貞祥寺;通院帰りの未知草
2022.10.20 (木)晴 -
 
 術後のリハビリで毎週通っていた本院で、全く別の事由(右上奥歯の抜歯10/12)でお世話になることになった。今日は、その抜糸であった。抜歯は、1時間の点滴後に行われ、その後の経過も至極良く「お陰さまとのお礼」を述べたら、担当の女医先生に笑顔で「良かったですね」と・・・・。妻の誕生日でもあり、気分も良く、帰路の「通院の未知草」(①旧大沢小学校本館、②洞源湖、③島崎藤村旧宅、④貞祥寺、⑤)となった。
 【旧大沢小学校(本館)】; 所在地;佐久市大沢
 「旧大沢小学校」は、明治26年(1893)に「大沢尋常小学校」として開校された。以前は大沢村にあった龍泉院というお寺の敷地に明治6年(1873)から「文明学校」と呼ばれる学校があった。いつまでもお寺の敷地を借りていては良くないとのことで、明治24年に新築計画が決まり翌年に着工し開校に至った。昭和58年(1983)に野沢小学校と統合し閉校になる。現在は資料館として活用されている。
 【洞源湖】 所在地;佐久市前山
 国道141号に「洞源湖」入口という標識がある。どんな素晴らしい「湖」だろうかと・・・・(知らない人は)思い期待してしまうだろう。ところが・・・・単なる溜池である。すぐ横にある古刹「貞祥寺」の山名が「洞源山」である。その門前に造った溜池なので、寺名より拝借して命名したのであろうと納得した。
 貯水量が少なく水草が伸びている頃の写真を見ると、なかなかの得になっていた。そんな時に出くわしたら、異なった感動があったことでしょう。
 【貞祥寺】(境内に島崎藤村旧宅が移築) 所在地;佐久市前山
 「貞祥寺」は、大永元年(1521)、この地を治めた前山城主の伴野貞祥公が祖父と父の追善のために開山した曹洞宗の寺院である。七堂伽藍(金堂・塔・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・僧坊・回廊・門等必要な建物を備え侶が集まり修行する清浄な場所を指し大本山クラスの寺院の代名詞として使われる言葉)を整え、信濃毎日新聞刊「信州百寺」に選ばれた佐久を代表する古刹である。
 参道石段を登った右手に「圖書館」がある。苔むした境内はまさに「苔寺」の雰囲気に包まれ、木漏れ日が苔に射しこみ古刹の雰囲気を高めていた。
 参道の石段を登ると左手に萱葺き屋根の「島崎藤村の旧宅」がひっそりと佇んでいる。島崎藤村が小諸義塾教師として、明治32年から6年間小諸で暮らしていた旧宅を移築したもの。尚、当旧宅は大正9年に前山の個人が小諸から自宅敷地内に移転し、邸宅の一部として使用していたものを、「藤村生誕100年」を迎えた昭和47年に佐久市が寄贈を受け、昭和49年に貞祥寺境内の一隅に「美しい自然との佇まいの調和」の中に復元された。2回の移転・移築環境より間取り等若干の違いはあるものの萱葺き屋根の邸宅は8畳の書斎と居間、和室2室からなり、資材は当時のものを使用されている。
 
 これより貞祥寺
     
 僧堂の奥にある三重塔は、明治三年廃仏毀釈で廃寺となった小海町松原湖畔にあった「神光寺」から移転したものである。なお松原湖周辺は、日本古来の深耕のあった神仏混合の具現された土地で、寺院としては「神光寺」以外に、神宮寺(江戸時代初期に廃寺)があり、神社は諏訪神社下社、さらに末社が明治の初めには49社あった。当時まで大伴神社もあり、この地方の深耕の聖地だったと思われている。いつか機会をつくり訪ねてみたいものだ。
 なかなか見応えのある「苔むした古刹」であった。春の若葉、真夏の涼、晩秋の紅葉と四季折々の風情を感じることが出来ると記録しておきましょう。
  【大日如来像・芭蕉句碑】(旧中山道) 所在地;佐久市御馬寄
 「中山道塩名田本陣跡」から「中山道八幡宿本陣跡」まで2,600mある。「中山道塩名田本陣跡」から西へ千曲川を越え1,000m行った右手丘上に「大日如来像・芭蕉句碑」がある。ちなみに、その先150mに「御馬寄一里塚跡」がある。そこから眺めた「浅間山」であり、芭蕉句碑は「涼しさや直ぐに野松の枝の形」(元禄7511日伊賀上野の雪芝亭で詠んだ句)
 「塩名田宿」には珍しいものがある。「浅科郵便局」には「浅科郵便役所」の看板が取り付けられている。「郵便役所」は、官営の郵便事業が開始された明治4年(1871)の創業当初の窓口機関である郵便局の初期名称である。近々に訪ねてみよう。→中山道八幡宿(①中山道八幡宿本陣跡、②八幡神社随身門、③御馬寄一里塚跡)→中山道塩名田宿(④河原宿跡、⑤角屋、⑥浅科郵便役所、⑦佐藤半左衛門住宅、⑧塩名田宿高札場跡、⑨中山道本陣・問屋跡、⑩中山道塩名田宿本陣跡、⑪中津村道路元標、⑫宿場満街)
            MP3 春の吹く場所で