御射山社(長野県富士見町);塩田福沢氏ゆかりの地
2023年10月14日(土) 晴
 ビーナスライン「夕日の丘公園」(立科町)からの眺望
 紅葉狩りに行くなら・・・・
→日本を代表する画家、東山魁夷氏の有名な作品「緑響く」(左画像)のモチーフにもなったことでも知られる「御射鹿池」(茅野市)に行ってみたいとのリクエストで
10/14(土)に行くことになっていた。
 予定コースは、「白駒の池」→「御射鹿池」→「御射山社」→「ガラスの里」である。
 「御射山社」は、「我がルーツ」(福澤家の歴史)に出てくる実家近くにある「塩田城跡」、坂木村上氏の家臣であった坂木福沢氏が「塩田城代官」として赴任、「北条塩田城」陥落後の城代となり、諏訪大社上社の「御射山祭」の頭役等を勤めている。記録があるだけで87名の名前が残り、年1回で現在の貨幣価値で600-800百万円もの大金を拠出している。
 10/11医療センターで心臓CT検査を受けた、造影剤アレルギーがあるので事前に点滴等の対処を行うも、翌夕に膝から臍まで薬疹が現れた。10/13はコロナワクチン接種日になっていた。開診一番に「その旨」の電話をすると「接種は延期、薬疹なので処置を行うので直ぐに来院するよう」とのことで、妻だけ接種した。そして、今朝は「接種後反応で体がだるく方が痛む」ので行かないと言い出し、止む無く「御射山社」に絞り単独で行って来た。
 ビーナスライン「女の神展望台」(茅野市)からの眺望(これより3枚はスイングハノラマ撮影)
 紅葉の盛りは来週辺りか・・・・来週前半は予定があり、改めての紅葉狩りは後半以降になろう。
 八ヶ岳エコーライン(原村)からの八ヶ岳全望
 帰路撮影したもの、往路は白樺湖の左側を抜け、復路は大門街道で白樺湖畔を通過してきた。
 御射山社境内案内図と参詣順
 所要時間は約1時間40分、案内図はどうしても限られたやや幅広の正方形に書き込むため一度記憶しても現実差で迷いが生ずる。特に史跡は形のない跡地が多いため、外観を損なうが[順路表示」「立看板」を設けて頂くと援かる。此処では、③「三輪社」と⑧「歌碑・句碑」であり数回行き来してしまった。事前の「Google Map」確認で、⑥「富士浅間社」の認識に手間がかかった。これも「立看板」が欲しい。壱番の理由は、自分自身が「案内図」に示されているどの小路から侵入してきたかが「認知」出来ないので「全く土地勘のない人」中心に図化して頂きたいものです。
 2ヶ所にある境内案内図
駐車位置 後方に富士浅間社 駐車位置にある案内板 ①矢場入口にある案内板
 ナビ設定した目的地は「富士浅間社」(富士見町富士見富原11982)、しかしナビには当住所は乗っていなく「御射山社」をたよりに地図上で設定した。一般道からの進入路から駐車地(Google Map)、富士浅間社の位置が勘違いさせる。(道路を挟んで反対地)この感覚が「認知機能」を狂わせ「歌碑・句碑」は帰路の車移動で「知る」(Googl Map)ことになる。
 御射山社で催された御射山祭と塩田福沢氏(塩田城)
 中世(鎌倉時代の始まりから室町時代の終わり/1185-1573)には、この社のある通称「原山」の一帯は神野と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事(御射山祭)が行われていた。それは秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する「風祭り」の意義をもつものであった。祭事は旧暦の七月二十六日から三十日までの五日間にわたり、穂屋(ススキで囲った仮屋)を造営して大祝・神長官をはじめ多数の神官や武士などが参籠し、狩りを行って獲物を神に供え豊作を祈願し、また流鏑馬などの武技競べも行われたと伝えられる。これらの祭事は鎌倉時代以降、内容の変化や戦乱などによる一時的な中断はあったものの、数百年間にわたって継承された。
 諏訪社上社御射山祭(諏訪御苻禮之古書)に記されている塩田福沢氏




