金剛寺集落(長野県上田市);砥石・米山城跡の城下町
2023.11.25(土) 晴
 金剛寺集落(砥石城跡) 象山街道・砥石米山城自然散策トレッキングコース
 駐車「金剛寺公民館」(9:53)-「松代道標」(9:10)-「山伏塚」(10:08)-「福沢出丸」(10:12)-「洞源寺」(10:51)-「金剛寺橋」(11:04)-「米山城跡登城口」(11:11)-「金剛寺公民館」(12:00
 金剛寺公民館
 金剛寺公民館に駐車スペースが数台あるとの情報を得ていたのでナビの目標地設定をした。
 主要散策地は「福沢出丸」と「洞源寺」、その途次は気付いた「金剛寺城下町」散策と考えていた。各地での例年にない「熊出没」ニュースを毎日のように見ている。事前調査では「福沢出丸」(松代道250m)が危険区域で要注意。(現地に熊出没の貼りだしがあったら中止にしようと決めていた)
 松代道標
 金剛寺峠を越える松代道約30kmは、幕末の先覚者佐久間象山が岩門の大日堂の活文禅師に学ぶため松代から馬を駆って通った道だという。
 上田市の中常田通りから桜木町へぬける道路ぞいに「毘沙門天」という仏を祀っているお堂(常田毘沙門堂;上田市常田2-21-18、上田駅よの東へ徒歩850m)があります。
 文政
12年(1829)のころ神科岩門の大日堂から「活文禅師」という学識の豊かな和尚さんが移ってきて、お堂の脇に寺小屋を開き多聞庵と名付けました。活文の名声は以前から広くいき渡っていたので、武士をはじめ農民や商人それに子供にいたるまで教えを受けたい人たちが殺到し、一時は1000人を越すほどでした。活文は、教えを受けたい人に対しては誰にでも親切に接し、年齢や学力に応じた教え方をしたといわれています。教え子の中には、幕末から明治にかけて大活躍をした佐久間象山・赤松小三郎・高井鴻山・竹内八十吉などの人物がいました。
 歴史の道「松代道」(象山街道)
 「松代道」は「矢出沢川」に沿って北へと「東太郎山」を左回りに北上する。「砥石城跡」を挟み東側の「伊勢山集落」にも「松代道」があるので「枡形城跡」の北側鞍部を回り込むのであろう。Google Map では途中までしか表示されていませんでした。「松代道」;国土地理院地形地図、中心マークは「福沢出丸」史跡標位置に合せてあります。一見、軽車両なら通行可能と思われますが、徒歩での散策をお勧めします。
 山伏塚(山伏慰霊のための祠)
 村を守るために山伏(修験者)の呪力を永久にこの地に封じ込めたと伝承。北へ向かうこの道は金剛寺峠を経て松代に抜けるもので、古来多くの山伏が往来したことでしょう。「道祖神」と同じようなものかと思います。
 
 松代道(山伏塚から福沢出丸史標まで)
 静寂に包まれた松代道、「佐久間象山」等を想い「江戸時代後期」にタイムスリップするのも良いでしょう。私は、更に「砥石崩れ」(天文19年/1550)まで遡り「塩田福沢氏」の活躍模様を想像しました。塩田城から金剛寺集落に入り村上氏の米山城、福沢出丸から本城へと向かったのでしょう。当時の塩田城主は福沢昌景、福沢出丸は家臣が詰め、彼らが戦ったのでしょう。
 福沢出丸(福沢曲輪;村上氏の重臣福沢氏が拠った砦)
 天文年間(1541年以降)村上義清は武田信治・諏訪と連合して金剛寺一帯を支配する海野を滅ぼし、この地に進出し福沢砦の築造にかかったと伝承。金剛寺峠を越えて松代へ通じる街道沿いで、撮りでは矢出沢川べりの崖上極めて峻嶮な場所であり、周辺を見張るには格好で水の手もあり、東上の本城方面への最短距離にある。福沢出丸のあった場所は、この下の矢出沢川を渡り、急な崖を登り詰めた辺りにあったとの伝承。
