山・信夫の里)
 等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮の宿を離れて、浅香山あり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもやや近うなれば、「いづれの草を花がつみとはいふぞ」と、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ。
 「曾良随行日記」五月朔日 天気快晴。
 日出ノ比、宿ヲ出。壱里半来テヒハダノ宿、馬次也。町はづれ五六丁程過テ、あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣而ソノ辺山ゟ水出ル故、いづれの谷ニも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。
 更に続く「曾良随行日記」に興味ある記あり(考察)
 山ノ井ハ、コレゟ西ノ方三リ程間有テ、帷子(片平の誤り)ト云村ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、不しん也。・・・・「浅香山帷子ほして通りけり」(存疑の部、芭蕉翁句解参考)
 曽良は次のように記していた。「惣而ソノ辺山ゟ水出ル故、いづれの谷ニも田有。」・・・・これをもって、「山ノ井清水」と呼ぶ。
 「あさか山」(万葉集 巻⑯)
安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
【編集後記】 所在地;福島県本宮市 国道4号線「五百川駅入口」
 「旅の未知草」の多くは、途中の雨天にも関わらず目的地に着く頃には晴天になる。数多の寺社に参詣、賽銭はなくも心からの参拝、そのご利益もあってのことか「晴男」であった。今回は、「三日月湖」「阿武隈川の渡し」辺りを境に雨も上がり郡山宿では青空が広がり、安積山を後に国道4号本宮市辺りでは行方に虹が出た。この分だと明日の帰路は雪にならなく通常の帰路になるのではと・・・・。ホテルチェックインは18:47、走行距離は433.5kmであった。
 翌朝、ホテルから見下ろす駐車場は・・・・雪降りで車の屋根は白一色。午前中は雪が舞うも一旦は止み、帰路に着く15時には再び雪が舞う。仙台市街地のインターチェンジから高速道路に、入口表示板に「東北自動車道;桑折から飯坂、吹雪で通行止」と・・・・。様子を見てと「仙台南部道路」で岩沼まで走り最終決断しようと・・・・通行止の区間は上り方向に伸びていた。よし、「常磐自動車道」を走ろうと決断、いつもの一般道に降りる「西那須野塩原IC」(17:00)、同時刻には「日立中央IC」の手前まで走っていた。「友部JCT」より「北関東自動車道」へ、「栃木都賀JCT」で一時「東北自動車」に合流し「岩舟JCT」で「北関東自動車道」に逸れ「伊勢崎IC」で一般道に降り、いつものルートで帰宅。家に着いたのは21:1030分近く早い。帰路は465.3kmと約50km遠い、総走行距離は901.4km。東北自動車道で何らかのアクシデントが起きた場合の迂回路になる。高速料金は「東北自動車道利用で、3,700」「常磐自動車道+北関東自慈雨車道利用で、5,260」、「割引で1,560高く」なる。「伊勢崎」より手前でR50に近いIC(太田桐生IC5,050)で「1,350高」で収まる。次回からそうしよう。
 そして、今回も仕入れた宮城・山形の地酒より、「純米酒浦霞300ml」を紹介しましょう。そのラベルには、「鹽竈の浦の松風霞むなり八十島かけて春や立つらん」(金槐和歌集源実朝」)の書き込みあり。風流な飲み切りボトルで、書き終えた「旅の未知草」の回顧を肴にしています。
              MP3 夢幻の風