砥石城跡(長野県上田市);真田・村上・福沢ゆかりの地
2023.8.8 晴
 砥石城跡について
[地形]
 砥石城跡は、上田盆地の北東にそびえる東太郎山の尾根先を利用して築かれ、東は神川沿いの切りたった崖、西は急坂続きの斜面で、麓に展開する旧神科村畑山・伊勢山・金剛寺の三集落にまたがるスケールの大きい山城群である。一番広大な本城を中心に北に桝形城、南に砥石城、西南方に米山城があり、この四城をまとめて砥石・米山城跡という。
①米山城(
734m)砥石城から南西へ急坂を下り、「馬場」と称するくぼみの前方の峰が城跡。西の谷には金剛寺集落があり、城代屋敷、小屋の入り等、城跡によくある地名も残る。米山城は、戦乱で焼けた黒米が出土するということや、敵の水止めにあったとき、城中には水がたくさんあるということを敵方に見せるために、馬の背中を白米で洗ったという白米城伝説をもつ。
②砥石城788m)本城から約
140m南方、やはり自然の山頂を利用して築かれ、北側には幅9mの掘切がある。ここからは上田市街・塩田・東部・佐久方面が一番よく見える。
③本城793m)伊勢山の陽泰寺前から内小屋・水の手と呼ばれる場所を通り、折れ曲がりの坂道を登る。
④桝形城826m)本城から矢竹のしげる尾根道を
120m北に進むと、真田方面が一望できる。
[歴史]
 戸石城は、現在の長野県上田市上野にあった山城である。別名で戸石城とも記載される。築城時期は不明だが、隣接する真田郷の真田氏の出城として築城されたのが始まりとされている。
 真田氏は海野一族であり、武田信虎・村上義清・諏訪頼重と、海野棟綱との間で勃発した「海野平の戦い」で海野一族は破れ上野国へと逃れた。その砥石城は村上義清が治める城となり、重臣の「額岩寺光氏」や「山田国政」などが城主に任命されていた。
 天文
10年(1541)、甲斐の「武田信虎」が嫡男の武田晴信(信玄)に追放され武田家当主が晴信に代わると、晴信は「諏訪頼重」を攻め滅ぼし信濃へと侵攻を開始した。
 晴信は天文
17年(1548)、「上田原の戦い」において「村上義清」に大敗したが、同年7月の「塩尻峠の戦い」で「小笠原長時」を破ると一気に松本平野一帯を制圧した。一方、天文19年(1550)、晴信は再び村上攻めを行い「砥石城」を攻撃するがここでも「村上義清」の前に大敗する(砥石崩れ)。
 その後、砥石城の攻略を「真田幸隆」命じ、幸隆は天文
205月(1551)に調略により同城の陥落に成功している。この功績により砥石城を含め幸隆の旧領である真田郷の地を与えられた。村上義清は砥石城を失ったことで一気に勢力を弱め本城の「葛尾城」も破棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃れていった。
 慶長
5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東山道を進む徳川秀忠軍を西軍(石田三成)についた「真田昌幸」が上田城にて撃退している。砥石城は東軍(徳川家康)についた昌幸の嫡男「真田信幸(信之)」により開城されている。
 それからしばらくして砥石城は廃城になったと考えられている。
 櫓門前東屋から塩田城跡を指呼
 櫓門前の東屋から塩田城がある独鈷山(弘法山は北麓にある)が左上に指呼出来る。
 櫓門駐車場(580m)から米山城跡
 米山城跡(徒歩21分)→説明板
 米山城跡に「村上義清公之碑」がある。広場を飛び回るツマグロヒョウモン、この蝶を始めて見たのは東尋坊旅行の時だ。暖地性の蝶だが今や仙台辺りまで北上していると思う。我が物顔で米山城跡を闊歩する姿を見て「武田信玄公」の生まれ代わりかと思えた。