 上画像は、今年の88日に「米山城跡」-「砥石城跡・本城跡・枡形城跡」に行った際、「米山城跡」にあった説明版にある「福沢曲輪」の位置図です。
 松代道(福沢出丸から松代道標まで) 心配した「熊出没」の注意表示は今年のものではなかった
 金剛寺集落(松代道標から洞源寺に向かう) Google Map
 左上画像は「福沢出丸」辺り(中央紅葉下域)を眺め、金剛寺集落を南北に抜ける城下町のメインストリートに「道祖神」があった。そして「洞源寺」に向け東西に西小路に入る。
 玉蔵寺跡(玉藏廃寺)
 弘仁年間(810-823)、僧侶慶照の開基により建立。古くは集落北端の御堂地籍に在り、矢出沢川の源流に近くで人々の暮らしに必要不可欠な水源を治め守るという使命を持った「水分寺」(みくまりでら)であったと考えられている。天文年間、村上・武田両軍の砥石合戦の際、戦火に遭い焼失。その後、上デ村地籍に焼け残った護摩堂を移し本堂として再建した。明治29年、金剛寺区立夜学校が創設されると、本堂は教場として使われ青年たちの学びの拠の所となった。残念なことに命じ42年放火により消失、以降再興も行われず今日に至る。上中央画像の畑左手(南側)に玉藏寺はあったようです。
 土塁跡(北側)(城代屋敷の防護土塁)
 金剛寺集落には土塁跡が幾つか残っている。此処は、城代屋敷の防衛手段として築かれた「砦」と考えられている。その範囲は集落北側半分を占め、その中央が城代屋敷の中心と推定される。海野氏の支配下にあった小宮山氏が文明年間(1480前後)に集落の東側に米山城を築き、戦国時代には村上氏が砥石城を築き、金剛寺集落には周りを土塁で固めた城代屋敷や向屋敷を構えたと言われている。戦国時代、村上義清は小県方面への進出のため重要な城として砥石城を、西側の山には柏山城を築いた。金剛寺集落には城代屋敷を備え、この周りを防御するために土を盛って外敵の侵入を防ぐもので、城代屋敷の北側に造られたものと考えられる。
 「城代屋敷の主」・・・・見てはないが、「石井喜左衛門の墓」なるものが在るらしい。
 金剛寺字西山ノ東麓ニ石井喜左衛門ノ墓アリ。里伝承ニ此人ハ村上義清ノ家臣ニシテ、字城代屋敷ニ住シ、碑モ其地ニアリシガ、人ノ世ニ祟リヲ為スヲ以テ、正保二年七月二十八日、今ノ地ニウツシ石井荒神トシテ之ヲ祀ル。碑文不詳。城代屋敷ハ西山ヨリ東二丁許ニアリテ今ハ畑トナリ了ル。(神科村郷土誌)
 
 真田昌幸が伊勢山、若しくは真田本城等に在城していた頃、支配上の重点として金剛寺に城代を置いたであろうことは充分に考えられる。現在最も確定的に答えられる城代は最後の石井喜左衛門であろう。彼は昌幸の子信之と縁が近かったと考えられる程に真田家に重用され、真田昌幸・信之二代の家臣中、残されている文書で彼の名を付せられたものが最多であろう。しかし、彼の出自、生没年、その与えられた地位等は不詳が多く、ことに元和八年真田信之が上田から松代に移るに際してもこれに従っておらず、仙石氏が小諸から上田に移ってからは浪人のまま当金剛寺で死去したものであろうか。彼は真田藩士として主家には大きな存在であり、この期の真田家関連文書にその名前が載らないものはないほど信任を得ていたらしいが、信之の松代移封後は金剛寺村に帰農しまもなく死去したらしい。彼は当地小字城代屋敷(現公会堂より西約70-80m)洞源寺89の所に葬られたことは確かであり、後年この墓が祟りをなすと信じられたことから、土地の所有者らがはかってこれを西山城の東麓に移したとされる。(金剛寺区誌)
