東山道Ⅰ;都と陸奥を結ぶいにしえの道(上野国)
2022.02.26 (土)晴 -
 1月の「旅の未知草」で、「いにしえの回廊;都と陸奥を結ぶ東山道」(群馬・栃木・福島)を計画していたが、「オミクロン株」の著しい感染拡大で1-2月の仙台出張を自粛。221日に3回目の接種を済ませたこともあり「群馬編」に臨んだ。
 【江戸道・日光道常夜燈】(倉賀野追分;後方から右へ旧中山道・左日光例幣使街道) 所在地;高崎市倉賀野町
 「東山道」の最初の地点は「砂町遺跡」、さほどの回り道でもないし早朝ゆえ立ち寄ってみることにした。旧中山道「倉賀野宿」の先に、「例幣使街道」との「追分」がある。日出前に到着、時間調整に周囲を一回りしてみた。この後、「五料関所跡」(玉村町)に行くも、筋違いに気付かず。「?」と思いつつ撮影、編集時に「ボツ」とした。もう数10m先にある。
  【砂町遺跡】(北部公園) 所在地;佐波郡玉村町
 「砂町遺跡」は、古墳時代の用水路、古代の道路遺構、平安時代の水田、中世の溝、近代の用水路が「北部公園整備事業」にともない発掘調査で明らかになった。このうち「古代の道路遺構」は、それ以前に発掘調査された「東山道牛掘・矢ノ原ルート」と同じことから「東山道駅路」にあたると推定された。
 「砂町遺跡」から発見された「東山道駅路」は浅間山に向かって作道されているとのことで、園内北西部にある築山の後方から園外への出口があったので園外北川の通路に出てみた。水田地帯の彼方、西北西方向に「浅間山」、その右手に「榛名山」、北東北には「赤城山」が指呼できた。
 妻が持たせてくれた朝食を摂る。家を5時少し前に出た。碓氷峠を下り松井田・安中辺での暁色の空はとても綺麗だった。
 【上野国佐位郡正倉跡】(旧三軒屋遺跡) 所在地;伊勢崎市上植木本町
 上野国佐位郡正倉跡は、これまで三軒屋遺跡の名称で調査されてきた。今から約1300年前、群馬県は上野国、伊勢崎市の大半は佐位郡と呼ばれていた。上植木本町で見つかった三軒屋遺跡は古代佐位郡の役所跡です。
 平成14年度から23年度まで、伊勢崎市教育委員会によって18次(2002-2011)にわたる調査が実施された。これらの調査により、およそ60万平米中に、礎石建物15棟、掘立柱建物40棟以上の倉庫群が検出された。7世紀後半(飛鳥時代)から10世紀前半(平安時代)に使われていた施設です。また三軒屋遺跡の東西には南久保遺跡、大道西遺跡が存在し、それぞれ正倉院に向かう古代の道路跡が見つかっている。
 平成17年の調査では、全国で初めて八角形倉庫が検出され、さらにこの建物が「上野国交替実録帳」という文献の、佐位郡の正倉の「八面甲倉」の記載と一致することが分かった。これにより上野国佐位郡正倉跡であることが確実とり、その名称で国指定史跡となった。この遺跡のように、発掘調査によって検出された遺構と、文献の記述が一致し、遺跡の内容が分かることは、全国でも珍しい事例で、遺構が良好に保存されているため古代官衙遺跡のあり方を考える上で極めて重要な遺跡であると言える。
 「東山道」とは(再記載);古代日本の中央政府は飛鳥時代から平安時代の前期にかけて、計画的に道路を整備した。地方では6mから12mの幅があり、京の都周辺では24mから42mの幅員を持った直線道路であった。東山道は、奈良時代に中央と地方を結ぶために、政治的に造られた国道であった。古代の五畿七道の一つでいわゆる官道の名称であった。東山道の当初起点は、近江の国(滋賀県)瀬多(瀬田)で、終点は宮城県の多賀城までだった。
 【十三宝塚遺跡】(牛堀の遺構) 所在地;伊勢崎市(旧境町)