 砥石城全体の古地図掲示板があった。その掲示板に「福沢曲輪」(砥石城跡)の位置が示されていた。これを見たかったのである。「塩田福沢氏を見直す」(寺島隆史氏論文)では、以下のように説明されている。
 砥石合戦は、天文19年の8月末から101日まで続いた。その間にも武田勢の刈田などによる村上方福沢氏領内の被害もかなり大きかった、ということだろう。砥石合戦による小県の村々の被害状況もうかがえる貴重史料、ということにもなる。
 砥石城攻めにあたり武田勢は、依田川沿いに北進し砥石城の麓に至っている。福沢昌景寄進状(蓮華定院文書)で見た福沢氏領の内村・尾山(尾野山)はともに依田川流域の村でもあった。また、海野平合戦後のこの時期には、これら以外に砥石城近辺にも福沢氏領があった可能性もあるし、福沢氏の本拠地塩田平自体が砥石城から
10kmほどの近距離でもあった。
 この合戦は、城の攻略を断念した武田勢が、撤退時に背後から攻めかかられ、砥石崩れという大敗を喫した戦いとしてよく知られている。
砥石城には「福沢曲輪」と呼ばれる一郭もある。小県郡における村上方の当時の勢力としては、福沢氏が図抜けた勢力であったことは間違いない。砥石攻防戦の最中は、義清自身が率いる村上勢の主力は北信濃にあったわけであり、砥石城に立て籠もっていた兵力の中心は、福沢勢であったと考えてよいかもしれない。
 武田勢は、村上方の主力が砥石救援に駆け付けるとの報を受けて退去を開始したものであった。
それにしても一か月余りにわたる砥石合戦は、武田対村上というより、武田対村上方福沢の戦いであったと見た方が、より実態に近いのでは、とも考えられる。
 近世の話ではあるが、塩田平は「塩田三万石」と言われた上田藩領(小県郡)の穀倉地帯であった。福沢氏の主力が砥石に籠城していたとすると、福沢領などは敵地として武田勢により思うがままに蹂躙(じゅうりん;踏みにじって荒らす)され、その被害は甚大だったということにもなろう。
 「砥石崩れ」の翌年、天文20526日(1551)に真田幸隆、小県郡砥石城を陥る。更に翌々年、天文2285日(1553)、武田晴信、小県郡塩田城を陥る。砥石合戦での痛手も残り万全の体勢ではなかったと思う。天文23年(1554)、小県郡福沢昌景、紀伊高野山蓮華定院に戦乱により賛銭弁済の遅怠せるを弁疏す。
 米山城跡から砥石城跡(徒歩13分)
 270段ほどの階段道、休みながらゆっくり登ったので思いの外時間がかかった。ちょっとした里山歩きだが、この3-4ヶ月、散歩らしい散歩は全くしていない。足腰がかなり退化していることは自覚している。階段道の日陰を探し暫しの休憩、赤松から聞こえてくる松籟、福沢氏もきっと耳にしたであろう。
 
 砥石城跡(788m)(徒歩46分)→砥石城跡
 神畑山越しに独鈷山が指呼できる。ジャケットを脱いで記念撮影、少々疲れた顔をしている。今日、初めてのハイカーと出逢う。姫路から来られたという。明日は「葛尾城跡」に行くという。一目見たときから真田ファンだと感じていた。「福沢曲輪」を探していると告げると、旅の本を取り出し確認しているようだった。結局、解らず仕舞い。
 段状曲輪(福沢曲輪)探し
 「本城城跡」手前に「大手口」という標識があった。草で覆われ「曲輪」らしき史跡は全く確認出来ない。この一画に「福沢曲輪」があるかも知れない。全く表示がない。「真田ゆかりの地」として整備されたのでやむを得ない。
 本城城跡(793m)
 「本城」は石垣で囲われていたのか、一分が残っていた。
 枡形城跡(826m)  本城城跡12:2012:40櫓門前東屋
 「枡形城跡」まで足を伸ばし、「本城城跡」に戻り再び「福沢曲輪」を探すも手掛かりなく下山に着く。
 頃良い時刻なので実家に向かう。新ご先祖「龍光院殿山洞源清大禅定門」のお位牌を届けることになっている。お盆に間に合って良かった。14日に、形ばかりになるが追贈法要をすることにした。