坂木(坂城)・村上氏の遺構めぐり
(長野県)
20230401日 (土)
 【村上大國魂社】(狐楽城跡登城口) 坂城町網掛
 ここには芭蕉句碑があり幾度となく来ている。最後に来たのは何時のことだろう。「狐楽城跡登城口」として整備され駐車場が新設されていた。鹿等の防御フェンスが設置され参道入口に開閉部が設けられ参道も整地されていた。
 【村上大國魂社】(村上大國魂社) 坂城町網掛
 古くは泉口明神と称し当社が上社、下社は綱掛の宮沖にあったが上五明に遷座し現在は村上神社となっている。天徳2年(658)村上天皇の第4王子為平親王が村上郷に下向して御所を造営し、泉口御所と称し諏訪明神を祭り泉口明神と言った。その後村上氏代々の氏神として崇敬されたが、天文22年(1553)武田村上の兵火により焼失した。天正11年(1583)村上義清の子国清が上杉氏の臣として旧領に復した時社殿を再建。上杉氏会津移封に従って村上氏が奥州に移った後は村落で祭典を行い、村の氏神として祭り現在に至る。
 【村上大國魂社】(十六夜観月堂) 坂城町網掛
 その昔、都の生活を懐かしんだ村上氏が、この場所で月を眺め歌を詠んだと伝承。ここからは、葛尾山、大峰山、虚空蔵山といった坂城を囲む山々や水面輝く千曲川そして人々が暮らす里が美しく見え、和歌や俳諧に親しむ人々は観月殿の周辺に多くの句碑を建立してきた。
 【村上大國魂社】(十六夜観月堂から眺める坂城町全景) 坂城町網掛
 【村上大國魂社】(芭蕉句碑) 坂城町網掛
 月の名所で更級八景の一つである十六夜観月堂。芭蕉が「更科紀行」の旅の際に「姨捨の棚田」(千曲市)で吟じた句碑「いさよひもまた更級の郡かな」がある。横吹八丁の山道に建てられた「十六夜塚」が、崖崩れで行方不明になっていた。文政12年(1829)に再建。天保14年(1843)に「十六夜塚」は土中から発見され坂城町苅屋原ミニパークの地に再建された。
 【村上大國魂社】(狐落城跡・福沢城跡への登城道) 坂城町網掛
 狐落城は村上義清が葛尾城の支城として築いた城のひとつで、狐が落ちるほど急峻な山から命名された。村上氏の詰めの城ともいわれるほど重要視された城で、天文22年(1553)に武田信玄の侵攻によりこの城が落ちたことを聞くと、義清は家臣を連れて越後に逃走しています。現在城址には土塁や堀切などの遺構が残っているようです。
 三水城(別名福沢城)は村上義清によって築かれた支城のひとつで、おそらく尾根上にある狐落城とともに築城されたと思われます。村上氏発祥の地ともされます。天文22年(1553)に武田信玄が侵攻した際、武田氏に内通した大須賀久兵衛尉によって攻められ落城しました。現在城址には土塁や堀切などの遺構が残り、特に本丸南西にある六重の連続堀切は必見とのこと。かつての私であれば室賀峠まで100%縦走しているでしょう。今は足腰の筋力が落ち傷みもひどく100%不可能でしょう。今日は、その室賀峠(室賀峠史跡公園)まで車で行きます。ならば、私に任せなさいという方のため上記中央画像(1500×1500)をクリック拡大でご覧頂けます。
 【福泉寺】(福沢薩摩守政隆の菩提寺) 坂城町網掛
 「信濃史料巻十二、天文230320日(1554)掲載;小県郡福沢昌景、紀伊高野山蓮華定院に戦乱により賛銭弁済の遅怠せるを弁疏(べんそ;弁解)す。創建については不詳であるが、天正年間(1573-1586)村上氏家臣の福沢薩摩守政隆が天台宗福泉寺を開いたとの説もある。
 参詣主旨を告げご挨拶すると、住職さま(私より2つ年上)が本堂を開けて下さり「福沢薩摩守政隆」(新位牌)を拝観させて下さいました。いろいろとお話を予定を大幅にのび30分の滞在となった。
 今日、「福沢薩摩守政隆」の子孫は「福沢諭吉」とされている。その方が「世の安泰」であろう。戦いに敗れ南へと逃れていった「福沢何某」の子孫であろう。
※塩田城跡と福沢氏
 塩田地方は、鎌倉幕府が滅亡するとともに北条氏にかわって村上氏の勢力下におかれた。村上氏はいまの坂城町を本據とした豪族であるが、塩田地方の支配権を握ると、重臣福沢氏を代官として塩田城に置き前進基地とした。(福沢氏は室賀峠北麓の要衝福沢の出身である)。福沢氏の名が史料にみえるのは、室町初期の文安
5年(1448)ごろからであるが、それより前からここに在城しており、天文22年(1553)、武田信玄に攻められて落城するまで少くも百数十年間、村上氏の代官として塩田城を管理していた。時には村上氏が直接ここを居城としていたこともあったらしい。
※塩田の庄にある福沢氏
 私の実家の仏壇の「位牌箱」(先陣達の)を子供の頃父に見せてもらった。「信州の鎌倉」と呼ばれた地、「北条家」は