 「十三宝塚遺跡」は南北約390m、東西は200m以上に及ぶ。西辺と南辺は幅4.7m、深さ2mほどの溝で区画され、東辺は自然地形の谷になっている。本遺跡からは、上野国佐位郡の郷名を記した文字瓦が出土し、佐位郡の郡衙の遺構とする説もあった。しかし、仏像の破片や上野国分寺創建瓦と同じ瓦、奈良三彩陶器などの遺物も数多く発見された。検出された建物群の配置や、出土品に仏像、仏具などの仏教関係品が多いことから、奈良・平安時代の仏教寺院の跡と見做されるようになった。
 「十三宝塚遺跡」の北辺には古代の主要道であった「東山道駅路」が通っていたが、官道のルート変更により「東山道」の側溝を利用した古代の用水路(牛堀の遺跡)となっている。民間企業の敷地内に保存エリアとして管理されている。
 
 【東山道公園】(旧東山道復元) 所在地;太田市新田大町
 「推定東山道駅路」は新田町から旧境町まで延長8km以上にわたり一直線に造られたことが発掘調査によって明らかになっている。東山道公園として整備されている遺跡では、幅12mで両側に側溝を持つ大規模な遺構であった。公園内には約250mが保存されている。
 東山道駅路は、旧佐波郡境町(現伊勢崎市内)から新田地区まで、およそ8kmに渡って一直線に造られ、幅12-13mの路面の両脇に側溝を持つ広大な道路であることから、東山道駅路であると考えられるようになった。7世紀後半頃に造られ、8世紀中頃には使われなくなったと考えられている。幅が12mもある広々とした道路は、実用的というより国家の威信を見せつける為であったのだろう。
 【生品神社】(新田義貞挙兵伝説地) 所在地;太田市新田市野井町
 鎌倉時代末期の元和3年(1333)、新田義貞が後醍醐天皇の勅旨を受けこの地から鎌倉幕府倒幕の挙兵を挙げたとされる。
 新田堀は元亀元年(1570)頃に、太田金山城主・由良成繁が奉行の荒山小左衛門につくらせた農業用水路。
上段左より
 ①新田義貞公の像
 ②新田義貞牀几塚
 ③新田義貞公挙兵六百五十年記念
 ④新田義貞公挙兵六百年記念
 ⑤新田義貞旗擧塚阯(修復記念)
     
 【上野国新田郡庁跡】(旧新田郡衙の郡庁跡) 所在地;太田市寺井町
 上右端図で、郡家の南縁(下辺)、左から右へ、西は佐位郡(伊勢崎市)、東は山田郡(太田市・桐生市)を結ぶ「推定東山道駅路下新田ルート」が水平に延びている。→Google Map(遺跡表示柱より左(西)へ徒歩移動点、県道39と東山道の交差)
長屋(西) 正殿 長屋(東) 長屋(北)
 奈良・平安時代(7-9世紀)に造られた新田郡衙の郡庁跡が、ほぼ全体のわかる状態で発見された。「郡衙」とは古代の郡に置かれた役所で、「郡庁」とは郡司が儀式や政務を行うところ。新たな発掘で格上になった訳だ。
 ここ迄、(1)郡庁エリア(図の緑色部)の南西端より眺める。「郡衙」と思われていた範囲。
 【上野国新田郡庁跡】(新たに発掘調査されたエリア) 所在地;太田市寺井町
 (3)「正倉」エリア、赤いタンクは柱の跡を示すようだ。遺跡全体は、郡庁にあたる正殿・前殿、税として納められた穀物をしまう正倉、役人が宿泊した館)、厨房施設の厨で構成されています。
 【東山道上州新田道祖神石碑】 所在地;太田市寺井町
群馬県内で発掘された「推定東山道」は複数あり、その北限の途中にある道祖神の石碑である。この地は、徳川氏の祖先とされる新田家があったとされている。徳川家康は残っていた先祖の品を集め祀ったのが太田市金山にある大光院、この地域は大光院と深く関係し17世紀から現在に至るまで餅を大光院に献上しているとのこと。
 【新田堀】 所在地;太田市寺井町
 渡良瀬川から取水し<、太田市北部から新田郡新田町にかけてを灌漑する用水路。延長10.9km、灌漑受益地面積2,800ha。開削は鎌倉期の新田氏によるものとされているが、一般的には新田金山城主の由良信濃守成繁が領内の経済力を増強するため、元亀元年(1570)家臣の荒山小左衛門に用水堀の造成と整備を命じ、新田開発を図ったことを起源としている。
