信州の鎌倉;塩田城主福沢氏ゆかりの地
2023.9.17(日)晴 長野県上田市
 前山寺
 塩田城跡に隣接する前山寺には、木造三重塔がある。これについては、古くは鎌倉時代と考えられていた推定建築年代が、戦後の重文再指定の折には室町初期に引き下げられていた。それでも鎌倉期の塩田北条氏による建立と考えたい向きには抵抗があったのだが、平成2年刊行の『長野県史美術建築資料編』では、さらに下って室町後期(1467-1572)つまり、戦国時代の建造物とされている。
 同書の太田博太郎氏の解説によれば、近辺のよく似た構造の信濃国分寺、新海三社神社、前山寺の三基の三重塔を比較すると、二重・三重の側柱の立て方は、国分寺塔が新海三社塔・前山寺塔より古い形式であり、新海三社塔・前山寺塔の方が進んだ構法をとっているとみられるという。
 新海三社・前山寺の両塔は特に似たところが多く同じころ建てられたと考えられている。また、初重と比べた二・三重の逓減率が、前山寺塔は、国分寺塔はもちろん新海三社塔より小さい点等から見て。前山寺塔の方が新海三社塔(永生12年/1515年建造)より新しいと考えられる。
 特に初層の木鼻が象鼻化していることより、かなり年代は下がるのでは、とのことである。これだけ明確に指摘されているにもかかわらず、この話は一般化しておらず、いまだに前山寺塔の方が国分寺塔より古い、と記している解説書も見かける。
 塩田城主村上福沢氏の極盛期は、前述の通り海野平合戦の戦勝により支配領域を大きく拡大した天文10年(1541)より22年の塩田落城までの間であったと言える。小県では他を圧する最大の領主になっていたことは確かである。だが、それはまた、福沢氏が滅亡への道をたどることになった時期でもあった。繁栄の一方で、不安な空気もただよう中、現世利益の伊勢神宮に神領を寄進し、高野山蓮華定院には死後の冥福の祈念をしきりに依頼、という面があったのかもしれない。
 高野山は周知の通り真言宗の聖地だが、前山寺も真言宗で塩田城の鬼門の方角にあり、塩田領主の祈願寺として開かれたと考えられる。何れにせよ、前山寺三重塔の造立施主は福沢氏に相違ないが、やはり天文10年代に建立の可能性が高いのではなかろうか。新海三社塔より下るとする推定建築年代ともあう。
また、前山寺三重塔は、二層・三層には扉もなく横板壁だけであり、廻縁や高欄を乗せるはずの腰貫がただ外に延びているだけなど、未完成の要素が目立つ。しかし、そのためにかえって逓減率が小さくて寸胴な点も目立たず、すっきりした釣り合いの取れた美しい外観を見せているとも言え、「未完成の未成塔」とも呼ばれる。
だが、やはり未完成のままになっていることには相違ない。全国に国宝・重文指定の木造塔は、三重塔が50基ほど五重塔は20基余あるが、このような未完成のままの塔はほかにない。にもかかわらず、未完成の理由については、それで却っていいのだという話があるためでもあるまいが、今まで検討されてこなかった。
 福沢昌景書状には、天文19年(1550)の武田勢の砥石攻めとみられる「領中土貢等不調」という困難な事態も記されていた。「建立中断」というからには、大きな障害が持ち上がったからに他ならないだろう。砥石合戦の2年前には、やはり武田氏と村上方との上田原合戦もあった。この2度の戦いともに武田方の敗北、村上方の勝利ということになっているが、攻め込まれた側の被害も甚大であったことは言うまでもあるまい。立て続いた戦火により三重塔建造も中断、そして最終的には、その造立施主だった福沢氏の滅亡により未完成のままで終わってしまった、そう考えると当時の信濃・小県・塩田・塩田城をめぐる状況ともよく合うように思われる。
 未完成の前山寺三重塔は、武田氏の侵攻による塩田城主福沢氏の滅亡という戦国の争乱状況そのものを、化石化したように今に伝える、貴重な歴史的記念物とも言えるのではなかろうか。(寺島隆史先生の「福沢氏を見直す」論文最後の前山寺三重塔より)
 「福澤家の歴史」をまとめ終え、墓誌に代る記念碑の建立も終えた。塩田福沢氏の最後を飾る「前山寺三重塔」、その「未完成の完成」を、先生の論文を思い浮かべ前山寺の駐車場より福澤家の墓を眺め先祖への想いを括った。
 おたや
 説明板に、「塩田城にいてこの地を治めた福沢氏は、ここにお伊勢様とお坂木様を祭った。この地方では大切な史跡である」と書かれていた。「お坂木様」とは「村上氏」であろう。「お伊勢様」とは「伊勢神宮」(三重県伊勢市)であろう。御夜燈に刻まれた「慶應三年」、祠の時期は不詳・・・・
 塩田城跡