文安05年(1448 福澤入道像(阿)何 頭役 小縣郡鹽田郷等、ソノ頭役等を勤ム
享徳03年(1454 福澤入道儀(像阿)何 頭役 次年入道死去之後、葦毛馬一疋進上
長禄03年(1459 福澤入道沙弥像阿 左頭
寛正06年(1465 福澤入道沙彌像阿 左頭
応仁03年(1469 福澤左馬助信胤 代 福澤四郎 左頭
文明11年(1479 福澤五郎清胤 左頭
文明16年(1484 福澤入道沙弥頭賢 左頭
長享03年(1489 福澤左馬助政胤 右頭
 41年間に塩田城村上代官として87名の福沢氏の名前が挙がっている。福澤家の初代先祖「龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門」(明応2年/1493卒)、推定生存期間1433-1493で完全に重複している。「我がルーツ」の探索に於いて「初代先祖の時代」を知るうえで欠かせない価値ある「ゆかりの地」として訪ねてみた。
 これ以降、塩田城自落(戦国時代の始まり)までの塩田福沢氏の記録は、「高野山蓮華定院書」による。
 
 矢場(弓場、射場)
 八ヶ岳山麓は、原山、諏訪明神の狩場(神野)と云われ、中世には北条氏と近く鎌倉幕府の御内人となった諏訪氏(神氏とも、上社の大祝を世襲)の氏神祭として、毎年、大規模な御射山祭(御狩神事)が催されました。境内図に「矢場」「相撲土俵」「旧競馬場跡」と描かれているように、ここは御射山祭の中心地で武士が技能を競う武芸大会も行われたところです。
 西宮社(蛭子尊/大国主命、事代主命)
 御射山社の社殿前を左手に進み社叢外れに放生川という小川があり木橋が架かっている。「西宮社」なる祠が見当たらない。編集時に再調べ、「この小川を社叢に沿って左手に100m足らずのところにある」(矢場右後方、社叢外に西宮社があるらしい)。御祭神は「蛭子尊」(大国主命、事代主命)
 御射山社・神楽殿
 訪大社上社の境外摂社、「御射山社」は八ヶ岳山麓 に鎮座し、別称「原山様」と云われている。当地は、諏訪明神 の狩場(神野)だったと伝えられる。現在は、広い境内には本殿のほか、石祠が散在し、毎年八月の御射山祭の他は人気がない静かな社叢の佇まいで、社殿内には「国常立命社の祠」(木造)があり、御祭神:諏訪明神(建御名方命)、国常立命/大元尊虚空蔵)が祀られている。
 社殿広場(手水医師・歌碑・句碑)
 社殿前広場の東西参道と南北参道の交点に「手水石」がある。その付近に歌碑と句碑がある。
  歌碑;「信濃なるほやのすゝきも打ちなびき狩の野辺をわくるもろ人」 宗良親王
  句碑;「雪ちるや穂屋の芒の刈残し」 芭蕉
 祠の集合
四社の全体 ①神功皇后 ②子安社(高志沼河姫命)
①神功皇后社;古墳時代を拓いた神功皇后(仲哀天皇の皇后、応神天皇=八幡神の御母上)が御祭神の社
子安社;御祭神は高志沼河姫命(古代高志の国、ヒスイの姫神で諏訪大社の御祭神、タケミナカタの御母上と伝承)
 
③大祝有員 ④大四御蘆社 ○磯並社(離れの別地)
③大祝有員社;諏訪大社神社の初代との伝承塚
④大四御蘆社;御祭神四柱はタケミナカタを含む出雲の国土開拓の神々(大己貴命・事代主命・建御名方神・下照姫命)
○磯並社(離れの別地);小袋石の御神域と同名、御祭神は大山祇命(山の神)、小袋石の磯並社は水の神(玉依姫、池生神)
 三輪社
 境内北西端にある三輪社の御祭神は大物主命。
 駐車位置に戻る
 富士浅間社 到着した空地に駐車、その後方に富士浅間社の祠
 御射山社参道松並木
 画像、2段上に駐車したマイカーが見える。車の向き、進行方向右手に案内板が見える。そこから左手方向に「御射山社参道松並木」(約550m)が中央自動車道「諏訪南IC」入口近くまで伸びている。徒歩で往復し入口になっている「貴和の苑」から撮影した枚を並べた。松林の切れ間から右手遠方に八ヶ岳が見えた。
 会津松・旧競馬場跡
 そして一般道へ