 【新田荘】(東山道旧蹟と寺尾城跡) 所在地;太田市寺井町
 新田の地に本拠をかまえ、庄司となった源義重は新田氏を名乗った(新田氏の始祖)。以来三代87年にわたり居城し、南北朝時代には義貞の弟脇屋義助が城主となったのが寺尾城だといいます。寺尾城の推定地は、片岡郡寺尾村(現高崎市寺尾町)周辺と、 新田郡寺井村(現在地)周辺との2説あり、ここ太田市にあっては和食屋・新田乃庄本店が建っている場所が城跡と伝承される。最近では、前者の説が有力視されている。
 一方、当碑の前に未舗装の空地がある。店の説明では「この旧道は、新田乃庄別館建設に伴い再現された往昔の東山道であります。・・・・」と記されています。また、万葉集東歌2首も刻まれていた。
新田山嶺には着かなな吾によそり間なる児らしあやに愛しも  万葉集第143408
しらとほふ小新田山の守る山のうら枯れせなな常葉にもがも  万葉集第143436
 【寺井廃寺跡】(強戸小学校から強戸中学校界隈) 所在地;太田市天良町
 寺井廃寺跡は現在の強戸中学校から強戸小学校にかけての地域にあったと推定される。宅地化が進み、また中心部分の発掘調査も実施されていなく遺跡の詳細は不明。付近からは、布目瓦と呼ばれる古い形式の瓦が多く出土している。説明板
 種類には、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦などがあり、軒丸瓦には大和川原寺式系の面違鋸歯文縁8葉複弁蓮華文瓦・上野国分寺式系の素文縁5葉重弁蓮華文瓦等がある。出土している瓦から、寺院は7世紀末頃(奈良・白鳳期)に、有力な豪族の氏寺として建立されたと推定され、東毛地域では最も古い寺院と考えられている。寺井町から新田小金井町付近にかけては、新田郡衙である天良七堂遺跡や古代の官道である東山道駅路・入谷遺跡が存在し、7世紀末に建立された寺井廃寺を含め新田郡官衙を形成し、平成20年には新田郡衙の中心部分が「上野国新田郡庁跡」として国史跡に指定された。Google Map
 【二ツ山古墳】(二号墳・一号古墳) 所在地;太田市天良町
 
 「二ツ山古墳」は、北西に隣接する「二号古墳」(上段)と「一号古墳」(下段)と共にこの付近の代表的な古墳である。「築造年代は、六世紀後半から七世紀初めと考えられる。次に掲載する「一号古墳」と共に、終末期の前方後円墳であり、南方の「寺井廃寺」「新田郡衛」(上野国新田郡庁)との関係を考えるうえで貴重な古墳であると言う。
 【赤松の防風林】 所在地;太田市天良町
 「二ツ山古墳」の一号古墳と二号古墳の間を抜ける道路沿いに約500mの、「上州の空っ風」を防ぐ赤松の防風林があった。
 【岩宿遺跡】 所在地;みどり市笠懸町
 第2次世界大戦の頃までは、発掘を進めて赤土(関東ローム層)が出ると「地山」と呼びそれ以上掘ることはなかった。土器を使っていた縄文時代(世界史で新石器時代)の人々が日本の最初の住人だと考えていた。この考古学・日本史の常識を覆し、日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことを初めて明らかにしたのが「岩宿遺跡」である。
 【復元あずま橋と二十三夜塔】(東山道通過地) 所在地;伊勢崎市田部井町
 奈良時代や平安時代に既に日本を縦断する幹線道路として整備された東山道がこの地を通過していた。→説明板
 「東山道」(下野国から陸奥国)への前段階として、「上野国」編を、往復257kmの「コロナ自粛気晴らし旅」を終えた。
            MP3 春の吹く場所で