石造五輪塔(長野県上田市);菩提寺のルーツ
2023.10.08 晴
 ルーツを訪ねる旅/時空(とき)の旅を終え、紀行「福澤家の歴史」をまとめた。その中で、福澤家の菩提寺の今と昔(生島足島神社の別当2寺のひとつで明治の廃仏毀釈で廃寺になった新宮寺)、廃寺に伴い移管された現在の菩提寺なる「法樹院」についてネット検索をしていたら「金王製造五輪塔」がヒットした。子供の頃から存在は知っていたが訪れるのは初めてかも知れない。
 金王石造五輪塔(渋谷土佐入道昌順の墓塔)
 「法樹院」の寺伝によれば、『夫れ当寺は部文治元年(1185)、渋谷土佐入道昌順、由縁の者菩提のため一寺を建立し、幼名をもって金王寺と号す・・・・』とあり、金王寺建立に合せ五輪塔も造られのではないかと考えられます。・・・・と説明書にあり。私の興味は建立者であり、「由縁の者菩提のため一寺を建立」の意は「法樹院建立者」であり、それが誰かは不詳と言うことで興味は激減・・・・創建とは別だが、永禄三年(1560)に寺は大破し、当時の領主室賀入道信利は寺の由緒を訊いて弟、室が甚七に奉公を明治、再興させたと伝えられる。その折りに[飯綱山法樹院報応寺」と改め、応誉廓然和尚を住職にした。とある。
 「渋谷土佐入道昌順⇔土佐坊昌俊(しょうじゅん)」、「室賀入道信利⇔室賀入道信俊」と近似名へと展開するが故に信憑性を曖昧化させている。永禄三年(1560)といえば、塩田城自落より7年後、川中島の戦い(第四次合戦の前年)の頃である。塩田城自落後、室賀信俊は武田氏方に付き川中島の戦いに参戦し安堵している。→天文224月(1553)に村上義清が甲斐国の武田晴信に敗れて越後国へ逃亡すると、経俊ら室賀氏は武田氏に降伏して本領を安堵された。この際に経俊は晴信より「信」の字を賜り、それまでの経俊から信俊へ改名した。武田氏時代は室賀郷を含めおよそ5000貫文を知行したという。塩田庄が含まれるか不詳。
 次に、「渋谷土佐入道昌順⇔土佐坊昌俊(しょうじゅん)」だが、『平治物語』において、源義朝の死を愛妾である常盤御前に伝えた郎党、金王丸(渋谷金王丸常光)を昌俊と同一人物する説があるが、史料においては確認されていない。伝説では、昌俊=金王丸は、常盤御前とともにいた幼い義経を覚えていたため討つことができなかったとされる。白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の研究によると、金王丸の実在を証明する確実な史料は存在しない。
 飯綱山法樹院(菩提寺)
 法樹院の創建は、文治元年(1185)。渋谷土佐入道昌順と縁のある人が菩提のために一寺を建立し、幼名をとって金王寺と称した。永禄三年(1560)に寺は大破し、当時の領主・室賀入道信俊は寺の由緒を訊いて室賀甚七に奉行を命じ再興させたとの伝承。その折に「飯綱山法樹院報応寺」と改め、応誉廓然和尚を住職にした。福澤家先祖三もしくは四世の頃にあたる。
 本堂左手の斜面に歴代十五世住職の墓がある。菩提寺の墓は寺門右奥にある。
  中興開山  応誉上人廓然大和尚 天正十一年(
1583) 
    十二世 謙誉上人円明大和尚 文久三年(
1864
  中興十三世 善誉上人円成大和尚 明治四十三年(
1910) この世代から菩提寺になっている
  中興十五世 忍誉上人哲成大和尚 平成九年(
1997)   私が子供の頃よく遊びに伺っていた
 福澤家の墓
 法樹院の西方高台上(本堂を見て左手)に福澤家の墓が手前中央から右手へと見える。高台壁面の簡易舗装の細道を右山の手方向に上り壁面が終わる所に墓地裏口がある。正面口は墓地左手に見える竹藪の先を回り込む。
 墓地の最上部(最後部)に「新初代先祖」(一世)「龍光院殿山洞玄清大禅定門」の供養塔がある。
 記録;塩田北条氏に至る歴史(信濃史料) 「金王石造五輪塔・法樹院」検索過程で調べた史料
文治020108 1186 源頼朝、島津忠久(平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将、鎌倉幕府御家人、島津氏の祖)を小県郡塩田庄地頭職に補す
建久090130 1277 小県郡塩田庄地頭嶋津忠久、左衛門尉(判官)に任ぜらる
建治030522 1277 北條義政、出家して鎌倉を出奔す、尋で善光寺に参詣の後、小県郡塩田庄に籠居す
弘安041127 1281 北條義政、小県郡塩田庄に卒す
正中0203 1325 東寺公文大江某、山城東寺最勝光院領の年貢公事等を注進す、その中に小県郡塩田庄の分あり、小県郡塩田庄(北条国時)、東寺被物月宛を課せらる
元徳020213 1330 塩田国時、明年諏訪社上社七月頭役勤仕のため、所領小県郡塩田庄に赴くにあたり金沢貞顕を訪ふ