 「塩田」という名が、はじめて史料の上に出てくるのは、平安時代の末期、承安4年(1174)、約850年前のこと。その頃の朝廷の重臣の一人に、藤原経房という人がいた。この人(平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。源頼朝の鎌倉政権(後の鎌倉幕府)より初代関東申次に任ぜられた。吉田家(後の甘露寺家)の祖。)は、大納言という高い位につくほどの人であったが、生前こまめに日記をつけていた。その日記の一部分(約18年分)が残っていて、『吉記』と呼ばれ、日本史研究の上からは大へん重要な史料となっている。
 その『吉記』の承安4年のところをみると、大略次のような記事が書かれている。[八月十三日に、後白河院(後白河法皇の御所。当時は院政時代で、後白河法皇が実権を握っていた。)に参り、東寺の最勝光院から依頼されていた信濃の庄園のことについて言上した。そして院の思召しによって十六日にもう一度参上し、『東寺が、信濃国塩田庄の年貢を布で千反進上したい』といっていると申上げたところ、その趣きを実現するように・・・・、というお言葉を載いた。]・・・・この記録によって、塩田庄は当時最勝光院という院の領地で、東寺(真言宗の総本山)の勢力下にあったことがわかる。
 最勝光院というのは、後白河法皇の后であった建春門院(平清盛の妻の妹)が、承安3年(1173)に創立した寺である。そのとき後白河法皇はじめ多くの貴族が、この寺のため三十数カ所もの荘園を寄進したが、その中に信濃塩田庄があった。そして最勝光院の別当(世話役)は、東寺であり、塩田庄は実際には東寺の支配下になっていた。
 最勝光院は、時の最高権力者である後白河法皇や平清盛をバックとして創立されたものだけに、「その結構宏麗をきわめ、落成の慶讃会には、天皇・法皇の行幸啓があった」といわれるくらいの寺であったから、ここに寄進された荘園も全国的にみて、富裕で由緒あるところが多かった。塩田庄は、信濃からえらばれたただ一つの荘園であったことをみても、当時中央にあっては、かなり高く評価される土地柄であったと考えねばならない。(そのためか塩田庄は年貢千段を貢進することとなっていた。仮にこの一段=一反=を、奈良時代に決められた調布一反とすれば、長さ
8.5m、巾57cmの麻布を千反という莫大な量に調製して貢納していた)
 塩田庄がなぜこのように高く評価されたかというと、実はこの地域がふるくから信濃にとっては、政治的にも、経済的にもきわめて重要な場所であったからにほかならない。
 塩田庄は、その昔-少なくとも今から一千年前は、安宗郷(阿曽郷)といっていたことが、『和名抄』という朝廷が編纂した書物に載っている。この「安宗」という名は今も、塩田平の南方に聳える安曽岡・安曽岡山(何れも東前山・柳沢両区にまたがっている)に残っているが、実は九州の阿蘇山の「阿蘇」と関係の深い名であることも考証されているのである。
 今から1300-1400年の昔、日本という国の骨組みがやっとでき上りつつある頃、当時文化の先進地であった九州から多くの氏族が大和平野に移り住んだ。そして大和朝廷の国造りに参画し功績を挙げた氏族の中に阿蘇山の麓からやってきた阿蘇氏の一族がいた。この氏族は『古事記』によると神八井耳命を始祖とし、意富臣・小子部連・阿蘇君等と分れ、科野国(信濃国の古名)の他数カ国の国造(今でいえば県知事に当る職)に任命されたと記されている。
 信濃国造に任命された阿蘇氏の一族は、この塩田平に定着したのだろうと、信濃古代史の研究家の説で、その根拠は、塩田平に阿曽岡・阿曽岡山などの「アソ」と称する地名が残っていること、生島足島神社という国魂神(国土生成の神)が「延喜式の大社」として現存する。国魂神は、国造の治所には祀られるのが通例、一族の小子部氏の名が小県(小子部の県の意)として残っている(『上田小県誌』古代中世編)
 大和政権は、日本全土をその支配下に固めて行く時点で、各国に国府(いまの県庁に当る)をおき、そこにいままでの国造にかわって国守(信濃守・越後守等)を任命して中央集権の実をあげた。信濃国の国府は、いまの上田市内におかれたことは、まず疑う余地がない。信濃国分寺が現にここに所在しているからである。国府の所在地を上田市内に定めたことは、その前代の科野(信濃)の国造所在地が、塩田平にあったことと深い関係があると想定される。
 龍光院
だが、やはり未完成のままになっていることには相違ない。全国に国宝・重文指定の木造塔は、三重塔が50基ほど五重塔は20基余あるが、このような未完成のままの塔はほかにない。にもかかわらず、未完成の理由については、それで却っていいのだという話があるためでもあるまいが、今まで検討されてこなかった。
 生島足島神社