興善寺;海野氏の菩提寺
2023.01.16 (月) 曇
 美容院に行く妻のアッシー君、待ち時間に近くの「興善寺」で寺撮りをした。冷え込みも収まったが風が吹き体感温度は寒く時折霙粒が混じる。
 【瑞泉山興善寺】(海野氏の菩提寺) 所在地;長野県東御市
 永正三年(1506)開山(前開山)太路一遵(繁遵)大和尚(本寺可睡斎五世)初代(開山)林英宗甫大和尚(可睡斎六世)を請し開創された。開基は海野氏初代幸明公、瑞泉院殿器山道天大居士を奉じ興善寺を建立する。海野氏は真田氏の本家にして、凡そ千百年前(平安朝初期)清和天皇の孫、善淵王が海野の荘を統治し、二十八代海野小太郎幸義公(真田幸隆の兄)は天文十年、武田信玄の入信により神川に於いて戦死し、海野氏滅亡する。(境内の沿革の冒頭部抜粋)
 海野氏は、信濃国小県郡海野荘(長野県東御市本海野)を本貫地とした武家の氏族。滋野氏の後裔とされる滋野則重の嫡子・重道、あるいは重道の嫡子・広道から始まるとされる。海野氏は摂関家の荘園であった海野荘にちなんでおり、清和天皇の第4皇子貞保親王(滋野氏の祖である善淵王の祖父)が住したと伝えられる場所である。平安時代から同族の根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。鎌倉幕府が滅んだあとの建武2年(1335)に起こった中先代の乱では、海野幸康が諏訪氏や根津氏らと共に北条時行軍に参じ、鎌倉に攻め上る。その後の南北朝時代は他の北条残党と同じように南朝に属し、信濃守護家小笠原氏や村上氏らと対立した。「群書類従」によると、海野幸康は正平7年(1352)に宗良親王に従って笛吹峠の戦い(武蔵野合戦)に参陣し戦死を遂げる。
 
応仁元年(1467)、村上氏との戦いで海野持幸が戦死して所領である小県郡塩田荘が村上氏に奪われ、応仁21468)にも村上氏と「海野大乱」と呼ばれる戦いを繰り広げ、海野氏の勢力は徐々に衰退していった。天文10年(15415月、甲斐国の武田信虎、信濃の村上義清、諏訪頼重の連合軍に攻められ(海野平の戦い)、当主・海野棟綱の嫡男である海野幸義は村上軍との神川の戦いで討ち死にし、棟綱は上州の上杉憲政の元に逃れる。海野宗家はこれにより断絶したとされる。
 難しい歴史的背景はさて置き、簡単に言えば「真田幸村」の本家「海野氏」の菩提寺ということである。
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