2軒裏に有る立派な建物だ。そんな地で何故か、位牌に共通して「平」の文字が入っている。私が社会人として家を出る頃は、ボロではあるが風格のある家で、上田城のお姫様を始めとして別所温泉に入湯に行く途次の御休憩所であった。塩田の地に福沢の姓の家は他にあるが、いずれも歴史は浅く古さでは筆頭である。坂城村上氏の家臣が塩田城主になったのも事実、先祖へと遡れば「福沢氏」の一族「何某」に結びついても不思議ではなし、「我がルーツ」としてもまんざら誤りではなかろう。
 【福沢の里】(福沢川水源はびんぐしの里公園付近) 坂城町網掛
 長野市の病院通いで走る県道77号線(上田-長野)、坂城町網掛地区で福沢川を越える。この地点から上流へ、すぐ先の「びんぐしの里公園」辺りで水源は途切れる。川幅が狭く短い用水路のような川で千曲川の昭和橋で合流する。
 【福沢の里】(福沢川と福沢橋) 坂城町網掛
 近年に造った「びんぐしの里公園」への橋名を除く域内(狭い範囲)の橋名は全て「福沢橋」になっていた。上中央の画像、欄干から見える橋の先で川は消えていた。左上が画像の橋、中上の欄干から上流の橋が見える。その左へ僅か右側辺り、「坂城町網掛2899」(36.442450,138.163328)が「福沢昌景館跡」也。
 【福沢の里】(びんぐしの里公園) 坂城町網掛
 「びんぐしの里公園」は、温泉浴場施設・物産館・農産物販売店・公園・スポーツ施設等の複合施設であり、この一帯がかつての「福沢の里」であり「村上氏発祥の地」である。パノラマ画像の左半分の山が「鬢串」に似ている。村上氏は、平安時代の末ごろから千曲川左岸の「村上郷」を本拠地にしていた清和源氏の一族です。南北朝時代に右岸の坂木(坂城)へ拠点を移し、戦国時代には東北信一帯の勢力をまとめ上げていました。
 【室賀峠史跡公園】(万葉歌碑) 上田市上室賀
 室賀城は武田氏に仕えた信濃の国衆、室賀氏の居城です。山麓にある居館「原畑城」と、詰の城である「笹洞城」をあわせて「室賀城」と呼んでいる。現在、居館跡は畑になっているが、山城部分は「室賀史跡公園」として整備されており、堀切や竪堀などの遺構を確認することができる。また、室賀城から葛尾城へ抜ける室賀峠には、「上田原合戦」の帰陣の際に村上義清が鎧をかけて休んだという松の跡地がある。
 「風越の峰の上にて見るときは雲はふもとのものにぞありける」 藤原家経(詞華和歌集)
→風越山の峰の上にいて眺めると、雲は空の上にあるものでなく麓にあるものだったのだ。
 「萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝貌の花」 山上憶良(万葉集 巻八-1538
→秋の野に咲いている花を指折って数を数えれば次の七種類の花が美しい。
憶良がこの歌で挙げた七草花は現在にも「秋の七草」として伝わっていますが、その独自の選花は興味深いものがありますね。
 「春者毛要夏者緑丹紅之綵色尓所見秋山可聞」
 「春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも」 作者不詳(万葉集 巻十-
2177
→春には草木が芽を出し、夏は緑葉が繁り、そして紅葉がまだらに彩られる秋の山。
 「千早振る神の御坂に幣帛奉り斎ふ命は母父がため」 神人部子忍男(万葉集 巻二十-4402
→神の御坂に幣(ぬさ)を奉ってこの命の無事を祈るのは母と父のためなのです。
 【姫宮跡】(村上義清の奥方自刃の地) 坂城町上平
 対岸に渡った奥方でしたが、敵兵に囲まれ自刃したというものです。それにちなみ、坂城町上平の出浦北部の田の中に、「姫宮の跡碑」が建てられました。寛延3年(1750)に建立された石祠が明治30年頃に岩井堂山中腹の自在神社奥社(坂城町上平538辺りから参道有り)に移転されたため大正13年に建碑されたものです。
 【笄の渡し】(村上義清の奥方が千曲川を渡渉前の地/右岸) 坂城町坂城
 天文224月(1553)、村上義清の居城「葛尾城」(画像右ピーク)が落城。その折り、村上義清の奥方は葛尾城から千曲川の河原に下り、川を渡って力石へ落ち延びようとした。敵軍が迫り来るなか無事対岸まで送ってくれた船頭に、お礼として奥方は髪にさしていた「笄」(こうがい)を渡り賃として贈ったことから、この渡し場を「笄の渡し」と呼ぶようになった。
 葛尾城は村上氏の背部を支える北に位置する支族の屋代氏や雨宮氏、塩崎氏らが武田方の真田幸隆らの調略により離反し、背後の戸倉方面からの攻撃を受けることによって自落した。義清は、それまで仇敵の間柄であった高梨氏の仲介を得て越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。これが12年にわたり5度に及ぶ川中島の戦いのきっかけになった。