元弘030508 1333 新田義貞、兵を上野に起し鎌倉に向はんとす、信濃の諸士多く之に応ず
元弘030514 1333 幕府、北条泰家をして、武蔵関戸に新田義貞の軍を禦がしむ、塩田国時等之に随ふ
元弘030522 1333 幕府の軍敗れ北条高時、鎌倉東勝寺に自害す、諏訪真性等之に殉ず
元弘030522 1333 諏訪盛高、北条高時の子亀寿丸時行を奉じて信濃に逃る
建武020814 1335 北条時行の将諏訪次郎・塩田陸奥八郎等、足利尊氏の軍と駿河国府に戦ひて虜らる
建武020826 1335 堀口貞政、北条時行の党追討の綸旨を村山隆義に伝へ一族を催すべきことを促す
建武020922 1335 是より先、市河経助、村上信貞の軍に属して北条時行の党薩摩刑部左衛門入道等を埴科郡坂木北条城に攻む
建武021211 1335 村上信貞、足利直義の軍に属して新田義貞の軍を相模竹の下に破る、直義、その功を賞して小県郡塩田庄を信貞に与ふと伝ふ
 島津忠久とは何者か
 源平合戦終結後の元暦2年・文治元年8月(1185)、島津家の祖「島津忠久」は、五摂家筆頭の近衛家領島津荘の下司職に任じられる。これに始まり、鎌倉幕府成立後には源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の3国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の4ヶ国を有する守護職に任じられた。以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。天正15年(1587)には豊臣秀吉の九州平定を受けるも、3ヶ国の旧領は安堵された。
 関ヶ原の戦いで西軍に属して敗戦したが、領地を安堵されて江戸時代には
77万石という外様大名屈指の雄藩となる。幕末には長州藩毛利家とともに討幕運動の中心勢力となり、明治維新の原動力となった。明治時代、大正時代には政財界に重きをなした。島津家は本家、分家、旧支藩藩主家や旧一門家臣など14家が華族に列しており(公爵家2家、伯爵家1家、男爵家11家)、この数は松平家に次ぐ。
 この薩摩島津氏の他、越前、信濃、駿河、若狭、播磨、近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏、信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏、播磨島津氏、江州島津氏と呼ばれている。島津氏は、多くの大名の中でも鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いている稀有な家である。
 島津姓については、諸説ありとし、忠久が元暦2817日(1185)近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元年1128日(1185)文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自(出所)は頼朝の側室の子とされている。
 島津氏の系統には「嫡流」・「庶流」(江戸期以前)・「庶流」(江戸期以降)・「庶家」があり、「庶流」(江戸期以前)に「信州家」(信濃島津氏)がある。
①「信濃島津氏長沼家」;島津氏高祖・忠久の三男・豊後六郎左衛門尉忠直の曾孫・左京進光忠(島津光忠)は信濃国長沼郷・黒河郷・下浅野福王寺郷の地頭職となり、信濃島津氏長沼家の祖となる。
②「信濃島津氏赤沼家」;越前島津氏元祖・忠綱の三男・忠景の孫・五郎右衛門尉忠秀(常陸介、大夫判官)は、赤沼郷地頭職となり、信濃島津氏赤沼家の祖となる。
 泥宮
 「塩田のレイライン」なる説明板があった。「夏至の朝日」を「泥宮」の鳥居を通して眺めると「烏帽子岳」から昇る。その「烏帽子岳」から「女神岳」への直線上に「信濃国分寺・生島足島神社・泥宮」が並ぶ。レイライン(光の道)とは、1920年代にイギリスのアマチュア考古学者によって提唱された言葉で、古代の遺跡やパワースポットが一直線上に並んでいたり、大地に天体の配置と同じように聖地が並んでいる状態を指す。レイラインは、地球のパワフルなエネルギーが流れる道筋で「地脈・龍脈」とも呼ばれる。
 泥宮(レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」;~龍と生きるまち信州上田・塩田平~)上田市
 信濃国分寺から生島足島神社、別所温泉を通るレイライン(夏至の朝、太陽が日の出の際に地上につくる光の線)沿いに多数分布する神社仏閣や雨乞いの祭り等に見られる様々な「祈りのかたち」を題材とし、降水量が少ない風土で身近な山々に宿る龍神と密接に関わってきた塩田平の人々の暮らし・・・・