 「土塁説明文」「神科村郷土誌」「金剛寺区誌」をそのまま転載、説得力に乏しい「説」と感じた。『戦国時代には村上氏が砥石城を築き、金剛寺集落には周りを土塁で固めた城代屋敷や向屋敷を構えたと言われている』、と説明あり。それなのに「福沢出丸」「城代屋敷」を切り離し、理に適わない推察ばかりの説を唱えられるのか理解に苦しみます。
 薬師堂跡 玉藏寺薬師如来の胎内縣佛を安置したお堂
 明治42年に焼失した玉藏寺の焼跡から、本尊薬師如来の胎内佛と考えられる鋳型の佛像が発見された。以降、玉藏寺西隣の台地の「お薬師様」と称される一間四方のお堂に遷され祀られてきた。その佛像は日光菩薩あるいは月光菩薩のいずれかであり、政策年代は鎌倉時代末期と考えられるも、昭和30年代に紛失したという。
 薬師堂跡から洞源寺へ
 薬師堂跡の北側(台地続き)に墓地がある。だいぶ古そうだが個々の確認はしなかった。
 洞源寺
 洞源寺(祥雲山洞源禅寺)は、元弘2年(1332)海野氏による開基と伝承。山門両脇に並ぶ6体の首なし座像、戦国時代に村上義清の入部により破壊、寺も放置状態が長年続き、慶長5年(1600)に小堂建立。後、伊勢山陽泰寺第5 世白州梵徹和尚が招かれて晋山し曹洞宗祥雲山洞源寺発足。
 金剛寺集落の北端よりの眺め
 金剛寺集落の北端まで上がり林檎畑の合間を東に詰め「福沢出丸」の推定位置を確認し
 金剛寺集落の北端まで上がり林檎畑の合間を東に詰め「福沢出丸」の辺りを確認し道なりに下る。金剛寺橋から沢を除くと「松代道」が見える。金剛寺橋は矢出沢川に架る「義清街道」という道路で更に下る。
 米山城跡登城口(金剛寺口)
 米山城跡まで上り25分下り15分の登城口、今年の8日に4城跡を登城した時は南側の「櫓門口」からであった。次に登城する際は此処からにしてみよう。
 見張番所跡
 「米山城登城口」から「見張番所跡」までの東側(米山城南麓)は「向屋敷」という地所らしい。是より金剛寺公民館に戻る。義清街道をわずか戻ると左手に下り金剛寺集落に戻る小路がある。
 石碑群(庚申塔・二十三夜塔・道祖神等)
 車で金剛寺公民館に向かう途中にあった石碑群、光線の具合で良く撮れていなかったので再撮影した。
 義清水
 金剛地区ニ嘗テ清水ノ廃井アリ。里俗伝エテ村上井ト称ス。昔時、村上義清米山ヲ築キ飲水ニ充ツルト云フ。今茲ニ志有ル者衛生火防ノ為協力シテ浚水スルニ源水混々トシテ湧ク。乃チ脩繕ヲ加エテ村用ニ供ス。然ト雖モ其ノ体栽(裁)古迹ヲ存セズ。因テ一言ヲ録シ以テ後ノ君子ニ論ズ 明治廿八年歳次乙未春三月
 撮影していると軽トラに乗った同年代の男性から声を掛けられた。今回の散策で2人目(薬師堂跡)で「史跡話」である。かつては、集落内に幾つもあったが、現存は此処のひとつになったとか。
 土塁跡(南側)(城代屋敷の防護土塁) 北側の土塁跡との区域が金剛寺城下町の中心部
 金剛寺公民館手前に、りんご直売店があった。ふじを5kg購入、ジャム作りをするとの話をすると大玉だけでなく小玉も混ぜましょうと。その後、傷りんごをジャム用にとおまけで頂いた。今年は、実家のりんごは不作、姪が少し前に届けてくれたが初めての購入(三水りんご買ドライブ、スーパー、地元道の駅等)年になった。