塩田北条氏;塩田城跡と龍光院めぐり
北条流福沢氏の里
 二木峠を越え眺める塩田平
 独鈷山の麓を抜ける県道82(別所丸子線)を「塩田城跡」「龍光院」(塩田北条氏菩提寺)へと向う。
 長野計器丸窓電車資料館
 上田電鉄別所線のシンボルである丸窓電車モハ5250形は、昭和2年に日本車輌(名古屋)で3両製造(モハ525152525253形)され、昭和3522日(1928)から昭和61930日(1986)まで使用され。戸袋窓がおしゃれな楕円形だったため「丸窓電車」の愛称で親しまれ、昭和59年にはエバーグリーン賞を受賞した。モハ5251はさくら国際高等学校、モハ5252は別所温泉駅、モハ5253は長野計器株式会社電子機器工場へ移設展示されている。
 安曽神社
 随身門は、入母屋の楼閣造りで二重の扇たる木が美しい。二層目には廻廊をめぐらし勾欄がつけられている。等身大の随身像と楼閣造りの随身門は近隣では見られない堂々たるものである。拝殿は、左右に翼拝殿がある珍しく、本殿は流造で優雅な姿を見せています。
 塩田城跡
 駐車場の先に「塩田城跡」の案内板がある。木立に踏み入ると間もなく獣避けフェンスがある。開閉部は自己責任でロックの開閉を行い中に入る。眼が届く先に案内柱がある。「右」へと進み、「左」三島社は帰路に立ち寄るとし「北条国時の墓」まで行くとする。
 ここは、村上塩田城の「虎の口」、城跡の最高部に当り、学術調査が行われ北条塩田城時代の石垣跡・城郭内最大の井戸なども発見されている。
 「虎の口」より7分ほどで「北条国時の墓」に着いた。駐車場より撮影しながらゆっくり登って25分。弘法山山頂まで300m、行っていけないことはないがここで引き返すことにした。
フェンス近くの分岐点まで戻り「三島社」へ
 昭和42-52年(1967-1977)にかけ、数回にわたる発掘調査が行われた。前半は「空堀跡」の底部や規模の確認と、山麓中腹の「虎の口」と呼ばれる部分の石積み遺構・井戸跡などの発見がされた。
 後半に、通称吉十平と呼ばれる平坦面の本格的な発掘調査では、礎石を伴う
5×5間の建物跡・溝跡・敷石遺構・土坑などの遺構や、それに伴う豊富な遺物が検出された。確認された遺物は、皿・内耳鍋などの土師質土器、珠洲系土器の甕、常滑系大甕・瀬戸系天目茶碗などの陶器類、さらに青磁・白磁・青花などの中国製磁器類、銅銭・こうがい・小柄・刀子・銅鏃鍔・鉄釘などの金属製品、硯・砥石・石臼などの石製品、また塗物・曲物・将棋の駒・人形・箸状木製品・建築部材などの木製品なども検出された。このうち、大陸から渡来した磁器類や常滑系・瀬戸系陶器類は室町時代後期のものと推定され、検出された遺構もこの時期であろうと想定された。従って、鎌倉時代の信濃守護所跡であろうという説は間違いということになった。ただし鎌倉時代塩田に入った塩田北条氏の館跡は、この集落の北端に想定されている。
 塩田城から実家を眺める
 「塩田城跡」駐車場から西へ200mで「龍光院」山門。そこから探す間もなく実家周辺が指呼出来た。塩田城から実家まで直線距離で3000m前後である。画像右端に見える橙色の建物は実家の菩提寺である。
 龍光院(北条氏の菩提寺)
 山門から本堂までの参道の右側に「塩田北条初代義政公の墓」がある。参道上部の枝垂桜が綺麗であった。
 創建は弘安5年(1282)、塩田北条国時が父である義政の菩提を弔う為、月湲和尚を招いて開山したのが始まりと伝えられています。塩田北条氏の菩提寺として庇護され、「信州の鎌倉」とも言われた文化の中心的寺院として寺運も隆盛しますが元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉を攻めた際、幕府側として行動した為、塩田北条氏一族が滅びその後は庇護者を失い衰退します。「塩田北条氏追善供養塔」がある。
 塩田城跡ならびに龍光院
塩田城跡は、塩田平の南方にそびえる独鈷山の一支脈である弘法山の北山麓にあり、塩田平を一望できる位置にあります。神戸川と御前沢にはさまれた南北約700m、東西の最大幅約180mにわたる山腹一帯には、二十数段に及ぶ階段状の帯郭がみられ、また、その北側前方部の空堀跡の向かい側には広い平坦面が続き、城跡の大きさが想像されます。さらに、その北方前面には、かつての侍屋敷町の面影をよく残した東前山の集落が、南北約700m、東西約200mにわたって展開しています。
