西光寺;塩田北条氏ゆかりの地
- 2022.7.31 (月) 長野県上田市-
 「福澤家の歴史」調査中、参考文献「塩田福沢氏を見直す」(寺島隆史氏論文)に「西光寺」に関する記述があり、参詣したいと思っていた。妻の通院送迎の待ち時間を利用して足を伸ばしてみた。
 塩田以心軒真興の登牌「蓮華定院過去帳月坏信州小県分」より見る(塩田庄分抜粋)
  権大僧都法印秀海逆修 元亀元年六月廿一日 塩田松本西光寺
 天文一四年に登牌の「妙善」については、塩田以心軒真興書状で触れた通り、真興(塩田肥前守)の老母と見られる。ここで一番注目されるのは、最後に掲げたその真興(真興大徳)自身の元亀元年(一五七〇)の登牌記録だろう。「塩田以心」ともあり、福沢氏の重臣であった塩田以心軒真興に相違ない。その塩田真興が、塩田松本郷の西光寺住職と元亀元年の同日に逆修の登牌しているということであり、真興は天文二二年(一五五三)の塩田落城後も、武田氏支配下になった塩田に居住していた事実が判明するのである。西光寺に僧侶としていたものだろうか。
 「塩田城」は、建治3年(1277)に鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まる。北条国時、北条俊時と3代に渡って塩田北条氏の居城となる。元弘3年(1333)に鎌倉が新田義貞を中心とする反幕府勢に攻められた際は、塩田北条氏も鎌倉に上り、幕府方として戦うが敗れ、一族とともに滅亡した。この国時とその子の俊時、義政とあわせて3代この塩田で暮らし、「塩田北条氏」と呼ばれていて、鎌倉幕府滅亡までの約60年間、塩田を治めました。この60年の間に、龍光院(前山)や西光寺(富士山)が創設され、弥勒仏塔(奈良尾)と呼ばれる多層塔もできました。
 肝心の「権大僧都法印秀海逆修」「以心軒真興」「塩田肥後守」「塩田真興」等の名を控えて行かなかったので特定行為は諦めざるを得なかった。ご住職とお話をしたく改めて立ち寄ってみたい。