 独鈷山と夫神岳から扇状に開ける地・塩田平は、古来「聖地」として、多くの神社仏閣が建てられている。山のふもとにある信州最古の温泉といわれる別所温泉、「国土・大地」を御神体とする「生島足島神社」、「大日如来・太陽」を安置する「信濃国分寺」は、一
本の直線状に配置され、レイラインをつないでいる。夏至と冬至に、鳥居の中を太陽の光が通り抜け、神々しくぬくもりのある輝きを享受できるのだ。(上田市;歴史・文化)
■信州の学海
 上田は、険しい山々に囲まれた盆地ゆえに、本州では一番雨の少ない地だ。「おてんとうさま」が毎日のように微笑み、穏やかな気候という特徴は、信濃国分寺が置かれたこと、鎌倉北条氏の一派が終の棲家としてここを選んだ理由でもある。
 塩田平には数多くの寺社が建てられ、中国の高僧や多くの学僧が訪れたのは、山を背に構える別所温泉があったことが大きい。豊かな湯で心まで洗われる温泉の楽しみがあったからこそ、僧たちは、この地を訪れたのであろう。
 別所温泉にある安楽寺を訪れてみると、薄暗い木立の中、見上げるように階段を登った先に、日本唯一の木造八角三重塔が目に飛び込んでくる。微かな光の方向に仰ぎ見る屋根裏の華やかな木組みは、私たちを自ずと厳かな気持ちにさせてくれる。しかも「四重塔」にも見える不思議な形だ。
 また、北向観音堂は、善光寺と「両参り」すると御利益が増すという。境内の手水までも温泉を使い、湯煙が立ち上る境内には温泉の匂いが漂う。見晴台に立つと、塩田平から市街地までを見渡せ、我はこの地に降り立ったのだ、という気持ちにさせられる。この地が僧たちにとって「特別な場所」であり、「別所」と名付けられたことも納得できる。湯煙が漂う地に花開いた仏教文化の遺産は、湯浴みの効能のみならず、訪れる人びとを癒している。
■神宿る「山」への祈り
 上田の雨が少ない気候は、風雨が引き起こす災いからこの地の暮らしを守ってきた。しかし、それゆえに神は時として干害などの試練を課してきた。人びとは水源となる山々に神を崇め、祈り、恵みの雨を願った。
 
500年以上も続く雨乞いのまつりである「岳の幟」は、色鮮やかな幟が特徴的だ。「下り龍」を描いた幟で、夫神岳山頂に祀られる九頭龍神を山麓の別所神社までお連れする。龍をかたどったたくさんの幟を迎えるのは、三頭獅子とささら踊りの子どもたち。カラフルな幟と衣装が鮮やかに映え、山間に歌声と太鼓の音が響くころには、本当に、龍からの雨に恵まれる。山には、古より受け継がれてきた水への憧れと神への畏怖が投影される。龍が宿るこの山は、山菜や松茸など、山の幸をはぐくみ、マツタケ小屋の隆盛につながっている。
■祈りの言葉は「アメ フラセタンマイナ」
 塩田平はため池を造って水を蓄え、ここで温めた水を田んぼに入れて稲の生長を促し、「塩田三万石」と呼ばれる上田随一の穀倉地帯へと変身した。ため池でも「百八手」と呼ぶ雨乞いのまつりが行われる。池の周りを大勢で囲んで「たいまつ」に火をつけ、もくもくと上がる煙のなか「アメ フラセタンマイナ」と唱える。ため池は稲穂をはぐくむだけでなく、マダラヤンマなどの命もつないできた。人柱やカッパなどの伝説は、ため池にも神を崇めていたことをうかがわせる。雨を願う人びとは、時に荒療治として路傍のお地蔵様を川へ放り込んだ。ここでも祈りの言葉は「アメフラセタンマイナ」。お地蔵様を怒らせてでも、龍(雨)との再会を願っていた。
 独鈷山と夫神岳、そして麓の寺社は、常に塩田平の人びとの暮らしに寄り添ってきた。そして、路傍のお地蔵様は、また川に投げ込まれないかと心配して、今日も雨雲を待ちながら空を見上げている。これが「山に神、野に仏」とも言うべき、上田の人びとがつないできた「祈りのかたち」だ。
■未来への懸け橋
 このように塩田平には、この地を特別な「聖地」とする景観が遺されている。国土・大地を祀る「生島足島神社」、「大日如来・太陽」が安置された「信濃国分寺」。生島足島神社は夏至には太陽が東の鳥居の真ん中から上がり、冬至には西の鳥居に沈む。太陽と大地は、この神秘的な光景をレイラインとして現代に遺した。
 そして、この「太陽と大地の聖地」に重なるように遺したもうひとつの景観が、
100年前から守り続けてきた鉄道・別所線だ。生島足島神社から、別所温泉までの軌道は、不思議なことにレイラインと一致する。そして、駅をつなぐ線路は、空からみると龍のかたちをしていると言われる。塩田の人びとは龍を特別な神として崇め、祀り、龍とともに生きてきたことを、別所線の軌道に投影して大切に遺してきたのだ。龍の背に乗ってめぐる「太陽と大地の聖地」は、これからも、まぶしいばかりの輝きとぬくもりをもって、訪れる人の心に光を与えてくれるだろう。