高築地館(長野県上田市);木曽義仲挙兵の地
2023.8.27
 木曽義仲挙兵の地(鎌倉道)
 東山道に通じる鎌倉道、その砂原峠に「木曽義仲挙兵の地」がある。時は平安時代、後白河法皇の皇子である以仁王の令旨を受け、地元の豪族である依田氏・丸子氏・長瀬氏が木曽義仲を迎え入れ、丸子の依田城を拠点とし、二年半滞在し、挙兵の準備を進めた。その時の滞在地が、ここ「高築地館」である。御嶽堂の依田城で挙兵(治承4年、1180年)し、北陸道を進撃し倶利伽羅峠の戦いでは平維盛軍10万を撃破した。
 塩田城は、建治3年(1277)に鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まる。塩田流北条氏は、鎌倉時代の北条氏の分流であり、北条重時を祖とする極楽寺流の一支流で、重時の五男・北条義政を祖とし、義政が居住した信濃国塩田荘は「信州の鎌倉」と呼ばれ中世文化が開かれた。「木曽義仲の挙兵」は、「塩田北条氏」の歴史が始まる97年前のことである。
 正海清水跡
 義仲の長子、清水冠者義高の名より正海清水と呼称。高築地館をはじめとし地域の生活用水の源であった。
 高築地館跡(木曽義仲史跡) 依田氏の居館
 木曽義仲の平家討伐に向けた挙兵準備、兵馬調達のため木曽館からこの地に招いた信濃源氏の有力な豪族依田次郎実信の居館跡と伝承。山裾に向け真っ直ぐな農道が伸び、その両側に除草された休耕地は、居館・家臣団の屋敷である。
 治承4年(1180)に木曾義仲が信濃国内で挙兵すると、その拠点として依田城を提供し、以後一族を挙げて義仲と行動を共にしたと云われる。「源平盛衰記」には翌寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の戦いで三千余騎を率いて活躍する武将の一人「余田次郎」としてその名がみえる。
 黒地蔵・小鍋立の湯跡(木曽義仲史跡)