 元弘三年(1333)、塩田の地を治めていた塩田北条氏が滅亡した後、ここは坂木(城)を本拠とした勢力者村上信貞の領地となったことが記録にみえます。村上氏は、室町中期以後重臣福沢氏をこの塩田城におき、前線基地として長い間統治してきました。しかし、天文22年(1553)に甲斐の武田信玄の侵攻によって、城は奪われてしまうのです。武田氏は、この城に飯富氏を常駐させて信濃経略の拠点としますが、天正十年(1582)武田氏の滅亡により、ついに廃城となったという歴史があります。
諏訪代謝の御符札之古書(信濃史料)には
 文安
05年(1448)、「塩田御射山御符札…福沢入道像何…」とあり
信濃史料巻八243-244;後花園 文安五年七月二七日 1448  諏訪社上社御射山祭、小県郡塩田郷等、その頭役を勤む。その後も御射山祭の頭役として(同様に、以下も信濃史料で年代記事より原文確認が出来る)
 享徳
03年(1454)、塩田庄代官福沢入道儀何
 長禄
03年(1459)、左頭塩田庄福沢入道沙弥像阿
 寛正
03年(1459)、左頭塩田庄福沢入道沙弥像阿
 応仁
03年(1469)、左頭塩田庄代官福沢左馬助信胤代
 文明
06年(1474)、上増塩田庄村上知行代官福沢左馬助信胤
 文明
11年(1479)、左頭塩田庄村上兵部少輔政清御知行代官福沢五郎清胤
 文明
16年(1484)、左頭塩田庄村上福沢入道沙弥頭賢
 長享
03年(1489)、右頭塩田庄…村上福沢左馬助政胤
とあり、福沢氏が塩田庄を代々相伝していることが知られる。頭役銭
50貫から70貫の「御符礼銭」は伊賀良庄(飯田市)の小笠原に次ぐ高で、岩村田大井氏・佐久矢島氏・井上郷井上氏・須田郷須田氏・長沼島津氏・坂木村上氏・船山屋代氏と並ぶ。福沢氏の所領は塩田庄内12郷に及んでいたと見られる。
 天文23年(1554)、小県郡福沢昌景より65年以上前の福沢氏である。
塩田庄は、文安
5年(1448)、村上氏の代官福沢入道像阿が諏訪大社上社の重要祭事の頭役を務めるなどして、戦国時代の天文年間(1550前後)まで福沢氏が塩田荘を支配していた。当時、鎌倉時代の所領相続が庶子を含む分割伝領から嫡子惣領の一括相続となり、本拠地以外は代官支配へ移行し、それが福沢氏の塩田入りの時代背景であった。それまでの福沢氏は、現埴科郡坂城町網掛の福沢に館を構えていた。小県郡上室賀から室賀峠を越え更科郷へ下ると福沢氏の館址に出る。ここに、名字の地に因む福沢・福沢川・福沢城などが名残として存在している。
 舞田駅(上田電鉄別所線)
 1時間に1本(往復だと2本)、時刻表を確認しスケジュール立案、8分前に到着し「撮り鉄」待機。
 高校は電車通学、上京後の帰郷も当駅を利用していた。当駅に降り立ち「あぁ、故郷」と大きく深呼吸、そんな想い出ある一つの場所だ。帰郷当時、顔なじみの車掌さん、にっこりと笑顔で手を上げる。
 実家へ
 実家では姪夫婦が来ていて味噌仕入の最中、所要は「過去帳の確認」と「旧家屋の写真複写」であった。
①過去帳での掘り出し物
 家系図の先祖一代目は「
福澤市兵衛廣時(承応3年/1654);妻 福松(貞享3年)下之郷 横関佐衛門 次女」となっている。天文23年(1554小県郡福沢昌景』の周辺まで家系図の線引きが伸びれば・・・・と儚い期待で過去帳を自らの眼で確認したかった。→過去帳は薄板に毛筆書き、位牌箱仕様のケースに入っているとの記憶であった。→1ケースかと思っていたが3ケース、それも両面使い(時代が飛んでいるので節約利用か)と予想外、古いものなので判読不能は想定内。そして、「天正」まで元号で7代、欲を言って「天文」まで11代、どこまで遡ることが出来るかとあり得ない夢の期待を抱く。何と「天文」の後「弘治3年」(1557)が1枚、「天文20年」(1551)が1枚、何と「天文」より5代先の「明應2年」(1493)が1枚あった。戒名のみなので俗名は不詳。また、享年未記載もあり誕生年の知る術なし。
②現在の菩提寺は「法樹院」
 法樹院さんに行けば何か判るかも知れないと姪を促す。姪は「あれっ、知らないの?」と即答。「法樹院」は明治以降、明治の廃仏毀釈で旧菩提寺は廃寺になったので古い記録はないという。下之郷に由緒ある「生島足島神社」がある。「長福寺」(康保
2年創建と古い)と「神宮寺」(明治の廃仏毀釈で廃寺)の2寺だった。実家の菩提寺は、廃寺になった「神宮寺」であり古事記録は残っていないという。
③古い家屋の写真
 持ち帰り複製するようにとアルバムを出して頂いていた。・・・・これらについては、新たに「
family history」としてまとめたい。
            Mp3 夢幻の風