 【苅屋原ミニパーク】(村上義清の奥方が千曲川を渡渉後の地/左岸) 坂城町坂城
 前項に続きこの地も「村上義清の奥方が千曲川を渡渉した地」である。旅の順に記載しているが、内容としては、「当項」→「前項」→「前々項」の順である。
 坂木宿を抜けた所から苅屋原榎並木地籍までを結んで山腹の断崖を旧北国街道が通じていた、「横吹八丁」とも言われた所である。
 大部分当時の形跡を失い、坂城側からの登り道、それから蔦尾城の先端部横吹山(646m)の山腹を西に進む横道の一部分が明らかな遺構として認められるだけである。この道は中世においては極めて危険な細道であったが、慶長16年(1611)北国街道全通に当たり道幅を広げて交通の便にした。しかし十分な道幅がとれず往還の大名さえ籠からおりて通ったという北国街道最大の難所であった。明治10年(1877)、山下の千曲川沿いに新国道が開通し以後往還の使用がなくなった。
左より3句碑
 「いさよひもまた更科の郡かな」(芭蕉)「更級紀行」、坂城で十六夜の月を詠んだ句。
姨捨で中秋の名月を見るため、貞享
5年(1688)、芭蕉は越智越人を伴って信濃を訪れた「更科紀行」に本句が出て来ます。「十五日の名月を姨捨で愛でたが、なお去りがたく十六夜もまだ更科に居る」という句意でしょう。句碑は、東に聳える横吹山の山腹の旧道脇(横吹八丁)に建立されたが、山崩れが起こって地中に埋まり行方不明となってしまった。その後、偶然土中から発見され天保時代に現地に移設された。この間に「十六夜観月堂」に新たに建立されている。
 「よこふきや駒もいななく雪あらし」(二夜庵、高桑蘭更)
 「よこ吹や猪首に着なす蒲頭巾」(小林一茶)
 【坂城神社】 坂城町坂城
 主祭神は大己貴命。社伝によれば、景行天皇40年にヤマトタケルが東征の折に当地に祖神を祭り、白鳳2年(673)に治国平天下を祈願して社殿を奉建したという。延長5年(927)成立の「延喜式」神名帳では信濃国埴科郡に「坂城神社」と記載され、中世以後は「坂城大宮」と称した。葛尾城主の村上氏によって代々崇敬され、境内に隣接して村上氏館跡の満泉寺がある。葛尾城は天文22年(1553)に武田氏により落城したが、永禄11年(1568)に武田信玄が社領を寄進して再興、武田勝頼も天正7年(1579)に社領を安堵している。
※これより「大英寺」へ、かつて「五里ヶ峯」登山に行った時の道、大英寺さんの駐車場に車を止めさせて頂いていたので道順は承知している。当時より車が多少大きいのでナビにルートを任せた。これがそもそもの誤り、これより先はもっと通行難という場所に導かれ元に戻るはめになにった。その際のUターンで、前方の草むらに有った石を判別できずナンバープレート部のバンパーを破損させてしまった。視野欠損が原因かと破損よりショックが大きい。
 【満泉寺】(村上氏居館跡) 坂城町坂城
 村上義清の居館は、葛尾城の南山麓、満泉寺とその周辺一帯であった。満泉寺は村上氏代々の菩提寺で、寺伝によると応和3年(963)の創建。当初は修善寺という天台宗の寺であったが、永正元年(1504)に曹洞宗に改宗、満泉寺と改めた。
 坂城神社から300m程に上画像の石柱がある。この前を通過する道で坂城神社に行くならば、同神社の駐車場に車を止め徒歩で向かった方が賢明かと思った。
 天文22年(1553)、武田軍に攻められた村上義清は、居城の葛尾城と居館を兵火で失い、ついには上杉謙信を頼り越後へと逃れた。天正10年(1582)、武田氏滅亡後、上杉景勝が北信濃を領有すると、義清の子・景国(国清)は海津城将に着任。信濃の地に返り咲いた景国は、居館跡に満泉寺を再建し祖先の菩提を弔った。寺には村上氏系図その他古記録が保存されている。
 【村上家墓所跡】(義清供養塔) 坂城町田町
 明暦3年(1657)、坂木の名家遺跡の亡失を憂えた利次は、義清の子孫・義清の家臣の子孫らにはかり、自ら施主となって義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって建立した。長谷川安左衛門利次は江戸時代初め越後高田藩の所領・坂木五千石の奉行、坂木宿の拡張・寺社の復興・用水・溜池・井戸の新設・千曲川の治水等に力を入れた奉行。
 【西念寺】(芭蕉句碑) 坂城町中之条
 身にしみて大根からし秋の風 芭蕉 (更級紀行)
翁は貞亨
58151688)、姥捨の名月を鑑賞した後、坂木宿(坂城)本陣宮原拾玉邸に招かれ詠んだ。
Mp3 山道