海野宿;日本の道100選(北国街道)
2022.02.23 (水)晴 -
 【海野宿】(北国街道江戸方向) 所在地;長野県東御市
 「北国街道」(信越)は、中山道と分れる「追分宿」(軽井沢町)を起点とし、「田中宿」(東御市)-「海野宿」(東御市)-「上田宿」(上田市)・・・・「野尻宿」(長野県信濃町)県境「関川宿」(新潟県妙高市)・・・・「直江津追分」(上越市)で「北陸道」に合流し「出雲崎」または「新潟湊」(新潟市)まで(もともと不鮮明さはあったようだ)、江戸幕府によって「北国脇往還」または「善光寺街道」ならびに「佐渡の金」を運ぶ「準五街道」として役割を果たした。
 【海野宿】(北国街道江戸方向)
 台風19号(2019.10.13)千曲川氾濫で、国道18号から千曲川右岸の海野宿に下る高架橋が崩壊、復旧工事の最終検査で問題が発覚し未完成の状態。旧北国街道で海野宿に向かう。海野宿手前に「浮世庵柳哉」の句碑が有った。本名を宮下久太郎、明治14年(1881)この地三分に生まれ、俳号を第二世浮世庵柳哉という。句碑は「痩せたまゝ遂に石間の草枯るゝ」。
 【しなの鉄道】(旧信越本線)
 【海野宿】(北国街道田中宿側入口)
  【海野宿の街並み散策】(上田宿側;海野宿西口としておこう)
 「田中宿側」(海野宿東口)は江戸側に当るので表口に当る。「台風19号災害」(2019.10)復旧工事の完成直前の検査で不具合が見つかり未だに修復が終えていなく「東口」への道路も通行止・駐車場も閉鎖のままになっている。「西口」から離れた千曲川縁の駐車場に停めるしかない。「浮世庵柳哉」句碑から駐車場→Google Map
 【海野宿】(北国街道上田宿側入口)
 「海野宿」(北国街道)は、伝統的な家並みが現在まで保存されていることから、昭和61年(1986)には「日本の道百選」に選ばれ、昭和62年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定、街道一帯が貴重な文化財に指定。「海野宿」は、東西の街道筋で南側(右側)に水路が沿っている。掲載画像と実際の家並びは是にてご理解ください。→ Google Map
 「海野宿」(東側江戸口)に、「旧地蔵寺跡」(媒地蔵/縁結地蔵、媒=なかだち)があり、その隣に「白鳥神社」がある。境内は「木曽義仲挙兵の地」(白鳥河原の勢揃)であったという。「白鳥神社」は、平安時代にこの地に鎮座していたことは明らかである。それは、「源平盛衰記」に記される木曽義仲挙兵の件による。義仲は、治承五年(1181)海野氏を中心に白鳥河原で兵を挙げた。この白鳥こそ白鳥大明神である。海野の地は、奈良時代に海野郷と称し、この地から献上された品が、正倉院御物として残っている。そんな事からも、白鳥神社の創建は、奈良から平安にかけてと推測できる。
 白鳥神社は、日本武尊と海野氏の祖をお祀りしているお宮である。その後、海野氏の子孫である真田氏により、篤く尊崇を受けることとなった。そして、真田家が松代へ移封となり、白鳥大明神を松代へ分社し、安政五年、海野神社と改称している。
 鎮守白鳥神社に守られている海野宿は、寛永二年(
1625)に北国街道の宿駅として開設された。北国街道は、佐渡で採れた金の輸送や、北陸の諸大名が参勤交代で通った道であり、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多かった。この地域の交通の要衝であった海野宿は、たいへんな賑わいを呈した。
 明治時代に入り宿場の機能は失われてきたが、海野は、宿場時代の広い部屋を利用して、養蚕・蚕種業で復興した。この養蚕最盛期の明治・大正時代の蚕室造りは、江戸時代の旅篭造りと良く調和して現在まで残されてきた。
  【海野宿】(北国街道田中宿側入口)
 是より来た道を引き返す。街中を抜ける「北国街道」は一直線、街並みの先に見える西の空に雲が・・・・、雲の無い時は北アルプス後立山連峰が見える。毎年、旧北国街道海野宿で11月の第1日曜日に「海野宿ふれあい祭り」が開催される。時代衣装行列を始め、上田城・松代甲冑隊行進、江戸芸かっぽれ、人力車試乗体験、白鳥神社の浦安の舞など、情緒溢れる海野宿の街並みに、往時の賑わいが蘇ります。・・・・とのこと、一度は見てみたいものです。カレンダーに記しておきましょう。
 「保福寺道Ⅱ;歴史の道“令制東山道Ⅰ”」(浪漫紀行967話、2021.05.02)に記載した「海野氏」との結びつき・・・・。この銘にある善福寺は祢津氏所領の祢津小田中にあった善福寺とおもわれ、浦野荘の代官が祢津氏一族の浦野氏であることなどから、その中にある村松郷も祢津氏所領に関わる可能性を示唆している。天文十年(1541)に村上・諏訪・武田の連合軍が「海野氏」を攻めるまでは、塩原・田沢・奈良本は祢津氏の関係所領であったが、以後は村上氏の所領となり塩田にいた村上氏代官の「福沢氏」(実家の先祖に当る)の支配となったとされている。やがて武田氏の支配となるが、武田氏滅亡後は真田氏の所領となり一門の小山田茂誠に与えられたものである。
 海野幸氏は、鎌倉時代初期の御家人で、信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる海野氏の当主。「保元物語」や「平家物語」などに登場する「海野幸親」の三男で、鎌倉時代初期を代表する弓の名手として知られる。「滋野系図」では海野幸広の子とされる。
この海野清き流れに白鳥はあとたれそめて幾世へにけん 海野幸氏(巻末に補足)
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            MP3 春の吹く場所で